第3話

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 永山哲也はそれまでの怒りを忘れ、呆然としていた。それは田爪の説明が、間接的にではあるが、たった今、自分の目の前で実証されたと錯覚したからだった。確かにあの機体は永山が取材資料の中で何度か見たことのあるものと同じ形状だった。永山自身は本物のタイムマシンそのものを自分の目で見たことは無い。タイムマシンの外観もそれに乗る「渡航者」の情報も司時空庁により極秘扱いで管理され、一切が公開されていないからだ。国民に唯一知らされているのは、海辺に建つ司時空庁のタイムマシン発射施設から毎月二十三日に単身搭乗型のタイムマシン一機が発射され、誰かが過去の世界に飛び去っているという事実のみである。当然、その発射施設は厳重に警備され、如何に記者が取材のためだと言っても中に入ることはできない。ただ、今年の春から新たに発射メニューに加わった「家族搭乗用」の複数搭乗型タイムマシンが司時空庁により特別に公開されたことがあり、永山哲也はその時に司時空庁から配布されたホログラフィー資料を目にしていた。その立体映像の資料は新型のタイムマシンの外観を再現したものであったが、重要な部分は全てマスキング処理がなされていて、どの角度から見ても見えないようになっていた。その継ぎはぎだらけのホログラフィー映像を、永山哲也は日本で何度も見て脳裏に焼きつけ、この南米に取材に来ていた。今、この地下空間の奥に停まっている機体は、そのホログラフィー映像の機体とよく似ている。いや、永山の通常の感覚では「同じ」である。日付も一致する。こちらでは二十二日だが、今、日本では二十三日の早朝だ。時間も、ここと日本との時差を計算すれば、日本で毎月一回だけ実施されているタイムマシン発射の時刻と一致する。家族搭乗用機の発射が早朝で、単身搭乗用機の発射が夕刻だ。だから永山哲也は、今もこの広大な地下室の奥で、乗せてきた搭乗員の衣類を足下に散乱させて、搭乗用のハッチを開け広げたままにしているその白い機体が、日本政府が製造したタイムマシンであるということに積極的な疑いを持たなかった。それで、彼は一旦そのことを前提にして、今、自分の目の前で、カフェテーブルに肘を乗せ、椅子の背もたれに背中を当てている『存在しないはずの男』が述べた、これまでの話を整理してみた。すると、一つの疑問に辿り着いた。それは彼がここへ連れてこられる前の最初の疑問と同じ疑問だった。永山哲也はその疑問を田爪にぶつけてみた。

「ということは、高橋博士も生きているのですか」

 田爪健三は、それまでの笑顔を消し、静かに首を横に振った。

「いや。彼は駄目だったようだ。彼のタイムマシンはプロトタイプそのもので、ただ時空間を移動することだけに集中して設計されていた。快適性や安全性は考慮されておらず、安全装置も脱出装置も付いていなかったし、コックピットはほとんど剥き出しの状態だった。出現してすぐに、そこの壁に衝突して大破したか、そうならなかったとしても……」

 田爪健三は一瞬言葉を飲み込むように沈黙し、小さく溜め息を吐いてから話を続けた。

「二〇二七年のこの地域は豪雨が長引いて、ここの貯水量は満タン状態だったらしい。だから、あの機体で水深三百メートルの位置に突然現われたのだとすると、おそらく、水圧で圧死してしまったのだろう。万に一つに脱出していたとしても、地上では戦闘が本格化し始めた頃だから、それに巻き込まれてお陀仏だったろうね。あるいは、質の悪い連中に捕まって殺されたか。何も武器を持っていなかった高橋君には、身を守る術が無かったはずだ。ただ、後者の事実については、私も私なりに調べてみたが、そのような話は無い。一方で、私がここに到達する半年ほど前に、ここの水の中から墜落したヘリコプターの残骸と思われる潰れた金属塊と、その間に挟まった男性の無惨な遺体が見つかったことがあるそうだ。残念だが、おそらく、それが……」

「ちょっと待ってください。高橋博士のマシンも、ここに来たのですか。すべて同じ場所に現われるのですか」

 永山哲也は慌てて口を挿んだ。

 田爪健三は鼻に皺を寄せて頷く。

「うーん。どうもそのようだ。少なくとも私が知っている限りでは、この場所にしか現われてはいない。それで、その原因について、ある一定の仮説は立ててあるのだが、何せ、ここでは確かめる術が無くてね。実験機材も環境も無い。だから、厳密に何が原因なのかということまでは、正確に解明した訳ではないのだが、んー、どうも根本的問題として、想定している使用エネルギー量が致命的に不足しているのではなかろうか。さっき述べた私たちの計算ミスのせいだよ。いやね、私なりに修正して、計算し直してみたのだがね。やはり、原理は間違えていないと思うのだよ。うん。ただ、そうなると、どうも放出エネルギーと反射比率の設定がね……」

 田爪健三は永山が彼の話を聞かずに高い天井や周囲の壁を見回しているのを見て、一旦話すのをやめた。

 永山哲也は後ろを向き、奥の「別の壁」に残っている無数の傷に目を凝らしていた。

 背中を見せている永山に田爪健三は再び話し始めた。

「ともかく、結論を言えば、今の設計では駄目なのだよ。質量計算の値が均衡値を下回ってしまう。MM係数が不揃いになってしまうし、そうなると、存在密度の値に対して位置エネルギーの値があまりにも低過ぎる。だから、実存境界を突破できない。要は、次元を覆っている『膜のようなもの』を突き破る力が不足しているのだ。だから、それに跳ね返されて、同じ時間の別の空間に着地してしまう。ま、一言で言えばバウンドして別の場所に落ちているだけだ。送り出す側は、もちろん乗っている人間もそうだが、『時間旅行』をしているつもりでも、実は、ただ『場所の移動』をしているだけ。つまり、いわゆる『ワープ』なのだよ、『ワープ』」

「ワープ?」

 永山哲也は振り返り、再度、田爪に問いかけた。

「じゃあ、これまで発射されたタイムマシンは、一機もタイムトラベルをしていないのですか。ただ瞬間移動して、この場所に出現していただけなのですか」

 頷いた田爪健三は緩めたネクタイの隙間に左手の指を入れ、喉もとのワイシャツの釦を一つだけ外してから、説明を続けた。

「しかも、発射ポイントが一箇所に限定されていて、同じ角度と同じ負荷で発射しているから、寸分違わず毎回ここに送られてくる。たぶん、そういうことだろう。だって、そうなのだろう? さっき、君が話してくれた司法なんとか……省」

「司時空庁」

 永山哲也は淡々と修正し、田爪に続きを話させた。

 田爪健三は軽く頷いて言う。

「うん。そこがタイムトラベル事業を一手に引き受けて、あの場所から、ちょこちょこ飛ばしているのだろ。私と高橋君がいなくなった後、誰かAT理論やタイムトラベル理論を本当に理解した人間がいるのかね。誰もいないのだろう。だとすると、私たちが作った機械も設備も理解できるはずが無い。使い方は分かってもね。どうせ私が管理局にいた頃の例の発射管をリフォームでもして、使い回しているだけに決まっている。そして、あの時、私や高橋君が出発したあの場所から、あの角度で、私が設計したタイムマシンをコピーした物を飛ばしている。猿真似だ。まあ、私も高橋君もいなければ、彼らにはその程度のことしかできないだろうよ。あいつらは、私が引いた設計図どおりに機体を作って、私の時と同じように発射することを繰り返しているだけ。そういう事なんだよ。だって、毎回、毎回、同じ角度で同じ速度で現われるからね。だから、私も同じように、毎回、毎回、同じ角度で銃を撃つ。この銃を」

 田爪健三は重そうな量子銃を少しだけ持ち上げて見せた。

 永山哲也は眉を強く寄せる。

 田爪健三は少し間を空けると、永山の顔を見据えながら言った。

「うーん。さあ。動揺しているな。驚愕している。そして、君は今、こう考えているに違いない。過去へタイムトラベルして『時間的移動をしていった』はずの人々は、実は、この場所に単に『場所的移動をしていた』だけだったというのか。いや、それだけでなく、皆、この男に『抹殺されていた』というのか。信じられない。もし、それが真実だとするならば、この男、田爪健三は、この十年間でいったい何人の命を奪ってきたのだろう、と」

 田爪健三は暫く永山の顔をじっと眺めていたが、やがて少しニヤリとした顔を作って言った。

「ううん、残念ながら真実なのだよ。では、その人数は何人か。犠牲者の数は」

 田爪健三は再度、今度は長めに間を空けると、わざと大げさな身振りを添えて言った。

「でもそれは、その『司時空庁』とやらに問い合わせてくれたまえ。十年もやっていると数えるのが億劫になってきてね。私にも正確な人数は分からないのだよ。ただ、送られてきた人間は全員もれなく殺しているよ。確実に。だって、逃げ場が無いからねえ、ここには」

「神様……」

 永山哲也は天を仰ぎ見た。しかし、そこには頑丈そうなコンクリートの天井しかない。微かに光る照明も暗かった。

 田爪健三は、奥に停まっている白いマシンに一度だけ顔を向けてから、それまでよりも少し高めの声で説明を続けた。

「それに、ここに送られてきた人を処刑するのは、実に簡単だ。まず、政府の連中は月に一度だけ転送を実施する。毎月二十三日の夜明け前だ。日本では約十二時間先だから、二十三日の夕刻かな。毎回、遅刻することなく遣って来る。まあ、ここ何回かは、さっきのマシンのように前日に割り込んで来る機体もあったが、いつもの定刻便は、あと数時間後に現われるはずだ。予定時刻通り、ピッタリとね。さっきの四人乗りの機体もそうだか、送られてくるタイムマシンが出現する方向も角度も分かっている。ということは、壁沿いに走ってどこに停止するかも分かっているし、停止した機体の乗降ハッチの位置も、そのハッチが開く方向も、タイミングも、そこからどの角度で、どのタイミングで乗組員が出てくるのかも分かっている。なぜなら、毎回、毎回、毎回、毎回、同じだから。この十年、設計も形状も全く変わっていない。ただ、毎回、乗って来る人間がそれぞれ違うだけ。まったく、司時空庁とやらは何をしているのかね。とにかく、そういう訳だから、目を瞑っていても殺せるよ。さっき君も見たとおり、出現する時に結構強い閃光を放つから、眩しくて目を瞑ってしまうこともあるが、でも、無いね。一度も狙いを外したことが無い。正に一撃必殺というやつだよ。ああ、そうか、ここ数回到着している、この四人乗りの改造機を造ってはいるのだな。まあ、アレだな、彼らも努力はしているようだ、それは認めよう。だが、十年でようやく数人乗りにできる程度じゃなあ。機体は一回り大きくなってはいるが、あれじゃ、まるで拡大コピーだ。構造について基本的な理解ができていないのだろう。中に少しだけ広がったスペースに無理やり座席を増やすことしかできていない。あんな狭いスペースに四人も。詰め込まれた人間は、たまったものじゃないよ。補助出力は相応に上げてあるようだか、まあ、駄目だね。全然なっていない。ほら、あの通りだ。一回の転送だけでエンジンはパーだ。情けない。ハッチの位置と開閉角度も、まったく同じ。だから結局、迎えて撃つ側としては、ポン、ポン、ポン、ポンで楽勝なのさ。さあ、団体客の皆様、処刑場へようこそってね」

 田爪健三は重い銃を持ったまま、大げさに両手を広げてみせた。そして、その不恰好な大型の光線銃を両手で持ち直すと、肩の上まで軽く持ち上げて見せ、それから横向きに持ち直して、その銃の各部位を指差しながら、説明を始めた。

「それから、この銃だ。これはAT理論を一部に応用した物でね。ここの部分が循環型の永久電池で、ここから、ここに電力を送る。ここが小型の粒子タービンで、これが調整装置。メイド・イン・ジャパンらしい。よくできている。それで、ここの所の偏光角に応じて……。そして、これ。これが量子エネルギーの小型蓄積器。つまり、『エネルギー・パック』だ。どうだね、たいした代物だろう。元々付いていた物を私が改良して、量子エネルギーの追加補充と蓄積が可能な物にした。そう、ハイスペック版に改良したのだよ。で、やって来るタイムマシンに残った量子エネルギーを少しずつ回収して、ここに貯めている。こいつは貴重でね。毎回、回収には苦労するよ。このエネルギーがマシンの移動原理の要になるエネルギーなのだが、毎回、やって来たタイムマシンは、ほとんど使い終わっているからね。だから、マシンのエンジン部分に残った微量の量子エネルギーを、ま、正確には、『エネルギーを帯びた粒子を』だが、それを必死の思いで集めるのだよ。ほんの少しずつね。少しずつ。まあ、方法はいろいろだが、この状況で集めることができるのは、世界でも私だけだろうね。ともかく、集めたこいつを、また、ほんの少しだけ使うと、さっき見たように人間一人を消滅させることができる。ということは、この銃を撃つと、その度に少しずつ減っていく。だから、やって来たマシンから、また残留している量子エネルギーをいただく必要がある。送られてきたマシンにほんの少しだけ残ったエネルギーを集めて、その、ほんの少しだけの粒子を、ここから入れて貯める。こっそりと、密かに、少しだけ。またタイムマシンが日本から送られて来れば、銃を撃って搭乗者を消し、ほんの少しだけ使う。そしてまた、そのマシンからエネルギーを奪って、この銃に溜める。次の便が来れば、それをまた少し使う。その差として、ちょっとだけ残ったものを貯蓄していく。その成果がこれなのだよ。どうだね、この七色の輝きが美しいだろう。ようやく満タンに成りそうなんだ。お蔭様でね。十年も掛かった。文字通り、血と汗と涙の結晶だよ。ようやくここまで貯まった。ようやく……」

 田爪健三は長年の苦労を思い出したのか、目に薄っすらと涙を浮かべていた。感慨深い様子で深く瞬きをした彼は、鼻を啜り、大声で無理に話を続けた。

「ああ、そうそう。ここだけの話だが、実は、永久電池も、この蓄積型エネルギー・パックも、ゲリラ兵たちに作ってやった量産型の量子銃には付いていない。この私の銃だけに付けた。ま、保険と理解してもらっていいだろう。つまり、私の銃と違い、やつらの銃には使用時間と回数に物理的限界がある。電池は最長で七十二時間しかもたないし、射撃回数は、せいぜい五、六回が限度というところだ。まあ、実際は丸一日程度しか使えまい。だから、ゲリラの連中は戦闘で本当に必要な時にしか引き金を引かない。そして、あいつらが銃を使い続けるためには、やってきたタイムマシンから超圧縮電気を抜きとって自分たちの銃に充電する必要があるし、量子エネルギーも少しだけ補充する必要がある。その高度で複雑な作業ができるのは、世界でも私だけだ。すると、彼らには私が必要だということになる。もし私が死ねば、彼らゲリラ軍の武器はいずれ使えなくなるし、そうすれば、他の武器があると言っても、ゲリラ軍側の戦力は格段に低下するから、この戦争に敗北するだろう。だから、私が密かに量子エネルギーをくすねて、この銃に蓄積しているという事実に、たとえ彼らが気付いたとしても、決して私を殺せない。私が必要だから」

 田爪健三はカフェテーブルの上の砂時計を左のポケットに仕舞うと、椅子から立ちあがり、永山の方に歩き始めた。歩きながら、銃口を永山の方に向け、彼の肩の高さまで少し持ち上げる。彼は永山の前で立ち止まった。

