キャッチャー・イン・ザ・メモリー:記憶の中で捕まえて

春泥

握りしめたお金が小さな手からこぼれ落ちないように、その子は懸命に急勾配の階段を上っている。

 路地裏にひっそりと建つみすぼらしいビルにはエレベーターなどなくて、二階の会計事務所と、三階のジムのドアの前を通って階段をのぼりつめた先に現れたドアには


 ナラサキ探偵事務所


と書いてあった。その黒い文字越しに半分透けて見える室内には、人の気配がない。その子はドアの前でしばらくためらっていたが、手のなかでしわくちゃになったお札と小銭の数をもう一度数えてから、ドアノブに手をかけた。

 開け放した窓枠に片膝を立てて座り、煙草を吸っていた男が振り向いてその子を見た。

「なんだ、迷子か? ここは子供の来る所じゃないぞ」

 男は煙を吐き出しながら言った。

 その子が口を開きかけた時、背後から声がした。

「ここで煙草を吸わないでって言ってるでしょう。肺ガンで死にたいなら、一人でどうぞ!」

 その子の脇をすり抜けて行ったのは女性だった。いい匂いがふわりとその子の鼻をかすめた。窓際の男は慌てて携帯灰皿の中へ煙草を押し込んだ。

「ところで君は、どうしてここへ? 依頼人?」

 女性が振り返ってその子に言った。きれいにお化粧をして、胸に茶色い紙袋を抱えている。二十代? 三十代? きれいな人であることは間違いなく、その子は顔を赤くして、言った。

「お、お母さんを捜してほしいんです」


「ダメだな」

 来客用のソファに座って女性――ナラサキという名だった――が買ってきた昼食用のサンドイッチを缶コーヒーで飲み下しながら、男が言った。男は探偵で、ナラサキさんによればハダという名であった。

 ハダ探偵はその子に冷たかった。

「お金が足りないなら、ぼく、働いてきっと」

 口を開いたとたん、こらえていた涙が視界をぼやけさせ流れ落ちた。

「おい、勘弁してくれよ。俺は子守じゃないんだぞ」

 ハダは立ち上がって窓のところへ行った。

「ねえ、タイチ君」

 恥ずかしさでうつむいた彼の隣にナラサキさんが腰かけて、彼の肩に手を回した。

「あのおじさんは口が悪いけど、ウチでは一番腕のいい探偵なの。その彼がダメだっていうのには、ちゃんと理由があるのよ」

 ナラサキさんは、ローテーブルの上のティッシュの箱を取ってタイチに渡した。


 父親のいないタイチにとってたった一人の母親。タイチが小学校五年生になった今年、その母が床に伏せったり、奇行に走ったりするようになった。奇行とは、非常に穏やかだった母が、信じられないような汚い言葉で通行人に突然くってかかったり、自分は命を狙われていると言い張ったり……

「そりゃあ完全に精神科の案件だ。ウチは探偵事務所だぞ」

 ハダ探偵は冷たく言い放った。

「でも、あなたは心の病気を治す探偵でしょう」

 それは二十一世紀の初めに流行り始めた奇妙な病気であった。突然気力を失い、寝たきりとなり、外からの呼びかけに一切反応しなくなる。すでに知られている精神の病であると当初は思われていたが、全国、いや世界中で同様の症状を示す者が出始めた。研究の結果判明したのは、彼等は何らかの理由で、自らの過去、記憶の中に逃げ込み、立てこもっているという驚愕の事実だった。

 薬物による治療法が模索されたが結果は芳しくなく、現在唯一その病に有効とされるのが――

「病気の人の記憶の中に入り込んで、その人を見つけて、こっち側に連れ戻す記憶探偵。ぼく、テレビで見たんです。お願いです。お母さんを見つけて、連れ戻してください。そうしないとぼくは、施設に入れられて、お母さんと離れ離れになってしまう」

 タイチの懸命な訴えに対するハダ探偵の答えが先ほどの「ダメだな」であった。タイチは涙越しにぼやけたナラサキさんの顔をじっと見つめた。頼れるのは彼女だけだと本能的に悟ったのだ。しかし優しそうな彼女も、タイチをやんわりと思いとどまらせようとする。

