桜から生まれた先輩


「先輩、私の返事読んでくれたかな」

 トクットクッと鼓動が跳ねている。誰もいないテラス席に一人で座っているものだから、心臓の音がやけに大きく感じてしまう。

 いつもなら昼過ぎのこの時間は、店内はもちろん、テラス席もお客さんで賑わっているのだが、今日は臨時休業。

「先輩のために貸し切った……なんてね」

 肘を立て、あごを支える両手の間から、クスッと笑みが溢れた。

 サワサワと桜の木々が揺れる。

 私の髪を、肌を撫でる風が強くなっていく。

 一回、二回の瞬きのあとで私の目に飛び込んできたのは、待ち望んだあの人だった。

 意識せずとも体が勝手に動く。立ち上がった私は、階段手前まで走っていた。

「せんぱーい! 桜太郎おうたろう先輩!」

 大きく手を振り、私は声を飛ばした。

 自転車の横に立ち、こちらを見上げる先輩の驚いている姿が、私に満面の笑みを浮かべさせる。

 すると先輩はフイッと視線を私から逸らしたかと思えば、慌てたように自転車に跨り出した。

「あっ!? ちょと、ちょ、ちょっと待って先輩!」

 私は階段を駆け降りた。

 先輩がペダルに足を乗せ一漕ぎするが、私はすかさず自転車の荷台を引っ張る。

「先輩……! いきなり逃げようとするなんて悲しいじゃないですか!」

「な、なんなんだ君は……」

 朝の受付の時よりかは大きな声に私が嬉しく思っていると、不意に自転車が進み出した。

「あっ、もう! 逃げないでください! 上でお茶しましょうよ! さあ、降りて降りて!」

 私は眉を寄せてたじろぐ先輩の腕を引き、階段を登った。

「じゃあ、私は用意してくるので、先輩はそこに座っていてください」

 私はさっきまで座っていたテーブルを指差した。

 先輩がおずおずと座るのを確認した私は店内に入り、ケーキを二種類と、紅茶の入ったティーポットと、二人分のカップを用意する。そしてそれらを持ち、テラスに戻った私は思わず「ふふっ」 と小さく笑った。先輩が桜並木を眺めながら座っていたからだ。私がいない隙に帰れたはずなのにーー

「お待たせしました」

 私はテーブルに持ってきたものを置き、先輩にケーキを一つ差し出した。

「先輩には当店一番人気の、桜と桃のロールケーキです! ほんのり甘い桜風味の生地と中の桃の果肉がとっても合うと評判なんですよ!」

 すると素早く自らの胸の前で両肘を持った先輩に、警戒されているのだろうかと私は少しショックに思いつつも、その向かい側の席に座り、自分用のケーキを引き寄せた。

「私はミルクレープです! これも美味しいんですよ。あっ、先輩、紅茶にミルク入れますか?」

 先輩がコクリと頷いたのを見て、私はミルク入りの紅茶を差し出す。

「疲れた体には、甘いものが一番ですよね」

 それから私が自分用の紅茶にも同じようにミルクを注いでいると、先輩の固く結ばれていた唇がようやく開いた。

「……君がノートに返事を……?」

 私は紅茶を一口飲んでから言う。

「きちんとお話しするのは初めてでしたね。では、改めて自己紹介を……初めまして、吉野桜太郎先輩。大村八重です」

「っ……!」

 先輩は声にならない声を出し、表情をハッとさせた。

「入学式の前にも一度、会っているんですよ。思い出してくれましたか?」

「確か受付で……あっ!」

 当然大きな声を出した先輩に、私はクスッと笑った。

「式の後、ノートを渡したのも私です。そういえば、眼鏡についた絵の具、落ちてよかったですね」

 するとみるみる先輩の眉間に皺が寄っていく。

「なんでそのこと……君は……どうして僕だとわかったんだ。それに名前だって……僕は名乗っていないはずーー」

「そうだ、先輩!」

 私は先輩の言葉を遮った。

「私の返事、読んでくれました!?」

 先輩は徐に鞄からノートを取り出し、さらに皺を作った。

「……君は一体、何が言いたいんだ」

「『散ればこそ、いとど桜はめでたけれ、浮き世になにか、久しかるべき』……桜は散るからこそ素晴らしい。この憂いの多い世の中で、いつまでも変わらずにいられるものはない、という意味です」