「さて、難解な解説は割愛するとして、要はこういうことなんだ。ここから放射された光線に当たった生体部分と、そこから連結された細胞は、瞬時に元素化されて塵となる。つまり、体の一部に照射すれば、その肉体は肉も骨も血も、全てが塵となるのだよ。ここのツマミを回して出力をほんの少し上げれば、まあ、普通の人間なら髪の毛一本どころか涙一滴も残らんね。それで後は、そいつらが着ていた物や身に着けていた装飾品、ああ、ブランド物の時計やらダイヤのネックレスやら……入れていた金歯なんかが残るだけ。まあ、さっき君が目撃した通りだ。あんな風に。一瞬で」

 田爪健三は永山の前で、向こうにある白い機体に向けて銃を構えて見せた。そして、再び永山の方を向いたが、今度は銃口を向けなかった。彼はそのまま話し続ける。

「で、その場に散らばっている金目の物、使えそうな物なんかを集め、ゲリラの兵隊さんたちに渡せば、私は食事などの諸々の面倒を見てもらえる。残ったタイムマシンは解体して、その部品などで彼らの武器を作ったり、彼らの戦車を修理したり、性能を上げてやったりして、彼らの戦力の増強と拡大に多大に貢献しているという訳だ。どうだ、これこそ究極のリサイクルというやつだと思わないかね」

 永山哲也は、田爪との物理的な距離が縮まった一瞬、彼の銃を奪おうとして、その銃身を支えていた彼の左手に掴みかかった。しかし、田爪健三は素早くそれをかわして、三歩ほど後ろへ退く。彼は再び銃口を永山に向けた。

「おっと。それは賢くないですよ。はい、おとなしくして下さい」

 そう冷たい口調で言った後、田爪健三は諭すように、ゆっくり丁寧に語りかけた。

「確かに、こちらには銃がある。それも世界最高の銃がね。君の手許には無い。だから、欲しいのは分かる。しかし、力尽くというのはどうだろうか。それに、この銃の『エネルギー・パック』は非常にデリケートでね。まあ、元の代物がそもそも粗悪品ではあったのだが、AT理論の理解が不十分な人間が設計するとこうなるのだよ。いかに私が改良したと言っても、十分な機材も無い中で作業するしかなかったからね。こいつが不安定なのは、私の力量の問題ではないと理解してくれたまえ。そういう訳で、このエネルギー・パックは壊れやすく、おまけに中身も物質的に不安定なのだ。そこで、もし、君が私から無理矢理これを奪おうとして、その何らかの衝撃で、この小さな箱の中心の、この丸いガラスの球体の中で、予想しない量子反応が起これば、どうなると思う」

 田爪健三は握り締めた左手を一気に開いてみせた。

「ドカン。量子反転爆発さ。私の計算ではね、ああ、臨界に達した時の初期エネルギー量を最小にして算出してみたのだが、つまり、最低レベルで見積もっても、旧式原爆に匹敵する程度の爆発にはなる。だとすると、私の計算が正しいということを、今この場所で実演によって証明するのは、君にも私にも危険過ぎるとは思わないかね」

 田爪健三は冷たい目で撫で斬るように永山をにらみ付けた。



                  19

 白いタイルの壁に囲まれた部屋の中で、濃紺の制服姿の若い女性が手を合わせて俯いている。顔に白いマスクをした彼女の前には、人の身長よりも少し長い、直方体の金属製の箱がストレッチャーに載せられて置かれていた。その蓋が自動で閉まる。その隣にもストレッチャーに載せられた同じ金属性の箱が置かれていた。蓋は開いていて、中の物の上には白い布が掛けられている。

 顔にマスクをした白衣姿の女がその白布を捲った。

 制服姿の若い女性は顔を横に向ける。彼女の隣に立っていたガンクラブチェックの上着を着た初老の男は、マスクをした顔を前に出し、小皺の走った目元と眉間に深い皺を寄せて、鷹のような鋭い目で箱の中を覗いた。

 男は箱の中の遺体を暫らく観察した後、顔を上げ、白衣姿の女に尋ねた。

「高橋か」

「ええ。高橋諒一博士」

 白衣姿の女がそう答えると、ガンクラブチェックの上着の男は、更に確認した。

「間違いないのか」

 白衣姿の女は肩幅に脚を開いて立ったまま、男を軽く指差して答えた。

「おたくの方の科捜研の鑑定でも、ウチの鑑定でも、この遺体から採取した細胞のDNA配列は、司時空庁に保管されていた十一年前の高橋諒一博士のDNAサンプルのそれと完全に一致したわ。この遺体が高橋博士本人のものであることは、間違い無いわね」

 男は眉間に縦皺を刻んだまま、もう一度、箱の中を覗き見た。彼はマスクの中で小さく呟く。

「これが……」

 男の隣の制服姿の女は、マスクの上から口を手で覆い、漂う悪臭に目を細めていた。彼女は上着のポケットから取り出した花柄のハンカチで溢れ出る涙を拭う。それは悲哀の涙ではない。漂う薬剤の臭いに彼女の鼻と目が耐えられなかったのだ。彼女はその場から少し離れると、顔の前で何度もハンカチを振って周囲の臭気を払った。

 彼女は暫らく、そのガンクラブチェックの上着の男と白衣姿の女の会話が終わるのを横で待っていたが、ついに臭いに耐え切れず、大きく咳込んだ。

 白衣姿の女はその制服姿の女に目を向けると、透明のゴム手袋をはずした。金属製の棺桶の中に白布を被せ、箱の側面のボタンを押す。蓋が自動で閉じると、箱に防腐剤を充填する音が響いた。白衣の女はマスクを外しながら言った。

「部屋を移りましょう……」

 三人は、その白一色の部屋から出て行った。電気が消される。

 並べられた二つの金属製の大きな箱は、暗い部屋の中で壁の機械のランプの光を冷たく反射させていた。



                  20

 田爪健三の右手に握られている銃は随分と不恰好だった。

 永山哲也がこの広大な部屋に連れてこられた時、目の前の初老の男が小脇に抱えていた銃が真っ先に視界に飛び込んできた。それで、彼は次のように観察した。

 まず、その銃全体の重心が通常の銃よりも随分と前方にあるようだった。台形の箱から突き出した太く短い円筒状の銃身の先には何かの発射部分と思われる奇妙な形の「銃口」があり、一方で、その台形の箱の部分からグリップにかけては綺麗に成形された無機質なフレームが延びている。フレームの先には重そうな四角い箱が付いていて、おそらく構える時にその部分を脇の下に挟むのだろう。その四角い箱とフレームの角からグリップ部分と思われる突起が出ていて、その隅に通常の銃のように引き金が付いている。これらの部分はすべて黒色で、同じ素材であるようだから、おそらくここまでが当初の設計なのであろう。というのは、その他の、この銃を明らかに不恰好な物にしている犯人どもは、どれも一目で各々の材質が異なることが分かるし、何よりそれらから飛び出した無数のコードやチューブが、個性的な各部位と部位を不自然に無理矢理に繋いでいるから、それらが後付けされた物であると推認せざるを得ないからだ。どう見ても改造された代物であることは明らかだった。そして、永山が戦地で得た情報が正しければ、眼前の初老の男は世界最高の科学者であるはずだから、この人知を超えたかのような改造を実施したのは彼に違いない。観察すれば観察するほどに奇異で謎めいて感じられる各部位の外観が、その予測を確信へと近づける。例えば、台形部分の下に細長く突き出した箱状の物。通常の自動小銃やレールガンであれば、補助グリップを兼ねた弾倉であろうが、これのそれは、前の方から無数のケーブルが台形部分の側面に伝っていて、とても握れる状態ではない。それに、フレームの上で後方に向けて斜めに立っている何本もの煙突のような物。その一本一本の側面から等間隔で送り出されている何十本もの細いチューブが、台形部分とフレームの接合部付近に填め込まれた弁当箱のような部分の側面の一箇所に綺麗に整列して繋がれている。この奇妙な弁当箱の中心にはガラス状の球体が一つだけ埋め込まれていて、その中では何か七色に光る物が規則正しいリズムで蠢いては、時折、薄緑色に強く光る。その他に永山が特に気が付いたことと言えば、その銃のあちこちに不規則に取り付けられた電子基盤がほとんど剥き出しになっていることや、やはり無理矢理に取り付けたような肩掛け用のベルトが擦れていて、切れかけていることくらいだった。

 永山哲也は今、この部屋に入ってきた時に自分がした、このような観察と推測を思い出しながら、改めて田爪が抱えるその量子銃を観察していた。すると、その永山の様子を見て、田爪健三が再び滔滔とうとうと語り始めた。

「そこで君は、永山哲也くんは、こう考える。この男の言っていることは本当か。日本からタイムマシンが送られてくるという話も、その後にこの男がしてきたということも。でも、さっき実際に自分の目で見たことだから、これらの話は真実だろう。しかし、確信はしない。『真実』に『だろう』を付ける。それが君だ。私が田爪健三本人かどうかについても、確信はしない。信じたふりをしているだけだ。生体認証までしても信じない。なぜなら、バイオチップの偽造の可能性を否定しないからだ。だから君は自分の目で見た出来事であっても、ただそれだけでは真実と認定しない。まして、目で見た訳でもない事実、関係当事者が一方的に語る事実は、君のようなタイプの男にとっては、ただの仮定でしかない。田爪健三という男が語っていた情報の一つに過ぎない。だから、私がどれだけ、この銃の危険性を説明したところで、君はその情報を決して『真実』というセルには入れない。そして君は、優れた記憶力も持っている。君は思い出す。必死で思い出す。ここに連れてこられるまでに見た光景を。頭の中にある無意識の残像を。彼らが持っていた銃と、この銃の違いを知るためだ。そして気付く。私の銃に付いている物が彼らの銃には付いていないことを。しかし、君が認めるのは、そこまでだ。あくまで目の前のこの銃には、ゲリラ兵たちの銃に無い『何か』が付属しているという事実までしか認定しない。その中身が本当に小型の核爆弾に匹敵するほど危険な代物であるのか、君の中では全く別の問題なのだろう。だが、今の君には、それを確かめる術は無い。そこで君は、とりあえず私の言うとおりに、この銃が爆発の危険があるものだと仮定してみようとする。物事は常に一番悪い結果に繋がる選択肢に対して最善の対処法をとれば、良い結果に繋がるということを君は知っている。すると君は、また一つの問題に直面する。このことを机の上で一人悩んでいるのなら、それでいい。合皮で覆われた背当てにもたれ掛かり、組んだ足の上に置いた原稿と机の上の資料の間で視線を動かし、頭を掻きながら眉間に皺を寄せているだけならそれでいい。結果は、せいぜい、裏取り調査のために原稿の提出が遅れることを君の上司が激怒するか、一か八かで適当な記事を提出して信用を失うか、まあ、最悪でも上司からカミナリを食らい、会社をクビになって奥さんと娘さんに出て行かれるくらいのものだ。おっと失礼、最後のは少し酷過ぎるな。しかし、君は分かっている。この『現状』が。地下三百メートルの空間で、出口は後ろに一つだけ。その狭いドアの外には武装した兵士が二人。ああ、心配は要らない。そこのドアは外からは開けられないから。鍵も私しか持っていないので、他の誰かがここに入ってくることは無い。いや、君にとってはマイナスの情報かな。まあいい。とにかく君は、今、この、実に閉鎖的な空間で、怪光線を発射する武器を持った男と対峙している。『社内表彰か上司のカミナリか』ではない。『社内表彰か田爪のカミナリか』だ。しかも、こっちのカミナリは本物だ。それ以上だ。そして、君の意識は次の階層へと向かう。この目の前の、実年齢よりも十は老いて見える男に強烈なカミナリを食らうとしたら、それは何か。肢は二つ。一、私にこの銃で消される。二、この銃を私と奪い合って、私と共にこの施設ごと吹き飛ぶ。ここで普通の男なら、一と二のどちらにせよ死ぬのだから同じだと考える。しかし、君は違う。この施設が崩壊すれば、今日、あと数時間後に送られてくる定期便のタイムマシンはどうなるか。地下三百メートルの土と瓦礫の中に、忽然と出現することになるのだ。当然、現れたマシンは身動きが取れないし、乗降ハッチも開けられない。もしかしたら、出現した瞬間に、コックピットからエンジンルーム、搭乗者の鼻の穴、耳の穴、口の中、胃、腸、間接の骨と骨の間、その他、ありとあらゆる『隙間』の空間に土と瓦礫がそのまま存在しているかもしれない。これは考えただけで残酷だね。想像してみたまえ、一瞬で、自分が生きたまま土袋にされる様を。だが、さらに残酷なのは、その次に来るタイムマシンだ。前のタイムマシンが存在するその場所に、その空間に、寸分違わずに現われる訳だ。酷過ぎる。ああ、考えただけで吐き気がする。だから、このエネルギー・パックの爆発は絶対に避けなければならない。ならば、選ぶのは選択肢一、私に銃で撃たれて、消える」

 田爪健三は、今度はしっかりと永山の顔に照準を合わせて、その銃を構えた。

 永山哲也は黙って田爪の目をにらんだまま動かない。

 田爪健三は頬を下げた。

「ううむ、恐怖の素振りも見せないか。やはりな。私が見込んだだけはある。だから、ここまで話をするのだが……。まあ、いい。その度胸、気に入ったぞ」

 田爪健三は銃口を下げた。彼は続ける。

「そうだ。君は、永山哲也は、決して諦めない。諦める男ではない。無駄死にを急ぐ男でもなさそうだ。そこでまた、こう考える。この男の隙をついて、銃に衝撃を与えないようにしながら、速やかに銃を奪えないものか。早くこの男を止めなければ、あと数時間後には定期便のタイムマシンがやって来る。その搭乗者を助けなければ。なんとかして安全にこの銃を奪って、この男に正義の鉄槌を食らわしてやる、とね」

 永山哲也は相槌を打つことも無く、黙って田爪の顔をにらみ付けていた。

 田爪健三は溜め息を吐くと、舌を鳴らしながら顔を左右に振り、言った。

「違うな。頭の切れる君らしくもない。第一、私を殺したとして、君、どうやってここから生きて帰るつもりだね。帰れないだろ。無理だろ。ここの秘密を知った以上、そこの狭いドアを出た瞬間に、君はゲリラ兵たちに殺されるよ。特に今は、ここのゲリラ軍の兵士たちは君の国も参加している協働部隊と戦闘中だからね。日本人である君がここから出て行けば、まず助からないね。確実に殺される。ところが、私が保証人欄に署名したこの文書、この『帰国保証書』があれば別だ。これさえあれば、VIP待遇で安全に、この地域を出られるはずだ。請け負うよ」

 田爪健三はスーツから取り出した文書を開いて永山に見せると、それを左手だけで器用に折りたたみ、右の胸ポケットに戻した。彼はその最中も、右手で持ち上げた量子銃の銃口を永山に向けていた。左手を銃に戻した田爪健三は永山に強い口調で言った。

