第4話

                  26

 暗い室内。向かい合わせに並べられた事務机の角の席に若い女が座っている。壁の掛け時計の針は深い時刻を指していた。電気が消された室内には彼女しか居ない。

 新人記者であるその若い女は深夜の編集室で一人で作業をしていた。机の上に置かれた板状の機械から縦書きの文書が宙に投影されている。その「文書ホログラフィー」の薄い光が彼女の顔を照らしていた。新人記者は書きかけの原稿を見つめながら、唇を強く閉じ、歯を喰い縛っていた。頬は硬直し、両肩は上がっている。やがて、その頬と口元が次第に細かく震え始めた。机の手前に表示されたホログラフィーのキーボードを操作する手は止まり、指が震える。彼女が使用していた立体投影式の薄型パソコンのスピーカーからは、疲れた男の声と、聞き慣れた先輩記者の声が交互に聞こえていた。

「――『その花束に添えられた、この小さな砂時計を見つけた。私宛のバースデイ・カードと共に』『田爪博士……』『さてと。もう、このくらいでいいだろう』――『ところで、永山君。そのレコーダーは、残りどれくらい記録できそうかね』『ええ、まだ、いくらでも』『そうかね。それはよかった。ここまで、私の長々しい話を聞いてくれて、ありがとう。礼を言おう』――」

 新人記者はパソコンを操作して音声データの再生を停止した。そのまま下を向き、肩を細かく震わせる。彼女は薄く輝いて表示されている半透明の「ホログラフィー・キーボード」の中で左右の手を強く握り締めていた。

 暫らくして、鼻を啜った彼女は立ち上がった。誰も居ない薄暗い部屋の中で椅子と椅子の間の狭い通路を速足で歩き、細い廊下の方へと向かう。

 廊下を少し歩くと左手に給湯室があった。彼女はその小部屋の明かりを点け、中に入った。入ってすぐ横にある小さな食器棚の戸袋を少し背伸びをして開ける。手前には表面に無数の棘が付けられた歪な形の湯飲み茶碗が置かれていた。彼女はそれを退けると、奥からキリンの絵柄のマグカップを取り出した。食器棚を閉め、マグカップをシンクの調理台の上に置き、部屋の奥の冷蔵庫の中から油性ペンで「ハルハル」と書かれた牛乳パックを取り出した。冷蔵庫の扉を閉めた彼女は震える手でそのパックの口を開けると、マグカップに牛乳を注ごうとした。パックの注ぎ口がマグカップの縁の上で踊るように上下し、注がれる牛乳をカップの外に散らす。彼女の大きく震える手に握られていた牛乳パックは表面についた水滴で摩擦力を失い、手から滑り落ちた。真横に倒れて落ちた牛乳パックはマグカップをシンクの中に転がし、開いた注ぎ口をシンクの方に突き出して調理台の上に横になった。パックの口から白い牛乳がシンクの中へ流れ落ちる。シンクの中に広がる牛乳と転がったマグカップを見つめながら、流し台の縁に手をついて、彼女は項垂れた。一度、水道に手を伸ばした彼女は、その手を戻し、すぐに自分の口を覆う。片方の手でシンクの縁を強く握ったまま、上げた両肩を震わせ、必死に声を抑えた。シンクの底に白く広がった牛乳の上に大粒の水滴が幾つも落ちる。

 その新人記者は声を上げて泣いた。

 シンクの縁にしがみ付くように凭れて彼女は号泣する。そのまま下に崩れるようにしゃがみ込むと、泣きながら床に腰を下ろし、更に泣き続けた。声を嗄らし、何度も流し台の下の扉を強く叩きながら、泣いた。

 事務机が並べられた暗い編集室には給湯室から漏れた光が差し込んでいる。若い女の慟哭は、そこにいつまでも響いていた。



                  27

 すさんだ街の一角で古いホテルが月明かりに照らされている。形だけのエントランスは殺風景であり、客を呼び込む意欲は感じられない。エレベーターは無く、コンクリート製の暗い階段があるだけである。木製の手すりは傷んでいて、所々が壊れていた。上の階の廊下は暗い。その狭い廊下には幾つかのドアが並んでいたが、どれもドアノブが外れていたり、ドア板に亀裂が入っていたりしている。

 安普請のホテルは当然のように客室も狭かった。六畳ほどの広さの部屋の中は安物のベッドが置かれているだけである。ベッドの横には小さなナイトテーブルがあり、その上にシェードの破れをガムテープで塞いだ電気スタンドが載せられていた。窓辺には形ばかりの読書テーブルが置かれ、破れたカーテンの隙間から射し込む月光がその上を照らしている。テーブルの上ではキーボードだけのラップトップ型パソコンが平面ホログラフィーのモニター画面を宙に投影していて、その隣には何本もの接続ケーブルが無造作に放り置かれていた。その横に、薄い弁当箱のような物が二つ並べられている。

 ベッドの上に腰掛けて、派手な柄のシャツを着た短髪の男が左目を赤く光らせている。彼はシャツの胸ポケットに入れた最新の携帯型通信端末「イヴフォン」で、日本の本社にいる先輩記者と通話していた。イヴフォンから発せられた信号が彼の脳内にある通話相手の記憶情報を鮮明な映像にして視覚野に送り、声の抑揚に合わせて動きを与える。

 永山哲也は脳内に再現された先輩記者の像を視覚で捉えながら、話した。

「――と言うのが、事の真相です」

『……』

「もしもし。キャップ、聞いてますか」

 新日ネット新聞社の社会部フロアで永山と通話している長身の中年男の声が返ってきた。

『ああ、聞いてる』

 永山の脳の聴覚野に直接、その先輩記者の声が届く。永山の視界では、破れたカーテンの前に長身の先輩記者が眉間に皺を寄せた顔で立っていた。それはイヴフォンが永山の脳内に作る虚像である。永山哲也はその虚像に向かって頷いてから、言った。

「だから、もう殺されています。残念ですが……。信憑性の判断は、届いた録音データを聞いて、そちらで検討して下さい。僕としては、本当なんだろうと思っていますけど」

『本当だろうな。そんな嘘をつく必要があるとは思えん。それに、おまえも目撃した訳だろ。実際に渡航者たちが消される場面を。遺留品についても処分しているとすれば、証拠も無い。こっちとしては裏取りのしようが無いな』

「そうなんです。僕が目撃した渡航者たちの衣類か何かだけでも持ち帰ることができれば良かったのですが、ゲリラ兵たちのチェックが厳しくて……」

『仕方ないさ。生きて帰ることが最優先だ。それよりおまえ、そんな物騒な物を預かったままこっちに帰ってこれそうなのか。空港で検疫に引っ掛かるんじゃないか』

 永山哲也は田爪健三博士へのインタビューを終え、ジャングルの奥地の地下施設から近隣の町まで戻ってきていた。田爪と別れた後、地下施設を出た彼は、連れてこられた時と同じようにゲリラ兵たちに目隠しをされたままトラックに乗せられ、雑荷のように運ばれた挙句、町の外れで捨てられるように解放された。結局、高価なカメラ類は兵士たちに奪われたままで、返却された僅かな荷物と田爪から預かった物を抱えて、彼は徒歩で町の中心部まで移動しなければならなかった。周囲に注意しながら長い時間をかけて夜道を歩き、ようやく、部屋を借りているホテルに着いた。部屋のドアを開けた時、彼は疲労を忘れ素直に安堵した。そして、日本にある自分の勤務先の先輩記者に急いで連絡を入れた。彼には、乾いた喉を潤している時間も、田爪から聞かされた経緯や目の当たりにした事実を分析している時間も無かった。

 永山哲也は深刻な顔で言った。

「でしょうね。間違いなく技術検疫に引っ掛かります。世界各国が狙う最先端の科学技術の情報と、実際のブツですからね。こっちの政府に没収されるはずです」

 永山の脳内に映る長身の中年男は、上を見ながら指を折った。

『そうなると、空も海も駄目だな。陸路で北米大陸に移動するしかないか……』

 永山哲也は厳しい顔で首を横に振る。

「戦争中ですからね。あまり現実的ではないかもしれません。大陸北岸は陸戦がかなり激しいようですから」

『そっちで知り合った記者仲間の伝で米軍の飛行機か船に乗せてもらうってことはできないのか。この前みたいに』

「この前は南米大陸内の移動でしたから。アメリカ国内や他国の領内に入るとなれば、荷物チェックやら何やら、いろいろと厄介でしょうね。どっちにしても、僕が預かった物についてはバレるはずです」

 永山哲也は窓辺の机の上に視線を向ける。中年男の像が常に視界の中心に浮かんで見えているので、見たい物が見えない。永山哲也は諦めて、視線を戻した。

 間を開けた永山に中年の先輩記者は尋ねた。

『中身だけ抜き出せないか』

 永山哲也は困惑した顔で答える。

「それが、かなり旧式で、僕が持ってきた接続ケーブルとは適合しません。このパソコンと接続できれば、中のデータをパソコンに引き出して、画像データにでも偽装して検疫をスルーするっていう方法もあるんですが……。まあ、この辺りでは必要な機材は手に入りませんね。ニューサンティアゴに戻ればPCショップもありますから、そこで適合する接続ケーブルを探してみます」

『分かった。加工用のアプリは有るんだな』

「ええ。いつも使っているのがあります。それから、さっきも言った、方法。最悪の場合、あれでいくことも視野に入れておいて下さい」

 脳内の先輩記者の像が剣幕を変えた。

『バカヤロウ。そんなモノは選択肢に入れるな。罠に決まっているだろう』

「ですかね……。だけど、言われた場所には行ってみる必要はあります。博士の言っていたことが本当かどうか確かめる必要がありますから」

『近いのか』

「ええ。ここからは少し距離がありますが、行けない距離じゃありません。非戦闘区域内ですから、危険な場所でもないですし、明日、行ってみます」

 長身の中年男の像は顔をしかめた。

『気をつけろよ。監視されているかもしれんぞ』

 永山哲也は一人、部屋の中で苦笑いした。

「お互い様でしょ。まあ、何とかやってみます。ああ、それから僕、インタビューの後半で『ドクターT』のことを言ってしまいました。ついカッとなってしまって。記事にするなら、そこは伏せた方がいいと思います。今は、いろいろと不味いでしょうから」

 記憶イメージの先輩記者は、眉間に皺を寄せたまま頷いた。

『分かってる。それはこっちで考えるよ。津田の悪事を暴くより、タイムマシンの発射を止めることの方が先決だ。それにしても、南米ゲリラの科学武装化と、それに伴う戦争の長期化。こっちが想定していた事態よりも悪いじゃねえか。しかも、いったい何人が犠牲になっているって言うんだ……』

「田爪博士の話が本当なら、彼は既に百二十九人、いや、百三十人を消しています。ゲリラ兵たちも承知の上だとすると、自分たちではやめないでしょうね。まだ続けますよ」

『――マジか……信じられん……』

 永山の視界に浮かぶ先輩記者の像は、目を丸くして口を開けている。おそらく、実際の彼もそうしているはずだった。

 永山哲也は顔を上げ、少し早い口調で言う。

「とにかく、ICレコーダーに録音したインタビュー記録のデータをそっちに送ります。大至急対処してもらえますか。まだ午後のタイムマシンの発射までには時間が残っていますよね」

 脳内イメージの中年男は再び眉間に皺を寄せる。

『単身機の発射は午後四時だから……くそ、あと三時間と少しか』

 永山哲也はベッドから立ち上がり、その先輩記者の像に言った。

「すぐに送りますから、パソコンの準備をお願いします」

『わかった。その後でいいから、その、田爪から預かったっていうデータ・ドライブとエネルギー・パックとやらの写真も送れ。データ・ドライブに適合するインターフェースを探してみる。それから、そのエネルギー・パックにはあまり近づくな。安全な物かどうかまだ分からんからな』

「分かりました。とにかく夕方の単身機は何としても止めてください。田爪博士がエネルギー・パックを僕に渡して、もう彼の量子銃が使えないとしても、ゲリラ兵たちはそれとは別に量産型の量子銃を持っています。機体から降りてきた渡航者は絶対にゲリラ兵たちに殺されるはずです。口封じのために。これ以上犠牲者を出す訳にはいきません。絶対に止めてください」

『わかった。絶対に何とかする。とにかく、そのインタビューの音声を早く送れ』

「分かりました。じゃあ、また後ほど」

 永山哲也は胸のポケットからイヴフォンを取り出すと、側面の小さなボタンを押した。永山の視界から長身の中年男の記憶画像が消え、ほぼ同時に「通話終了」という文字が一瞬だけ浮かんで消える。永山の左目の赤い光も消えた。

 息を深く吐いた永山哲也は、窓辺のテーブルの前に向かった。

 テーブルの上には、ラップトップ型のパソコンと使えないケーブルの横に、田爪健三から預かった「エネルギー・パック」と「データ・ドライブ」が置かれていた。どちらも黒い金属製の薄い箱で、よく似ていたが、前者には中央にガラス球のような物がはめ込まれていて、後者には表面に大きな傷があった。永山哲也はガラス玉の中から不気味な光を放っている「エネルギー・パック」を手に取り、机の隅にそっと置いた。彼は暫らくガラス球の中で蠢く七色の光を眺めていたが、ハッと我に帰り、急いで椅子を引いて、そこに腰を降ろした。もう一つの黒い箱を横にずらした彼は、ジーンズのポケットから薄い板状のICレコーダーを取り出すと、パソコンの本体であるキーボードを前に引き寄せて、その上のキーを叩いた。キーボード部分しかないパソコンから投影された可接触式の「平面ホログラフィー・モニター」にメール送信用のブラウザが表示される。

 裏面のシールを剥がさないように気を付けながら、ICレコーダーをそのパソコンの側面のスロットに差し込んだ永山哲也は、ブラウザの前に重ねて浮かべられた録音データ整理画面を見ながら、データ送信の作業に取り掛かった。

 月明かりが彼の顔を照らす。

 真剣な顔でホログラフィー画像に触れる永山の左腕では、腕時計の秒針が止まらない「時」を刻んでいた。



                  28

 機械に囲まれた狭い空間で一人掛けのシートに初老の男が窮屈そうに座っていた。男はヘルメットを被り肩幅の広いパープルのスーツを着ている。男の座席の周囲では機械の小さなランプが点滅を繰り返していた。様々な機械音が鳴り響き、それらは次第に大きくなっていく。