 だけど、諦められない。

「『重い心の病の人は連れ戻せない。自分の意思で過去の思い出に逃避している人しか、記憶探偵は連れ戻すことができない』」

 タイチは医者に言われたことを繰り返した。

「わかってんじゃねえか。だから、無理だ」

 ハダ探偵が窓際から言った。

「でも、連れ戻せたケースがあるって」

 タイチは言う。

「それは、とても珍しいケースね。精神病治療における記憶探偵術の応用は、まだ研究が始まったばかりだから」

「だから、やってみてほしいんです。お願いします」

 タイチは床に正座し、膝の前に手をついて頭を下げた。

「ちょっと、ねえ君」

 ナラサキさんの細い指が彼の細い肩にそっと触れるのが感じられたが、彼は額を床につけたままぎゅっと目を閉じていた。

「ダメだつってんだろう」

「わかった。わたしが行く」

「はあ?」

 タイチが思わず頭を上げると、ハダ探偵がナラサキさんに詰め寄っていた。

「お前に行かせられるか。所長代理だろう、お前は。大体――」

「だったら、あなたしかいない。正式にお引き受けするわ、タイチ君。ただし、成功する可能性は限りなくゼロに近いということをわかってね」

「はいっ。よろしくお願いします!」

 タイチは正座したまま勢いよく頭を下げ過ぎて床に思い切り額をぶつけた。


 道中ブツブツと文句を言い続けていたハダは、病院の駐車場に車を停めて降り立った時にもまだブツブツ言っていた。

 タイチは聞こえないふりをして、ハダの前に立って案内をする。

 タイチの母親は、個室に入っていた。痩せこけて頬がへこみ、唇はかさかさでひび割れていた。髪に白いものが目立ち老婆のように見えるが、タイチの話ではまだ四十前だという。浅く呼吸しながら眉間に皺を寄せて眠っている。

「ゆうべ大暴れしたから、落ち着く注射を打たれたんだ」

 タイチが母の額にかかった前髪をそっと横に流しながら言う。

「お前もいたのか」

「うん。でも、ぼくが誰なのかわかってないみたいだった」

 ハダはタイチの背後で、露骨に顔をしかめた。この「捜索」は間違いなく失敗する。そしてその失敗によってタイチが今より幸せになるとは、ハダにはどうしても思えなかった。所長代理は一体何を考えているのか――

 それでもハダは、コートの内側に隠し持っていた商売道具を取り出した。洗濯ネットのようなものが折り畳まれており、広げると長い柄の先に輪っかが付いた虫捕り網によく似たものができあがった。

「お前はドアを見張って、誰も入って来ないようにしろ。こんな『治療』は、病院は絶対に認めないからな」

 ハダはタイチにそう指示して、ベッドから少し離れた位置で虫捕り網を構えて立つと、目を閉じた。しばらくして、ハダの体からすうっと力が抜けた。それでも彼の体は相変わらず網を頭上に掲げたポーズのまま静止している。

 あの網で捕獲キャッチするのだ。探偵キャッチャーが母親の「捜索」を開始したのだとタイチは悟った。

 タイチはゆっくりと、探偵に近づいて行った。


 目が暗闇に慣れる前にハダはうすら寒さを感じた。ここはタイチの母親の記憶の中だ。寒くも暑くもないはずだった。

 だが――

 ハダは頭上に高々と掲げていた網を下ろした。見渡す限り広がるのは、荒廃。一歩踏み出すと、足元でじゃりっと音がした。ガラスの破片が、比較的大きなものから小さな欠片までが砂利のように敷き詰められていた。

