桜の絵


「私だって、ズカズカ踏み込む気はなかったし! もう!」

 入り口に一番近い席にどかっと座り、私はカウンターに顔を伏せた。

 先輩が嫌な過去を持っていることを知っていながら、その心に土足で踏み込むようなことは私だってしたくなかった。だから極力、ストレートに問いただすようなことはしていないつもりだ。でもまさか、ありきたりな公園の敷地が、実は先輩の私有地だったとは思いもよらなかったのだ。ノートに書かれた『無神経』 という先輩の綺麗な文字が、瞼の裏に焼き付いて離れない。

「なんだなんだ、八重ちゃん。珍しく怒っているのかい?」

 シゲさんの声が聞こえた。顔を上げると、いつものカウンター席に座っているシゲさんと目が合った。

「シゲさんが桃太郎の話しなんてするからだよ」

「八重、シゲさんに当たらないの!」

「だって……」

 本当のことだもん、と言いかけた言葉を引っ込めた。

 お母さんの言う通り、シゲさんにモヤモヤする気持ちをぶつけているだけだということは自分でもわかっている。

「八重ちゃんは、桃太郎は嫌だったのかい? 三春さんとのお決まりのやり取りだったんだけどなぁ」

「ううん、違うの。ごめんなさい……」

 そうだ、違う。シゲさんの最新作の内容がわからないままでちょっと不本意な気もするけど、先輩の名前がわかったのはシゲさんのおかげだ。それにその話をした後からは、なんだか先輩が心を開いてくれた気もするからーーそう考えると、モヤモヤもなくなった。早く先輩とお話がしたい。

「ねえ、お母さん。明日って二、三年生は学校お休みなのかな」

「そうねえ、入学式は一年生だけなんじゃないかしら」

 なんだ、明日はまだ先輩に会えないのかーー私が残念に思っていると、シゲさん言う。

「いやいや、在校生もいるはずだよ。生徒会に入っていると在校生代表として新入生へ向けて挨拶をするみたいだし、吹奏楽の部活の子らなんかは演奏をするらしい。あとは希望者も受付の手伝いなんかをする」

「あら、そうなの? シゲさん詳しいのね」

 お母さんの言葉に照れたのか、シゲさんは頭を掻いた。

「仕事でね、前にそういう取材をしたことがあるんだ」

 そういうばシゲさんは何作目か前に、高校生と教師の禁断の恋をテーマにした小説を書いていたな。確か、前世では家柄のせいで引き離されてしまい、生まれ変わったら一緒になろうと約束をした男女が、悲しいことに現世でも許されない関係という設定だったはず。なんだかシゲさんのおばあちゃんへの願望が読み取れる作品で、私は少しむず痒くなった覚えがある。

 それにしても、どっちみち明日はまだ先輩に会えないのか。先輩は美術部だし、人と話すことが苦手な人がわざわざ希望して手伝うなんてことはしないだろうから。

 私は頬杖をついてため息を吐いた。

「そうだ、八重」 お母さんが言った。

「さっき電話があって、おばあちゃんたち帰ってくるの明日のお昼過ぎくらいになるって。トラブルがあったらしいのよ。式には間に合いそうにない、ごめんねと言っていたわ」

 私は両手をカウンターについて身を乗り出した。

「ええー! そんなぁ……! じゃあ、誰もきてくれないの?」

「なに言ってるのよ。私が行くに決まっているでしょう?」

「だって、お店は?」

「当然、お休みにするわ」

 私は言葉を詰まらせた。入学式に誰も観にきてくれないのは寂しいけれど、そのせいでお店を休みにするのも気が引けてしまう。

 私はゆっくり腰を下ろした。

「……いいよ。お休みにしたらお客さんが悲しむもん」

「なあに? 娘の入学式なのに私は行ってはいけないの? みんなで行くつもりだったから、お休みの告知もしてあるのよ?」

「えっ? そうなの?」

「そうよ。卒業式のときは前々から予約が入っていたから休めなかったけど、私だって行きたかったのよ」

「良かったね、八重ちゃん」

 シゲさんが目元に何個もの皺を作って私に微笑みかけている。

「うん!」

 私は大きく頷いた。

「それで、このあいだ入学式の栞が送られてきたんだけど、ここにはカメラの持ち込み禁止とは書いていないから、式の様子は撮ってもいいのよね?」

「ちょ、ちょっとお母さん! そういうの撮らなくていいから!」

 小学校の入学式ならまだしも、私はもう高校生だ。その栞をパラパラとめくるお母さんはなんだか楽しそうにしているけれど、私にしてみれば恥ずかしいに他ならない。

「どうして? おばあちゃんもおじいちゃんも見たいと思うわ」

「本当にやめてほしい……」

 しかし、入学式の栞が届いていたとは知らなかった。当日の持ち物などは別の紙に書いてあったから、それは保護者向けのものなのだろうーー

「あれっ!? ねえ、お母さん! その栞ちょっと見せて!」

 私はお母さんからそれを受け取った。気になったのは表紙。そこに描いてある絵だった。この桜並木の絵には見覚えがあるどころか、私が今いる店内からも見渡せる。それに、先輩のノートに描いてあるものと全く同じだ。