「だから何を……!」

「まあまあ、落ち着いてくださいよ先輩。紅茶、美味しいですよ? 一口だけでも飲んでみませんか?」

「……」

 先輩は荒い息を吐くと、紅茶を一口、口に含んだ。

「先輩、前に返事をくれましたよね。この世に桜なんて存在しなければよかった、と。本当にそう思いますか?」

 桜の木々が風に揺れる音に釣られるように、私は桜並木を見つめて言った。

「……ああ、もちろんだ」

「そうですか……」

 私は小さく息を吐いてから続ける。

「確かに、私もそう思っていた時期がありました。でもある日から、考え方、捉え方次第で世界が変わることに気が付いたんです」

「……」

 先輩のほうをチラリと見ると、先輩も同じようにピンク色の景色を眺めていた。

 私は視線を戻し、昔を思い出しながら言う。

「このお店、おばあちゃんが始めたんです。その頃私は小学三年生で、ちょうど夏休みに入った時でした。急にカフェを経営することになったからっておばあちゃんが言い出して、家族全員でここに引っ越してきたんです。初めはなかなお客さんはきませんでした。でも一週間も経てば、おばあちゃんの知り合いとかその友達とかが、お客さんとしてきてくれるようになったんです。それから夏休みが終わって、私は学校へ通い始めました。転校先の学校では、うまくクラスの雰囲気に馴染めなくて、毎日一人で過ごしていました。でも、家に帰ったら親しくなったお客さんもいる。だから私は、お店の手伝いを何よりも楽しく感じていました。肌寒くなった頃には、学校で運動会の練習が本格的に始まったのをきっかけに、私はクラスの子たちとも仲良くなっていきました。お店で大人の人と会話をするのも楽しいけれど、私はやっぱり学校の友達と遊びたいと思っていましたから、放課後一緒に帰ったり、友達の家に遊びに行ったりする毎日がすごく楽しかったんです。やっとできた友達という感覚だったので、段々お店の手伝いもしなくなって、私は友達と遊ぶことしかしていなかったと思います。でもそれが、春休みになると一変しました」

「さくら……」

 先輩がポツリと呟いた。

「そう、桜が咲いたんです。後でおばあちゃんに聞いた話では、ここの桜並木は地元では結構有名らしいですね。気付いたときには満開で、家の前にすごい景色が広がっているものだから私は驚いて……それと同時に怖くなりました。人がわんさかいるんですから。地元で有名な桜並木を見ながら一息つける私の家は、すぐに雑誌に掲載されました。そしてそれもあっという間に拡散され、まだ春休みに入ったばかりだというのに、お客さんの出入りがそれまでとは比べ物にならないくらいに多くなったんです。私は当然のようにお店の手伝いをしなければいけなくなりました。学校の友達は私抜きで遊んでいる。私だってみんなと遊びたいのに……お店がなかったら、なんて考えたこともありますが、常連さんと会話するのは楽しかった。じゃあ、桜がなければ良かったんだ。そう思い込みました。だから毎日、桜を睨みつけていました。態度も相当、不貞腐れていたと思います。そしたらある日、おばあちゃんが私に言ったんです。怖い顔してそんな態度でいたら、お友達が嫌な思いをするでしょう、って。私には意味がわからなかった。ここに私の友達はいないのに、って思いました。するとおばあちゃんはこうも言ったんです。このお店に来てくれるお客さんは、桜に会いに来た人たちーー桜のお友達なのだと」