 男は額に無数の汗を浮かべ、両肩の前のクッション材が巻かれた棒を強く握っていた。その手は細かく震えている。彼は目を泳がせながら、自分に言い聞かせた。

「大丈夫、大丈夫だ。皆、成功しているんだ。ここの職員も、その証拠があると言っていた。必ず着く。落ち着け。あと五分だ。五分で発射だ。そしたら、一九八八年に行ける。八八年。バブルがはじける前に上手くやれば、俺は勝者だ。全部分かっている。必ず成功する。今よりも五十年早く『ビュー・キャッチ』を発売してやるぞ。そうすれば、今の十倍、いや、百倍は金持ちになれるし、ストンスロプ社に特許を侵害されることも……」

 突然、周囲の機械から光が消え、暗くなった。それまで響いていた機械音がゆっくりと小さくなっていく。男はタイムマシンの機内を見回しながら震え声を飛ばした。

「なんだ、どうなっているんだ。こ、故障か。おい、誰か。おい!」

 狼狽する男の横で高い排気音が鳴った。男は驚いて肩を上げる。開いた搭乗口から光が射し込み、続いて白衣姿の男が顔を覗かせた。

「社長、秋永社長。降りてください。タイムマシンの発射は中止です」

「な……なんだと? 中止? どういうことだ、もうすぐ発射だろうが!」

 暗く狭いタイムマシンの機内に響いているのは、男の怒号だけだった。



                  29

「ええ、現地日時、西暦二〇三八年七月二十三日十五時五十四分。これより、わたくし永山哲也の、高橋博士及び田爪博士失踪事件に係る取材レポートの最終章をお送りします。ええ、動画記録機材は、昨日、ゲリラ軍の兵士たちに没収されてしまいましたので、音声のみのレポートとなりますが、ご了承下さい。――ゴホン。ゴホン。ええ、今、わたくしは第十三戦闘区域を外れた所にある、とある建屋に来ています。ええ、ここは戦闘区域に隣接する非戦闘協定区域で、中にあるスラム街から少し離れた所にある山の中腹です。周りには鬱蒼とした木々の他は何も在りません。昨夜、会社に宛てたメールに添付した、わたくしのこれまでの取材レポートにあるとおり、昨日のインタビューの後、田爪博士が教えてくれた場所です。わたくしは彼の指示に従い、今ここに来ています。目の前には倉庫のような大きな建物が一棟だけ建っています。それでは、中に入ってみます。


 博士より預かった鍵が……ああ、開きました。


 それでは、中に入ります。

 ええ、暗いです。ええ、中は、この建物の外観からしますと、結構な広さが予想されますが……。とにかく暗くて、何も分からない状態です。窓が……、どれも塞がれているようです。ええ、ライトがありませんので、イヴフォンのライトを手掛かりにしているのですが、どうも灯が小さくて……。どこかに室内灯のスイッチがあるはず……あ痛っ!

――くそっ、いってえ……。ああ、ありました、点けます。


 ええ、電灯が点きました。

 ええ、――あれ? ええ、中は思ったより狭く、テニスコート程度の広さでしょうか。手元の壁も、ん……ああ、こっちもだ。――足元の床も、どちらも、とても厚く補強されています。おそらく天井もだと思われますが、壁は強化コンクリートの上から……ああ、そうですね、カーボン強化コンクリートの上から、銅版やゴムシートが貼られているようです。こうして叩くと……かなり頑丈に補強されていることが分かります。

 ……。

 ええ、そして、今、わたくしの目の前には一つの機械がポツンと置かれています。大きさは、そうですね、全長が四メートル弱くらいのものでしょうか。横に寝かせた卵のような形をしています。塗装はしてありません。周りには無数のケーブルが散乱しています。それから、工具、何らかの部品類、――ああ、こちらには沢山の鉄クズが在ります。それから、こっちに積まれているのは、ええと、小さく切り揃えられた鉄板ですね。A4用紙くらいの大きさです。んん……軽いです。おそらく、わたくしが見る限り、この機械の外装に使用されたものの残りか何かだと思います。ん……、よっと……、ああ、こちらの鉄板は、丁度、屋根瓦くらいの大きさですが、かなり重いです。ええと、『26lb』と記載された紙が挿んでありますね。どれも均等な大きさに綺麗に切り揃えられています。あ、これ、裏に何か刻まれていますね。ナイフか何かで刻んだものと思われます。ええと、これは……、現地の言葉ですが、翻訳しますと、敵たちは……、倒される、べきを望む……、いや、『敵どもよ、滅びるがいい』ですね。ああ、なるほど分かりました。この板の隅の方には、プレス機で刻印された南米ゲリラ軍のマークの一部が残っています。ですから、おそらく、これは耐核熱装甲戦車の外部装甲板か何かの一部ですね。そうか、彼は、田爪博士は、ここにゲリラ軍の武器や兵器のスクラップを集めていたのでしょう。そして、それらを使って、この機械を作った。このタイムマシンを。


 ああ、そうだ。田爪博士について少しだけ。


 大丈夫かな、バッテリー残量は……、うん、大丈夫だ。あ、そうか、O2電池だった。そんなすぐに切れるわけないか。失礼しました。つい、旧式バッテリーの癖で……。

 ええ、田爪博士は、はたして、わたくしや皆さんが考えていたような人物なのでしょうか。正直、今の私にも分かりません。ただ、私があの危険なゲリラ支配区域から脱出できたのは、博士のおかげです。私が無事に解放されたのは、博士の口添えと、博士が署名して私に預けてくれた帰国保証書があったからだと思います。そして博士は、他にもいくつかの物を私に預けました。ええ、ここの地図と鍵、この機械の操作手順を記したメモ、そして、小型記録媒体。この記録媒体には博士が再計算したというAT理論の再構築モデルの論文と、修正したタイムトラベル理論、このタイムマシンの設計図、タイムトラベルの危険性についての指摘……ああ、それから、田爪博士の言われる、自身の『後遺症』についての医療記録、これは八年分だそうです……それから、クァンタム・ガン、つまり博士が使用していた『量子銃』の図面と、その危険性について記した文書ファイル、残留量子エネルギーの回収方法とその処置についての指南、それを応用した量子エネルギー生成循環プラントの設計構想図……ええと、たしか、これだけだったと思いますが……、これらの情報が電子ファイルとして書き込まれているそうです。

 ええ、わたくしも、もしもの事態を考え、念のために、これらのデータのコピーを日本にメールででも送りたかったのですが、この記録媒体がどうやら相当に旧式の物らしく、わたくしも、これまでに見たことが無い物でありますので、この記録媒体に適合するインターフェースが手許に無く、中を開くことも、コピーすることもできませんでした。何とかして日本まで持ち帰りたいのですが、こちらの空港で間違いなく技術検疫に引っ掛かりますので、それは不可能だと思います。ですから、今、田爪博士から指示された方法を実施するべきではないかと考えています。ええ、それから、これです。田爪博士の毛髪。


 ふう……。


 ええ、昨日送った、昨日の博士へのインタビューの記録の末尾にありますとおり、博士は、これらの物を私に託し、私を解放しました。ああ、それと、この、博士の『量子銃』に付いていた『エネルギー・パック』も。博士が言っていた、このエネルギー・パックが不安定で、些細な衝撃で大爆発する危険があるというのは、わたくしを動けなくするための方便だったようです。いやいや、まんまと引っかかりました。ええ、それで、博士の言葉を信じれば、このエネルギー・パックは爆発の危険がものの、博士の改良により相当に安定していて、よほどの強力な衝撃とその他の条件が揃わないかぎり爆発しないそうです。とは申しましても、爆発すれば核爆弾クラスらしいので、わたくしも、このパックと昨夜から昼夜を共にしてきましたが、正直、生きた心地はしませんでした。ですが、その恐怖とも、一応ここでお別れです。博士から預かったメモに、このエネルギー・パックをこのタイムマシンに接続する方法が記載されています。接続すれば安定するそうです。わたくしにできるかどうか、些かの不安もありますが、しかし、何とか上手く接続して、このタイムマシンを起動させ、これに乗って日本に帰ろうと思います。

 田爪博士は、おそらく、自身が帰国するために、このタイムマシンを密かに造っておられたのでしょう。この点については博士も明言はされませんでした。しかし、タイムマシンや量子エネルギープラントに関するこれだけの知識と技術を有する人物であれば、この国に限らず世界中のどの国でも、国外への自由な渡航は許されないでしょうし、まして、量子銃を完成させ、量産していた人物ともなれば、おそらく幽閉されてしまうのではないでしょうか。だから、ここで密かに、十年の歳月を掛けて、このマシンを製造していたのではないか。わたくしは、そう考えます。このマシンであれば、日本からこちらに転送されて来るタイムマシンと同じように、日本までワープして移動できる。どこの税関にも、どこの技術検疫にも引っかかることも無く、出入国審査も無しで移動できます。だからと言って、ゲリラ軍の支配地域内で製造して、もし、そのことがゲリラ兵たちの知るところとなれば、ヤツら……失礼、ゲリラ軍は博士からこのタイムマシンを奪い、交戦相手国の一つである日本、いや、世界中のいずれかの国に、このマシンを使って攻撃するおそれがあります。マシンに兵士あるいは核弾頭、毒ガス兵器、細菌兵器などを搭載して相手国に転送すればいいからです。そして、そうなれば博士は、永遠にこの密林の奥地に幽閉されることになる。それで博士は、ゲリラ軍の支配地域からも、市街地からも離れたこの場所で、一人密かにこのマシンを造っていた。『時折、町へ出て行く』ふりをして。

――そうか。だから、ここにある鉄板の類は、どれも小さく切り揃えられているのか。

 ええ、スラム街では、壊れた戦車やヘリ、ロボットの残骸などから、こうやって、その装甲板や部品を加工して、建築資材にしたり、生活家電を作ったりしています。

わたくしが思うに、これらの鉄板も、実際に屋根瓦や床材として、スラムで出回っている物なのでしょう。これなら、博士一人でも車に積んでここまで運べる。少しずつ運び、少しずつ組み立ててきたのかもしれません。十年かけて。このエネルギー・パックに残留エネルギーを少しずつ貯め続けたように。その根気強さと執念には感服します。

――そうか。旧式の記録媒体に情報を隠したのも、ゲリラ軍の連中に知られないようにするため……なるほど。


 ええ、わたくしも、ここへ来て、これらの光景を見るまでは気付きませんでしたが、そこまでして博士が帰国しようとした理由は……、もちろん、タイムトラベルの修正理論や副作用などを日本に伝える使命感もあったのかもしれませんが、わたくしが推測するに、――これは記者として何らかの根拠がある訳ではなく、ただ、あの時の博士の目を見て、一人の人間として感じることですが……、その目は悲しく、懺悔の思いに満ちていたように感じられた訳ですが……、おそらく……、いや、絶対に、残された田爪夫人、瑠香さんに会いたい、ただその一心だったのだと、私は思います。しかし、博士は……。


――報告を続けます。

 先月、田爪健三は、あの処刑の儀式で、その自らの手で、自分の配偶者・田爪瑠香を殺めてしまいました。そして、その瞬間、彼にとって全てが終わったのかもしれません。

 なぜ瑠香さんがあそこに転送されてきたのか、転送されてしまったのか、その事情は僕も聞いてはいますが、帰国後にもっと詳しく調べてみようと思います。いえ、明らかにしなければなりません。とにかく、このことが無ければ、今ここに、こうして立っていたのは田爪博士だったはずです。しかし、実に悲しい事故、いや事件ではありますが、これが十年間にも及ぶ一連の殺人事件の一つであることを、私たちは忘れてはなりません。田爪健三は、その後も、わたくしの目の前で二人の成人と二人の未成年者を殺害しました。確認は取れていませんが、先月の搭乗者たちも殺されているはずです。だとすると、彼は瑠香さんの一件の後も悪魔の儀式を続けたことになります。タイムマシンから量子エネルギーを抜き取るために。彼は、自らの欲求のために他人の命を犠牲にしてきた大罪人なのです。しかし、このおぞましい儀式も、もう二度と行われることは無いでしょう。今朝の会社からの連絡によれば、わたくしが送った昨日のメールと、それに添付した博士との会話記録が、仲間の記者たちの尽力により何とか政府に伝わったとのことで、予定していた夕方のタイムマシンの発射がギリギリのところで中止になったそうです。また、タイムトラベル事業の凍結を政府が発表したとも聞いています。今、このICレコーダーに録音しながら、同期させたイヴフォンで日本に送信している、この最終取材レポートが復元され、記事として皆さんのもとに届く頃には、政府の内部で責任追及が始まっていることだろうと思います。もし無事に帰国することができれば、是非そのあたりについてもしっかりと取材のうえ、皆様にご報告したいと思います。

 とにかく、今後、タイムマシンが日本からあの処刑場に転送されることは、これで無くなりました。そうなれば、ゲリラ軍は戦闘に必要な物資の補給を絶たれます。そして、田爪博士は『必要な人間』ではなくなる。ただの敵対国の人間であり、彼らにとっても危険な知識を持った科学者でしかなくなる……。ええ、そういったことを覚悟してのことか、それとも、瑠香さんのことで自暴自棄になったのか、博士はこのエネルギー・パックを私に渡したので、博士のあの銃は、もう使えません。おそらく、博士は死を覚悟しているのでしょう。いや、もう既にタイムトラベル事業凍結のニュースは世界中に配信されているはずですから、それを知ったゲリラ兵たちに殺されているかもしれません。昨日のインタビューの記録にあるように、博士は自分が本物の田爪健三であることを証明するために、DNA鑑定用の資料として、この毛髪をわたくしに渡しました。しかし、これは、もしかすると博士の覚悟の表れだったのかもしれません。


 ああ、それから、今、ポケットから高橋博士の写真が出てきましたので、高橋博士の件についても、少し述べます。

 ええ、これまでのわたくしの、高橋諒一博士の消息を追った別の取材レポートは、三日前までに社に送り続けたメールのとおりです。ここではその総括のために、概略のみもう一度述べます。ええ……、わたくしがこの国に入ってから三ヶ月ほどになりますが、これまでに高橋博士の有力な目撃情報は得られていません。当初、高橋博士あるいは田爪博士を見たという、いくつか不確かな情報があり、わたくしはこの国で取材を続けたわけですが、たしかに数件の目撃談があるものの、どれも信憑性のあるものではありませんでした。詳細はご報告のとおりでありますが、田爪博士によれば、高橋博士は第一実験による転送により、ここに飛ばされ、その後すぐに死亡したのではないかとのことであります。しかし、わたくしの個人的意見としては、政府ならびに各国の協力のもと、高橋博士の消息の調査は継続するべきものと考えます。願わくは、博士が生きておられ、この取材レポートか、わたくしの記事が博士のもとに届いて欲しいものです。是非とも、残されたご家族のために生きて帰国して下さい。高橋博士。


 さて、それでは、これから、わたくしは田爪博士の指示に従い、このタイムマシンを起動させることに挑戦したいと思います。

 田爪博士の話では、このタイムマシンは、田爪博士が改良を重ねた新型機であるそうです。AT理論の問題点を再検討し、タイムトラベル理論を修正して、設計を根本から見直したと言っていました。