 ハダは眉をしかめた。なんとも嫌な感じだった。

「これは記憶じゃない」

「えっ、どういうこと?」

 独り言に返事があって驚いたハダが振り向くと、タイチが立っていた。不安げにきょろきょろしている。

「だって、おじさんは、記憶の中に入りこんで人を捜す探偵でしょう? 場所を間違えたの?」

「お前、どうやってここに」

「えっ。さあ、どうやったんだろう? おじさんが動かなくなってから、心配になって、体にちょっと触ってみたんだ。そしたら」

 通常、他者の記憶に侵入するためには、まず道具、虫捕り網状のものが多い特殊な捕獲道具と、厳しい訓練を要する。誰でも道具さえ手にすれば記憶探偵になれるわけではない。

「驚いたな」

 追い返すわけにもいかないと判断したハダは、タイチに言う。

「何が起きても俺から離れるな。それから、言っておくが、これから目にするものはお前にとって」

 最後まで言い終えることができなかった。足元が揺れて、ガラスの破片がざらざらぱりぱりと音を立てた。

「いたっ」

 タイチが悲鳴を上げた。見ると、半ズボンから伸びた左足首の外側がざっくり切れて血が出ていた。

「惑わされるな。ここは記憶の中、今見えているのはいわば映像だ。俺達は歓迎されざる侵入者だが、異物を傷つけるような力は記憶にはない」

 タイチが恐る恐る痛みを感じた部位を見下ろすと、そこには傷も血の跡もなかった。

「そうだ、お母さんを捜さなきゃ」

 彼はにわかに活気づいて、ハダに言った。

「テレビの再現VTRで見たけど、記憶を巻き戻したり早送りしたりして、失踪した人がどこに隠れているか見つけるんでしょう?」

 ハダはタイチの質問には答えずに、周辺を注意深く見回した。

 もうとっくにやっているなどとは、探偵が母親を発見できると信じて疑わない子供に言えるはずがなかった。なぜならこれは、記憶ではないから。こんな荒廃した風景が思い出だなんて、冗談じゃない。

 巻き戻しても、早送りにしてもまったく変化のない風景。割れてきざきざした巨大なガラスの破片が、細かい破片の中に埋まっているのが見える以外は何もない。冷たい風が吹いているのに、ハダは汗をかいていた。

 風など感じるはずがないのに。

 探偵はそんな見せかけの感覚には惑わされないように訓練を積んでいる。それなのに。

 冷たい風が汗びっしょりの彼の体を冷やしていく。タイチも寒そうに首をすくめている。

 だから嫌だったんだ。

 これは通常の記憶ではないから、記憶探偵としてはベテランのハダの経験もあまり役には立たない。

 さらさらとガラスの破片が動く音が二人の背後でした。

「お母さん?」

 喜々として振り返ったタイチの顔がひきつり、凍りついた。

 それは、怪物だった。あばら骨に蜘蛛の手足をくっつけたような醜悪な生き物の嫌悪をそそるその顔は、口の両端から牙を生やし、転げ落ちそうなほど飛び出した大きな目の周りはげっそりと落ち窪んでいたが、見間違えようもない程度にはタイチの面影を残していた。

「あ、あ、あ……」

 驚きのあまり腰が抜けたらしいタイチが、尻もちをついた。体を支えるために地面に着いた手や太腿に切り傷がいっぱいできている。

 よくない兆候だ。

 毛むくじゃらの脚まで含めれば縦横十メートルはありそうな巨大蜘蛛が、ぱりぱりとガラスの破片を割りながら近づいてくる。反射的にタイチを片腕で抱き抱え逃げ出そうとしたハダだが、すぐに足を止めた。蜘蛛の目標物は二人ではなかった。

 蜘蛛の行く先、ガラスの破片が積みあがってできた小高い丘の上に、人影があった。

 それは恐らく、タイチの母親なのだろう。しかしそれは、つい先ほど、意識のないままベッドに横たわる姿を見た女性の原型を、ほとんど留めていなかった。

 彼女の口が大きく開いている。恐らく叫んでいるのだろう。空気がびりびりと振動しているのが感じられる。だがこの空間を満たしているのは、恐ろしいまでの静寂だ。その静けさの中で、巨大蜘蛛がガラスの破片をかき分けて移動する音だけが聞こえてくる。