「桜の友達? でも、赤の他人に変わりないだろ」

 先輩の投げやりな口調に、私は喉を潤してから言葉を返す。

「私もそう思いました。だから、桜の友達だとしても私の友達ではない、とおばあちゃんに言ったんです。そしたら、八重は自分のお友達じゃないからといって、嫌な態度をとるの? お友達になれるかもしれないのに、よく知ろうともしないで突き放すの? おばあちゃんはそう言ってきたんです。私は何も言えませんでした。ああ、そっかーーと、腑に落ちたような気がしたからです。でもなんだかやりきれない思いが強くて、私は素直になれなかった。私が立ちすくんでいると、おばあちゃんは店内を見渡した後、窓際に座っていた男性と女性を小さく指差して、私の耳元で言ったんです。あの高校生のカップルはお付き合いをしたばかりで、この後は映画を見にいく予定だと。制服も着ていなかったし知らない人なのに、どうしてそんなことがわかったのか、私にはわかりませんでした。するとおばあちゃんはその人たちのところへ私を連れていき、そのお客さんたちに話しかけたんです。ケーキはお口に合いましたか、なんて、本当に他愛もない会話から始まったと思います。そして、おばあちゃんはふと言いました。初デートで桜を見にくるなんて、なんだかロマンチックで素敵だわ、と。お客さんたちは顔を見合わせた後、照れたように笑っていました」

「当たっていた……? じゃあ、映画を見にいくというのは?」

「それは、テーブルの上にチケットが置いてあったんです。その日の日付で、高校生料金の、上映時間が過ぎていないものでした」

「それも当たっていたのか……でも、どうして付き合いたて、なんてわかったんだ?」

「私もわからなかったので、訊いてみたんです。そしたら……先輩、おばあちゃんはなんて言ったと思いますか?」

「……」

 先輩は渋い表情で首を傾げた。

 私はクスッと笑い、言う。

「桜が教えてくれたのよ、だそうです」

「またそれか……」

 先輩は呆れたように息を吐いた。

「桜の友達のことは、桜がなんでも教えてくれるんですよ」

 私はぬるくなった紅茶で唇を濡らし、続ける。

「でも桜は、最初はそう簡単には教えてくれません。というのも、ただのきっかけに過ぎないんですよ」

「きっかけ?」

「はい。おばあちゃんは桜が教えてくれた、なんて言いますけど、実際はよく見て、よく訊いて、その人たちのことを考えていただけなんです。だから、自分のことしか考えていなかったあの頃の私が真似してみても、すぐには出来ない。桜は教えてくれないんです。逆に相手のことをよく知ろうとすると、桜は教えてくれるんです。自分から知ろうとして初めて、相手のことを知ることができる、ということです」

「はあ……」

 先輩は腑抜けたような声を漏らした。

「私、おばあちゃんにああ言われてから、なんだか桜のことを嫌いになれなくなってしまって……それどころか、桜が私に友達を連れてきてくれているって考えると、お店の手伝いがすごく楽しく感じたんです。それに、お客さんのことをよく見てみると苦手なものがわかったりして、また来てくれた時にはそれを抜いてあげようとか考えるようになって。そうすると、桜がなんでも教えてくれるようになったんです。その人が今なにを考えているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、嬉しいのか、その理由なども教えてくれるようになりました。もちろん、先輩のこともそうです」