 ええ、いま、搭乗口のハッチを探していますが、ああ、ここか。分かりました。右の方に開閉レバーがあるということですが……ああ、はい、これですね。

――よっ――

 開きました。では、機体の中に入ってみます。


 ええ、中は、すごく狭いです。わたくし一人が……やっと……入れるくらいの広さですね。色々な機器類が剥き出しとなっており、犇くように……ああー、これはキツイ。うーん。ちょっと出ます。――いやあ、おっとっと。


 さてと、まずは、このエネルギー・パックの接続です。ええ、博士から指示書きを貰っているのですが、えーと、なになに……。ああ、あのシートの下か……もう一度中に入ります。よっ。ほっ。ゴホン。ゴホン。


 ええ、いま、わたくしは、この狭い空間で、シートの下に潜り込んだ体勢で、膝から下は機外に出したままという、非常に難儀な姿勢でお伝えしています。多少、お聞き苦しいかもしれませんが、どうぞ、ご理解ください。

 ふー。どれどれ。これをどかして、ここを手前に引く。なるほど。開いた、開いた。ええ、動力系統のカバーが開きました。この機械のエンジン部分らしき所が見えています。

 ええ、まあ、何と言いますか、わたくしの印象では、パッと見た感じでは……、はっきり言って訳が分かりません。AI自動車の超電導エンジンとは比べ物になりません。何が何の機械なのか、さっぱり分かりません。

 ええっと……。あれ? これ、ドライバーが要るなあ。どこかにドライバーが……、ええーと、ドライバー、ドライバー……ああ、あった、あった。

 それでえっと。まず、どうするんですかね、えーと、あ、ここを外してっと、んで、これを、こっちに引き出す。うん、いいぞ。アレ、博士のメモはどこにやったっけ、ああ、あった。それで、ええっと。ふん、ふん。この青い線かな、ええっと00173……これも0017……うん、これだ。これを、このパックの陽極にセットする……か。よーきょく、陽極、陽極、あれ、どっちだっけ。んーと、こっち……だよな、多分。こっちに繋いでみると……危ねっ、何だ、火花が出るじゃないか……。逆か。こっちで正解なんだな。ここに繋いでと。

 そんで、どうするんだったっけ。メモ、メモ……。ああ、このパックの……こちら側を下にして……こうかな。そして、ゆっくりと、ここに差し込む。うん、はまるぞ。

 はい。オーケー。ふう。そんで、元通りに蓋を閉める……と……大丈夫かな……。よし。大丈夫だろう。一回、外に出るか。よっ。よっ。イテッ。くっそお。狭いっちゅうの。おお、痛い。ああ、シートを戻しとかなきゃな。よいしょっと。


 ふう。まずは、ここまでは成功っと。よっと。ふう。ふええ。狭いなあ。頭を何回……ああ、コブができてるじゃないか。チクショウ……。

 ああ、いかん、いかん、レポート、レポート。


 ええ、たった今、田爪博士から預かったエネルギー・パックを接続し終わりました。かなりの難解な構造のメカでありますが、博士の指示書に従って、ええ、わたくし永山哲也は比較的スムーズに接続を終了することができました。では、これより、もう一度マシンの中へ乗り込み、いよいよ、主電源をオンにしたいと思います。

よっ。ククッ。狭い……。よいしょっと。


 ええっと、私と田爪博士の身長差は、かなりありますので、たぶん博士の身長に合わせて設計されているこのコックピットは、かなり狭く……うう、腰が……。

 ええと、主電源、主電源っと。主電源はどれですかねえ。ええっと……。ん、これか? 横に緑色の……ああ、コレか。


 では、これより、電源を入れます。わたくし永山哲也の、少ない理科知識を結集して実施した、渾身の接続工事が成功していることを、どうか、お祈り下さい。

 では、レバーをオンにします。オンッ!


 ……。

 あれ。何で? なんだよ、おかしいなあ。書いてあるとおりに繋いで……ん? 

おおっ。びっくりした。


 ええ、ただいま電源が入り、お聞きのように、この機械の各部が、順次に、けたたましい機械音を発しております。どうやら成功したようです。田爪博士が設計し、製造した、この世界最新の改良型場所的時間的転送マシン……で、いいんだよな。――ま、いいか。――ええ、とにかく、この世界最新式のタイムマシンに、今、わたくし永山哲也が命を吹き込みました。なんという、感動的なことでしょう! パチパチパチパチ。


 そんで、次は、何だ。ええっと……。ああ、ここの画面に入力か……。ちょっと、これは動けないな……シートを少し後ろに……。まったく、面倒くさいな。よいしょっと。

 それで……この画面で、エンターキー。こういうのが苦手なんだよな。それから、ここにカーソルを動かして……だよな。うん。よし。次はコレを二回……。そうすると暫くして……はい。はい。はい。そして、タブ、もう一回タブ。なるほど。で、ここに、数値を入力だな。ええっと、ここに、僕の体重プラス0.25928か……。昨日の晩に計った時のメモが……あった、あった。ええっと、これに、足すことの0.25928……間違わないように正確に、これに、プラス、ゼロ、コンマ、ニ、ゴ、キュウ、ニ、ハチと。んん……。この数値を……入力して……よし。エンターっと。


 ええ、ただいま、博士より指示のあった数値を全て入力し終わりました。あとは、今、わたくしの目の前にある、このボタンを押せば、この機体と共に、私は日本に転送されるようです。これにより、博士より預かったものを、税関や技術検疫にかかること無く、日本に持ち帰ることができます。

 ええ、それから、博士によりますと、空間移動に伴う生体的副作用については、新方式の防御装置を組み込んであるので、かなり軽減されるとのことであります。しかし、それは比較論でありますので、あまり期待は……。

 ええ、また、着地地点については、現地に出現後の、この機体の安全と周辺環境への影響を考慮し、現在、広大な更地となっているタイムトラベルの初期実験場の跡地、つまり『爆心地』に設定されているそうです。ご承知のとおり、そこは二〇二五年九月二十八日の南米ゲリラによる核テロ攻撃以降、半径数キロ圏内は立ち入り禁止区域に指定されていますので、万が一の事態が起こっても犠牲者を出さずに済むはずです。――私以外は。


 ああ、今、自動でハッチが閉まりました。いよいよ出発の時です。

 ええ、その前に、先程も少し言いましたが、この今日の分のレポートは、録音しているICレコーダーと同期させた私のイヴフォンを使って、衛星回線を通じて直接、我が社の方に、電子メールの自動添付方式、リアルタイム二ギガバイト単位で順次送信されているはずです。ここは戦地ですので、スーパーエシュロンにより通信が盗聴されている可能性があります。したがって、このように分散暗号方式で送るしか方法がありません。届いた圧縮データを会社の方で速やかに復元していただくことを願います。

 それから、昨日は、さすがに地下三百メートルのコンクリート遮蔽の中からは、衛星まで電波が届きませんでした。妨害電波も発せられていたようですし。もし、あの時、今と同じように、博士とのやり取りをリアルタイムで送信できていたなら、私の目の前で犠牲になったご家族を救うことができたのではないかと、悔やまれてなりません。音声メールを通じてではありますが、もしかしたら、これが最後の通信となるかもしれませんので、ここで改めて、あのご家族のご冥福をお祈りさせていただきます。どうか天国で、ご家族で安らかにお眠りください……。


 以上、ここまでを、わたくしの『高橋博士及び田爪博士失踪事件』にかかる取材レポートとさせていただきます。したがって、ここまでが、この事件にかかる現地取材レポートのフルバージョンであるとご理解ください。

 なお、このレコーダーはこのタイムマシンの中に置いて、日本に到着して、わたくしが救出されるまで、自動録音スイッチをオンにしたままにしておきます。これから起こる全てのことを最後まで記録するつもりであります。この録音スイッチを自らの手でオフにできることを祈ります。どうか、神のご加護がありますように。

西暦二〇三八年七月二十三日十六時二十七分。記者、永山哲也。


……。ふう。……。


さてと。行きますか。

由紀、父さんは必ず帰ってくるからね。祥子、待ってろよ。

あれ、くそっ涙が……。は、は、は。情けない。

フーッ。……。フーッ。……。フーッ。……。

――っよし。発射ボタンを押します。

……。

フーッ。……。フーッ。……。フーッ。……。

――よっしぁ。発射ボタンを押します。

……。

フーッ。……。フーッ。……。フーッ。……。

せやっ! 発射ボタンを押すぞ!


――って、無理!

だあ、無理だわ。やっぱり無理だ。これ、危ないよ。どう考えても、絶対に危ない。

たしかに、単なる好奇心としては乗ってはみたいし、搭乗の体験記事を書けば、ピュリッツァー賞は間違いないと思う。でも、なんかなあ……うーん――……。



よし、決めた。由紀、祥子、父さんは飛行機で帰ることにします。

……。


んー。しかしなあ。それでいいのか……。博士から預かったこの情報は、日本だけではなくて、人類にとって大事な情報なんだよな。さて、どうするかな。普通に民間旅客機で帰国した場合、博士の毛髪は持って帰れるとしても、設計図なんかが入っているこの記録媒体は無理だよな。ほぼ確実にこっちの空港で技術検疫に引っかかるな。国際郵便も無理だしな。やっぱり、こいつで転送するしか方法なしか……。でも、この機械、ヤバそうだしなあ。


 ――ん、待てよ。送ればいいじゃないか。

 

 郵便みたいに送れば。何も僕が乗らなくても、この記録媒体だけ乗せて……あ、そうか。さっき僕の体重を入力したんだよな。これ、博士に言われたとおり、この記録媒体と博士の髪を持って、靴も履いて、この服装で、財布もポケットに入れたまま、昨日、ホテルで厳密に計った数値だからな。これって何か、転送に際してものすごく重要な気がする。うん。やっぱり、僕が搭乗していないと駄目ってことか。ふう。困ったな。さて、これまた、どうするか……何かいい手は無いか。何か……ん? ははーん。いい手があるぞ。なるほど。僕は天才かも……。

 おおうっとっと。何だ、揺れだしたぞ。

 ゴホン。あー、あー、あー。ええ、という訳で、急遽ではありますが、予定を変更いたしまして、田爪博士より預かりました小型記録媒体のみを、このタイムマシンでそちらに送ることにいたします。わたくしのICレコーダーも、このまま乗せておきますので、音声だけではありますが、転送の瞬間を内部から記録した貴重な資料となるでしょう。どうぞ、このICレコーダーを見つけた方が録音スイッチをオフにして下さい。ええ……以上、永山哲也でした。



 ――。

 よっ。よいしょ。急がないと。あれ、これ、どうやって開けるんだ。まさか、もう、外に出られないんじゃ……ああ、開いた。



 よっこいっしょっと。

 ――。

 ほっ。よっ。っと。ふー。

 ――。

 せえっのっと。ふん。ふー。はぁ。はぁ。はぁ。

 えーと、あと、二枚だな。――よいしょ。それっ。

 んー。よし、これでオーケー。ふー。

 それから、これは記念にっと。

 いや、やっぱり、耐核熱装甲戦車の外部装甲板って重いな。ふー。でも、まあ、これで僕の体重と同じくらいの重量にはなっているはずだ。あとは、この乗降口のハッチを半ドアにして、この長い棒で……、よっ……、ハッチの隙間から……、発射スイッチを……押して……、素早く離れるっと、よし、セット完了。

 では、日本で会いましょう。よっ」



                  30

 エレベーターの中に、濃い顔の若い男と、彼よりも更に若い女が立っている。新日風潮社の中堅の男性記者と、今年の春に再就職で入社した女性記者だった。二人は新日ネット新聞ビルのエレベーターで新日風潮社編集室が入っている階へと移動していた。

 その先輩記者の若い男は、後輩の新人記者の顔を覗き込んで尋ねた。

「どうしたんだよ、ハルハル。浮かない顔して」

 黒いスーツ姿のその若い女は、眉をハの字に垂らして溜め息を吐いた。

「はあ……。役所が開く記者会見なんて初めてですし……。準備もしていませんし……」

 先輩記者は新人記者の肩を何度も叩いて言った。

「大丈夫、大丈夫。芸能人の記者会見と変わらないって」

 新人記者は怪訝な顔で尋ねる。

「先輩は、行政の記者会見に参加したことがあるんですか?」

 腕組みをして天井を見上げた先輩記者は答えた。

「ん、無い。だって、ほら、こう見えても俺、週刊誌記者一筋の男ですから」

「どう見ても、そうですけど……。ああ、どうやって質問したらいいんだろ」

 若い女は背中を丸めて項垂れる。

 先輩記者は事知り顔で彼女にアドバイスした。

「芸能人の会見と同じだって言ったろ。相手が嘘を言ってるなと思ったら、そこを突けばいいんだよ。ズバッと」

「そんな簡単には……」

 若い女は項垂れたまま額を壁に付けた。

 先輩記者は腕組みをして胸を張り、大きな声で言う。

「折角のチャンスじゃんか。津田の奴に一発カマして、一泡吹かせてやれ!」

 若い女は立ち直したが、少し考えて、また肩を落とした。

「こっちが泡吹いて倒れちゃいそうですよ。はあ……」

 先輩記者は気楽な調子で言った。

「大丈夫だって。新聞の方の神作こうささんが一緒に行ってくれるんだろ。リードしてくれるって」

 若い女は眉を寄せて不安を並べる。

「神作キャップとは席が遠いみたいですし、それに、神作キャップは怒ると恐いですし、お役所って独特の威圧感がありますし……、はあ、恐いなあ……」

 ドアが開いた。若い女は項垂れたままである。

 勤務する週刊誌社がある階のエレベーターホールに出た先輩記者は、立ち止まり、背中を向けたまま一言だけ後輩に告げた。

「彼女は、もっと恐い思いをしたのかもしれないんだぞ」

「……」

 新人記者の若い女は顔を上げ、真顔に戻った。

 彼女がエレベーターから出て来ると、ホールから延びる広い廊下の途中のドアが開き、洒落たスーツ姿の中年の女が出てきた。その女は歩いてくる新人記者を見つけると、手招きして言った。

「あ、居た。ハルハル、急ぎなさいよ。会見場に入る前にも荷物チェックとかされるはずだから、早めに出た方がいいわよ」

 若い新人記者の女と並んで歩いてきた先輩記者が、その中年の女に尋ねた。

「足はどうするんです? 僕が送りましょうか?」

 中年の女は、その若い男を指差して言う。

「別府くんはリニア通勤でしょうが。車が無いでしょ」

 若い男は口を尖らせて言った。

「でも、神作さんもバス通勤ですよね。ハルハルもそうだし。二人とも車が無いじゃないですか。どうやって司時空庁ビルまで行くんです? この時間だと、地下リニアもまだ混んでいて大変だと思いますよ。総務に頼んで、空いてる社用車を借りましょうか」