「それにだ、その賢い頭で、よーく、よーく考えてみたまえ。そもそも、正義の鉄槌を振るっているのは、私の方なのだよ」

 永山哲也は、田爪のあまりにも傲慢な言いように腹を立て、それまでよりも激しく彼の顔をにらみ付けた。

 田爪健三は、その永山の睚眥がいさいを逆に観察して言う。

「ほう。いい目だ。それでいい。ここに連れてこられた時、そこのドアから入ってきた時に、君が最初に見せた目だ。乱暴に扱われたことに憤慨しながらも、用心深く、慎重に、瞬時に、正確に、『今』目の前にある事実を見つめ、分析し、そこから『過去』を、『真実』を見つけようとしている人間の目だ。記者の目だ。いいぞ。実にいい」

 田爪健三は銃を抱え直して、続けた。

「よし。その君の目と勇気に敬意を表して、もう少し私の正当性を論じてあげよう。そのレコーダーは、まだ録れているのだろう」

 永山哲也は右手に握った薄いICレコーダーの表面に浮かぶホログラフィー画面に目を向け、電池の残量とレコード容量の空きが十分であることを確認して、首を縦に振った。

 田爪健三は満足気な笑みを浮かべる。

「よかろう。仮に君が消えても、そのレコーダーは残るから、心配は無用だ。その時は、そのレコーダーは、ちゃんと日本まで送ってあげよう。大丈夫。国際郵便を使うよ。安心で安全、安くて速い国際郵便で、君の新聞社にね。ご家族に遺言でもあれば、それも同封してあげよう。今君が身に着けているもの一式も、遺品として届けてあげよう」

 田爪健三は、片笑みながら左手で永山を指差した。そのまま、その手を広げる。

「だが、そうなることは無い。私の話を最後まで聞いてくれればね。それが、君がこの部屋から生きて出るための条件だ。いいかね」

 田爪健三は、ゆっくりと古びたパイプ椅子の方へ歩き始めた。

「まずは、おさらいだ。今、目の前にいる男が究極のリサイクルの王様だということは分かったね。その仕組みも分かっただろう。南米連邦政府も環太平洋連合各国の政府も、なぜゲリラ軍の兵器が高性能なのか、一体どこの国の支援で科学武装しているのか、必死に探っているに違いない。しかし、そのカラクリを知れば、各国はどのような反応を示すだろうね。実は、技術と部品を供給し続けていたのは、他でもない、君の本国なのだから。協働部隊は仲間内から敵に最新技術を提供されて、苦戦を強いられている訳だ。笑えないね。ほら、また聞こえてきた。発射音、爆音、悲鳴。発射音、爆音、悲鳴」

 田爪健三は歩きながら、さっきと同じように、左手で楽団に指揮棒を振る真似をした。

 永山哲也はその一瞬の隙を逃さなかった。彼は再び部屋の奥のタイムマシンの方へ走った。もしかしたら誰か他に生存者が隠れているかもしれないし、あるいは何か武器のような物が積み込まれているかもしれないからだ。機体の中を確認しようと彼は走った。しかし、それは当然に不可能だった。

 田爪健三は永山の方に向けて銃を構え、引き金を引く。高音と共に銃口から放たれた光線は一直線に延び、走る永山の横を抜けて、その先の床を照らした。

 緑色の光線を視界に捉えた永山哲也は、両手を上げて急停止する。光線に照射された床は何ら変化していない。しかし、つい先程、目の前でこの怪光線の威力を見たばかりの彼は、そのまま降参した。

 引き金から指を放した田爪健三は、永山に銃口を向け、勝ち誇ったように言う。

「はーい、はい、はい、はい。動かない。動かないよ。粉々になりたいかね」

 永山哲也は両手を上げたまま黙って振り向き、田爪をにらみ付けた。

 田爪健三は言う。

「あのタイムマシンの中に他の人間が乗っていないか、何か武器でも積まれていないか、確かめたいのかね。だが、無駄だ。それは無い。あの機体の大きさでは、四人までが限界だろう。作った奴らの能力の限界だ。それに、この十年で武器を積んできた人間は一人もいない。諦めたまえ。君が考えていることは実現できん。今の君には無理だ」

 田爪健三は永山に向けて量子銃を構えたまま、彼の目を見据えて片笑んだ。

「私の測定精度は高い。私は君を理解している。だが、君は私を理解できん。だから、こうして話をするのだよ。不確定性原理だよ。私の測定精度が高まるほどに、君は私という人物を理解することができなくなる。私は君が何者で、何をしにここに来て、そして何処へ去って行くのかも知っているし、予測もしている。これから君が何をするのかも全て。だから逆に君は今、自分の中の確定値を喪失している。どうすればいいか判然としない。当然だ。自分がどのような選択をしたとしても、それは私の予測したものだから。それならば、あえて『選択』という難儀な行動をとらなくてもいい。なるようになれ。運を天に任せよう。そう考えなかったかね。だか、それは間違いだ。今、君は自分を見失っている。原理どおりにね。私の測定精度に反比例しているのだよ。人間の相互理解とは恐ろしいものだ。このような事態を引き起こす。だから、相互理解など必要ない。他人を理解することも、他人に理解されることも。必要なのは自分の選択なのだ。自分が何をするべきか。どう選択するべきか。好き放題にすれば良いという訳ではない。『自由』とは相対的な概念で、本来的に人類が取得しているものではないはずだ。だが一方で、人は常に『義務』と『責任』を有している。それは定理だ。ならば、それに従って選択すればよいのだよ。さあ、選択をするのは君だ。君の運命を決定するのは君でしかない。他の誰かや、別の時間軸上の概念上の君でもない。いかなる偽の君でもない。今ここに居る君だ。選択と放棄、この繰り返しが時間の本質であると言ったろう。時間は過ぎていくぞ。さあ、どうするね。君は何を選び、何を捨てるのかね」

 永山哲也のこめかみから汗が垂れた。彼は田爪の目を見ていた。田爪健三の目は狂気に満ちたものでも、怒りや恨みに満ちたものでもなかった。異常な程に冷静で静かな眼差しだった。永山哲也は彼のその目に恐怖した。そして理解した。この男、田爪健三は、この十年間、機械的に、事務的に、何らの感情も抱くことなく他人を消し去ってきている。

 固まっている永山に、田爪健三は叫んだ。

「こっちへ来たまえ。永山君!」

 永山に向けられた銃の奥には、田爪健三の冷酷な目が光っていた。



                  21

 眩い閃光が連続する。朝陽も強い。

 高い塀を左右に広げたゲートの前には多くの報道記者たちが詰め寄せていた。真っ黒に汚れたワイシャツを着た長身の中年男がフラッシュの光を手で遮りながらゲートから出てくる。その前では、制服姿や背広姿の警官たちが記者たちを退かしていた。

取材陣の向こうには紺色のバンが停車している。

 記者たちを押し退けて進む警官たちの後を歩きながら、その長身の中年男は周囲からの閃光に顔をしかめて呟く。

「やれやれ。随分と大袈裟なこったな」

 横を歩いていた胡麻塩頭の初老の記者も、眩しそうに目を覆いながら言った。

「予定より多く集まったみたいだな。『ドクターT』の救出にも取材にも失敗して、逆にこっちが救出されたとなれば、こりゃ、元カミさんに頭が上がらんな」

 初老の男は長身の中年男の高い位置の肩を叩いた。長身の中年男は鼻に皺を寄せて舌打ちする。

 二人の後ろを歩いていた小柄な中年男が、紺色のバンの向こうに立ち並ぶ白黒の大きな影を指差して言った。

「あれを見ろ。警察のハイパーSATサットだ。機関銃まで持っているぞ。どうやら本気で中に乗り込む気だったみたいだな」

 立ち止まった長身の男は、少し背伸びをしてバンの向こう側を眺めた。

「あれが副外骨格機動隊員かあ。ロボットみたいだなあ。本当に人が入ってるのかよ」

 横で立ち止まった初老の男は胡麻塩頭を撫でながら小声で言った。

「ドンパチにならなくて良かったよ。しかし、事が大きくなり過ぎたな。どうする」

 後ろで立ち止まっていた小柄な中年男が深く溜め息を漏らす。

「予想外の事ばかり起きたからな。不味いかもな。取材のためとは言え、俺たちは国の施設である『タイムマシン発射施設』に無許可で入ったんだ。今後いろいろと……うわっ」

 フードで顔を隠した赤いパーカー姿の女が小柄な中年男の背中を押して前を覗いた。

「キャップ、そんなことはどうでもいいですから、早く行ってくださいよ。顔を撮られたら恥ずかしいじゃないですか。メイクが落ちてるんですから」

「ああ。わかった、わかった」

 振り向いて答えた長身の中年男は、胡麻塩頭の初老の男と一度顔を見合わせると、再び一緒に歩き始めた。その後を小柄な中年男が不機嫌そうに歩いていく。赤いパーカー姿の女は前の男の小さな背中に隠れながら下を向いて歩いた。少し間を空けて、モンペを穿いて頭に防空頭巾を被った小柄な女がついてくる。その若い新人記者は下を向き、トボトボとした足取りで進みながら、刺子折の半纏はんてんの袖でしきりに顔を拭っていた。

 五人の記者たちを背広姿の刑事たちが囲み、制服姿の警官たちが並んで作った壁の間を誘導していく。

 五人がバンの前に辿り着くと、側面のドアが横にスライドして開いた。中に座っているスーツ姿の赤毛の女が、こもった低い声で言う。

「早く乗って下さい。車はすぐに出ます」

 長身の中年男と胡麻塩頭の初老の男が車の中に乗り込んでいく。続いて乗ろうとした小柄な中年男は、車内に足を掛けて立ち止まった。中の赤毛の女に何か言おうとした彼の背中を赤いパーカー姿の女が強く押して言う。

「デスク、ほら、早く行って下さい。奥、奥」

「押すなっての。俺は上司だろうが……」

 小柄な中年男は文句を言いながら車に乗り込んだ。赤いパーカー姿の女も続いて乗り込む。防空頭巾にモンペ姿の新人記者は、車の前で立ち止まり、振り向いた。高い塀の向こうには大きなビルが何棟も建ち並んでいる。正面に建つ頑丈そうなビルの上の階の窓に、こちらを向いて立つスーツ姿の男の人影が小さく見えていた。その割れた顎の男は振り返り、横に居た白いドレス姿の女性を連れて奥へと消えていった。

 モンペ姿の若い女は口を縛り、充血した目で、その窓を強くにらみ付けている。すると車内から、彼女の半纏の襟を赤いパーカーの女が掴んだ。

「早く乗んなさいよ。警察の方も、すぐに出すって言ったでしょ」

 彼女に引き入れられて、モンペ姿の若い女がバンの中に乗り込むと、ドアはすぐに閉められた。

 そのバンは、軽機関砲を搭載した武装パトカーと共に走り出す。

 車の中で、赤毛の女は自分たちが警察であることを明らかにしただけで、どこの部署の何者かは名乗らなかった。ただ、記者たちを会社のビルまで送ると言う。記者たちが怪訝な顔をすると、赤毛の女は機械のように抑揚のない口調で言った。

「今日、あのタイムマシン発射施設の中には、不法に侵入した者は居なかった。それが捜査の結果です。我々の捜査を取材に来た記者の一部が誤って中に入り、道に迷ったようですが、捜査の途中、我々は偶然にもその記者たちに出合ったので、保護した。車で来ていないようですので、勤務先の会社まで送り届けた。報告書には、そう記載されます。司時空庁とも、そう確認が取れていますので。あなた方にも、一応、お伝えしておきます」

 それは明らかに用意された筋書きだった。真実とは全く違う。それが権力者同士の政治的な妥協の産物であることは、記者たちにもすぐに理解できた。

 長身の中年男が悔しそうに言う。

「くそ。津田の奴か。あいつが手を回したんだな」

 赤毛の女は首を横に振り、静かに答えた。

「いいえ。とある民間企業からの通報です」

 小柄な中年男が驚いた顔をした。

「民間企業? ウチの会社か」

「警察をウチの会社が動かせるかよ。決まってるだろ、あそこだよ」

 長身の中年男がそう言うと、少し考えた小柄な中年男は、赤毛の女の方を向いた。彼がその通報者名を言おうとしたので、長身の中年男が咄嗟に彼の口を手で塞いだ。呆れ顔をしている赤いパーカーの女の隣で赤毛の女は険しい顔をして言う。

「通報者の氏名は、一切公開できません」

 防空頭巾を被った若い女が何かを尋ねた。その新人記者を一瞥して、赤毛の女は淡々と答える。

「この件に関する通報は一件のみです。他は何もありません。モンペに半纏姿の記者の氏名も、我々は一切把握していません」

「まだ中に居るんだぞ。警察は知らんふりか!」

 長身の中年男が声を荒げたが、赤毛の女は動じること無く、イヤホンマイクに手を添えて通信し、現況を確認した。一瞬眉間に皺を寄せた彼女は、沈んだ声で結果を伝えた。

「残念ですが、たった今、実験は終了したようです。警戒態勢が解除されました」

「くそっ!」

 長身の中年男が強く壁を叩く。

 新人記者の若い女は泣き出した。

 記者たちは赤毛の女を責める。だが、それは殆ど八つ当たりに近かった。どの記者たちも皆、自分自身に怒っていた。

 赤毛の女は、俯いて泣いている防空頭巾の若い女を覗いて言った。

「ある方から、あなたに幾つか伝言を頼まれました。もし、事に失敗したら、あなたに伝えるようにと。ですから、お伝えします。――まず、あなたに責任はない、だから、決して悔やんではいけない、と。それから……」

 若い女は泣くのをやめて、顔を上げた。

 赤毛の女は真剣な顔で、その若い女に伝言を続ける。

「雉を(きじ)討ちたければ、鳴かせればいい――だそうです。新聞記者である他の方にも、そう伝えるようにと」

 記者たちは怪訝な表情で顔を見合わせた。一人、新人記者の若い女だけは下を向き、モンペの布を強く握り締めていた。

その紺色のバンは、前後を護衛する軽武装パトカーと共に市街地へと走っていった。



                  22

 永山哲也は両手を上げ、入ってきたドアの方角にゆっくりと歩いていた。その視線は田爪の顔を厳しく捉えている。

 田爪健三は永山に量子銃を向けたまま、少しだけ顎を上げて言った。

「そうだ。それでいい。素直なことは良いことだ。君にとってね。それは人間が成長し、成功するための秘訣の一つだからね。だが、急いでくれたまえ。モタモタしていると、次のタイムマシンがやってくるぞ。その前に、あの割り込んできたタイムマシンを退かしておく必要があるんだ。これが結構大変な作業でね。時間もかかる。しかも更にその前に、さっき言った『私の作業』をしなければならん。君と不必要に話している時間は無いのだよ。私の計算どおり、予定どおりに進めてもらわねば困る。そうだ。こっちだ。最初に自分が立たされていた場所に来ればいい。急ぎたまえ。――そうだ。そこだ。その黄色い線の向こう。よし。それでいい」

 永山哲也が元の位置に立つと、田爪健三は歩み寄り、彼の右手を掴んで持ち上げた。

「ところで、その録音機は本当に録れているのかね? ここからが大事な話なのだが」

 田爪健三は、永山の右手に握られているICレコーダーを覗き込んだ。

「ふーん。ホログラム・パネルか。今風だね。液晶パネルが懐かしいよ。この平面ホログラフィーのパネルは拡大もできるのだろう? いや、いいよ。ちゃんと見えている。訊いてみただけだ」

