桜が笑うのは
「お母さん、早く! 受付もう始まってるよ!」
私はテラス席の階段下からお店の扉に鍵をかけているお母さんに向かって叫んだ。
「もう、そんなに急がなくても間に合うでしょう?」
「そうだけど! 早く行きたいの!」
ワクワクして、うずうずして、ドキドキするーーついに先輩に会える。そう思うと、早く学校へ行きたくてたまらない。
朝起きて支度を済ませた私は、ノートがなくなっているのかを確認した。そしたら、いつものようになくなっていたのだ。それが意味するのは、先輩は今日も学校へ行ったということ。
しかし今日は入学式なのになぜ先輩は学校へ行ったのか。それはもう既に、ノートに書かれていた。
私は昨日、『それに僕は暇じゃないんだ』『君みたいな新入生のために式の準備をするんだから』 という文章に着目した。それは、『入学式の準備があるから暇じゃない』 とも捉えられなくはないが、私の都合の良い解釈でしかないことも確かだ。でも私には根拠があった。先輩は嫌いな桜の絵をテーマだから仕方がなく描いているということから、先生に頼まれたら断れないのではないかと思ったのだ。そして今朝、ノートがなくなっていたことが確証となった。
もっとも、私が昨日花壇の木の隙間に入れておいたのは、先輩のノートではないのだけれどーー
「忘れものは、直接返してあげなきゃね。先輩」
桜並木が笑っている。陽を浴びて、風に揺られ、柔らかなピンク色の花道にザワザワ、クスクスと笑い声が降っている。私の入学を祝ってくれているのか、それとも……
「ほら八重、行くわよ」
いつの間にか先を歩いていたお母さんが私に振り返り言った。
「行ってきます!」
私は弾む足取りで走り出す。
学校に着き、『在原第一高等学校・入学式』 と達筆な文字で書かれた看板の前を通り過ぎると、お店では見慣れた長い列がそこにあった。一見してわかるのは、受付をするために人が並んでいるということ。
列は五つある。保護者用の列が三つ。生徒用の列は二つのようだ。
そのため私は、お母さんと別れて列に並ぶこととなった。
保護者用の列のほうが数が多いのは、名前を受付で書かなければいけないので時間が掛かるうえに、子供一人に対して式を観にくるのは複数名いるからなのだろう。
一方で生徒は受付で名前を伝えるだけのようだ。そうすると、受付係の人が手元の紙にペンで印をつけていることから、その紙には新入生の名前が書かれているのだろう。だからすぐに式場である体育館に新入生が入っていくのが最後尾からでも見える。
しかしそれは、私の並んでいるほうではなく、隣の列の話だ。さっきまで横にいた人との間隔が、もう六人分くらい空いてしまっている。
私は前の人の肩から顔を出して覗いてみた。この列の受付係は、男子生徒だった。外見的特徴は、これといって挙げる点もないほど、パッとしない印象を受ける。強いて言えば、髪の毛は傷みのなさそうな黒色で、イヤリングや眼鏡などの装飾品は身に付けておらず、首元は少しの遊びがあるくらいにはネクタイがきちっと巻かれている。
その受付係の男子生徒は頭を下げ、机に顔を貼り付けるような体勢をしている。名前が見つからないのか、なんだか焦っているようにも見える。その数秒後、ようやく見つけられたようで、受付を済ませた生徒は体育館の中へ入って行った。そして息を吐く暇もなく、受付係の生徒はまた机に張り付いた。
遅いながらも、必死さが伝わってくる。一人、また一人とゆっくりなペースで列が進み、私の番が近付く。さらにまた一人、受付を済ませた新入生が体育館へ入っていこうとしたその時、私は見逃さなかったーー受付係の生徒が目の端を押さえようとした瞬間に、表情をハッとさせたのを。
列が進むのと同時に、私の鼓動が早まる。
数分後、ようやく私の番がきた。私は息を吐いてから、受付机の前に立った。
「名前を、言ってください……」