 中年の女は首を縦に振った。

「大丈夫。上の次長様が、自分の車で送ってくれるって」

 若い女は目を丸くして驚き、顔の前で手をパタパタと横に振る。

「え? 『うえにょデスク』がですか? ――あ、いや。それは悪いですから、私、地下リニアかバスで行きます」

 中年の女は顔の前で手を一振りして言う。

「送ってもらえばいいじゃない。政治記者として、会見場での取材のノウハウを車内でレクチャーしてくれるらしいわよ。良かったじゃないの」

 若い男が口を挿んだ。

「編集長も政治記者ですよね」

 中年の女は首を横に振る。

「私は現場を離れて長いでしょ。あっちは、ついこの前まで現場の第一線で取材してたんだから、私の講義より当てになるわよ。それに、しんちゃんとも、しっかり打ち合わせとかないといけないでしょ。うまい具合に上のネット新聞とウチで別々に二席を取れたんだから、二人でよく段取って、連携して津田長官を追い込まないとね」

 新人記者の若い女は眉を寄せて、また不安を口にした。

「以前ネット新聞に居た時には、神作キャップに叱られてばかりでしたから、ちゃんとできるかどうか……。官庁の記者会見で取材するのも初めてですし、私、あがり症ですし、テンパって変な質問とかしたら、また神作キャップに怒鳴られそうですし……」

「大丈夫、大丈夫。真ちゃんとは席が遠いんでしょ。それに、ほっといても、あいつは一人でキレるわよ。いつものことでしょうが。――ま、せっかく先輩二人から会見取材のノウハウを教えてもらえるいい機会だし、現場研修だと思って頑張ってみなさいよ」

「でも、そんな付焼刃でいいんですかね……」

 一層に不安気な顔をする若い女に、中年の女は片笑みながら言った。

「刃が欠けた、ただの鈍刀よりはマシよ。それに、付焼刃でも急所を狙えば、一刀で相手を倒せる。あとは、恐れずに前に出られるか。あんた次第ね」

「ドント・ウォーリー、鈍刀ウォーリー、なんつって。頑張れよ、小刀くん」

 先輩の若い男が若い女の肩を強く叩いた。

「はあ……」

 若い女は肩を押さえながら、いつもの返事をした。相槌とも溜息とも取れない返事だ。彼女は憂鬱そうな顔で社員証をドアロックのセンサーに翳し、少し俯いたままドアを開ける。

「ハルハル」

 中年の女が彼女を呼び止めた。顔を上げた若い女の目を見て、その中年の女は言った。

「一太刀、浴びせてきなさい。あんたのやいばで」

 中年の女は、その新人記者の胸元をしっかりと指差した。

 その新人記者はドアノブを握ったまま、少し考えた。そして、上司であるその中年の女の目を見て、力強く頷く。

「はい」

 新人記者は編集室へと続く細い廊下を速足で歩いていった。



                  31

『――では、日本で会いましょう。よっ』

 ドアが急いで閉められた音に続き、高低が混ざった機械音が徐々に大きくなった。短く爆発音がした後、激しい雑音が鳴り響く。

 記者たちは耳を押さえた。それに気付いた壇上の男は慌てて手許の停止ボタンを押す。

 雑音が止み、静かになった。

 胸元の赤いネクタイを直しながら記者たちを見回した壇上の男は、割れた顎を上げ、低い声を発した。

「と、ここまでが、今回、永山記者から新日ネット新聞社に送信された音声レポートの最後の部分です。先月、新日ネット新聞が掲載して物議を醸しました、例の永山記者による田爪健三博士に対するインタビューの記事、あれには続きがあったのです。それが今お聞かせした部分です。同新聞社はこの部分を世間に公開していませんが、我々『司時空庁』の資料回収手続きによって存在が発覚いたしました。本来なら国家としての情報保護の観点から非公開とするべきなのでしょうが、わたくしも、これは国民の関心が高い情報だと思ったものですから、長官としてのわたくしの判断で、今回こうして公開させていただきました」

 記者たちが騒めく。数人の記者が振り向き、後方の列の壁に近い席に座っている長身の中年男に軽蔑的な視線を送った。その中年の男は、それらの記者たちを睨み返してから、壇上の男に何かを言おうとしたが、壇上の男はその隙を与えないまま、マイクの前で発言を続けた。彼は滔々と語り続ける。

「先のインタビュー記事の元ネタとなった前半の録音データも、同新聞社から回収したものを我々で分析しましたが、特に加工された事実は確認されませんでした。つまり、先日、我々『司時空庁』から皆様に公開した録音データが、あの記事の元になった実際の音源であり、その雑音の多さや音質の悪さから、とても正確に内容を聞き取れるものではないことは皆様もご承知のとおりであります。まあ、あの音源を活字にしたという例の記事の信憑性については、行政として何も申し上げませんが、同様に今日お聞かせした追加部分の音声データの方も決して聞きやすいものではありませんでしたので、少しでも正確な情報をお知らせしたいと考え、我々の方で限界までクリーニングして、再生させていただいた次第です。それでも聞き難かった部分もあろうかと存じますが、我々としても誠心誠意、対応させていただこうと思っています。では、記者の皆様、順次ご質問をどうぞ」

 その部屋は記者会見場にしては些か狭かった。間隔を詰めて窮屈に並べられた小さな机の指定席に攻撃的で懐疑的な眼をした各社の記者たちが座っている。その後ろの壁は何台ものカメラのレンズと立体的に並ぶ人影で覆い隠されていた。全ての視線とレンズは、壇上の演台の向こうで鶏をモチーフにした司時空庁のロゴマークを背景にして立つ、黒色の高級スーツに身を包んだ長身の男に向けられている。その男は割れた大きな顎を突き出しながら記者たちを見下ろし、彼らの刺すような視線を跳ね返さんばかりの自信と威厳を放っていた。

 記者席の最前列で紺のスーツ姿の若い男が手を上げて、はっきりとした口調で言った。

「津田長官。これは、オリジナルの音源でしょうか」

 司時空庁長官・津田幹雄つだみきおは、指先で眼鏡を上げ、同じく、はっきりとした口調で答える。

「いいえ。先ほどお話ししましたとおり、現地から新日ネット新聞社にメール送信されてきたものを、法律手続に従い司時空庁が回収し、コピーして復元処理したものです。オリジナルの音源ではありません」

「そうすると、オリジナルは別にあるのですね」

 最後列の席から縞のスーツを着た中年の男が大声で尋ねた。

 津田幹雄は大きく頷く。

「はい。存在するものと思われます」

 縞のスーツの男の前の席で、長身の中年男が机に身を乗り出して津田をにらんでいる。

 津田幹雄は、その長身の中年男の顔を一瞥すると、すぐに手許の資料を確認した。顔を上げた彼は、長身の男から離れた反対側の壁の、後ろの出口ドアの付近に目を遣る。そのドアの真横の席には小柄な若い女が座っていた。すると、彼女の隣の席で椅子に浅く腰掛けて体を精一杯に背もたれに反らせている、皺だらけのジャケットを着た男が、ペンの先で津田を指しながら言った。

「思われますとは、どういうことですか。政府はオリジナルのレコーダーを回収していないのですか。ワープの瞬間を内部から記録したものですよ。この事業を独占管理している司時空庁が回収して、徹底的に分析する義務があるのではないですかね」

 津田幹雄は姿勢を直すと、部屋の奥から大声で攻撃してきたその皺のジャケットの男に割れた顎を向け、少しだけ口元をにやけさせた。そして、強圧的な眼光で答える。

「いや、それがですね、まだ見つかっていないのですよ。この機体そのものが」

 最前列の端の方で細く長い腕が上がった。白いスーツ姿の栗色の髪の女が質問する。

「それは、『爆心地』で見つかっていないということでしょうか。それとも、それ以外の範囲でも見つかっていないのですか。例えば、海の上だとか、どこかの山中だとか」

 続いて、津田の正面の列の中ほどに座っている長髪で痩せた男が挙手をした。彼は反対の手でパソコンのキーを弾きながら、津田に眼を向けることも無く淡々と発言した。

「ということは、田爪健三が作った各種のデータ資料も見つかっていないのですか」

「田爪のことは、いいんだよ。あんなの殺人鬼じゃねえか」

 皺だらけのジャケットの男が指先でペンを回しながら、その長髪の男の背中に向けて言い放った。長髪の男は丸めた背中を捩じらせ、その男の方を向くと、すぐに津田の方に顔を戻す。この一瞬の隙を突いて、後ろの席から縞のスーツの男が再び大声で質問した。

「現地の確認はされたのですか。本当にあんな戦地でタイムマシンを飛ばせたのですか」

 彼の二列前の隅の方で、右肩を壁にもたれるように当てていた小太りの男が、ゆっくりと左手を上げ、無精髭の中の大きな口から、かすれた声を発した。

「すみません。南米連邦政府との連携はうまくいっているのでしょうか」

 丁度その斜め後ろで上半身を机の前に投げ出していた、さっきの長身の中年男が、頭を深く下に沈ませて大きく溜め息を漏らした。それに気付いた髭の男は左後ろを振り向き、その長身の男をにらみ付ける。その時、津田幹雄がマイクに口を近づけて言った。

「ええっと、すみません。質問はお一人ずつお願いします。――まず、機体についてですが、当日、国防軍の防衛レーダー及び気象庁の気象観測衛星の双方に、南米大陸ので何らかの高エネルギー反応が一瞬だけ観測されています。また、現地の確認については、我々の方と外務省の方でそれぞれ職員を送っています。こちらに届いている報告によりますと、永山記者が当該機体を発射させたという建屋については既に破壊されており、その建物跡も含め周辺一帯が何者かにより焼き払われているとのことです。また、機体の残骸も存在しないとのことであります。なお、転送されたタイムマシンの捜索につきましては、陸海空軍および防災隊の全面的協力のもと、到達ポイントに設定された旧タイムマシン発射実験場跡地、つまり『爆心地』の周辺を中心に、国土全域及び領海全域を対象として隈なく実施しておりますが、現在のところ機体の発見には至っておりません。したがって、当該機体に積載されていたはずの例の記録媒体も発見されておりません」

 津田の発言が終わると、少し間を空けてから、壁際の髭の男がかすれた声で怒鳴った。

「南米連邦との関係はどうなんですか。国防軍は南米連邦政府だけでなく、環太平洋連合各国からも、協働部隊からの脱退を求められているようですが。要するに、これは国際社会からの信用を失ったということでしょ。政府としての対応はどうするつもりですか」

 津田幹雄は半ば呆れた表情と口調で答えた。

「軍事上及び外交上のご質問につきましては、ノーコメントとさせていただきます。なお、念のために申し上げておきますが、我が国と各国との関係は良好です。次の方」

 津田幹雄は、滑らかに挙手をした最前列の紺のスーツの男を指差した。その男は静かに尋ねる。

「一部の学者の見解では、機体は『ワープ』したのではなく、『過去』に飛んで行ったのではないか、というものもありますよね。その点についての政府の見解は」

 津田幹雄は視線を演台の上に落とすと、資料を確認して口角を上げた。そのまま顔を上げた彼は、ずれ落ちた眼鏡を戻しながら穏やかな口調で答えた。

「司時空庁としての見解でいいですよね。あの機体が『過去にタイムトラベルをした』という一部の識者の有力な説があることは承知しています。司時空庁としましても、当該意見を踏まえ、全力をあげて今般の謎の究明に取り組みたいと考えています」

 後ろの席から皺のジャケットの男が右手でペンを回しながら野次を飛ばした。

「上辺だけの返答はいいんだよ。要は、おたくらとしては、タイムトラベルしたと思っているんでしょうが。はっきり言えよ、はっきり」

 その品の無い男に記者たちは軽蔑の眼差しを向けたが、中央に座っていた長髪の痩せた男だけは机の上のパソコンに顔を向けたままだった。彼は静かに挙手をして質問する。

「いつの時代に移転したのかは、はっきりしているのでしょうか。もし、御庁の方で算出されている年代があれば、お知らせください。また、一部では、二〇二五年の核テロ爆発の正体は、到着したこの機体が引き起こした爆発だったのではないかとも噂されていますが、それについての御庁の意見も聞かせてください」

 すると、最前列の紺のスーツの若い男がまた高々と右手を上げて、今度は津田に指されるのを待たず発言した。

「今後、タイムトラベル事業は再開する予定があるのでしょうか」

 津田幹雄は紺のスーツの男に顔を向けて答えた。

「いえ、現時点では、安全性が確認されるまでは、事業を再開する予定はありません」

 皺のジャケットの男が大きな声で言う。

「なんだそりゃ。今頃『安全性』かよ。もっと早く考えろよ。これまで何人送ったんだ」

 彼の発言が終わらないうちに、他の記者たちから次々に質問が飛んだ。

「事業の停止は総理からの指示でしょうか」

「予定外の事業停止となりましたが、今後の必要費の確保はできるのですか。使用しないタイムマシン発射施設の維持管理費だけでも、年間で相当な額になると思われますが」

「施設解体の予定は。あの発射施設の北部一帯はリゾート開発が進められていますが、それらにも相当の影響があるものと懸念されます。業界団体から何か言ってきていますか」

 津田幹雄は手を上げて大きな声を出した。

「どうぞ、ご静粛に。質問はお一人ずつと申し上げたでしょう」

 彼は記者たちを一瞬だけにらみ付けると、すぐに笑顔を作り、カメラの方を向いた。そして落ち着いた口調で整然と記者たちの質問に答えていく。

「タイムトラベル事業の凍結は官邸からの指示です。今期の予算については既に計上されておりますので、何ら問題はありません。来期以降の予算につきましては、国会の領分ですので、行政庁たる司時空庁としての発言は控えさせていただきます。なお、民間の事業者の事業計画については、国としては配慮すべきかとは存じますが、司時空庁としましては担当省庁でもなく、関与もしておりませんので、不知でございます。何らかの団体から意見が届いているということも、ございません」

「本当かねえ。ホテル業界や建設業界の大物が、ここによく顔を出しているじゃないか」

 皺のジャケットの男が、まだペンを回しながら呆れ口調で言う。

 最前列の紺のスーツの男はそれを全く無視して、落ち着いた口調でテンポ良く津田に問い掛けた。

「高橋諒一氏、田爪健三、永山哲也記者の消息について、御庁が把握されている情報があれば教えてください」

 彼の発言の途中から部屋中にパソコンのキーボードを叩く音が鳴り響いた。彼の声はその激しい連打の音にかき消されたが、津田には届いていた。

 津田幹雄は演台の上の資料を見ながら答える。

「ええ……まず、高橋諒一氏についてでありますが、同氏については、現在も捜索中でありますところ、先般、裁判所により失踪宣告がなされましたので、財産権関係において私法上……わたくし法上の手続きが各種進行中であります。また、田爪健三氏については、今般の報告を受け、当然ながら殺人罪の容疑者であるおそれがありますので、警察庁の方から現地へ捜査官を派遣するべく検討している旨の報告を……」