 田爪健三は永山の右手首を左手で掴んだまま、その薄型のICレコーダーを興味深そうに眺め回した。

 永山哲也は、田爪の左手が思いのほか冷たいことと、力が強いことに驚いた。

 田爪健三は永山の右手を更に持ち上げ、彼の指の隙間から見えた物に顔を近づける。

「おや、裏に何か貼ってあるな。何だね、これは」

「シールですよ」

 永山哲也は無愛想に答えた。田爪健三は鼻で笑って言う。

「そんなことは見れば分かる。子供に貼られたのかね。まだ、そんなに小さいのか」

「いいえ」

「そうか。まあ、いい。しかし、人間とは奇妙な生き物だ。こういう奇異な表象に興味を抱き、抽象化された偶像の意味や分類も考えずに、身の回りに留めようとする。意味のある行為だとは思えんがね」

 田爪健三は永山の右手を放した。そのまま後ろに下がり、背中を向けた彼は、鉄柵の向こうのパイプ椅子の方に歩きながら言った。

「よろしい。では、さっきの話だが……」

「……」

 永山哲也は右手のICレコーダーを裏返し、そこに貼られたキャラクターのシールを見つめていた。それは赤いジャージ姿で小躍りするようなポーズをとっている不細工なオジサンだ。確かに田爪の言うとおり奇異ではあるが、永山はそれを剥がさなかった。娘が貼ってくれたものだからだ。学校で開運のお守りとして流行っているキャラクターのシールらしい。中学生の娘には高い腕時計は買えないし、餞別も準備できない。もちろん、彼はそんなことを期待してはいないし、むしろ逆に、申し訳なくも感じていた。十分な小遣いも渡していない彼女にしてみれば、このシールは彼女が自分の範疇でできる精一杯のエールだったはずだ。永山哲也は、この三ヶ月近くの南米での取材の間、このシールが剥がれないよういつも注意していた。レコーダーを握る時も、汗で濡れないようシールから指を離して握った。机の上に置く時も、シールに傷が付かないよう気をつけた。シールを綺麗に残し、その上で、彼は生きて無事に日本に帰らなければならない。そうでなければ、娘が貼ってくれた開運シールの効果を証明できない。キャラクターがオジサンだろうと、ネズミだろうと、ネコだろうと、ウサギだろうと、あるいはどこかの宗教グッズであろうと、彼には関係なかった。

 永山哲也はICレコーダーを表に返し、顔を上げた。彼には田爪からの屈辱的な指示に従う覚悟も、怒りと信念を捨てて目の前の殺人鬼に従う覚悟もできていた。

 永山哲也は黙って田爪に顔を向ける。彼の話を聞くために。生きて帰るために。

 田爪健三はパイプ椅子に腰を下ろすと、上着の左のポケットから砂時計を取り出し、それを横のテーブルに置いた。

 足を組んで永山を軽く指差した彼は、再び語り始めた。

「鉄槌の話だよ。まあ、聞きたまえ。私はね、自分のパラレルワールド否定説の証明には完全に失敗したと思っている。その点は認めよう。自説を曲げるつもりはないがね。その証明には失敗してしまった。だから、人々は高橋君の説を信じている。その司時空庁だって高橋説を採用したからこそ、次々とタイムマシンを飛ばしているのだろう? 飛ばすタイムマシンは私が設計したタイプを採用しているのに。安全性や快適性や見栄えは他人のアイデアを採用しておいて、重要な部分では高橋君の説を前提に決断している。実に不愉快だが、まあ、ここでは冷静に、これらの事実のみを置くとしよう。そこで、君にも考えて欲しいのだよ。私の説が否定されて、高橋君の説がもて映やされているということは、人々は、パラレルワールド肯定論者だということだ。いや、少なくとも、毎回、毎回、ポンコツのインチキ・タイムマシンに乗ってくる連中は、そうだろう。なぜなら、否定論に基づけば、『過去』に行ったとしても、そこからのタイムマシンに乗り込むまでの間の歴史は何ら変えられないはずだから、タイムマシンで『過去』へ行く意味がないので、そのようなことに大金を注ぎ込んでタイムマシンに乗るはずが無いからだよ。でも連中は確かに『過去』に行くつもりであれに乗ってくるのだろう? 到達した過去の時点から先の未来を変えるつもりで。『時の流れ』を変えることができると思っている。到達した『過去』から別の新しい『時の流れ』が生まれると思っている。だから、タイムマシンで『過去』に行こうとする。ならば、連中は間違いなくパラレルワールドの肯定論者だ」

 田爪健三は背もたれに身を倒して、永山が整理するのを待った。

 永山哲也は思考する。

 じっと永山の顔を観察していた田爪健三は、やがて口を開き、話を続けた。

「そこでだ、その『パラレルワールド肯定論』を前提に考えみよう。例えば、今、私が君の前からタイムマシンで『過去』へと飛び去ったとしよう。んー、そうだな、二十年前へと飛んだとしよう。君は十八歳か十九歳、そんなところだね。私がやってきたことで、私が現われた二十年前の『その時』は、私や君が実際に経験した二十年前の同じ日付の『その時』とは異なるものになってしまったから、そこからの二十年間は、今この時までに君や私が経験した二十年間とは別の時間軸、すなわちパラレルワールドとして新しく進行する。そして今のこの時間軸とは決して重なることは無い。二十年前に飛んだ私がその後二十年生き、今日この日にここへやって来たとしても、今、私の目の前に存在する君に会うことは無い。仮に君に会えたとしても、その君は今の君そのものではない。別の時間軸上の世界にいる君だ。そして、その後の未来においても、決して重なることは無い。分かるね」

 田爪健三が永山の方に顔を向ける。

 永山哲也は小さく頷いた。

 田爪健三は更に続ける。

「そして、このことは、理屈は別として、表面的な部分だけだとしても、パラレルワールドについての大体のことは、タイムマシンに乗る人間は皆、ちゃんと理解しているのではないかね?」

 永山哲也には、パイプ椅子に座っている一見して初老の男が何を言おうとしているのか判然としなかった。確かに田爪の言うとおり、タイムマシンの搭乗者は搭乗前に十分な説明を受けているはずだ。搭乗者たちは搭乗前に様々な検査と説明を受ける。タイムマシン発射施設の中にある「搭乗者待機施設」と呼ばれる高級ホテルのような施設で発射日までの数週間を過ごし、メディカルチェックや法律手続、搭乗する際の服装の選択、タイムトラベル後の行動計画の検討をすると聞いているが、その他にも、タイムトラベルとパラレルワールドについての講義も受けると聞いたことがあった。専門の学者から懇切丁寧に説明を受け、しっかりと理解するまで質疑応答を繰り返すらしい。搭乗者本人が十分な理解を前提とした意思によりタイムトラベルを決断したということでなければ、後々に法的問題が生じてしまうからであろう。したがって、タイムマシンの搭乗者たちは、さっきの子のような幼児を除き、高橋博士のパラレルワールド肯定説がタイムトラベルの前提となっていることも、田爪博士のパラレルワールド否定説も、それが第一実験と第二実験の結果で否定されたことも知っている。それは確かだった。ただ、この点は、司時空庁が「家族搭乗型」タイムマシンの発射を計画していると発表した際に真っ先に問題視された点でもあった。一家族が乗るとなれば、さっきの子のような幼児が含まれる場合もあるので、そのような判断能力が無い、あるいは不十分な者の意思表示は国家として認めるべきではないというのが、当初の法学者たちの多数意見だったからだ。しかし、いつの間にかその多数意見も少数意見となり、いつの間にか国民の多数が忘れてしまった頃に、「家族搭乗型」のタイムマシンが発射されることが確定してしまっていた。そのまま大きな反対運動が起こることもなく、それは現に実施された。四月も、五月も、六月も、そして、たった今も。

「パラレルワールドの肯定論者だから消したと言うのですか。自分の説ではなく、高橋説を選択した人間だから」

 永山の詰問に対し、田爪健三は静かに首を振った。

「違うよ。そうじゃない。私の説は関係ないとも言っていい。問題は、彼らが、パラレルワールドを理解して、その上でタイムマシンに乗るという選択をしていることなのだよ」

 永山哲也は語気を強めて更に問い質した。

「じゃあ、さっきの子たちはどうなのです。十分に理解して選択したと言えますかね」

 田爪健三は答えた。

「最後の女の子くらいの年齢なら、本来、基礎的なことの判断は十分にできるはずだ。それなのに、基礎的なこと、例えば人を困らせてはいけないとか、悪いことをしてはいけないとか、そういう基本的な価値を判断する能力を国家が認めないから、国民の大多数が誤解する。それは選挙権の行使や契約締結などの経済活動をする能力とは全く別次元の、実に低レベルな判断能力であるはずだが、誰もが子供にはそれが備わっていないと思っている。ところが、それは嘘だ。なぜなら、彼らはマンガや映画やテレビドラマを見て、誰が悪者で、なぜヒーローやヒロインにやられたのかを理解している。善悪を判断している。だから、未成年者だからと言って判断力が無いとは言えんよ。そんなものは、単に人間が作った線引きに過ぎん。国が事務処理を画一的になし、法律家が怠けるための基準だ」

「最初の男の子は。あの子は幼過ぎる」

「確かに、客観的には、彼には意思決定することができないだろうね。そもそも意思の前提となる判断資料が無い。本能だけだ。空っぽだ。ということは、ただの器だよ。動く肉体の器に過ぎん。その器に何を入れていくかは、あの二親の責任だし、彼らの判断に委ねられている。委ねられるということは、彼らがした決断によって結果が変わるということだ。そうでなければ、委ねられているとは言えん。自分たちがした決定が間違えていたのに、その結果について子を切り離して結果を出すという必然性はない。まあ、人情的には理解できるがね。君の気持ちは。だからと言って、判断を間違えた親に、いい思いをさせる訳にはいかん。普段は親権を行使しておきながら、その行使の仕方を間違えても子供だけが別扱いで助かった。セーフ。そんな馬鹿な話があるか。子供の運命は親にかかっているのだ。それは全うせねばならん。あの二親はペナルティーとして子を失ったのだよ」

「なぜ、ペナルティーを負わねばならないのです。彼らは『過去の世界』に移動して、別の人生を歩もうとしただけだ。あるいは、新しい人生を作ろうと……」

「ということは、タイムマシンに乗って『過去』へ飛ぼうとしていた人間たちは、パラレルワールドで、今と違う時間軸で生きるつもりでいるのだね。そうなのだね」

 田爪健三は強い調子で口を挿み、永山を指差しながら確認した。彼はそのまま続ける。

「あの人間たちは、自分たちが別の世界に行った後、この時間軸上に二度と戻れないという認識をしていた。タイムマシンに乗ってタイムトラベルをしようとした人間たちは、皆そうだ。ならば、この人間たちはマシンに乗り込む前に自分が出会った全ての人に二度と会えないことも理解していた訳だ。たとえ『過去』で、そのうちの誰かに出会ったとしても、それは自分が経験した過去の『その時』のその人ではない。さっきの例で言えば、私が二十年前の君、十九歳の永山君に出会ったとしても、それは、今、この目の前にいる永山君が既に経験した十九歳の永山君ではない。私は、二度と『今』の君に会うことは無い。出会ったと思っているのは自分だけ。ただの自己満足だ。すなわち、タイムマシンに乗って『過去』へ飛ぼうとした人間たちは、元の時間軸上に残された恋人、親、兄弟、職場の人々、その他全ての人々と決別するつもりなのだ。もちろん、自分は『過去』へ飛ぶのだから、別の時間軸上で、別の、同じ恋人、親、兄弟、職場の人々、その他全ての人々に出会うことはできる。当然、当時の自分自身にも。まあ、勧めないがね。ともかく、奴らは、自分だけは、もう一度これらの人々に会えるけれども、反対に、自分を送り出したこれらの人々はもう二度と自分に会えない、絶対に、永遠に、出会わないということを、十分に理解している訳だ。残された人々の世界から、自分が消えるということを」

 田爪健三は厳しい目で永山をにらんで、そう言った。

 永山哲也は黙っている。

 田爪健三は少し上を向いて考える素振りをすると、小さく頷いて、再び視線を永山に向けた。

「なるほど。そうすると、マシンに乗って『過去』へ飛ぼうとした人間たちは、元の時間軸上に残された恋人、親、兄弟、職場の人々、その他全ての人々への責任は、どう考えていたのだろうか。自分が、自分だけが、もう一度人生をやり直すことができれば、残された人たちのことはどうでもいい。家族で乗っても同じだ。自分たちの家族さえ良ければいい。他の人たちは関係ない。そういうことだろ。そんなことに、莫大な額の『渡航費』を支払って。酷いのになると、さっきの奴らのように、割り込んでくる者までいる。どうせ割り込むために余計な金員を支払っているのだろう。ちなみに、国の管理でやっている以上、受け取っている奴らは公務員であるはずだがね。ほぼ間違いなく」

 田爪健三は永山の方に顔を突き出して、そう言った。


 ――どうやら、この田爪健三は、司時空庁が四月から新たに「家族搭乗用」の複数搭乗型タイムマシンの発射を正式にメニューに加えたことを知らないようだ。だとすると、やはり「ドクターT」は彼ではない。「ドクターT」を名乗る人物が総理官邸に上申書を送り始めたのは、「家族搭乗用」のタイムマシンの発射が始まった四月からだ。若者や幼子までを乗せてタイムマシンを発射させることを知った「ドクターT」は、何としてもそれを止めさせようと、それまで司時空庁に送り続けていた上申書と論文を直接、総理官邸に送るようになった。ところが、この男は追加メニューの事実を知らない。だとすると、やはり「ドクターT」は仲間の記者たちが調べたとおり、あの人物なのか。いや、あの人物に違いない。そうだとすると、この男は……。


 永山哲也は眉間に深い皺を寄せ、腿の横で拳を強く握る。

 田爪健三は、そのような永山を気にすることも無く、自分の顔を指差して話を続けた。

「私を見てみなさい。私はこの仕事を十年近くやっているが、うん、君はこれを仕事とは思っていないのだろうが、まあ、いいだろう。とにかく、この老け方はどう思うかね。最初に君が私を見て田爪健三であると自信を持てなかったほどに、私は老いている。まだ四十九歳だというのに、どう見ても六十歳は疾うに過ぎたかのような容姿だ。老化の速度が異常に速いと思わんかね。そうだよ。あのマシンだ。あのタイムマシンのせいなのだよ」

 田爪健三は円形の部屋の奥の白い機体を指差した。そして、少し顔を紅潮させ、永山に訴えるかのように言った。

「これはね、この空間移動はね、副作用があるのだよ。一度、空間をジャンプをすると、それ以降、細胞の劣化速度が急速に速まるに違いない。危険だ。こんな危険な行為を、しっかりとした実験も重ねず、確固たる結果も出ないうちに、まして、科学者が二名も消息不明になっているのに、そのまますぐに民間人で繰り返すとは何事だ。だいたい、あの国は、あの政府は、国民の命を何だと思っているのだ。政府は高橋君の捜索には全力を費やした。しかし、私についてはどうかね。私は生きている。ここに、こうして、生きている。時折は地上に出て、町に出向いたりもする。政府は私を探したのか。高橋君の時のように徹底的に探したのか。十箇月だ。私がここに着いてから十箇月もしないうちに、最初の民間人が送られてきたぞ。しかも、その後のことは全く御構い無しだ。送った人間がどうなったかなんて、追跡調査をしようとはしない。それはそうだ。なぜなら、『過去』へ送ったのだから。自国民だろうと、自治体の年間予算に匹敵する額の金を支払った外国人だろうと関係ない。私の扱いがそうであったように、だ。どうせ、こいつらは別の時代に行き、別の時間軸を生きる訳で、この現在の世界の人間とは、もう誰も二度と会うことはない人々なのだ。電話も来なければ、手紙も来ない。裁判を起こされる心配も無い。だから送ってしまえ。どんどん送れ。そうすれば、彼らが支払った巨額の渡航費で国の財政が潤い、その分だけ税金が下がり、その分だけ経済が成長してみんな万歳、万々歳。そして、その結果、今日も民間人四名が犠牲となった」