顔を上げることもなく、ボソッと呟くように言った受付係の生徒の声を聞いた途端、私は思わず笑みを浮かべた。それから私は、紙に書かれている自分の名前の上に人差し指を置き、はっきりとした口調で言う。
「大村八重です」
「あっ、ありが、とう、ご……」
小さな声なのに尻窄まりになるから、最後のほうは全く聞こえなかった。
その後、式が終わり、教室での自己紹介なんかも終えた私は、体育館の入り口から中を覗いていた。
するとーー
「大村さん?」
突然、背後から声がした。
驚いて肩をびくつかせた私が後ろを振り向くと、担任の宮坂先生が不思議そうな表情をして立っていた。
「どうかした? 忘れもの?」
「あっ、いえ、知り合いにちょっと用が……」
私は再び体育館の中を覗き、椅子を片付けている男子生徒を小さく指差した。
「先生、あの人を知っていますか?」
「ええ、吉野くんでしょう? 大村さんは彼と面識があるのね。なんだか嬉しいわぁ」
宮坂先生はその生徒を見て、笑みを浮かべている。私がその様子から、親しい関係なのかと訊ねる間も無く宮坂先生は続ける。
「彼は私が顧問をしている美術部の生徒なのだけれど、部活の子たちとも距離を置きがちでね、心配していたのよ。今日は人手が足りなくて彼に手伝ってもらうことになっていたのだけれど、やっぱり無理をさせてしまったのかしらねぇ」
宮坂先生がそう言うのは、その生徒の表情に疲労が見えるからなのだろう。確かに、私にもそううかがえる。
「そういえば、眼鏡をしていたと思うんですけど……」
「ええ。今朝、少しトラブルがあって、絵の移動をするときに眼鏡に絵の具がついてしまったみたいなのよ。ほら、あの絵。毎年何箇所か修正をするのだけれど、朝はまだ完全に乾いていなかった部分があったようで、絵の具がついた手で眼鏡に触れてしまったらしいわ」
宮坂先生の言う『あの絵』 とは、体育館のステージ上にある大きな絵のことだろう。式の最中にも気になってはいたが、海老の石像のなんとも主張が激しい絵だ。
「あら、いけない、話し込んじゃって。じゃあ大村さん、私も片付けをしなくてはならないから、また明日ね。気をつけて帰るのよ」
「はい、さようなら」
私がそう言うと、宮坂先生は中へ入って行った。
それにしても、先輩は眼鏡を自らの手で汚してしまうとは、うっかりしているのか、やはりおっちょこちょいなのか。
「どっちも同じことか……」
呆れるどころか、可愛いと思ってしまう。
ともあれ、宮坂先生とも話したように、さっきから私の目に映る先輩のあの様子だと、受付係の手伝いは物凄く大変だったらしい。椅子を運ぶのにも苦労しているようだ。
しかし、どうしたものか。ノートを渡したいのだけれど、早くしないと校門で待ってくれているお母さんにツノが生えてしまう。もう靴に履き替えてしまっているし、宮坂先生に渡してもらうべきだったか……
あれこれ考えているうちに、先輩が手伝いを終えたようでこちらに向かって歩いてきていた。
「っ!」
私は咄嗟に物陰に隠れた。鞄から先輩のノートを取り出し、ワクワク、ドキドキする気持ちを落ち着けるために深呼吸をする。
足音が近付いてくる。
「……はぁ」
ため息が聞こえた。
先輩の丸まった背中が見えた。
私は少し離れた距離から声をかける。
「先輩、忘れものですよ」
すると先輩は立ち止まり、こちらへゆっくりと振り向いた。
私はスタスタと歩いて行き、ノートを差し出す。
瞬きを繰り返しながらキョロキョロと目を泳がす先輩がなんだか面白くて、私の口角が上がっていく。
私の手からノートをサッと取った先輩は、素早くお辞儀をして校舎へ入って行ってしまった。
「お疲れの先輩には、甘いものを用意しておこうかな……なんて言ってる場合じゃない! ツノは生えてませんように!」
私は大急ぎで校門へ向かったのだった。
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