「田爪氏の失踪宣告は出されていないのですか。それとも、タイムトラベル法の生存権中断の対象となっているのですか」

 白いスーツの女が予想もしないタイミングで発言したので、演台の上の資料に顔を向けていた津田幹雄は、ずれ落ちた眼鏡と額の間から彼女の顔を見上げた。その時、後ろの席から長身の中年男が前のめりの体の前に怒りに満ちた顔を突き出して怒鳴った。

「おたくらが発表した人間だけでも、田爪は一二九人も殺しているのですよ。『容疑者のおそれ』とは何ですか。どういうことですか!」

 津田幹雄は、その長身の中年男の剣幕に一瞬だけ圧倒され、少し身を引いた。彼はすぐに書類を両手で持つと、それを揃えるふりをして体勢を整えた。そして、その大きな割れた顎を前に突き出して、低く太い声で、あえて落ち着いて答えてみせた。

「法律上の話になりますがね、まず、転送されていたという事実を示す証拠の収集が先でしょう。今のところ、これまでに送った機体の残骸またはその一部などは発見されていないのですよ。それに、被害者の遺体か、その存在が分かる証拠物も見つかっていません。つまり、渡航者たちの死亡の事実が確認できていない訳ですから、立件は難しいですよ。さらに言えば、実行行為に用いられた凶器の『量子銃』も回収されておりません。また、現在、政府は、永山哲也記者が持ち帰った、田爪健三と名乗る人物の毛髪なる物のDNA鑑定を実施しておりますが、その結果と、インタビューの声紋分析の結果により、当該発言者が田爪健三氏本人であると証明された場合は、まあ、殺人を自供していることになりますから、逮捕状の執行及び国際手配となる可能性もありますでしょうな。――ですが、そもそも田爪氏が生存しているかどうか。ご承知のとおり、この十日間で現地の戦局は決定的に逆転しています。協働部隊の猛攻撃が続いており、例の地下施設も含め、ゲリラ軍側の拠点のほとんどが破壊されているとのことです。そうならば、田爪氏は死亡している可能性もありますし、そもそもゲリラ軍側の兵士に殺されている可能性が高い。したがって、戦闘終結後に改めて現地へ捜査官や調査官を派遣し、正確な情報を収集して、田爪氏の生存を確認してから、その後に正式な手続きの開始となるはずです。彼を『容疑者』と呼べるのはそれからでしょう。それから、田爪氏については誰からも失踪宣告の申し立てはされておりませんし、いわゆる『第二実験』はタイムトラベル法の施行前でしたので、生存権中断の条文も適用されません。ということは、彼は、法律上は生きているということになります。また、少なくとも公法上は両名とも権利能力を失っていません。よって、あらゆる意味で、政府は今後も高橋氏と田爪氏の両名につき、捜索を続けていくことになります。国家の責任として」

 津田幹雄は、その怒れる長身の中年男の方から他の記者の方に視線を変え、右に左にと部屋中の記者に満遍なく顔を向けながら説明した後、机上の書類に視線を戻して続けた。

「最後に、永山氏についてでありますが、ご承知のとおり、彼は帰国後すぐに我々が『保護』いたしまして、現在も国の保護下で、関係各機関の聞き取り調査にご協力いただいております。――ああ、もちろん、ご自宅から通ってもらっています」

 津田幹雄は、今度は大げさな身振り手振りで、時折、奇妙なタイミングでの笑顔を挿みながら、一気に話し終えた。

 その偽善的態度に、長身の中年男はついに椅子から立ち上がり、資料書類を握った右手を何度も演台の方に突き出して、津田に怒りをぶつけた。

「なにが『保護』だ。自宅に軟禁しているだけじゃないか。田爪の件について何か問題を隠しているから、田爪と接触したウチの永山がどこまで知っているのか心配で仕方がないんだろ。だから、あいつを帰国直後から自宅に閉じ込めている、違うか。しかも、何の関係もない家族まで一緒に。いったい、いつまで彼らを軟禁しておくつもりなんだ」

「南米連邦政府からも、永山記者に対する司時空庁の聞き取り調査は技術情報流出防止条約違反だと正式の抗議があったそうじゃないですか。この状況で、まだ永山記者から聞き取り調査を実施するのですか。それとも、もしかして例の記録媒体は彼が隠し持っているのですか。だから自宅に閉じ込めて聞き取り調査を……」

「そんなわけないだろ! じゃあ、あいつがウソのレポートをしたと言うのか。永山は、そんな男じゃないぞ。今、聞いただろうが。あれは新型マシンに乗せたんだよ!」

 口を挿んだ前の列の髭の男に怒鳴った長身の男は、そのまま津田に顔を向けた。

「それに、あんたらに外交レベルの問題まで対処する権限は無いはずだ。さっさとウチの永山とその家族を解放しろ!」

 彼は強く津田をにらみ付けた。しかし、今度の津田幹雄は身じろぐことは無かった。胸を張り、堂々とその長身の男の方を向いて、強い口調で言い放つ。

「仰るとおり、これは外交問題でもある。であれば、一切お答えできませんな。言ったでしょう、外交上の質問にはノーコメントだと」

 その口調と恫喝とも採れる視線に会見場内は静まり返った。

 一瞬室内を見回した津田幹雄は、スピーチテーブルに両手をつき、軽く項垂れるような姿勢を見せてから、今度は穏やかな顔を上げた。彼はゆっくりした調子で言う。

「――ですが、法律事務にたずさわる官吏として一言だけ言わせてもらいますと、もともと我が国の技術であるものを外国で取材した自国民から、帰国後に任意でお話を伺うことが、技術情報流出防止条約違反になりますかね。私としては、それはかなり無理がある解釈だと思いますよ」

 津田幹雄は、再び人工的な笑顔を一瞬だけしてみせた。その時、小さな、か細い声が部屋の後ろの出入り口付近から聞こえた。

「あの……」

 その小柄な若い女は、初々しい黒のリクルートスーツに、先ほどの緊迫した舌戦と、この部屋に充満する緊張感に対する恐怖を詰め込んで、少しだけ丈の短いスカートの端を左手で握り締めながら、震える右手を精一杯に上げていた。

 隣の席の皺のジャケットの男が横目で彼女を見る。彼は鼻で笑うと、握っていたペンの先を再び津田に向けて怒鳴りつけた。

「あんたらが欲しがっているのは『量子銃』の情報だろ。だいたい、あんたらは……」

「あの、田爪婦人について伺いたいのですが」

 若い女の張りのある凛とした声が、隣にいた皺のジャケットの男の声を跳ね飛ばした。

 キータッチの音も、記者同士のコソコソと囁く声も、すべてが止み、会場の記者たちの視線と後方の壁際に並ぶカメラのレンズの多くが、涙眼で顔を紅潮させながら右手を上げている彼女に向けられた。

 そのカメラの向きや記者たちの顔を見回した津田幹雄は、咄嗟に笑顔を作り、揃えた指先をその若い女の新人記者に向けて、起立を促した。彼女が立つと、津田幹雄は顔を傾けて、わざとらしい穏やかな口調で彼女に尋ねた。

「どちらの記者さんですかね。お名前は」

 その新人記者は少し躊躇して視線を横に向ける。

 列の反対側の壁の近くの席で立っていた長身の中年男が頷いて見せた。

 新人記者は一度だけ大きく深呼吸をすると、まっすぐに津田に顔を向けて、大きな声ではっきりと答えた。

「新日風潮社の春木陽香はるきはるかです」

 津田幹雄は眉間に深く皺を刻むと、溜め息を吐く。顔を上げた彼は再び笑顔を作った。

「ああ、週刊誌の記者さんですか。ですが、変ですねえ。ここは週刊誌の記者さんは入れないはずだが」

 長身の中年男が津田に言った。

「ウチの会社の政治部の記者が体調を崩しましてね。彼女はピンチヒッターですよ。それとも何ですか、司時空庁は記者の選別をされて会見を開いているのですか。だとすると、この記者会見は信用できませんなあ。あんたらの息が掛かった記者が集められている可能性がある」

 縞のスーツの男が後ろから怒鳴った。

「おい、ちょっと待てよ。新日ネットはこっちの記事が信用できない記事だって言うのか。調子に乗るんじゃねえぞ。社会部記者が何様のつもりだ、神作こうさ!」

「なんだと」

 神作真哉こうさしんやは立ったまま振り返り、縞のスーツの中年男をにらみ付けた。

 会見場内が大きく騒つく。

 津田幹雄は再び手を上げて大声で言った。

「まあ、まあ。お二人とも落ち着いて。どちらの記者さんだろうと構いませんよ。セキュリティー上の話をしただけです。こういう事態ですからね」

 そして、その人工的な笑顔をドアの横の席に向け、そこに立っている小柄な女に言う。

「では、ご質問をどうぞ」

 春木陽香は軽く頭を下げると、震える声で質問を始めた。

「どうも。えっと、あの、インタビューでも田爪健三氏は言っていましたが、それについての質問です。私ども新日風潮社が入手した情報によりますと、司時空庁は約二ヶ月前に田爪健三氏の妻・田爪瑠香さんを転送していますよね。タイムマシンに乗せて。具体的には六月五日……到着地の現地時間では六月四日に。これは、間違いないでしょうか」

 彼女の質問の仕方は機微を心得ていない新人記者らしく実に稚拙だった。まるで崩れたフォームで投げた直球のような質問に、案の定、会場内は混乱する。しかし、その球は重かった。それに気付いた数人の記者たちが次々に声を上げた。

「六月五日? どういうことですか。田爪瑠香は正規の搭乗者ではなかったということですか。六月の定期便で犠牲になったのではなくて、別の便で南米に送られたのですか?」

「六月五日って、司時空庁が特別に無人のタイムマシンを飛ばして、安全確認試験を実施した日ですよね。本当は有人での試験だったのですか」

「田爪健三が言っていたとは、どういうことですか。知らされていませんよ。御庁が公開した田爪博士のインタビュー録は、その部分をカットしていたのですか」

「どおりで、インタビューが不自然に終わっていると思ったんだ。田爪博士が自分は殺人鬼だと豪語した後にも、まだ何か言っていたのですね。彼は何と言っていたのですか」

 神作真哉が他の記者たちを指差しながら怒鳴った。

「ウチのネット新聞や『週刊新日風潮』の記事には、その部分もちゃんと載せていただろうが! それをおまえら、ここのリークを鵜呑みにして、捏造だの脚色だのと書き連ねやがって。おまえら、自分たちがどれだけいい加減な記事を書いたか自覚しているのか!」

 記者の一人が言い返す。

「いい加減な記事を書いているのは、そっちだろうが。証拠もない記事を載せやがって。身内の記者の口伝だけで記事を書いて、恥ずかしくないのか」

 神作真哉は壇上の津田を指差しながら、その記者に紅潮した顔を向けた。

「永山が送信した録音データも何もかも、ネタ元の資料は司時空庁に押収されたんだよ! ここの連中はな、それを途中でカットしたり、雑音で聞き取れないように加工したりして、司時空庁にとって都合よく編集してから、おまえらに公開したんだ。そんなものに軽々しく飛びつきやがって。公開情報だけで記事を書いて、おまえらこそ記者として恥ずかしくないのかよ。だいたいな、ウチの記事と司時空庁が公開した会話音声を比べて、もう一度よく確認してみろ。重なっている範囲では全部一致しているだろうが。こっちは一行たりともウソは書いてねえぞ! よく読め!」

 彼の後ろに座っていた縞のスーツの中年男が眉間に皺を寄せながら津田に尋ねた。

「長官は我々に、新日の記事の後半部分は捏造だと言いいましたよね。どうなんです、あの新日ネット新聞社の記事は全て真実なのですか。それに、六月の安全確認試験も有人での発射だったなんて全く初耳ですよ。司時空庁は公式発表で嘘の情報を流したのですか!」

 神作真哉は、ここぞとばかりに津田を追い込む。

「どうなんだ。はっきり答えろ!」

「座れよ。でかい体で立つなよ、邪魔なんだよ。画が撮れねえだろうが!」

 後ろの壁際からテレビカメラを担いだ金髪の男が神作に怒鳴った。

 神作真哉は少し振り向くと、その男をにらみ付ける。

 縞のスーツの中年男が神作を宥めた。神作真哉は渋々と椅子に腰を下ろす。そして、自分の席と反対側の壁際で立っている春木に目を遣った。彼女は怒号が飛び交う会見場で一人だけ、黙って立ったまま津田を見据えている。津田幹雄も壇上で黙っている。彼は頬を引き攣らせながら、春木をにらみ付けていた。

 やがて、会場内が自然と静かになった。記者たちの視線とカメラのレンズが津田の威圧的な表情に集中する。

 津田幹雄はゆっくりと一度だけ首を縦に振って、春木に答えた。

「はい。そのとおりです」

 津田の回答を聞いた記者たちは、それぞれに怒声を上げた。

「ふざけんな。こっちはあんたらからの公開情報を信じて記事を書いているんだぞ。国民の知る権利を何だと思っているんだ!」

「我々記者は民間人なのですよ。捜査権限も調査権限も無い。行政機関が捻じ曲げた情報を渡したら、我々には調べる術がないじゃないですか」

 神作真哉が呆れ顔で呟く。

「おまえらに覚悟が無いだけだろ。本気で調べようと思えば、できただろうが」

 記者たちは一瞬、口を噤んだ。その瞬間を捉えた津田幹雄が記者たちを見回して言う。

「国家には国民の安全と社会秩序を守る必要性から公にはできない情報があります。我々としては嘘を言ったつもりはありません。非公開とするべき部分は伏せて情報をお渡ししただけです。後は皆さん方のような報道機関の調査と表現の問題でしょう。それについて我々のような行政機関が指摘や指示はできませんよ。皆さんも常日頃から『表現の自由』を主張していらっしゃるではないですか」

 会場の記者たちはまた騒めいた。

 津田幹雄はその喧騒を余所に、ドアの横に立っている若い女の記者に再び顔を向ける。彼は、軋ろひ顔きしろいがおで春木をにらみ付けた。

 津田の微妙な変化に記者たちが気付き、再び会場内が静かになる。鶏のロゴを背に壇上に立つ津田と、出入り口の扉の横で資料を持つ手を震わせながら立つ若い新人記者との間にある異様な緊張感を、会場の記者たちは感じ取っていた。