 田爪健三は片頬を僅かに上げた。

 永山哲也は眉をひそめて話を聞いている。

 田爪健三は、奥で白煙を上げるタイムマシンの方に顔を向け、それを眺めながら話を続けた。

「ところで君は、あのポンコツのインチキ・タイムマシンを飛ばすために、いったいどれだけの天然資源を消費したか知っているのだろう。いい加減なタイムトラベル事業の実施のために、どれだけの電力が必要になるか、日本に住んでいる君なら知っているはずだ。そうだ。発射には莫大なエネルギーを必要とする。送られてくる機体を分析して分かったのだがね、どうやら司時空庁とやらの連中は、私と高橋君が居なくなってから十年も経つというのに、量子エネルギーの大量生成にすら成功していないようだね。もし成功していたら、日本は世界一のエネルギー大国になっているはずだし、送られてくるタイムマシンに電力機構が残っているはずもない。たしかに量子エネルギーを集めて蓄積するのは大変だよ。連中も少しはできるのだろうが、せいぜい地球の反対側までワープができる程度しか貯められていない。だが、タイムトラベルするためには、本来もっと多くの量子エネルギーが必要なのだよ。だから、量子エネルギーが足りなくて、『時の壁』を破ることができない。私はそう推測しているのだが、とにかく、司時空庁の連中がもっと効率よく量子エネルギーを貯めてマシンを送ってくれれば、私ももっと楽をして、この銃に量子エネルギーの残りを貯めることができるし、ここの兵士たちにも十分な量の量子銃を配備することができる。で、戦争も終わる。ゲリラ軍の勝利でね。まあしかし、それは夢物語だな。完全な量子エンジン型のタイムマシンなら、ここに誤って飛んで来ることも無いわけだからね」

 永山哲也は田爪をにらんだまま、挑発的な笑みを浮かべて言った。

「分かりませんよ。ある民間企業が量子エネルギーのパッケージ化に成功したという噂を聞いたことがあります。もしそうなら、近々、日本からここにマシンが数機ワープしてくるかもしれませんよ。警官と軍人を乗せて」

 田爪健三は動じなかった。逆に彼は関心さえ示した。

「ほう、エネルギー・パックの製造に成功したかね。だとしても、量子エンジンを作ることまではできないだろう。量子エネルギーを最大効率で使用できる動力エンジン。それが無いと、どうしてもタイムトラベルなどはできんよ。それに、一つや二つのパックを作ったところで意味はない。量子エネルギーを大量に効率よく作ることができなければね。理論的には、循環式のプラントを造れば、それで半永久的に大量生成することは可能だ。私の中にはその構想もある。だが、そんな物を彼らが作ることはできまい。現に今でも私や高橋君が使っていた発射台から飛ばしているのだろう、タイムマシンを。だとすると、十年前の第一実験と第二実験で使用した実験機の発射システムから何の進展も無い訳だ。念のために言っておくが、あれは間に合わせの発射システムだったのだよ。それなのに、今もそれを使っている。ここに到着するタイムマシンに電力機構が残っているのは、その証拠だ。十年前に私が作った実験機と全く同じ。大量の電力を使用して発射エネルギーの不足分を補っている。もう一度言うが、あれは間に合わせの、実験用のシステムなのだよ。エネルギーの消費にも、相当に無駄が多い。毎月一度、日本では大騒ぎだろう。タイムマシンの発射のために君たち一般市民の電力の消費量に制限がかかって。違うかね」

 田爪健三はニヤニヤと笑みを浮かべながら、永山を指差した。

 永山哲也は両肩を上げ、片笑みながら答える。

「そう不便はしていませんがね。大抵の家電製品は、O2オーツー電池を使用していますから」

「酸素電池かね。半永久的に発電するという。そうか、日本では、そんなに普及しているのか。この大陸の人々は今でもアルカリ電池を使っているのに。可哀想に。停電も多い。日本では、どうかね。停電は」

 永山哲也は首を横に振った。

「ありませんね。あなたと高橋博士が構築してくれた『SAI五KTシステム』のおかげで、この十数年、停電は起こっていません。まあ、もともと少なかったですが……」

「そうか。私と高橋君も、少しは君たちの暮らしに貢献できている訳だ。ということは、タイムマシンの発射で全面的に電力が停止するということは無いのだね」

 永山哲也は、今度は首を縦に振る。

「ええ。電気を大量使用する工場とかが一時的に停止したり、工事現場での作業が一時中断したりするくらいです。まあ、数分のことですし、月に一度のことですから、文句も出ていませんね。政府からも、ちゃんと補償がされているようですし」

「うん。だが、補償がされているからと言って、文句が出ないからと言って、問題が無い訳ではない。タイムマシンの発射に使用する電力は相当な量だ。第一実験でも、第二実験でも、ほぼ全ての国内の発電所をフル稼働させたうえに、国内全世帯と民間企業への送電を一時ストップして、発射実験の方に回したのだ。そして、今もそのシステムを使用している。だとすると、O2電池や、増加した自然エネルギー発電、『SAI五KTシステム』による電力供給の最適化調整などによって誤魔化したとしても、実際に消費する電力量に変わりはないはずだ。そして、それら大量の電力を生むためには、大量の資源が必要となる。それに、量子エネルギーを十年前の方法で集めているのだとしたら、それだけでもかなりのエネルギーを消費しているはずだよ。そのエネルギー生成にも、やはり大量の資源を必要とするからね」

 田爪健三は再び椅子の背もたれに深く背中を当て、永山を指差した。

「つまり、日本が毎月実施しているタイムトラベル事業のために消費する天然資源の量は相当なものだ。君の国は天然資源をほとんど持たないはずではなかったかね。私の記憶では、そうだ。だから、それをどこかの国から輸入しなければならない。ところが、資源不足の昨今だ、そう易々と大量の天然資源が手に入る訳ではない。むしろ逆に値は釣り上げられる一方だ。しかし、人を過去に飛ばさなければ、その渡航費で国家財政を賄えない。国が何か商売をしなければ、赤字を解消できなくなっている。商売人国家に成り下がってしまった訳だ。そして一方で、財界人や大富豪、成り金の連中から一般庶民の大半までもが、このインチキ事業を支持している。タイムトラベル事業に反対する国民は、ほとんどいない。まあ、多くの人間はタイムマシンの発射をずっと継続してもらいたいのだろう。そしてそれは、誰もが、自分たちもいつか『過去』に飛びたいと思っているから。その証拠に、このところ毎日、『過去への渡航』の申し込みが殺到しているそうではないか。あの値段にもかかわらず。中には借金をしてまで申請している者もいると、この前、こっちのニュースで報じられていたよ。しかも、長い順番待ちで、どうやら、予約してから七、八年は待たされるようだとね。ご苦労なことだ。七、八年待たされた挙句、地球の裏側の穴倉に飛ばされて、消されるだけとはね」

 田爪健三は溜め息を交えて首を横に振った。永山哲也は不可解な顔で首を傾げる。

顔を上げた田爪健三は、永山の目を見据えて言った。

「とにかく、君の国としては、このインチキ事業を継続する必要がある。そして、そのためには大量の資源が必要だ。結論から言おう。私はこう考えているのだよ。君の国は、タイムマシンの発射のために必要となる天然資源を回収するために、この国に核テロ攻撃の言いがかりをつけ、戦争をしかけた。この国の大地から資源を盗み取るために」

 田爪健三は強く床を指差した。

 永山哲也は田爪の目を見据えたまま言う。

「いや、それは、ちょっと……」

「ちょっと何だね。いいかね。核テロ攻撃があったのが、二〇二五年。高橋君が第一実験で飛んだのが二〇二七年。私がこちらに転送されたのが二〇二八年だ。その後、民間人の高額有料転送が始まったのが二〇二九年。君の国の働きかけで南米連邦政府がゲリラ掃討作戦を開始したのが二〇二六年。環太平洋連合軍の介入で、この国での戦争が本格的に始まったのは二〇二七年だ。そう、第一実験の年だ。これは、偶然の一致だと言うのかね。ならば、もう一つ、偶然の一致を教えよう。天然資源にも色々あるが、あのインチキ・タイムマシンの発射に必要な天然資源の種類のうち、その全てが、地球上では、この大陸の地下に大量に眠っているのだよ。しかも都市部の地下にね。実際に協働部隊が支配するこの大陸の南部の地域一帯では、それらの資源が大量に採掘されている。知っていたかね」

 田爪健三は永山の方に身を乗り出した。

「つまり、この戦争はビジネスの一環なのだよ。君の国がタイムトラベル事業で儲けるために必要だから惹起された。私は、そうにらんでいる」

 この大陸での資源採掘の事実も、日本への大量輸入の事実も、それらがタイムマシンのエネルギー生成に必要な資源であることも、彼が所属する新聞社の社会部の同僚たちが突き止めていた。その同僚たちも同様に推理したが、戦争の原因とは結びつけていない。

 顔を曇らせている永山に、田爪健三は更に言う。

「ああ、一応、これも言っておくがね。これはね、私のやっている『仕事』はね、ビジネスではないのだよ。君の国のように商売をしている訳ではない。商売はいかん。下衆だ。仕入れて売って、差額で儲ける。もちろん、労働の対価として均衡が取れていれば、その差額を取得するのは正当だ。だが、どの業界でも、どの業種でも、どの地域でも、均衡が取れているかね? 汗水たらして働いても薄利、つまり労働の対価が価格として反映していない。言い換えれば、買う側は、不当に安く購入している。反対に、不必要に高い価格を乗せる者もいる。そう大した労働を提供していないのに、さも大仕事であったように値をつける者もいる。一方で、成長だとか発展だという言葉を使って、利益の上に利益を重ねていく者もいる。絶えず儲けようとする。経済学はそれを前提としている。是認している訳だ。当たり前のこととして。他人と競争すること、同業他者とも顧客や消費者とも。それが商売だ。昔の日本人はそういった姿勢を否定したはずだが、その日本でも、ここ半世紀は商売で成功すれば英雄だ。昔、日本にいた頃に何度か見たが、成功者としてテレビで紹介されたり、本を出版したり、公演を依頼されたりする。欲を膨らませた結果であるにもかかわらずだ。何故そうなるのか。当然だ。国がそうするからさ。国民に模範を示すべき政府の役人や議員、専門家たちが、そうするからだ。国会議員も、医者も、弁護士も、学者も、時には公務員でさえも、より一層に儲けようとする。金を集め、いい服を着て、いい物を食べて、いい家に住んで、いい車に乗って、最後にはポンコツ・タイムマシンにまで乗る。その意識していない真の目的は、さっき述べたとおりだ。まあ、実はタイムマシンに限った話ではないのだがね。君の身の回りでも現に起きていることだよ。若者に目を向けてみればいい。自分が若かった頃も考えみたまえ。田舎から出てきたときはどうだった。同じだろう、あのタイムマシンに乗ってきた連中と。そして、その結果は今の君の国の社会のあり様そのものだ。見直してみるがいい、周りを、自分を。同じじゃないかね」

 田爪健三は強く激しい口調でそう言った。そして、一息吐き、再び静かに話し始めた。

「だが、私は違う。ビジネスをしているつもりはない。では、復讐か。それも違う。これは、私を愚弄し、追放した者どもへの復讐でもなければ、国家への反逆でもない。さっきも言ったじゃないか。鉄槌だよ。刑罰だ。私はね、自らの欲望の実現のためだけに、あるいは目標達成のためだけに、社会や、そこに生きる人々、自分と係わったすべての人間を捨て、恋人、妻、夫、息子、娘、孫、兄弟姉妹、父、母、祖父、祖母、叔父、叔母、従兄弟、甥、姪、友人、職場の同僚、いつも親切にしてくれる弁当屋のおばちゃん、遠くから電話をかけてくれる同級生、通っている歯医者、世話になっている床屋のおじさん、雇っている従業員、自分の演奏を聞きに来てくれる人、食事を作ってくれる人、洗濯をしてくれる人、掃除をしてくれる人、車の窓を拭いてくれる人、――自らに係わる全ての人々との縁を断ち切り、その愛に報いることも無く、これらの人々に対する、いや、この世の全ての人々に対する責任を放棄し、後顧の憂えも無くタイムマシンに乗った、ただ自分だけの幸せしか考えない自己中心主義者どもに対して、捨てられた全ての人に代わって、応報の刑罰を下しているのだよ」

 次第に声を荒げていく田爪に対し、永山哲也は冷静に聞き返した。

「自己中心主義者?」

 田爪健三は大きく頷いてから答える。

「そうだろう。人は絶えず何かの責任を背負っている。なぜなら、社会で生きているからだ。社会は人と人との関係で成り立っている。自分と他人、そして、他人と他人だ。勘違いしてはいかんよ。『赤の他人』ではない。それは『他人』の中の一部だ。『他人』とは『自己』の対義語だよ。つまり、自分以外の全ての人だ。当然、親、兄弟、配偶者、子も含まれるし、見ず知らずの無関係な人間も『他人』だ。自分と他人、あるいは、その他人と別の他人、その別の他人と別の他人。関係は連鎖していく。その関係の中から、自分が負っている責任を自分で見つけなければならない。それが『社会性』だ。社会で生きるための性質だよ。必要となる性質だ。社会にとっても、自分にとっても。ここでも勘違いしてはいかんよ。よく多くの人間が口にする『社会性』、あれは大抵『社交性』のことだ。あるいは『協調性』、『遵法性』、『寛容性』のことだ。よく精神を鋭敏にして冷静に聞いてみなさい。そうだから。すべて別の言葉があるのに、皆『社会性』と同義だとか、その内容だとか言う。別の言葉で表現される別のことなのに。これらも人には必要なことではあるが、いつも『社会性』とすり替えて論じられる。だが、それは、法と法律の区別もできない愚かな人間どもが語っているか、本当は分かっているのに自分にとって都合が悪いから誤魔化そうとする人間たちがそう曖昧に言っているだけだ。私が今言っているのは『社会性』の話だ。では『社会性』とは何か。私はこう思う。責任が社会の成立から必然的に導かれる概念だとすれば、責任を果たすことは社会の中で生きるために当然に求められることだ。社会に対する責任ではない。他者に対する具体的な責任だ。『他人』に対する責任。誰に対し何をするべきか。その責任を果たすことこそが『社会性』だ。一人一人がその責任を果たさずに、つまり、『社会性』を伴わない人間が、そのまま社会の中に留まり、滞留していって、外形のみの社会を維持すれば、どうなるか。責任を果たさない人間を放置した結果、実際に世の中はどうなったか。君は分かっているはずだ。一番解かり易い例を挙げよう。福祉だ、福祉。君の国の福祉は言葉だけで、実体においてはまったく成立していない。老人福祉に的を絞ろう。二〇三八年、今、ベッドの上で寝たきりの老人たちは、自分たちが若い頃に老人の世話をしてきたかね。バリアフリーだの、安全食品だの、福祉道具にもデザイン性を持たせることが人権だとか、要介護者の権利強化などと二十年前から随分と騒いではいるが、では、その騒いでいる世代、あるいは騒いでいた世代の人々は、自分たちの親のために同じような主張をしてきたかね。老人ホームを建て、そこに放り込んだだけだろう。福祉事業所を乱立させ、そこに任せてきただけだろう。しかもだ、一日のうち、ほんの少し施設に顔を出すだけで、後は御構い無し。それならまだ良い方だな。それ以下の頻度なら論外だ。昔よく聞いた話だが、施設職員に手土産を持っていっても、そこに入所させている自分の親には持参しないらしい。そういう人種、あるいは世代だ。で、自分たちが施設に世話になる歳になりかけると、色々と声を上げ始めた。結局、その後、今、自分たちがどうなっているか。崩壊した福祉制度という腐った茣蓙の上で排泄物の垂れ流しだ。しかも、その始末を二世代後にまでさせようとしている」