 彼女は蜘蛛が近づいてくるたびに口をさらに大きく開ける。そのうち顎が外れてしまうのではないかとハダは不安になった。ふと気づいて腹に手を回して抱え上げたままのタイチに目をやると、タイチは今にもこぼれ落ちそうなほど目を見開き、母親を凝視している。眼窩が落ちくぼんだその顔は、あの醜悪な蜘蛛にそっくりだった。

 目の前に蜘蛛の牙が迫っても、母親は動かない。両足が膝下までガラスの中に埋もれているから。

 いやあれは、母親なんかじゃない。

 タイチの絶叫が響き渡った。

 ハダは反対側に持っている網の輪っかをくるりと一回転させてタイチの頭にばさっと被せて、言った。

「帰るぞ!」

 

 病室に戻ってきたハダは、よろめいた拍子に床に転がっていたタイチの体につまずいて後ろに倒れ尻と背中、後頭部をしこたま打った。

「いってえ!」

 頭をさすりながら起き上がると、床に転がったままのタイチの肩をゆさぶった。

「おい、大丈夫か」

 タイチは大きく目を見開いていたが、心ここにあらずの様子。

 まさかなんてことはないよな。

 ハダが嫌な予感に表情を一層険しくすると、タイチがぽつりと呟いた。

「ぼくのせいだ」

「あ?」

「お母さんは昨日、ぼくに向かって言ったんだ。『やめて、こっちに来ないで』って。ぼく――お母さんの目にはぼくが、あんな風に見えてるんだ。だから、こっちに戻りたくないんだ。ぼくは、お母さんを頭からバリバリと食べる醜いバケモノ」

「違う!」

 ハダが大きな声を出し両肩を掴んだので、タイチは泣きそうな顔で彼を見た。

「だって……」

「だってじゃねえ。いいか。俺はお前のようなガキは大嫌いだ。だがな、お前の顔はあそこまでひどくない。あんなものは、記憶じゃない。病気がお母さんに見させている何かだ。本物の記憶は、どこか脳の奥深い引き出しにしまい込まれていて、お母さんは。だが、今の探偵の技術ではそれを見つけることは不可能だ。意識の奥の、奥の方まで侵入しなきゃならないからな。そんなことができる探偵は残念ながらいない」

 タイチはくしゃくしゃになった顔でぽろぽろ涙を流し始めた。

「でも」

「でもじゃねえ。わかんねえガキだな。お母さんがああなったのが自分のせいだと思うのか。お前のことが嫌いだから。そんなわけがない。お前のせいでなんか、あるわけがない。この病気がいつか治るのか、治らないのか、それは俺にはわからない。だがな、俺は記憶探偵だ。これだけは保証してやる。あれは、は、お母さんが好き好んで見ている光景ではない」

 ベッドの上の母親は、苦悶の表情を浮かべ眠っていた。


 泣きじゃくるタイチをコートで隠すように、ハダはナラサキ探偵事務所に戻った。

「あらまあ、可哀想に。おじさんにいじめられたの?」

「はあ?」

 ナラサキさんの胸で泣きじゃくるタイチを睨みつけるハダの目は異様に鋭かった。

 泣くだけ泣いてようやく落ち着きを取り戻したタイチに、ナラサキさんは茶封筒を渡した。

「これ、預かってたお金。合計で七万八千三百四十三円。必要経費として千円だけもらっといたから。中に領収書も入ってる。落とさないように気を付けて」

「はああ?」

 目を吊り上げるハダを無視して、ナラサキさんはタイチをドアのところまで見送った。

「待てよ小僧!」

 階段を途中まで下りかけていたタイチにハダが追い付き、薄っぺらいパンフレットのようなものを強引に押し付けた。

「お前はなかなか見所があるみたいだから、考えてみろ」

 それだけ言って、ハダは事務所に戻り、ドアを閉めた。

 タイチの手の中に残されたパンフレットには「記憶探偵養成コース」と記載されていた。


(了)


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

キャッチャー・イン・ザ・メモリー:記憶の中で捕まえて 春泥 @shunday_oa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