 春木陽香は自分に対する予想もしなかった視線の集中に戸惑いながら、口を開いた。

「それで、あの……少し話が変わるのですが……」

 彼女は顔を横に向け、再び神作に視線を送る。

 神作真哉は再び黙って頷いた。

 春木の視界の隅で、皺のジャケットの男が大袈裟に溜め息を吐いて言う。

「なんだ。さっさと言えよ、ネエちゃん」

 春木陽香はその男に軽く頭を下げると、津田の顔を真っ直ぐに見て、彼に質問した。

「その田爪夫人を転送した日の約三年前の夏ごろから、御庁に対し数十回にわたり、タイムトラベル事業の中止を要請する上申書と、タイムトラベルの失敗を指摘した論文が匿名で提出されていたという情報を弊社の方で掴んでいます。それは間違いないでしょうか。差出人名は、『ドクターT』」

 会場がこれまで以上に大きく騒めいた。

 中央の席に座っている長髪の男はパソコンを打つ手を止め、春木の方に顔を向けた。

 壁際の髭の男は自身の左斜め後ろに座っている神作を一瞥してから、腰を少し浮かせて春木を覗く。

 縞のスーツの記者が前の席の神作の肩を叩いた。

 神作真哉は津田に鋭い視線を向けたまま、後ろの男の手を払い除ける。

 最前列の白いスーツの女は、足を組んだまま腰を捻り、春木をいぶかしげに見つめていた。そして、ふと何かを思い出した顔をしてタイトスカートから出た足を解いて前を向くと、机の上のパソコンから可接触式のホログラフィーで浮かべられている文書画像の頁を指で捲り始めた。

 皺のジャケットの男は顔を皺くちゃにして隣の新人記者に懐疑的な視線を送っている。

 最前列で体を捻り、春木の方を見るふりをしながら会場内の記者たちのそれぞれの表情に意識を向けていた紺のスーツの男は、ハッとして前を向き、壇上の男に視線を向けた。

 津田幹雄は春木の方を向いて人形のように固まったまま黙っている。

 この瞬間、その部屋の中には若い新人記者では破壊することが到底に不可能な、何か硬く分厚く不快な泥の固まりのような空気が漂っているのを誰もが感じていた。だから、神作真哉は助け舟を出した。彼は津田を指差して言う。

「隠しても無駄ですよ。我々も、『ドクターT』からの上申書と論文が政府に送られていたという事実は掴んでいます。だから、ウチの永山は調べ始めた訳で……」

 最前列の白いスーツの女がホログラフィーの画面を覗きながら口を挿んだ。

「それって、この論文のことですか。先週の『週刊新日風潮』に写真で掲載されていた。御庁は、あの写真の件に関するウチからの問い合わせに対して『不明だ』と回答されましたよね。あれは嘘だったのですか」

 彼女の苛立った声の後、壁際の髭の男がかすれた声で質問した。

「その『ドクターT』って誰ですか。もしかして、高橋博士ではないでしょうね」

「いいえ」

 津田幹雄は春木の方に顔を向けたまま、はっきりと答えた。

 演台の正面の長髪の男が髪をかき上げながら、気だるそうに尋ねる。

「では、田爪博士ですか」

 津田幹雄は黙っていた。

 後ろの席の縞のスーツの男が声を荒げた。

「なんだ、どうなってるんだ。どうして黙っているのですか」

 最前列の席から白いスーツの女が、怒りに満ちた声で静かに問い質した。

「改めてお伺いします。その『ドクターT』の正確な氏名と、この論文の内容をお答え下さい。御庁は把握されているのですよね」

 その後すぐに、神作真哉が鬼のような表情で怒鳴った。

「司時空庁が把握していた内容が知りたいのですよ。内容が。これじゃ、記事が書けないじゃないか。俺たちに適当な記事を書けとでも言うのですか!」

 その発言が起爆剤となり、次々と他の記者たちが声を上げ始めた。

「そうだ、そうだ。質問に答えてくれなけりゃ、会見を開いた意味が無いだろ」

「どうなんですか。タイムトラベルの失敗の可能性は以前から把握されていたのですか」

「いったい、その『ドクターT』とは誰なのですか」

 神作真哉は記者たちの声を聞きながら、片笑んで津田をにらんでいる。

 津田幹雄は手を上げると、マイクに口を近づけた。

「どうぞ、ご静粛に。静粛に願います。説明いたします。どうか、静粛に」

 会場内の記者たちは口を閉じていき、場内は次第に静かになった。

 津田幹雄は手許の資料を忙しく捲りながら、眉間に皺を寄せている。そして、その手を止め、今度は指で、その資料の上を左右になぞり始めた。彼は下を向いたまま口を開く。

「ええ、まず、ご質問の『ドクターT』なる人物からの上申書は、二〇三五年七月から、今年二〇三八年五月まで、合計三十五回にわたり、初回から三十二回は我々のもとに、最後の三回は総理官邸に郵送されております。ええ、内容につきましては、国家の機密事項に関係し、また外交上も重大な誤解を生むおそれがありますので、詳細は控えさせていただきたいと……」

 その発言を遮って、神作真哉が勝者の風格で堂々と津田を責め立てた。

「その上申書は、司時空庁が飛ばしているタイムマシンではタイムトラベルが成功していないという指摘だったのではないですか。隠さずに話してくださいよ。人が死んでいるのですよ。百二十九人も。いや、田爪瑠香を入れれば、百三十人だ。あなた方が把握していた内容を述べてもらえませんか。どういう中身だと認識していたのですか」

 皺のジャケットの男が、右手に持ったペンの先で左手の指の爪の垢を取りながら、独り言のように、しかし、確実に津田に聞こえるように大きな声で言った。

「このままだと議会で問題になるんじゃないですかねえ。隠し通せる訳ねえよなあ。下手すりゃ、長官の進退にも関わるなあ、こりゃ」

 その発言に津田幹雄は反応した。彼は皺のジャケットの男をにらみ付けて言う。

「ええ、そうです。ご指摘のとおりでございます。当庁と官邸に送られていた論文の内容は、大まかにはそのような内容だったと推測されます」

「推測されますう? そりゃ、どういうことですか。中身を読んでいないのですか」

 縞のスーツの男が厳しく追求すると、津田幹雄は額に汗を浮かべながら答えた。

「論文の内容が複雑かつ高度なものでありましたので、それを読み解くだけでも相当の時間を費やす必要があり……」

 神作真哉が再び怒鳴った。

「だが最終的には、その内容を読み取った訳だろう。知っていたんだろう、何もかも!」

 最前列の白いスーツの女が冷静に確認した。

「高橋博士と田爪博士の計算に問題があり、あのタイムマシンではタイムトラベルはできない。そういう指摘だったということですね」

 津田幹雄は歯軋りをしながら答える。

「――はい」

「ええ? では、司時空庁としては、その事実を知っていながら、この三年間ずっと、タイムマシンに人を乗せて飛ばしていたのですか」

 白いスーツの女は目を丸くして声を裏返した。

 後ろの席の縞のスーツの男が、手に持っていた資料の束を机上に放り投げる。彼は椅子の背もたれに身を倒して呆れ声を上げた。

「おいおい。どうなっているんですか。全部承知の上で、他人から大金を取って、間違ったタイムトラベル事業を実施していたということなのですか」

 津田幹雄は、すぐさま反論した。

「いえ、そうではありません。上申書によって指摘がなされていたのは事実ですが、それが確実に証明されていた訳ではありませんので。あくまで、一つの仮説に過ぎない訳で、そのような不確かな仮説が在ると言うだけで、国家の一大事業を簡単に停止する訳には参りません。我々は、あくまで法に従って適切に……」

「危険を指摘した説の存在を司時空庁が認識していたことは、お認めになるのですね」

 津田の発言の途中からそう確認したのは長髪の男だった。

 津田幹雄は胸のチーフを手に取ると、それで額の汗を拭い始める。その様子を見ていた壁際の髭の男が、丸い体の前で短く太い腕を組みながら、かすれた声で言った。

「外交上の誤解がどうとか言っていましたが、どういうことですか。論文の内容と、外国の事情が絡んでいるのなら、どう絡んでいるのかだけでも説明してもらえませんか」

 離れた席から皺のジャケットの男が怒鳴った。

「外国のことは関係ねえだろ。俺たちの政府の話をしてんだよ。日本政府の!」

 すると、最前列の席に座っている紺のスーツを着た若い男が挙手をして、淡々とした口調で言った。

「そんな指摘があったことを知っていたにもかかわらず、すぐに事業を停止できない程、その論文の内容が不正確だったということではないのですか。違いますか」

 机から体を前に出して男の方を覗いた白いスーツの女は、首を傾げる。顔を壇上に向けた彼女は、少し大きな声で津田に尋ねた。

「すぐに論文内容の検証はされなかったのでしょうか。もし、科学的検証に取り掛かるのに時間が掛かっていたのなら、その理由もお聞かせください」

 津田幹雄が黙って資料を捲っていると、皺のジャケットの男が再び怒鳴った。

「遺族にどう説明するつもりなんだよ。さっさと答えろ!」

 それに続いて長髪の男が挙手することもなく発言する。

「御庁が管理している他の学者には確認しなかったのですか。検証するつもりなら……」

 彼の発言の途中で最前列の紺のスーツの男が再び手を上げ、落ち着いた口調で尋ねた。

「もし事実であれば、国家賠償の対象になるものと思われますが、その場合……」

「確かめたのですよね」

 若い女の声が響いた。

 春木陽香は、まだ、ドアの横の席で立ったままだった。その新人記者は、先輩記者たちの津田に対する畳み掛けるような詰問攻めに、完全に発言の機会を失っていた。しかし、今、彼女が発言できたのは、単にタイミングを掴んだからという訳ではない。それは、そこに居る記者の誰もが瞬時に悟った。その若い新人記者の、先ほどの自信の無い怯えた口調とは違う、深く、沈んだ震える声を聞いたからだ。彼女の中の何か燃え滾る怒りの炎のようなものを、そこに居た誰もが感じていた。そして、同じように津田もそれを感じていた。

 津田幹雄はその若い記者の方を見ることができなかった。下を向いたまま黙っている。

 やがて、ゆっくりと彼女の方に顔を向けた。

 春木陽香は目に涙を浮かべ、震える唇を必死に噛み締めながら、津田を強くにらみ付けていた。そのまま少し間を空けた後、彼女は静かに発言した。

「あなた方はその人に、『ドクターT』さんに、自分の理論が正しいというのなら、その計算に基づいて修正した機体に自分が乗って証明しろ、そう迫ったのではないですか。十年前に『第二実験』で田爪健三博士を送った時のように」

 彼女は一度スーツの袖で涙を拭うと、深呼吸をして、さらに続ける。

「そして、その人は実際にそうした。自分の夫と同じように。――『ドクターT』は瑠香さんですよね。田爪健三博士の配偶者、田爪瑠香さん」

 春木陽香は津田を強くにらみ続けた。



                  32

 沈黙と静寂が、その狭い記者会見場を包んでいた。まるで、時間が静止しているかのようであった。やがて、大きな騒めきが起こった。しかし、それは整理されず、いつまでも言葉として並ばない。

 壇上の津田は沈黙を守っていた。

 この状況で最初に整理された発言をしたのは、神作真哉だった。彼はテレビカメラに映るようにオーバーなジェスチャーを交えて津田に質問した。

「ということは、まさか司時空庁は、タイムトラベル事業の危険性を指摘した田爪瑠香さんを、実験と称して強引にタイムマシンに乗せ、過去の別の時間軸上に送ろうとしたのですか。六月五日に」

 記者たちの視線が神作に集中すると、皺のジャケットの男がボソリと言った。

「どおりで、コソコソと『安全確認試験』を実施したわけだ。おかしいと思ったんだよ」

 津田幹雄は、すぐさまチーフを胸のポケットに仕舞うと、ずれた眼鏡を指先で押し上げながら記者たちを見回してから、大声で反論した。

「いえ、それは誤解です。実験レベルとしての実施である以上、内密に行われるのは法律上当然ですし、それに、田爪夫人は自ら進んで搭乗を希望された訳でして……」

 後ろの席から、縞のスーツの男がしかめた顔で言う。

「そんな馬鹿な。タイムマシンの欠陥を指摘した人間が、そのタイムマシンに進んで自分から乗ったと言うのですか。いい加減にしてくださいよ」

 神作真哉が再び立ち上がった。彼は人差し指で何度も津田を指しながら、声を荒げる。

「あんたらが騙して乗せたんじゃないのか! 自分たちに都合の悪い主張を続ける田爪瑠香を抹殺するために!」

 一瞬困惑した表情を浮かべた津田を見て、最前列の紺のスーツの男が大きな声で言う。

「田爪瑠香が真意に基づかずにタイムマシンに乗ったのなら、司時空庁の行為は何らかの犯罪になるかと思われますが、警察は動いていないのですよね。どうしてですか」

 津田幹雄は何かに気付いたように微妙に両眉を上げると、その男の方を向いて答えた。

「犯罪事実が無いからですよ。田爪夫人が何か勘違いしていたのかもしれませんが、我々司時空庁は正規の手続を踏んで、通常通りのプロセスで彼女に搭乗してもらいました。もちろん、危険性も十分に説明して。あの実験を企画したのは彼女です。我々は彼女が企画した発射実験に協力しただけです。しかし、まさか南米に飛んでいるとは……」

 後ろの壁際の金髪のカメラマンがカメラから頭を離して声を荒げた。

「危ないと知っていて、自分から乗るかよ。いい加減なこと言いやがって」

「違う……」

 彼の発言の直後に飛んだ小さな声に反応して、記者たちの視線は再び、あの出口ドアの方に集まった。

 その新人記者は、何か遠くを見つめるように、虚ろな視線を前の席の記者と記者の間の床に落としたまま、反射的にそう発言した。そして、静かに顔を上げ、今度は鋭くも澄んだ瞳を真っ直ぐに津田に向ける。