 私が話を突然振ったものだから、先輩は一瞬驚いた表情をした。

「……じゃあ、僕のことも桜が教えてくれたとでも言うのか」

「まあ、そうなりますね」

 私はクスクスと笑った。

「ところで、先輩はどうして桜が嫌いになったんですか?」

「……桜に訊いてみたら良いじゃないか。大体、僕の質問には答えないくせに。君はなにを考えているんだ」

「いやいや、答えているじゃないですか!」

 私から顔を背けた先輩の横顔に向かって声を投げた。

「真面目に、本当のことをだよ! 桜が教えてくれた、なんて、答えていないも同然だろう」

 先輩は大袈裟にため息を吐いた。

 私の話を聞いて、ちょっとは桜を嫌う気持ちも変わったかなと思っていたのだけれど、この反応からしてそうではないのかもしれない。

「じゃあ、良いです。検討はついているので」

 私はカップを唇に当て、先輩をチラリと見た。そして小さく声を出す。

「桜から生まれた桜太郎……」

「っ!」

 先輩は首をグルンと勢いよく回して私を見た。

 本当に先輩は面白いーーニヤけてしまいそうな口元に力を入れ、私はカップをソーサーにそっと置いた。

「まあ、小学生の考えそうなことですよね」

 先輩は眉を寄せ、静かな鋭い目つきで私を見ている。

「そんな睨まないでくださいよ。良いじゃないですか!」

「良いって、なにが良いんだ。君に僕の気持ちがわかるのか!」

「人の感情というのはそれぞれ重さが違うので、理解できるという言い方しか私にはできません。でも、桜から生まれた先輩という表現、私は好きですよ? 桜は私の友達ですから」

「……」

 また顔を逸らしてしまった先輩に、私は鼻から息を吐き出した。

 すると先輩が「あっ……」 と、小さく声を漏らしたのでその視線の先を見てみると、大きな荷物を抱えた白髪の男性と、唾の広い帽子を被った女性が階段を登ってきていた。

「おじいちゃん、おばあちゃん、おかえり!」

「ただいま、八重。入学式に間に合わなくてごめんなさいね」

 おばあちゃんが眉を下げた表情で言った。その後ろから出てきたおじいちゃんはどうやら相当お疲れのようで、私にぎこちない笑顔を向けると、足早に店内で入っていった。

「あら、八重のお友達? こんにちわ」

 おばあちゃんの会釈に、先輩は頭だけ小さく上下させた。

「うん、私の友達。桜太郎先輩だよ」

「そう、素敵なお名前ね。八重の好奇心に振り回されないように気を付けるのよ?」

「そんなことしないってば……」

 もしかしたらそうなのかもしれないが、私は決してそんなつもりはない。

「じゃあ、ゆっくりしていってね、桜太郎くん。それと八重、彼のケーキ、違うものを出してあげなさい」

 おばあちゃんはそう言い残して去っていってしまった。

 先輩のケーキを違うものに、とは、どういう意味なのだろうか。

「先輩、違うケーキがよかったんです、か……」

 いや、そういうことではない気がする。おばあちゃんは先輩を見て、そう言ったんだ。

 先輩はというと、おばあちゃんがいなくなったからか緊張がほぐれたように肩で息をして、それから制服のブレザーの上から腕を掻いている。

 私はハッとした。

「先輩! もしかしてアレルギーなの!? もう、早く言ってくださいよ!」

「えっ、ああ……」

「えっ、ああ、じゃないですよ! 私のまだ手をつけていないので、こっち食べてください!」

 私は桜と桃のロールケーキと、ミルクレープを交換した。紅茶にミルクを入れて飲んでいたので、生クリームは食べれるはずだ。

「アレルギーは桜ですか? 桃ですか?」

 先輩はボソッと呟く。

「桃……」

 ああ、と私は心の中で納得した。痒くなってしまう桃の物語と自分の名前を交えて友達に弄られるのは、きっとショックだったのだろう。

「いや、それにしても捻くれすぎだと思うな……」

「君の好奇心はいき過ぎだと思う」

 私は咄嗟に口を押さえた。声に出したつもりはなかったのだけれど……

「そんなこと言わないでください。そのおかげで、今こうしてお話しできているんですから」

 先輩が冷ややかな視線を送ってきた。

「強引にだろう……」

 風が強く吹いた。

「先輩だって、帰ろうと思えば帰れたはずですけどね」

 桜の花びらがあちこちで揺らめき合う。

 ピンク色のシャワーが、微かな笑い声を乗せて私たちに降り注ぐ。

「……やっぱり僕は、君も桜も嫌いだ」


 先輩のその横顔は確かに、笑っていたーー


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さくら嫌いなきみに夢中 唯月もみじ @itsuki-momiji

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