 永山哲也は眉を寄せ、目を細めた。それは、田爪への彼の不快感の表れであると同時に記者として見ている現実の状況への不快感の表れでもあった。田爪健三の指摘は、ある部分において当たっていた。彼の指摘は鋭かった。

 田爪健三はそんな永山を責めるように指差して、話しを続けた。

「さて、私は、この現状の主な原因は、彼らの世代の責任感の無さ、つまり自己中心性にあると思うのだが、違うかね」

 永山哲也は真っ直ぐに田爪の顔を見たまま答えた。

「人には、いろいろと事情があります。一概には言えません」

 田爪健三は椅子の背もたれに身を投げて言う。

「ほら。そうやって責任の追及を……、いや、追及しても何にもならん。そんなことは司法関係者だけにやらせておけばいい。責任は果たさねばならん。そして、果たさない者には、鉄槌を下すべきだ。それをせずに、今の君のような発言をして、甘やかし、放置してきたから、君の国の福祉は、現状のような事態になったのではないかね。他のことだって同じだ。皆、いい加減に放置する。違うかね」

 再び前屈みになった田爪健三は、量子銃を両手で握ったまま、膝の上に肘を乗せて、永山に問い掛けた。

「よく思い出してみたまえ。無責任を放置する仕組みは、ありとあらゆる所に蔓延しているだろ。君のすぐ近くだ。ああ、あれはどうだ、随分と前からだが、天気予報が当たらないだろう。今もそうかね」

 永山哲也は目を泳がせながら答えた。

「ええ……まあ、それは確かに……」

 田爪健三は嬉しそうに頷く。

「そうか。だが、その当たらない天気予報を情報番組の中でした気象予報士は、次の日の同じ情報番組にも出演しているのではないかね。あるいは、新聞に予報を載せているか。ああ、君は新聞社の記者だったな。どうかね、君の会社では天気予報欄に予報者の氏名を載せているかね」

 怪訝な顔で首を横に振った永山を、田爪健三は黒皮の手袋をした右手で指差した。

「だろ。本来なら、予報責任者の氏名と、過去の的中実績をパーセント表示で載せるべきではないのかね。そして、予報の不的中が続くようなら、別の予報士に替える。外した予報士を責め立てる必要はない。未来予測だからね。外れることもあるし、それは悪いことではない。私も科学者だ、その点には理解があるつもりだ。だが、いくら私でも、失敗続きの人間に重要な実験はさせない。別の者と替える。そう、替えればいいだけだ。天気予報は重要だ。皆、それを頼りにしている。業種によっては大損害に繋がることもある。それなのに、天気予報を外し続けても、放置される。テレビの前で自作の工作を披露し続ける奴もいる。気象コラムを書き続けて、終いには本を出す奴もいたな。皆、視聴者や読者が放置しているのだ。もちろん、出演させたり、書かせたりしている会社は言うまでも無い。だが、これが公務員なら、そうはいかないだろう。すぐに現場から外され、降格だ。そして、最研修。他にもあるぞ。医者はどうだ。医者は失敗しても、大抵が医者のままだ。民事責任や刑事責任のことを言っているのではない。まあ、強いて言えば医師免許に係わると言う意味で行政責任とでも言うべきかもしれんが、結果として悪い形を作り出したのだとすれば、医療の領域からは完全に放逐するべきだろう。一時的にもね。企業のトップはどうだ。法人の失敗について、何らペナルティーを負わない人間は何人もいる。この分野は例をあげたら枚挙にいとまが無い。両者とも、現状はどうだね。たぶん、医療制度は崩壊寸前。国家財政の金食い虫という部門になっているのではないかね。日本企業の信用については株価を見れば判る。最悪だ」

 それも大方が当たっていた。だが、永山哲也は頷かない。彼は黙って、田爪の話を聞いた。

「誰かがどこかで罰を与えることをしないから、こうなるのだよ。だが、その罰は行為と均衡した内容でなければならない。そうだろ。地球上のほとんどの国が法治国家だし、人権国家だ。実は、そんな言葉を使わなくても分かっていることなのだが、実は、皆が惚けて、わざわざ別の言葉で誤魔化している。それだけだ。まあ、いい。とにかく、グローバル・スタンダードに従えば、罪刑の均衡。これが大事だ。そこで話を戻そう。このポンコツ・タイムマシンに乗ってきた者たちは、全ての責任を放棄して、全てを捨ててきた人間だ。全てを捨ててきた人間から、全てを奪って何が悪い。運んできた財産も、肉体も、魂も。彼らが捨ててきたものに比べれば、むしろ少ないくらいじゃないか。私は決して、いい加減な対処をしてきたつもりはない。これは、論理必然的な結果なのだよ。今の日本の司法よりは随分とまともな処理をしているだろう。そう思わんかね、新聞記者の永山君」

 永山哲也は少しも首を動かさなかった。同意を示すつもりはなかったし、反駁することもできなかった。それは永山が田爪に量子銃を向けられているからではない。彼自身の思考において、そうであった。

 黙ってにらむように自分を見るだけの永山に、田爪健三は言う。

「それにね。この副作用。転送後に生きていても、その後ずっと、私のように後遺症に苦しむことは間違いないのだ。だから、私はあの送られてきた人たちを、未来の苦痛から解放してあげたのだ。そして、そうすることで、ここの兵士たちに物資の提供ができ、この戦争で彼らが少しでも有利になるならば、また、そうすることで、戦争で苦しむこの国の人々の役に立てるのならば、それはこの戦争の惨禍の根源的な原因を作り出してしまった科学者のせめてもの償いとして、やらねばならないことでもあるのだよ。科学者としての私の義務だ。責任だ。同時に、これが私の贖罪となるならば、私は、この『仕事』を続けるしかないのだよ。神への懺悔として!」

 田爪健三の声は、広い円形の地下空間に強く木魂した。



                  23

 ダイニングテーブルは、カウンター式のキッチンに寄せて置かれている。リフォームは済ませていたが、いかにも二〇二〇年代前半に建てられたマンションらしい、建築の効率とデザイン性のみを追及した不親切な設計は変わっていない。「LDK」という横文字で誤魔化した続きの一間は、そこそこに広く、窮屈な感じは受けないが、そこに日本の美意識や礼節は組み込まれていなかった。食事を作る場所も、取る場所も、その後に寛ぐ場所も、すべて見えている。

 四脚の椅子で囲んだダイニングテーブルには二人の女が向かい合って座っていた。それぞれの前には薄い板状のパソコンが置かれている。モニターが無いそのパソコンは空中に直接、可接触式の平坦なホログラフィー画像で文書の映像を投影していた。

顔の高さに浮かべられた週刊誌「週刊新日風潮」のホログラフィー画像に指先を添えて、中年の女がその頁を捲っていた。その向いの席では、彼女の部下の新人記者が、テーブルの上に投影されたホログラフィーのキーボードの上で指を動かし、顔の前に浮かんだ文書に文字を打ち込んでいる。

 中年の女は頁を捲る手を止めると、パソコンの横の湯飲みに手を伸ばした。椅子の背もたれに身を倒して息を吐き、首を回す。お茶を一口啜った彼女は、向かいの席の若い女の前に置かれたコーヒーカップが空になっていることに気付き、椅子から腰を上げた。

 テーブルを回りキッチンへと向かう途中、若い女の後ろから彼女が作成している文書を覗いて、その中年の女は尋ねた。

「六月五日取材メモ……ああ、この前の発射施設でのこと?」

 新人記者である若い女は半透明のキーボードの上の指を止めて振り返る。

「あ、はい。思い出したことを、その都度書き足していこうと思って」

「ふーん……」

 口を尖らせた中年の女は、腕組みをして言う。

「まあ、せっかくあんたが体を張って撮影した施設内部の画像も、カメラごと司時空庁にもってかれちゃったしね。あの潜入取材で見たものは、記憶にあるうちに細かく記しておいた方がいいかあ。――うん、感心、感心」

 珍しく上司に褒められた若い女は、少し得意になって言った。

「いつか記事にできるようになるかもしれませんからね。その時のために、あの日に見たことや感じたことを、細部まで全部書いておきます」

 頷いた中年の女は、若い女にさらに尋ねた。

「で、今日は何を思い出したの」

「ドレスです。白いドレスを着てたなあと思って。細身で、お洒落で、品のある感じの」

「ドレスかあ……」

 中年の女は少し腰を折って、若い女の前で空中に浮かんでいるホログラフィー文書を覗き込む。縦書きの文章の途中で点滅しているカーソルの前には、そのドレスの色や生地質、デザインなどを細かく描写した文が並んでいた。それを熱心に読んでいる中年の女の横で、若い女が呟いた。

「普通の服だったので、なんか意外でした」

 中年の女はホログラフィー文書に顔を近づけたまま言う。

「うーん、そうよねえ。私も、それ用のパイロット・スーツみたいなのを着て乗るのかと思ってたなあ。宇宙服みたいなやつ。そうじゃないんだ」

「はい。到達する時代に合わせた服装で乗るみたいですね。衣装の保管室みたいな部屋には、いろんな服が掛けてありました。昭和の軍服とか、十二単とか」

「軍服に十二単ねえ……全然、普通じゃないけど」

 そういった中年の女は、体を起こし、そのホログラフィー文書を軽く指差した。

「でも、この記載だと、結構、今風のデザインのドレスだったんだ。てことは、そんな昔に行くつもりじゃなかったということよね。やっぱり、あの日だったのかしら」

 若い女は頷く。

「だと思います。しかも、ドレス自体も自前のドレスなんじゃないかと。前にストンスロプの会長さん宅で取材した時に彼女の写真を見たんですけど、その写真で着ていたドレスと同じドレスだったような気がするんです」

「んー……」

 中年の女は天井を見上げて少し考えた後、テーブルの上に手を伸ばした。

「コーヒー、飲むでしょ」

 彼女はそう言って若い女のカップを取ると、そのままスタスタとキッチンに向かう。若い女は慌てて椅子を引き、立ち上がった。椅子の脚に立て掛けてあった虹模様のトートバッグが倒れる。

「あ、すみません。私が入れます」

 若い女はそう言ったが、キッチンに入った中年の女は手を振りながら答えた。

「いいの、いいの。私もコーヒーを飲みたくなったし。キッチンも片付いてないから、主じゃないと分かんないでしょ」

 カウンターの向こうのキッチンを眺めながら、若い女は言った。

「そんなことは……。よく片付いていると思いますけど……」

 中年の女は背中を見せて戸棚を開けながら言う。

「表面的にはね。中は、ぐちゃぐちゃ。いろいろと入り組んでる。みんな同じよ。――あんた、砂糖とミルク入りだったわよね」

「はい。――すみません」

 若い女は、申し訳ないといった顔をしたまま椅子に腰を下ろした。彼女には、上司の女の発言が単にキッチンの話だけでなく、この事件の話も兼ねていることは分かっていた。

 若い女は憂鬱な顔でホログラフィーの文書に目を遣った。

「ま、リアルに生きてるってことね」

 そう言った中年の女は、戸棚からプラスチック製の小さな容器を取り出すと、その蓋の表記を見比べて、左右の手にそれらを持ったまま、自分のコーヒーカップも取り出した。戸棚を閉めて振り返り、調理台の上にカップを置いた彼女は、手に持った小さな容器の蓋を開けながら尋ねた。

「片付けで思い出したけど、例のラボ、計算書類だらけだったって言ってたわよね」

 若い女は首を縦に振った。

「ええ。すごい量でした。机の上に、こんなに」

 テーブルの上に自分の肩より上の高さまで手を上げて、若い女はそう答えた。

 容器の中の濃い黒の液体をそれぞれのカップに移しながら、中年の女は言った。

「へえ。じゃあ、あの人は相当長い時間、やってたんだ。AT理論の見直しとタイムトラベル理論の再チェック」

 冷蔵庫から取り出したペットボトルの水をカップに注ぐ中年の女を見ながら、若い女はコクコクと頷く。

「たぶん、そうだと思います。堀之内さんの話を合わせて考えると、きっと、この十年を全てそれに費やしたのではないかと」

 中年の女は、二つのカップを電子レンジの中に入れると、ボタンを押してから呟いた。

「十年かあ。長いなあ……」

 若い女は少し肩を落として、独り言のように言った。

「ですよね。ただ意地になって研究していたというだけじゃないと思います。何か、もっと、こう……」

 中年の女が目線だけを向けて言う。

「信念?」

「うーん……といいますか……」

「じゃあ、責任感。科学者としての」

「それも、なんか……」

「じゃあ、何なのよ」

「――何でしょうね」

 中年の女は腰に手を当てたまま項垂れた。顔を上げた彼女は、呆れ顔で言う。

「あのね。あんたが言いかけたんでしょ」

「はあ……。すみません」

 電子レンジがメロディーを短く鳴らした。

 中年の女は湯気を立てた二個のカップをレンジから取り出すと、それを持ってダイニングに回ってきた。

 若い女は軽く御辞儀をしてから自分のカップを受け取る。彼女の横で立ったままコーヒーを一口啜った中年の女は、眉間に皺を寄せて一度首を捻ると、怪訝そうな顔で言った。

「だけどさあ、あの人、本当に六月四日に行くつもりだったのかしら。どうも分かんないのよねえ……」

 若い女は両手で持ったカップを顔の前で傾けながら、目線だけを上司に向けて言った。

「ラボのカレンダーには、確かに印がしてありましたよ。誕生日とも一致しますし」

「でも、結局、四日にあの発射施設には現れなかったのよね。失敗すると分かっていて、どうして翌五日に乗ったのかしら。しかも、あんたの救出の呼びかけにも応じなかったんでしょ。いくら十年の研究成果を確かめるためとはいえ、あの状況で自分から乗る?」

 納得できない様子で自分の席へと移動する上司を目で追いながら、若い女は言った。

「もしかしたら、別の場所を到達ポイントに設定していたのではないでしょうか」

 中年の女は椅子に腰を下ろすと、カップを握った手で若い女を軽く指差した。

「その線もあり得るわね。でも、そうなら、その場所に司時空庁が探しに行くんじゃないかな。ところが司時空庁は、そういう動きをしていないでしょ」

 コーヒーを一口啜った彼女は、続けた。

「そもそも論文の内容を証明するための実験なら、タイムマシンの到達場所と時間の設定は自分でしているはずよね。危険な設定にするはずが無い。だからマシンに乗った。でも四日には現れてない。ということは、やっぱり……」