 春木陽香は言った。

「瑠香さんは、本当に希望したのですよね。たぶん、六月五日の発射を希望したのも彼女ですよね」

 津田幹雄は驚いたような顔で彼女を見て、そのままの姿勢で答えた。

「ええ」

 神作真哉は怪訝な顔を彼女に向ける。他の記者たちも一様に不可解そうな顔をしていた。

「どういうことだ。はっきり説明しろよ」

 記者の誰かがそう言った。神作真哉が声のした方を強くにらむ。他の記者たちはドアの横で立つ新人記者に注目した。

 春木陽香は津田の目を見て、はっきりとした口調で言った。

「彼女は、この十年間、必死に研究したのだと思います。きっと寝る間も惜しんで。必死に。『第二実験』で田爪健三博士が飛び立った後、瑠香さんは、ずっと一人で彼の学術論文や専門書を読み漁り、研究していました。彼に、田爪博士に生きていて欲しかったからです。きっと、どこか別の世界で生存している、その時間と場所さえ分かれば、会いに行ける、そんな『未来』を信じていたからこそ、必死に研究を続けたのだと思います。そして、その途中で、瑠香さんは彼らの間違いに気付いた。司時空庁が毎月飛ばしているタイムマシンはタイムトラベルをしていない、同じ時間の別の場所に送られているという事実に気付いた。それで彼女は、そのことを必死に政府に訴え続けたんです。瑠香さんは、毎月、毎月、十分な資料が揃った論文を添付した上申書を政府に送り続けたはずです。『ドクターT』名義で。『T』は田爪健三の『T』、田爪瑠香の『T』。田爪博士の理論を瑠香さんが再確認した二人の研究成果。まるで、ふたりの子供のように……。でも、あなた方は、その懸命な指摘を、ずっと無視し続けた」

 津田幹雄は黙って俯いていた。他の記者たちも沈黙している。

 春木陽香は涙を堪えながら続けた。

「やがて、田爪型マシンを改造した家族乗りマシンでの渡航が始まることになりました。若者や幼い子を含む可能性もある家族搭乗機の転送を止めようと、瑠香さんは、総理官邸に直接、上申書を送るようになった。それを知ったあなた方は焦り、瑠香さんに接触し、自説を実験により証明するよう持ちかけたのではないですか。そして、自分でマシンに乗れと迫った」

 下を向き、首を横に振った津田幹雄は、顔を上げて春木に言った。

「あのですね、それはあなたの想像……」

 春木陽香は津田の発言を遮り、堰を切ったように話し始めた。

「たぶん、彼女は知っていたのだと思います。タイムマシンが南米の戦地の真っ只中に到達していたことを。もしかしたら、正確な到達ポイントを割り出していたのかもしれません。きっと、地下に到達していることも。現地に地下施設が在ることまでは知らなかったでしょうから、瑠香さんはおそらく、既に送られた全員が死亡していると思っていたのではないでしょうか。だから渡航者たちの救出よりも事業の停止を訴えたのだと思います」

 隣の皺のジャケットの男がペンを持った手で頭を激しく掻きながら口を挿んだ。

「あのさ、いつ飛んだかは別にしても、さっき永山がレポートの中で、田爪はカミさんを殺したって言ってたよな。ってことはよ、彼女がいじったタイムマシンは田爪の所に飛んでいったということだろ、他のマシンと同じように。だったら、修正できなかったってことじゃねえか。その程度の実力の奴が、到達ポイントを割り出せるわけねえだろ」

 春木陽香は津田を見据えたまま首を横に振る。

「いいえ。瑠香さんは、タイムマシンの欠陥点や到達ポイントを正確に見つけていたはずです。そして、マシンの修正もできていた。だから、確信と自信があったから、司時空庁と契約したのだと思います」

「契約? ああ、実験の契約のことか。だけど、現に修正には失敗しているじゃねえか。田爪の目の前に飛んで行っちまった訳だろ。修正できてねえじゃねえかよ」

 皺のジャケットの男がしつこく言うと、春木陽香は真っ直ぐに津田を指差した。彼女は強く津田を見据えて、静かに言う。

「戻したのですよね。瑠香さんの修正を、元通りに。そして、その従来どおりのタイムマシンに彼女を乗せ、他の渡航者たちと同じように別の時間軸に送ろうとした。だからあのタイムマシンは、結果として南米の地下に送られてしまった。そういうことですよね」

「……」

 津田幹雄は春木から視線を外し、ただ黙っていた。記者たちの視線が彼に集中する。

 白いスーツの女が驚いた顔で確認した。

「では、司時空庁は田爪瑠香を騙して欠陥のある機体に乗せたということなのですか?」

「いや、ですから、機体に欠陥があるとは我々も……」

 スーツの女に顔を向けて津田が発言しようとすると、春木陽香は大きな声で言った。

「でも、瑠香さんは分かっていたはずです。あなた方が機体を元に戻して、自分を遠い過去の別の時間軸上に送ろうとしていることに気付いていた。だから、発射日を六月五日に指定して、ドレスを着て、花束とバースデイ・プレゼントを持って機体に乗ったんです」

「なんだ、そりゃ。どういうことだよ。あの女、そんな格好してマシンに乗ったのか?」

 皺のジャケットの男がそう言っている間に、縞のスーツの男は前で立っている神作の腰を叩いて小声で尋ねた。

「おい、どういうことだ。あの子、なに言ってるんだ」

 神作真哉は春木をじっと見たまま、その男に掌を向けて発言を制止した。

 春木陽香は続ける。

「瑠香さんは六月四日を到達日時に指定していたのではないですか。私は彼女の研究室でカレンダーのその日に印が付けてあるのを見ました。六月四日は田爪博士の誕生日です。田爪博士もインタビューで、その日、あの地下施設でバースデイ・パーティーを開いていたと言っていました。そこへ瑠香さんを乗せたマシンが現れたと。きっと瑠香さんは、あなた方に従来どおりの欠陥のあるタイムマシンに乗せられるのなら、『第二実験』で田爪博士が到達したポイントと同じポイントに到着するはずだから、もしかしたら田爪博士に会えるのではないか、そう考えていたのではないでしょうか。だから、到達ポイントである南米との時差を逆算して、発射日時を指定した。瑠香さんは小さな希望を抱いていたのだと思います。田爪博士にもう一度会えるかもしれないという『未来』への希望を」

 長髪の男が静かな口調で春木に指摘した。

「しかし、彼女は地下施設の存在を知らなかった訳ですよね。あの施設のことは協働部隊に派兵している各国軍隊も知らなかったくらいですから。それなら、地中に到達して死亡するというのが彼女の認識だったのでは?」

 皺のジャケットの男がペン先を春木に向けながら言う。

「そうだよ、確実に死ぬと分かっていて、どうしてマシンに乗ったんだ」

 春木陽香は一度震える口を縛ると、涙を堪えて言った。

「約束事だからです。きっと瑠香さんは、自分が修正したタイムマシンが到達日時の六月四日に目の前に現れない場合でも、翌五日の発射予定時にタイムマシンに乗るという内容の契約を司時空庁と結んでいたのだと思います。そういう約束で実験実施は了承された。約束は守らないといけない。田爪博士が研究支援企業との約束を守り通したように」

 神作の前の列の壁際から、髭の男が大袈裟に溜め息を吐いた。

「たかが契約に誰がそこまで。死んじまったら契約した意味がないだろうが。馬鹿か」

「馬鹿はおまえだ、黙って聞いてろ」

 神作真哉はその男を強くにらんで、小声でそう言った。そして再び春木に顔を向ける。

 春木陽香は鼻を啜ってから、更に続けた。

「瑠香さんは、皆が高橋博士のパラレルワールド肯定説を支持する中、たった一人、田爪博士が唱えていた否定説を信じ続けました。だから、マシンの欠陥を見つけることができたんです。そして、否定説どおり時間軸は一つだとすれば、近い過去にタイムトラベルして実際に目の前に現われるという形で証明できる、そう主張して、到達日は発射日の前日を指定した。当初の表面的な事情は、そうだったはずです」

 津田幹雄は春木から視線を逸らしていた。その津田に、春木陽香は必死に説明する。

「だけど、インタビューの中で永山せんぱ……記者が指摘していたとおり、否定説の信用は田爪博士の主観に係わってきます。仮想空間実験の時に、田爪博士が過去の事実に合わせようとしてボタンを押したのか。田爪博士はそんなことは考えていなかったと言っていました。きっと瑠香さんは田爪博士が嘘を言っていないと信じていたはずです。そして、彼が嘘をつかない人間であることを人々にも認めて欲しかった。そのためには妻である自分も同じ生き方をしなければならない、瑠香さんは、そう考えていたのではないでしょうか。計算や実験だけでなく、生き方でも田爪健三の主張の正当性を証明しようとしたのだと思います。だから、誠実に生きた。約束事を守りタイムマシンに乗った。死を覚悟で」

 春木陽香は再び鼻を啜り、袖で涙を拭う。そして続けた。

「つまり瑠香さんは、二つの場合を想定して、そのいずれにも対応する準備をしていた。実験が成功する場合と成功しない場合です。自分が修正したタイムマシンが六月四日に目の前に出現した場合は、成功することが分かっている状況で五日にタイムマシンに乗ることになります。出現しなかった場合は、成功しないことが分かっている状況で乗ることになる。その原因が何であれです。そして、その場合は、瑠香さんの計算どおり『ワープ』してしまうか、高橋博士の説のとおり別の時間軸の四日に移動するか、何らかの事情で発射自体が失敗するか、想定されるのはこれら三つです。瑠香さんは十年も否定説を前提に研究していたのですから、別の時間軸に移動するという確率は極めて低い、いや、無いと考えていたことでしょう。だとすると、残りの二つ。田爪博士は言っていました。想定される事態の中で最悪の事態に対処すれば、良い結果が得られると。瑠香さんも、そうしたのだと思います。『ワープ』した時のことを考えて、現地の六月四日に到達するように発射日を日本時間の五日に指定した。でも、科学者である瑠香さんは『ワープ』後に自分が生存している可能性がゼロに近いことくらい分かっていたはずです。地下施設のことを知らなかったわけですから。それでもタイムマシンに乗った。約束したとおりに。契約者としての責任を果たすために。法律や条理上の義務のためではありません。生き方を示すためです。人々を救うために危険を承知で契約して、その契約をちゃんと守る。きっと、そこまでしても証明したかったんです。瑠香さんは……田爪博士に……えっと……」

 記者たちを見回しながら、彼女は発言を止めた。

 会場の記者たちは白けた視線を春木に送っていた。首を傾げている記者もいた。

 立ったまま春木の主張を聞いていた神作真哉は、彼女の動揺を察し、咄嗟に津田に怒鳴った。

「おまえらは、そういう田爪瑠香の思いを利用したんだろ。実験を実施する条件として、どんな場合でも必ずタイムマシンに乗るという強引な内容の契約を迫った。違うか!」

 最前列の席で紺のスーツの男が真っ直ぐに手を上げて、大きな声を発した。

「今の春木記者の発言についての質問です」

 彼はそのまま、壇上で額の汗を拭っている津田に質問した。

「さきほど春木記者が言われたような内容の契約書は存在しますか。それから、その他に彼女の質問内容を具体的に示す何らかの資料があれば、それは何か、ご回答ください」

「おまえ……」

 神作がその男に怒鳴ろうとすると、津田幹雄が急いでマイクに口を近づけて発言した。

「ええ、そのような契約書は存在しません。また、我々が田爪瑠香氏から具体的な到達ポイントを知らされた事実も、彼女が修正した機体を元に戻したなどという事実も存在しません。すべて春木記者の憶測であります」

 神作真哉は強く叫んだ。

「嘘を言うな! あんたらとしては、彼女をマシンに乗せたかったんだろうが! 『不都合な真実』を指摘し続ける田爪瑠香をこの世界から消し去ろうとしたんじゃないのか!」

 神作真哉は強く津田を指差す。

 津田幹雄は神作に顔を向けずに、春木に強い口調で迫った。

「先ほどのご主張について、何か具体的証拠でもあるのですか」

 ドアの横に立つ新人記者は下を向いた。

「えっと……その……」

 他の記者たちの冷たい視線が春木に注がれた。

 隣で皺のジャケットの男が舌打ちする。

「チッ。んだよ、ねえのかよ。『たぶん』とか『きっと』で余計な時間を取りやがって。三文推理の発表会じゃねえんだよ、ここは」

 再び会場内が大きく騒ついた。

 津田幹雄は一瞬だけ片笑んだ後、割れた顎を上げて姿勢を正し、神作の方に厳しい顔を向けた。

 神作真哉が反論を考えていると、最前列で紺のスーツの男が再び静かに挙手をしてから、滑らかに、やさしく津田に尋ねた。

「それで、その実験自体はどのような計画だったのでしょう。また、実験結果についての検証はされたのでしょうか。最後に、その後も通常通りタイムマシンの発射を実施し続けた理由もお聞かせください」

「ワープの可能性は、どれくらい認識されていたのですか」

 長髪の男がパソコンの画面を見つめながら、付け足した。

 紺のスーツの男は少し振り返り、長髪の男をにらみ付ける。

 津田幹雄は、自信を取り戻したかのようにまた胸を張り、割れた顎を突き出して流暢に答えた。

「田爪瑠香氏が修正した機体は予定時刻に現れませんでしたので、後は彼女が主張されていた『場所的移動』について検証することになりました。その実験結果については、クリアであるというのが、我々の認識です。つまり、彼女の主張のとおり、マシンが単に『場所的移動』をしているだけならば……ああ、もう一度言いますが、到達ポイントについては知らされていません。それで、実験後に、移動先の彼女から連絡をいただくことになっておりましたが、まことに残念な事態ではありますが、結果として、我々のもとに彼女から連絡が来ることは無かった訳です。従いまして、我々としては、やはり高橋博士の説のとおり、彼女は別の時間軸上に移動したものと判断せざるを得なかった次第です。ですから、この実験の後も発射を継続したわけでして、我々司時空庁に過失はありません」

 長髪の男が静かにパソコンの蓋を閉め、真っ直ぐに津田を見て言った。

「しかし、結果論かもしれませんが、彼女の学術的主張の方が正しかった訳ですよね。この点については、どう思われますか」

 皺のジャケットの男が身を乗り出しながら、津田にペンの先を突き向けて言った。

「一人の科学者が自分の命を犠牲にして証明しようとしたのですよ。しかも国の事業に関する危険性の証明じゃないか。もう少し真剣に検証しようとは思わなかったのですか」

「あの……」

 隣で立ったままの春木陽香が、遠慮気味に何かを言おうとした。しかし、その発言は縞のスーツの男の発言にかき消された。そこから離れた最後列の席から、彼は大きな声で言う。

「そうですよ。だいたい田爪瑠香氏は、司時空庁が気付かなかった『機体の欠陥』を一人で見つけ、さらに、それを修正しようとしたのですよね。しかも、その修正後の論理が正しいということを自らの身を賭して証明しようとした。結果はともかく、これって全部、本来、司時空庁職員がやるべきことだと思いますが、違いますかね。それなのに、実験後もろくに検証せずに放置して、今頃になって彼女の理論は証明されていますって言うつもりなのですか。その後の犠牲者の遺族に、なんて……」