 先輩はすごいな。表紙を任されてしまうのだから。

「おお! とても上手じゃあないか!」

 絵を見てそう言うシゲさんの言葉が先輩に向けて発せられたのは明白だ。でも、なんだか自分のことのように嬉しく、心が温かくなって、口角も上がる。

「ああ、そうかそうか! 思い出したぞ!」

「ん? なにを思い出したの? シゲさん」

 なんだろう。シゲさんはなぜかニヤついた笑みを浮かべている。

「いやあ、一ヶ月ほど前にもこの絵を見たことがあったんだよ。ほら確か、三春さんが旅行に出かけたのを八重ちゃんから聞いた日だ」

 その日は私が先輩のノートを見つけた日だ。

 シゲさんは続ける。

「このお店の前を通りかかったら、階段下のベンチに眼鏡をかけた男の子が座っていてね。筆箱から色鉛筆を取り出して、ノートと睨めっこしていたものだから気になってね、声をかけたんだ。でも怪しまれてしまったのか、残念ながら話しはできなかったんだけどね。この絵を見る限り、その時はまだ未完成だったようだけど、構図なんかがそっくりなんだ。こりゃあ、将来は有望な画家さんだなぁ。となれば、シゲさんはその若き日の創作現場を目撃してしまったじゃないか。いやはや、なんとも光栄だねぇ」

 私は驚いた。まさかのまさかだ。話を聞く限りでは、シゲさんは先輩と会ったことがあるということになる。

「シゲさん、びっくりだよ! とっても良いこと教えてくれてありがとう!」

 私の大きな声に釣られてか、シゲさんは「おお!?」 と声を上げた。

 私はニヤリと笑みを浮かべて言う。

「シゲさんの最新作は、美術に関するお話なんだね。だから、絵を描いていたその人に話しかけたんでしょう? 取材のために。それに『構図』 だなんて、シゲさん絵に詳しくなかったでしょうに」

 シゲさんは少しの間、口をあんぐりと開けていた。

「……まったく、八重ちゃんには敵わないなぁ。その通りだよ……とある男性は、主人公である画家に最愛の妻の肖像画を描かせるんだ。次第に主人公はモデルであるその奥さんに恋心を抱き始めてしまう。しかし発展しない関係に主人公は苦しみ、なんとか描き終えた絵を燃やしてしまうんだ。その後、主人公は絵を描けなくなってしまうのだが……」

「だが……?」

 私は息を飲んだ。

「……おやおや、もうこんな時間だ。シゲさんは帰ろうかな」

「んもう! そんなところで止めないでよ!」

 最近の中で一番愉快そうに笑っているシゲさんに、私は少し腹が立った。この気になって気になって仕方がない感じーー私の好奇心を強く刺激しておきながら、そこで止めてしまうなんて信じられない。

 でもまあ、今日だけは勘弁してあげるとしよう。シゲさんは私に、本当の本当に良いことを教えてくれたから。

「また今度、絶対に続き教えてね!?」

 私はシゲさんに詰め寄った。

「うんうん、もちろんだとも。でも、あれだよ八重ちゃん。三春さんにはまだ内容は秘密だよ?」

「はいはい。昔々あるところに、ってやるんでしょう?」

「ああ、シゲさんの楽しみなんだ。それと、一日早いけど、入学おめでとう」

「うん、ありがとう!」

 そうしてシゲさんが皺くちゃの笑顔で手を振りながら帰って行ったあと、私は先輩になんて返事をしようか考えていた。

 そもそも、私はもう先輩に直接伝えることができる。何せ、先輩の名前も容姿もわかってしまっているし、美術部なので学校に行ったら部室として使われているであろう美術室を訪ねればいいだけだ。

 先輩の名前がわかったのは、ここ何日かのやり取りを私の立てた仮説に則って考えた結果だ。

 まず、私の立てた仮説は、『先輩は友達に名前を馬鹿にされた過去があり、それが原因で桜を嫌うようになってしまったのかもしれない』 というものだった。

 そして私は『ただそこにあるだけで僕を嫌な気持ちにさせる。そんなものと一生離れることができない僕の気持ちが君にわかるか』 という先輩の返事に着目した。この文章は、『桜と一生離れることができない』 というものなのだが、どういう意味なのか私は考えた。桜は春に咲く花であって、それ以外の季節には花をつけないのだから、春でなければ離れることができるはずだ。では、花の桜ではないとするとそれはなにか。いつも先輩の側にあり、『一生』 という単語がつくことから、私は先輩の名前に桜が入っているのではないかと考えた。

 さらに、桃太郎の話にそれが関係していることもわかった。なぜなら、私が話を変えようとして桃太郎の話題を振ったときの返事に、先輩は桜を交えてきたからだ。

 それらを繋ぎ合わせると、『桃太郎や桜のつく名前のせいで友達に馬鹿にされた過去があり、桜を嫌うようになった』 という仮説になる。

 次に容姿は、ついさっきシゲさんが教えてくれた要素を私の想像する先輩の雰囲気に加えることで正確性が増したはずだ。先輩は人と話すことが苦手で几帳面な性格をしていることを前提にすると、制服はあまり着崩さず、一人で行動することが多いうえに、やや俯きがちな姿勢をしているであろう。それにシゲさんは『をかけた男の子』 と貴重な証言をしてくれた。

 名前、容姿もここまでわかってしまうと、もうすぐにでも先輩と直接お話がしたくなる。しかし明日は入学式。やはり先輩は学校にいないのだろうか……

「っ! もしかして……!」

 私は先輩のノートを顔の高さまで掲げ、たった今思い付いたばかりの自分の考えに高揚感を覚えた。

 それからジッパー付きの袋に入れたノートを、ベンチの上の花壇の木の隙間に挟んだ私は、明日を楽しみに待つことにした。

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