 話しながら中年の女が若い女に目を遣ると、彼女はカップを持ったまま視線を下げ、悲しそうな顔で考えていた。

 中年の女はテーブルの上にカップを置き、今度は明るい声で言った。

「あ、そうそう。哲ちゃんから連絡があったんだけどね」

 若い女は顔を上げた。

「永山先輩からですか。今、どこにいるんです?」

 中年の女は口を尖らせて答えた。

「うーん。どうも、北の方の町に移動しているみたい」

 若い女は目を丸くする。

「北? 危ない方にですか」

「そうみたい。なんでも、例の謎の科学者の情報、本当かもしれないって」

「じゃあ、生きているかもしれないんですか、高橋博士か田爪博士が」

「かもね」

「じゃあ……」

 若い女の目を見て、中年の女は深く頷いて見せた。

「可能性はある。あの二人のうち、どちらかが生きているということは、同じ時間軸上に戻ってきている可能性があるってこと。つまり、田爪博士の言っていたことが本当は正しかったのかも。だとすると……」

 若い女は呟いた。

「また会えるかもしれない……」

 中年の女は再びしっかりと頷く。

「そうね。あの人もどこかで生存している可能性はある。仮に、遠い昔に送られていたとしても、探しにいけるかも」

 若い女はコーヒーカップをテーブルの上に置き、期待に満ちた目で尋ねた。

「高橋博士や田爪博士なら、できるかもしれませんね」

 中年の女は腕組みをして、首を傾げる。

「どうかなあ……。でも、望みはゼロではないわね。まあ、哲ちゃんの取材の結果次第だけど。――高橋博士か田爪博士が見つからないことには、始まらないわね」

 若い女は胸の前で拳を握って言った。

「先輩に、頑張るように伝えておいて下さい」

 中年の女は溜め息を漏らしてから、呆れ顔で言った。

「あのね、哲ちゃんにも家族がいるのよ。戦闘区域の傍で無理させるわけにはいかないでしょ」

「そっかあ……。そうですよね。危ないですもんね……」

 若い女は、またコクコクと頷く。

 中年の女は再びホログラフィーの週刊誌に手を伸ばし、その頁を捲り始めた。

「とにかく、やれることはやったし、今もこうして、精一杯やってるんだから、こっちもこのまま続けましょ。せっかく、いろんなことが繋がってきたんだし。あのタイムトラベル事業を、いつまでも続けさせる訳にはいかないじゃない。津田もなんとかしないと」

 若い女は真顔に戻り、今度は一度だけコクリと頷いた。そして、再びコーヒーカップに手を伸ばし、それを持ち上げながら尋ねた。

「明日の発射も見に行くんですか」

 中年の女はホログラフィーの週刊誌の文面に目を通しながら答える。

「当然でしょ。司時空庁が発射を止めるまで、何回でも行くわよ」

 コーヒーカップを顔の前で傾けていた若い女は、視線を上司に送りながら、言った。

「また、国防軍の『なんとかヘリコプター』から拡声器で叱られますよ」

 中年の女はホログラフィーに目を向けながら言う。

「『オムナクト・ヘリ』でしょ。たかが国防軍の戦闘ヘリが恐くて、記者をやってられますかっての。私は行くわよ。あんた、どうする?」

 コーヒーカップをテーブルの上に戻した若い女は、はっきりと答えた。

「行きます。――あ、テレビつけてもいいですか」

「どうぞ」

 中年の女がホログラフィーで浮かぶまだ空欄だらけの週刊誌のゲラを確認しながらそう答えると、若い女は立ち上がり、リビングスペースの中央に置かれた低いテーブルの方へと向かった。その上にあるリモコンを手に取り、壁際に置かれた薄型のテレビに向ける。世間では原色再現のリアルホログラフィー投影式の画面で、実音と変わらないリアル音声バージョン対応のテレビが売り出されているが、ここのテレビは旧式の薄型テレビで、いまだに7K型のハイビジョンテレビだった。音声も普通のデジタルサラウンドだ。

 若い女は上司の主婦らしい節約ぶりに少し顔をほころばせ、同時に、見習おうとも思った。

 画面に映し出された天気図の前で、ミニスカートの女が、先端に縫いぐるみが付いた棒を握って言っている。

『――それでは、明日の天気です。六月二十三日水曜日、明日は全国的に薄雲がかかる空模様となるでしょう。新首都周辺は晴れ。ところにより曇り模様となる予想です。南部では夕刻より一時的に雨が降るおそれも……』

 若い女はテレビの前で腕組みをして、眉間に皺を寄せ、下唇を出している。彼女はブツブツと独り言を漏らした。

「うーん、前線が来てるなあ。梅雨前線は、まだ、あんなところかあ。朝も一降りあるかもなあ……」

 ダイニングの椅子に座って仕事をしていた中年の女は、ホログラフィーの冊子に顔を向けたまま言った。

「予報士のお姉ちゃんは、雨は夕方からだって言ってるじゃない」

 若い女はテレビ画面の天気図に顔を向けたまま言う。

「いえ。自分で判断します。天気予報を信じて、二度もひどい目に遭いましたから。自分の勘を信じることにしました」

「勘ねえ……。ちゃんと根拠を持ちなさいよ。あんたも記者なんだから」

 若い女は真剣な顔で天気図を眺めたまま頷いた。

「はい。一応、自分なりに少しは勉強しました。お、台風が動いて来ていますね。ということは、こっちに風が流れるから、雲は……」

 中年の女は椅子の背もたれに肘を乗せると、溜め息を吐いて言った。

「また私の車で行くんだし、どうせすぐに追い払われるから、気にしなくてもいいわよ」

 テレビを消した若い女は、リモコンをリビングテーブルの上に戻し、確信した顔を上司に向けた。

「でも、傘は持って行きましょう。念のため」

 若い女に向けて手を振りながら、中年の女は作業に戻る。

「はいはい。そうしましょうかね。そんなことより、ほら、情報の整理、整理。いつ会社から呼び出しが掛かるか分からないわよ。すぐに対応できるようにしとかないと。思った以上に、いろいろと交錯した事情が出てきてるんだから」

 若い女はトコトコとダイニングテーブルの席に戻り、椅子に腰を下ろした。

「そうですね。謹慎期間も、あともう少しで終わりですしね」

 二人は再び、食卓の上で仕事に取り組み始めた。



                  24

 田爪健三は黙っていた。錆びたパイプ椅子に座ったまま、膝の上の不恰好な量子銃に視線を落とし、その配線を確認している。まるで永山に何かの答えを求めているかのようであった。永山哲也は田爪の前に立ったまま、床に目線を落とし、熱心に考えを回らせている。その顔つきは驚きと困惑に満ちているようだった。田爪健三は、そんな永山の表情を時折目線を上げて観察しながら、彼の答えを待った。

 やがて、永山哲也は顔を上げて田爪の方を向いた。答えに達したようだった。彼は確信に満ちた目をして言う。

「やはり、違う……」

「違う?」

 顔を上げて聞き返した田爪を、永山哲也はにらみ付けた。彼は静かに、こう断言する。

「あなたではない。あなたでは救えない」

 田爪健三は怪訝な顔をして更に尋ねた。

「何を」

 永山哲也は声を荒げる。

「ドクターTですよ。知っていますか、ドクターTを!」

 永山の剣幕に少し驚いた田爪健三は、視線を逸らして答えた。

「知らんね。誰だね、それは。大リーグの選手か、人気のプロレスラーか何かかね」

「科学者ですよ。僕はその『ドクターT』と、今後のタイムマシンの搭乗予定者たちを救うために、ここにやって来ました。正直、記事掲載など、どうでもいい。他人を救うために、今、僕はここに立っているんです」

 永山哲也は床を強く指差すと、視線を落とした。彼は続ける。

「いいや、そのはずでした。ですが、僕は間違えていたようです」

 田爪健三は目を丸くした。

「科学者? そんな科学者など……ああ、まさか、田爪の『T』だと思っていたのかね」

 永山哲也は真剣な顔で首を縦に振った。

「ええ。もしくは、高橋諒一のTか。当初はそう考えていました。ですが、違いました。間違えていました。もう『ドクターT』の正体は分かっています。僕の仲間が調べた事実は正しかった」

「では、なぜ私に会いに来たのだね」

「あなたか高橋博士が生きているのなら、そのどちらかが、『ドクターT』と協力している可能性もあったからです。それを確かめたかったのです。ですが、こうしてあなたに会って、あなたの行為を目の当たりにして、あなたの主張を聞いて、僕は確信しました。あなたは違う。絶対に」

 田爪健三は膝を叩くと、鼻で笑った。

「ふふん。なるほど。そんな理由で来たのか。こんなジャングルの奥の戦地まで。――確かに、それは私ではない。君の確信は正しいよ。ああ、もしかしたら、高橋君かもな。だが、そうなると、あの世まで取材に行かねばならんね。もし急いでいるようなら、すぐに送ってやってもいいが……」

 永山哲也は田爪の話が終わらないうちに、口を挿んだ。

「その『ドクターT』は、あなたと同じことに気付いていました。この三年間、ずっと」

 田爪健三の眉間に皺が寄った。

 永山哲也は話を続ける。

「司時空庁に対して上申書と論文を送り続けていたんです。タイムトラベル事業を停止するようにと。AT理論の欠陥を見抜き、タイムマシンの欠陥を見つけていたのですよ、その『ドクターT』は!」

 永山哲也は次第に語気を強め、最後に怒鳴った。

 田爪健三は唖然とした顔で言う。

「馬鹿な。あれは、私と高橋君しか理解していないはずだ」

「理解したんですよ。必死に努力して、長い年月を掛けて!」

 怒りと苛立ちを露にして怒鳴った永山哲也に、田爪健三は落ち着いた素振りで答えた。

「ほう。面白いね。一度議論してみたいものだ。そのドクターTとかいう覆面学者が、どの程度まで理解しているものか」

 永山哲也は田爪の顔を見据えて、ゆっくりと首を横に振った。

「無理ですね。おそらく、既に殺されています」

 それを聞いた田爪健三は、しかめた顔を斜めに傾けかけたが、すぐにそれを止め、床に視線を落とした。そして、量子銃を握ったまま、固まったように動かなかった。

 永山哲也は黙って田爪をにらんでいる。

 暫らく、二人は沈黙した。


 田爪健三が横を向いた。テーブルの上に置いた砂時計の砂は落ち切っている。彼はそれを悲しげな目で見つめながら呟いた。

「なるほど。――そうか……。そういうことか……」

 永山哲也も口を開いた。

「僕は『ドクターT』が命を懸けて国のタイムトラベル事業を止めようとしたことに敬意を払っていた。日本にいる僕の同僚の記者たちも同じです。だから彼らも体を張って『ドクターT』を救おうとしたのです。ですが、できませんでした。彼らとは別行動で、この南米で取材をしていた僕は、あなたか高橋博士らしき人物がいるとの情報を掴みました。田爪健三か高橋諒一が生きているのなら、『ドクターT』も生きているのではないか、そう期待しました。仮に既に殺されていたとしても、もしかしたら、まだ救えるのではないか、そうも考えていました。だって、あなたや高橋博士が研究していたのは、過去に戻るタイムトラベルですからね。何か方法があるのではないか、本当にそう思っていましたよ。ですが、現実は違いました。全く違っていた。生き残っていたのはあなただけで、しかもあなたは殺人鬼だ!」

 永山哲也は顔を紅潮させ、歯を食い縛り、突き刺すように強く田爪を指差した。

彼はそのまま話し続ける。

「タイムマシンに乗って過去へと旅立った、あなたか高橋博士の生存が証明できれば、パラレルワールドを否定するあなたの説が正しかったということの証明にもなります。ということは、高橋説を前提に開始されたタイムトラベル事業はその前提根拠を失い、停止になるはずです。そうも考えていました。だから会いに来たのです、あなたに。ですが、まさか、こんなことになっているとは。もし『ドクターT』がここに居たら、あなたとは全く逆のことをしたはずです。AT理論に欠陥があり、タイムマシンに問題があるのなら、あの事業を一刻でも早く停止させなければならない。搭乗者たちを救わなければならない。だから僕らは取材活動を開始したのに、そして、そのために、あなた方を探したのに。おそらく『ドクターT』も同じ思いだったはずです。だから探したのですよ、あなたを!」

 永山哲也は目に涙を浮かべ、悔しそうに田爪を指差しながら怒鳴った。

「ですが、真相はこれです。搭乗者は皆、殺されている。あなたによって! 皆を救うことができる唯一の証人であるはずの、あなたに!」

 田爪を指差す手を下ろした永山哲也は、鼻を啜り、彼をにらんだまま暫らく黙った。

 やがて、深く息を吐いた彼は静かにゆっくりと言った。

「そして、あなたは……」

「ああ、そうだとも。私は殺人鬼だよ。鬼だ。悪魔だ。実際、ここのゲリラ兵たちにも、陰でそう呼ばれているよ。知っている。だから君を呼んだのだ。スラム街で私のことを嗅ぎ回っていた君をね」

 永山哲也は眉をひそめた。

「僕を呼んだ? 僕が来ることを予想していたということですか?」

 田爪健三は砂時計を見つめながら答えた。

「もっと早く、私が君を見つけることができれば良かったのだが……」

「いったい何を……」

 永山哲也が更に田爪に尋ねようとすると、田爪健三は彼に発言を許さなかった。

田爪健三は永山が口を開くとすぐに話し掛けた。

「一つ確認なのだが、君は、家族がいると言ったな。妻と娘がいると」

 田爪健三に警戒した視線を送りながら、永山哲也は答える。

「ええ。それが何の関係があるんですか」

 田爪健三は大きく何度も頷いた。

「そうか……。そうかね……。分かったよ」

 怪訝を募らせた永山哲也は、苛立った表情で田爪に言った。

「本当は、あなたの目的は何なのですか」

 田爪健三は肩の力を抜き、永山の顔を見て深く息を吐いて言う。

「これでようやく、あの話ができるよ。うん、あの話ができる」

 永山哲也は眉間に皺を刻んだまま、両目を細めた。

 田爪健三はパイプ椅子の上で脚を組み、黙って床に視線を落としていた。



                  25

 永山哲也は田爪をにらんで言った。

「いったい、これ以上、何の話をする必要があるのですか」

 足を解いた田爪健三は、両膝の上にその不恰好な銃を置くと、隣のテーブルの上の砂時計を手にとって眺めながら、永山に確認した。

「私と妻の物語については、まだ何も話していないと思ったが」

「今更あなたの恋愛話を聞いて、どうしろと……」

 永山哲也は顔を逸らした。

 田爪健三は穏やかに言う。

「まあ、そう言わずに聞きなさい。これで最後だから」

 田爪健三は、美しい彫刻が施された砂時計をテーブルの上に返して置くと、その中の砂が重力に従って流れ落ちる様を眺めながら、再び語り始めた。

「私と妻はね、瑠香とはね、私が実験管理局に入局した時に出会ったのだよ。私が三十七歳、瑠香はまだ二十九歳だった。彼女はそこに中級研究員として勤務していた。美しく、聡明な人だった。いつも『前』を見ている女性だった。『過去』の研究に獲り憑かれていた私とは対照的に、彼女は『未来』を見ていた。当時の私は高橋君との競争に相当に疲れていた。まあ、慣れない宮仕えという環境も私には負担だったのかもしれない。一度、過労で倒れてね。その時、献身的に介抱してくれたのが瑠香だった。で、その後、交際が始まり、やがて私たちは結婚した」