「瑠香さんが……」

 出口ドアの隣で依然として立ったままの春木陽香は、さっきよりは少しだけ大きな声で発言した。

 記者たちが再度一斉に顔を向ける。今度の記者たちは皆、疎ましそうな表情をしていた。

 突き刺すような視線を浴びながら、春木陽香は目を瞑り、息を吸うと、肩を張って大きな声で言った。

「田爪瑠香さんが証明したかったのは、――いえ、実際に証明してみせたのは、そんなことではないと思います」

 一瞬の静寂を破って、隣の席の皺のジャケットの男が再び頭を掻きながら言い放った。

「じゃあ、何だって言うんだよ」

 春木陽香は、今度は少し控えめに小さな声で言う。

「ベクトルです。――ではないでしょうか。瑠香さんの田爪博士への想いのベクトル。二人のベクトルが、ちゃんと向かい合っているということ。――だと……なんか、私は、そう思います……」

「はあ?」

 皺のジャケットの記者は、首を大きく傾げると、大袈裟に溜め息を吐いた。

 彼女の、先輩記者たちから飛ばされる冷ややかな視線を気にしながらの自信のなさそうな言い方が失敗だったらしく、今度はどの記者も自分の仕事を継続させ、その新人記者の感情的で抽象的な推理を全く無視した。

 春木陽香はもう一度、大声で自分の説を唱えようとした。

「十年間、夫に向け続けた自分の思いを行動で示して……」

「ところで、永山氏の今後の処遇はどうなるのでしょうか。あの録音を聞く限り、彼がマシンに乗ることを臆したりしなければ、政府も今頃、田爪博士の貴重な研究データと新型マシンを手に入れることができていたと思うのですが」

 出口ドアの隣の若い新人女性記者の推理は、最前列に座した大手通信社の若手記者の質問にかき消された。その紺色のスーツ姿の男が流れるように質問を述べ終えるとすぐに、神作真哉が顔を紅潮させて声を荒げた。

「おい、ちょっと待て。ウチの永山のせいだっていうのかよ。ふざけんな。臆しただと? あいつはな、父親としての家族への責任を全うしただけじゃないか。だから、あんな危険なマシンには乗らずに、大スクープのチャンスを捨てて、生きて確実に日本に帰る道を選んだんだろ。田爪健三が話していたのは、そういうことだろうが。結局、永山は試されていたんだよ。田爪に。おまえら、それが分かんないのか!」

 神作真哉は記者たちを指差しながら厳しくにらみ付けた。

 彼を無視して、津田幹雄は最前列の紺のスーツの男に顔を向ける。

「はい。永山記者につきましては、今後も政府と国民の皆様のために、調査にご協力いただきたいと思っています。ええ、このような席ですが……」

 津田幹雄は、奥の壁際に並ぶテレビカメラの列に顔を向けた。

「司時空庁長官として、この場を借りて、改めて永山氏にお願い申し上げます。ご不便をお掛けいたしますが、どうか、国民の皆様の利益のために、今後とも政府にご協力いただきたい」

 眉を寄せ、懇願する顔を作った津田幹雄は、カメラに向かって深々と頭を下げた。彼にレンズを向けるカメラマンの列の中で、金髪の男が津田にカメラを向けたまま、強く舌打ちする。

 津田幹雄は顔を上げる途中、最前列の端の方に座っている白いスーツの栗毛の女に一瞬だけ視線を送った。彼女は腕時計に目を遣ると、少し渋々としながら、その細く白い腕を高らかに上げた。そして、さっきまでとは違い、棒読み口調で発言する。

「その司時空庁についてなのですが、これまで司時空庁はタイムトラベルを管理する省庁として存在してきました。しかし、実際には、これまでの技術が異空間への瞬間移動、つまり『ワープ技術』であったとすると、司時空庁の名称も含め、抜本的な組織改編が必要になるものと思われますが、いかがでしょうか」

「へっ。どうせなら、また郵便事業でも始めたらいいんじゃないか」

 部屋の後方から皺のジャケットの男が茶化した。会場内に笑いが響く。その隙に、津田幹雄は演台の上のデジタル時計を確認した。

 白いスーツの女は、膝の上のメモに目を落としながら質問を続ける。

「それから、津田長官は司時空庁長官として、二期目の任期を今期で終えられますが、任期満了を待たずに次の国政選挙に出馬されるとの噂もあります。現在のご心境をお聞かせ下さい」

 記者たちがヒソヒソと口を開いた。白いスーツの女は栗色の髪をかき上げながらメモ用紙を机上に放り投げると、眉間に皺を寄せて溜め息を吐く。

 ネクタイを直した津田幹雄は、姿勢を正して再びカメラのレンズに顔を向けた。彼は落ち着いた声で作り笑顔を交えながら話し始めた。

「ああ、どうぞ、ご静粛に。――タイムトラベルもワープも、利用している原理は共にAT理論であり、また、悪用されないよう管理する高度の必要性にも、両者の間に何らの差はありません。従いまして、名称はともかく、組織改編までの必要は無いと考えます。ただ、タイムトラベル事業の凍結に伴う人事異動は必要になるでしょう。それについては順次進めて参り、引き続き行政の責任として、国民の皆様からお預かりしている貴重な税金を少しも無駄にすることが無いよう最大限に努めて参りたいと思量しております。ええ、私についてでありますが、お蔭様でこの津田幹雄、司時空庁の長官職を二期も務めさせていただいております。司時空庁も、先ほど申しましたとおり、異空間場所的瞬間移動の管理、AT理論の逆応用機器の実践的開発と管理など、今後の課題が山積しております。従いまして、今は、引き続き長官職としての責任を全うさせていただきたいと思っております。任期満了後の進退につきましては、天命に従うのみ、とでも申しておきましょう。もし、私の、この二期連続の長官職としての経験が国政において何らかの形で国民の皆様のお役に立てるのならば、そうすることもまた、私の責任なのかもしれません。後は国民の皆様のご判断にお任せしたいと思います。どのような立場であれ、この津田幹雄、国民の皆様のために全身全霊をささげるつもりでございます。――では、本日はここまでということで」

 津田幹雄はカメラに向かって綺麗に一礼すると、姿勢を正し、部屋の前方の出口ドアの方に歩き始めた。

 壇上を歩いて行く津田に、立ったままの神作真哉が大声で怒鳴る。

「ちょっと待て! 逃げるつもりか。長官なら他にも国民に言うべき事があるだろ!」

 演壇の途中で立ち止まった津田幹雄は振り返り、神作を強くにらみ付けた。

 神作真哉は津田を指差して言う。

「あんたは、あんた自身は、今回の田爪の話を聞いて、どう思うんだ。司時空庁長官として、この話を聞いて、何を、どうするべきだと思う。あんたのやるべき『仕事』とは何だと考えているんだ」

「それは、私が独断で決めるべきことではありません。彼の話を聞いた国民の皆さんお一人お一人が考え、その意見を集約した議会と政府が決めることです」

 津田幹雄はそう即答した。

 後ろのドアの横に立っている新人記者は、赤い顔で強く津田をにらんで叫んだ。

「そうやって、ご自分の責任から逃げるおつもりなのですか。司時空庁長官は、あなたではないですか。どうして自分の立場の責任を果たそうとされないのですか」

 津田幹雄は春木の方に不機嫌そうな顔を向けると、厳しい口調で彼女を叱咤した。

「失礼な発言は慎みなさい。ここは記者会見場だ。公の場で他人を侮辱すると、あなたが責任を問われますよ。私は司時空庁長官としての責任を全うするつもりです。話をすり替えないでいただきたい」

 カメラのフラッシュが津田の険しい顔を捉える。

 津田幹雄は一度溜め息を吐いて項垂れた。そして顔を上げ、その新人記者を指差しながら、今度は諭すように穏やかな口調で言う。

「本当は分かっていらっしゃるのでしょう。もし、そうでないのなら、彼の話をもう一度よく細部まで聞いてみなさい。田爪博士の話の核心は国家や社会の話ではない」

 津田幹雄は並んでいるカメラを順に指差し、記者たちを順に指差し、最後にまた、その新人記者を強く指差した。

「皆さんお一人お一人の問題です。それぞれが自分の過去に意識を戻し、考えてみるべき問題だ。今、何をするべきかは、それからでしょう。それは、あなた自身の問題なのですよ、あなた自身の」

「話をすり替えているのは、あんたの方だろうが! 官僚としての、あんたの責任を尋ねているんだよ!」

 神作真哉が怒声を挿んだ。

 津田幹雄は再び神作をにらみ付けて、大きな声で言い返す。

「私は国の官吏として責任を全うしてきたつもりですがね。それに、これからもそうすると言っているでしょう」

 春木陽香はスカートの横で拳を握りながら肩を上げ、紅潮させた顔で必死に訴えた。

「さっきから責任、責任って言ってますけど、田爪博士も、瑠香さんも、責任感で何かをしないといけないから、そうした訳じゃないですよね。相手のことを想ったり、周りの人のことを考えたりして、誰かのために何かをしようとしただけですよね。あなたたちは、そんなことは何も考えてはいないじゃないですか! なんで、もっと優しくなれないんですか! どうして、みんなをタイムマシンに乗せたりしたんですかあ!」

 彼女の叫びは大きく場内に響いた。しかし、津田には届かない。彼は春木に顔を向け、きっぱりと言った。

「契約したからですよ、搭乗者たちと。約束事は守らないといけないのでしょう? それに、我々が乗せた訳ではありません。彼らが望んだのですよ。彼らは自ら申し込み、国と契約したのです。タイムマシンの搭乗契約をね。国としては、その通常の搭乗契約を履行しただけです。我々は契約当事者である国に雇用されている公務員だ。公務員として当然の責任を果たしたに過ぎません。それを責められましてもねえ」

 新人記者は目に涙をためて叫んだ。

「どうしてですか。家族とか、社会とか、愛する人とか、そういう人たちに対する想いとか、気持ちとかが『責任』ってものの根底にはあるんじゃないですか。頭でっかちなことばかり言って、結局それじゃあ、本末転倒じゃないですか! 『無責任』じゃないですか! それじゃあ、郷里を捨てて都会に出てきて、親兄弟のことも何もしない人たちと同じです! 田爪博士が言っていたことって、そういうことですよね。長官は、田爪博士の話を聞いて何も思わなかったんですか。そんな風だから、あなたみたいな人が国の中央や社会のトップにいるから……」

 首を傾げた津田幹雄は、彼女の発言を遮った。

「どうやら、随分と田爪博士の主張に傾倒されているようだが、大丈夫ですかな。彼は犯罪の容疑者なのかもしれない男ですよ。しかも、大量殺人の」

「それは、確かにそうですけど……」

 春木が視線を下げて口籠ると、津田幹雄はすかさず彼女に言った。

「感情論で事を決するべきだと言うのですか。責任論について、刑法や民法の教科書を読まれるべきですな。倫理学の本でもいい。公の場に意見を晒すご職業なら、もう少し見識を深められた方がよろしいかと思いますがね」

 会場内の記者たちは、その新人記者を冷ややかに笑う。

 春木陽香は必死に言い返した。

「主観的構成要件とか、要件事実論について言っているのではありません。生き方のことを言っているんです。国の事務処理の仕方の話ではありません!」

 津田幹雄は鼻で笑った。そして、床を指差しながら言う。

「私は国の行政官として、今、この場に立っているのですがね。それに、個人の生き方は自由でしょ。この国は自由主義国家だ」

 神作真哉が津田に激しく指摘した。

「同時に個人主義国家でもあるだろ。一人一人を大切にするのが、個人主義だろうが!」

 津田幹雄は片笑んだ顔を神作に向けると、深く頷いて見せて、落ち着いた声で言った。

「そのとおり。だから、そのために国を守る必要があるのでしょう。――ま、政治的な主義主張が自由であるのも、この国のモットーですから、あなた方のご主張は否定しませんがね。ですが、ここはそのような議論をする場ではない。またの機会にしましょう。とにかく、事態が事態ですので、私も急いで次の執務に掛からねばなりません。予定より時間が押している。申し訳ないが、これで失礼させてもらいます」

 再びカメラのフラッシュが連続して何度も津田を強く照らす。

 津田幹雄は手で光を避けながらそちらを向くと、もう一度深々と一礼した。顔を上げた彼は、姿勢を正したまま演壇から降り、記者たちに背を向けて、出口へと歩いていく。

 記者たちは慌てて椅子から腰を上げ、津田を追い掛けた。ドアを開け廊下へ出ようとする津田の背中に、記者たちから矢継ぎ早に質問が飛ぶ。

「長官、お待ちください。光線銃とワープを軍事利用するという話は、本当ですか」

「二〇二五年の核テロ爆発の爆心地で発見されたメッセージボードは、なぜ公開しないのですか。以前の発表のとおり、それには『敵どもよ。滅びるがいい』と刻まれているのですか。現物を見せてもらえませんか。それを永山記者のレポートと照合しないと……」

「政府としては、本当に、永山記者への責任追及はしないのですか。国家的財産を消してしまったのですよ。長官」

「転送された方々の名簿は公開されるのでしょうか。また、ご遺族への賠償金や渡航費の払い戻しの予定はないのでしょうか」

「タイムトラベルについて、来年度の小学校の社会科教科書から削除するそうですが、教師組合から抗議が……」

「庁内で賄賂を貰っていた職員がいるんじゃないですか。監督責任は感じませんか」

「南米戦争は、現地の天然資源の確保が目的だというのは本当でしょうか。長官」

「新ワープ事業立ち上げは、いつ頃になりますか。一回の渡航費は幾らになりますか」

「長官、待ってください。長官。――ちゃんと答えてください、長官」

 津田幹雄は黙って去った。後ろの壁際から競うように走って前に出るカメラマンたちに押し退けられて揉みくちゃにされながら、神作真哉が叫ぶ。

「待てよ、話は終わってねえぞ。おい、津田あ!」

 前のドアの付近に殺到した記者たちが互いに押し合い、怒号と罵声が飛び交った。

 後ろの出口のドアの隣では、最後まで食い下がった新人記者が立ったままだった。彼女は俯いたまま声を漏らす。

「違う……だって、だってそれじゃあ……だって……」

 隣の皺のジャケットの男が椅子から腰を上げながら彼女を一瞥し、しかめ面で言った。

「まだ続けんのかよ。ウゼえなあ。長官が行っちまうだろうが。何が言いたいのか、さっぱり分かんねえんだよ、おまえ」

 若い女は下を向いたまま黙っていた。この話の本質を理解できる人間と理解できない人間がいる。それは彼女にも分かっていた。それでも彼女はスカートの横で拳を握り締めた。上げた肩を震わせながら唇を強く噛む。悔しくて、悔しくて、悲しくて仕方なかった。涙が溢れた。零れないよう彼女は必死に堪えたが、それは頬を伝う。

 大きな雫が床に落ちた。


                                      了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドクターTの証明 インタビュー・ウィズ・T 淀川 大 @Hiroshi-Yodokawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