 田爪の顔に笑みがこぼれた。彼は続ける。

「結婚後、瑠香は管理局を辞め、家庭に入ってくれた。彼女は、私が日中『過去』への移動の研究に没頭していることに気を使ったのか、彼女も『過去』の研究者の端くれであったにもかかわらず、私が帰宅すると絶対に『過去』の話はしなかった。二人で居る時は、二人で居る時だけは、いつも『今』の話をした。二人で、ちゃんと『未来』の方を見つめながら『今』の話をした。だからかもしれないが、彼女と居ると幸せだった。愛しているとか、好きだとか、それが具体的にどの分類に属する感情なのか、あるいはどういった感情の集合体なのか、または、何を必要条件とするのか、どこまでが十分条件なのか、私にとって、そんなことはどうでもいいし、また、到底、私の分析力の及ぶ範囲ではない。ただ単純にこう思っていたし、今でもこう思っている。――一緒に居たい。その瞬間、その空間に、共に居たい。共に時を過ごしたい」

 田爪健三は静かに目を閉じた。

「もちろん、愛おしいとも思っているし、尊敬もしている。彼女についての諸々の肯定的な感情や記憶は私の頭の中に無数に仕舞い込まれているが、それとは別に、そう思うのだよ。今でもね。それは私の欲求であり、私のエゴイズムなのかもしれないが、彼女が同じように思っていてくれたかは分からないし、それは私の思惟には影響を与えないことだから、それを考えたことはなかった。ただ私は、一つの仮説を持っている。私のこの思考を一つのベクトルに例えるならば、同種のベクトルを彼女が私に向けた時、その相関関係こそが『恋愛』として定義できるのではないだろうか。まあ、今となっては、私には、もう永久に証明できない仮説だがね」

 田爪健三は苦笑いをして遠くを見つめた。

「妻は、瑠香は不幸な子でね。幼い頃、事故で両親を亡くしていた。瑠香が小学校に上がる前に、ご両親と共に、父親の運転でピクニックに出かけたそうだ。車を走らせている途中、瑠香がいつも大切にしている縫いぐるみを忘れたと言う。家に戻ってみると、縫いぐるみは、瑠香のちょっとした不注意で積み忘れられた状態でガレージの横に座っていた。車は玄関の門扉の前で停車し、瑠香だけが降りて、縫いぐるみを取りに走ったそうだ。瑠香が縫いぐるみを抱いて振り返ると、ご両親が乗っていたその車を踏み潰す形で、大型トラックがその上に停車していたらしい。原因は分からんが、どうもトラックの電子基盤が故障して暴走し、そのまま、両親が乗っていた車に横から突っ込んで乗り上げたようだ。かなり大きな衝突音がしただろうに、瑠香は、その時の衝突音を覚えていないと言っていた。もしも、あの時、車をガレージまで進めていれば、ご両親がトラックに潰されることは無かったはずだ。もしも、縫いぐるみを取りに帰らなければ、縫いぐるみを忘れたという、ほんのちょっと悲しい思い出のピクニックとして、瑠香の記憶に残ったに過ぎなかっただろう。あるいは、もし、ピクニックに行かなければ……。本当は、瑠香は、ずっとそのようなことを考えて生きていたのかもしれない。そして、その呪縛から逃れるために、無理をしてでも『未来』だけに顔を向けて、『今』だけに集中していたのかもしれない。私がそのことに気付いた時、同時に私は自分の無力さに驚愕した。ああ、私に何ができるだろう。この愛する女性を『過去』の呪縛から解き放ってあげるためには、私に何ができただろうか。もし、私の理論が正しければ、私のマシンで過去に行けたとしても、事故を回避することはできない。時間に刻み込まれた運命は変更することができないからだ。しかし、もし、高橋君の理論が正しければ、瑠香を高橋君のマシンで過去に送れば、もちろん、大人になった瑠香がご両親の前に現われることにはなるが、それでも、家族との人生を取り戻せるかもしれない。私は彼女に心底惚れていたから、今、自分の理論を綺麗さっぱり捨て去り、高橋君に協力すれば、一日でも早く瑠香を過去に戻してあげることができる、少なくとも、瑠香に希望を与えることができる、そう考え、悩んだ時期があった。恋は人を盲目にする。愚かなことだ。愛のために真理の探究を放棄する。だが、私にはそれができなかった。高橋君は、妻を捨て、子を捨て、たった一人で『過去』へと旅立った。自らの理論の正当性を立証するために、誇らしくも勇敢に、この世界から去ったのだ。私にはそれもできなかった。瑠香を捨てることはできなかった。『過去の瑠香』を救い、その別の時間軸の瑠香に別の時間軸で新たに幸福な人生を過ごさせることの可能性よりも、ただ、『今の瑠香』、この時間軸を共に過ごしている『この瑠香』を捨てることができなかった。躊躇した。恐怖した。――だが結局は瑠香のもとを去った。彼女を一人にした。自らの理論の正当性を示すどころか、十字架に磔られたかのような状態で、不様に彼女の前から去った。不名誉も、辛苦も、屈辱も、全てを彼女のもとに置き去りにして」

 田爪健三は大きく溜め息を吐いた。

「私は世を恨んだ。過去を恨んだ。高橋君も、AT理論も、全ての学問も、そして神さえも恨んだ。私が一体何をした。私は皆々が共通して抱いていた一つの疑問に答えようとしただけだ。私は偶然にも『真実』を自身で経験した人間の一人だ。その責任を全うしようとしたし、義務を履行しようともした。ただそれだけだ。いいや、それだけではない。実験を繰り返し、単なる机上の理論だったものを実践的で使えるものにしてやった。タイムマシンも設計した。生産し易く、使い易く、快適で、安全なタイムマシンを。そして、国家の財政赤字を解消する契機を作った。経済にも貢献した。まだ有るぞ。人々を楽しませてもやった。高橋君と共にテレビの討論番組に出て全国の人間に、言い争う姿、困惑する顔、怒る様を見せてやった。楽しいショーを御茶の間に届けてやった。子供たちから学生まで、若者に夢も与えてやった。世間の人々に希望も持たせてやった。そして、その過程で一度も、ただの一度も、私は嘘をつかなかった。違うものは違う、相手が誰であろうと真摯に主張した。どんな苦境に立たされようとも、真理への忠誠を破らなかった。神との契約を守り通したのだ。それなのに。それなのに神は私に何をしてくれた。世間は何をした。人々は。国は。政府は。職場の人間たちは、私に何をした。侮辱し、嘲り、無視し、最後には、私を別の時間軸に追放しようとした。私が設計したタイムマシンに乗せてだ。私のタイムマシンを、私を使って実験した。私はラットか。猿か。いいや、実験自体は仮想空間でもできたはずだし、それで十分なはずだ。だとすると、私は『仮想』以下の人間か。こうして実体として存在しているのに、私は存在を仮に想定されることも無い完全に無価値な人間なのか。いいや違う。そうではない。私は、私の存在価値を示さなければならない。意味のある行動を選択しなければならない。一人の人間であることを証明しなくてはならない。真理に従い誠実に生きる者であることを実証しなければならない。社会に対して責任を果たそうとし、貢献しようとしたことを明らかにしなければならない。そして、私の科学者としての技量と実力を立証しなければならない。ところが、あいつらは、私がこれらの証明の方法を全力で検討している時に、ここにタイムマシンを送ってきた。無神経にも、私が設計したタイムマシンを、この私が居るここへ。高橋君の時は一年待ったくせに、私の時は十箇月だ。十箇月後には、次の発射を実施したのだ。しかも、この私が設計したタイムマシンを、私の許可も無く勝手に作って、勝手に他人を乗せて。まあ、私の失敗作だ、発明の使用料を請求するつもりはない。だが、そのタイムマシンは実際にここに送られてきた。そして、その中から、醜い太った老人が昭和末期の流行ファッションに身を包んで、両手に人工生成ものの金の延べ棒を握り締めて降りてきたよ。まるで自分が世界の支配者として降臨したかのような達成感と満足感と野心と欲望に満ちた傲慢な顔で。それを見て私は悟った。この地にタイムマシンに乗ってやって来る連中の自己中心性と非人間性を。私は自分のやるべきことを理解した。そして誓った。転送されて来たタイムマシンから浮かれて出てくる下衆どもを、髪の毛一本残さぬよう、この世から消滅させることを。だから、奴らを殺す時には一つのルールがあった。タイムマシンから出てくる奴らに一歩も大地を踏ませないということだ。出てきたら、すぐに消す。さっきは君に見せるために少しの間を空けたが、いつもは違う。瞬殺だ。奴らがマシンから頭部や上半身を覗かせた瞬間に、その瞬間に一瞬で塵にしてやった。奴らに新天地の土を一歩も踏ませまいとしたのだ。一瞬の充実感も達成感も感じさせてなるものか。瞬殺。私はそれを、この十年間の全ての処刑で、ずっと貫いてきた」

 田爪健三は少しだけ俯くと、目を瞑って一度大きく息を吸った。彼はそれを深く長くゆっくりと吐き出した後、意を決したように目を開き、永山の顔をしっかりと見て口を開いた。

「先月のことだ。また、いつものようにタイムマシンが送られてきた。いつもと同じ速度で、いつもと同じ角度で、いつもと同じ閃光と轟音と共に。ただ一つだけ違ったのは、日時だった。いつもなら毎月二十三日の決まった時間にやって来るのに、その日は違った。その日は、ここで、そう、その隅の方で、ゲリラの兵士たちが、ささやかなパーティーを開いてくれていた。私のバースデイ・パーティーだ。戦時中の地下で行う、ごく質素な宴席だよ。私も少しだけ気を緩めて兵士たちと食事を共にした。宴会も終わり、兵士たちが帰ると、暫くして突然、計測器の針が激しく振れ、さっきと同じ警報音が鳴った。そう、例の予定外の来訪だ。私は慌てた。多少の酒が入っていたせいもあるが、目の前の、いつもよりほんの少し豪華な食事の残りを、テーブルごと跳ね除け、肩の銃を、この銃を構えた。あの時を思い出したよ、二〇二一年の仮想空間での実験の時を。慌てて所定の位置につき、そう、あの台の上さ、そして、いつもの方角に銃を構えた。その後、深呼吸をして、自分に言い聞かせた。いつもと同じ、いつもと同じ」

 永山哲也は田爪の顔を見ていた。田爪健三は頬を強張らせている。恐怖すら浮かべているように感じられた。宙を見つめたまま目を見開いて語っている。

「思ったとおり、予測したとおり、いや、既に決まっているとおり、いつもと同じ角度で同じスピードで例のインチキ・タイムマシンがこの空間に飛び込んできた。そして、いつもと同じように、決められた場所を目掛けて直進し、滑り、決められた場所に同じように止まった。中にいる馬鹿は自分が過去のいつかの時代に辿り着いたと思っていて、今頃、中で、人生をやり直せると浮かれている。そして、いつもと同じように、いつもと同じ速度で、いつもと同じ角度で、いつもと同じタイミングでハッチが開くと、初め白い大きな花弁が見えた。そういえば、以前、ウエディングドレスに身を包み、ブーケを握り締めて出てきたバカ女がいた。山のような花束とプレゼントらしきものを小脇に抱え、高級スーツに身を包んだ中年男性のことも思い出した。学生服を着込んだ爺さんもいたな。皆、塵にしてやった。一瞬で。期待も、興奮も、希望も、満足感も、下品な欲望も。後悔する時間すら与えはしない。皆、一瞬で消し飛んだ。どうせ、こいつも金を払えば何でも簡単にやり直せると思い込んでいる外道に違いない。他人の期待や愛情、恩義を簡単に捨てて、ただ自分のことだけを考えて、ここにやって来たのだ。大地を踏ませてなるものか。刹那と堕落の深淵に留まったまま、さっさと消えていくがいい。私は心の中でそう叫びながら、その人に向かって迷わず光線を発射した」

 田爪健三は、黒い革手袋をした右手の四指と親指の間に額を挟むと、そのまま右手を下ろして顔の汗を拭った。彼は続ける。

「一瞬だった。ほんの一瞬の中の一瞬だった。だが、それが何百秒にも感じられる光景が私の前に広がった。そう、あの仮想空間実験で27.917秒間が何分にも感じられたように。いや、あの時よりも遥かに長く、辛く、苦しい『一瞬の時間』だった。舞い散った百合の花弁の奥に見えたのは、瑠香の顔だった。私に向け精一杯の笑顔を見せながら、涙を落とす時間さえも与えられずに、彼女は一瞬で消滅した。一瞬で……。その残像さえも受け入れることができなかった私は、台から飛び降り、すぐさまマシンに駆け寄った。彼女が着ていた白いドレスが緩やかに舞い落ち、履いていた靴が床に転がった。ほぼ同時に微かな金属音と共に『何か』が床に落ちた。その『何か』が何であるか、私には想像がついた。だから、首を動かすことすらできなかった。その小さな銀色の輪は、私の足下まで一直線に転がってくると、私の足の横を通り過ぎ、私の遥か後ろへと去っていった。私はその場に崩れ落ちた。彼女がその細い腕で大切に抱えていた花束の前に崩れ落ちた。そして、その花束に添えられた、この小さな砂時計を見つけた。私宛のバースデイ・カードと共に」

 田爪健三は脱力したように肩を落とし、口を噤んだ。

 彼の口から語られた話は永山が予想していた通りだった。彼が左手の小指に小さな指輪を通している理由も、彼が無意味に砂時計を置いている理由も、永山には理解できた。

「田爪博士……」

 理解はできたが、今の永山哲也には次の言葉が浮かばなかった。それが、タイムマシンの搭乗者たちを理不尽に消し去っている男に対する感情だということも、その感情が不条理に過ぎるということも、永山には解かっていた。だが、彼には何も言えなかった。

 田爪健三は膝を静かに叩くと、永山に顔を向けて言った。

「さてと。もう、このくらいでいいだろう」

 彼は鼻を啜りながら、自分の腕時計と柱時計を交互に見比べて、永山に尋ねた。

「ところで、永山君。そのレコーダーは、残りどれくらい記録できそうかね」

 永山哲也は右手のICレコーダーのホログラフィー表示を確認して答えた。

「ええ、まだ、いくらでも」

 田爪健三は小さく頷く。

「そうかね。それはよかった。ここまで、私の長々しい話を聞いてくれて、ありがとう。礼を言おう」

 彼はスーツの内ポケットから折り畳まれた書類を取り出すと、それを持って椅子から腰を上げ、永山の前まで歩いてきた。そして、量子銃の先端を床に下ろし、彼に言った。

「もう、帰るといい。殺人鬼にこれ以上の用はなかろう。ここの人間たちにも。帰り道の安全は私が保証しよう。少し回り道になるが、安全なルートを確保してある。方法もね」

 田爪健三は握っていた帰国保証書を差し出した。永山がそれを受け取ると、田爪健三は永山の目を見て言った。

「それから、実は君に一つ頼みたいことがある。いいかね」

 永山哲也は黙って頷く。

 田爪健三は、こう申し出た。

「君が、この戦闘区域を無事に脱出できたら、日本行きの帰りの飛行機に乗る前に、ぜひ立ち寄ってもらいたい所があるのだが……」

 田爪健三は話しながら量子銃を持ち上げ、側面のコードを一本ずつ抜いていった。


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