雨のあと、伸びやかなる緑は

micco

知唯

知唯ちい先生、もたもたしてると研修会始まりますよ」

 そう言われて、知唯がパッと職員室の壁掛け時計を見ると、既にバスの時間が迫っていた。三時五分。バスは三時十五分。

「あぁまずい!」

 慌てて立ち上がった彼女を見遣り、範子のりこはあからさまにため息を吐いた。

 知唯は反射的に肩を竦めかけたが、今は急ぐしかない。胸がもやついたのを無理に明るい声を出し「教えていただいてありがとうございます!」と、相手の顔も見ずに立ち上がった。鞄に筆入れを突っ込んで研修資料を抱える。

「R小に研修会行ってきます! また戻ります!」

 いってらっしゃーい、と職員室中から声が掛かり、知唯はガラガラッと戸を閉めた。

 目当てのバス停は学校前とはいえ、油断すると乗り遅れてしまう。そうでなくても今年度からバスの本数が減ったと話題になっているのだ、一本逃すと次は二時間後。つまりどうやっても間に合わない。

「もう、なんで今日に限って! 私のばか!」

 紺のノーカラースーツでグラウンドを全力疾走し、プール脇から学校裏へ抜ける。

 普段は車で通勤している知唯だったが、放課後に研修会があることを忘れて自転車通勤したのが運の尽きだった。誰か乗せていってくれないかと期待しても今日は金曜で、しかもどの学年も二時半下校なのでみな年休を取るか、切羽詰まった案件の提出に迫られていた。

 今年転任してきたばかりの彼女に、まだ頼れる同僚――仲のいい先生はいない。「R小? バスが出てるんじゃない?」と冷たく教える者はいたが。


 敷地を囲むフェンスを辿って、時刻表にゴールタッチした。息が切れ、抱えた封筒はひしゃげていた。

 五月の上旬、連休で桜は完全に散り道路へと緑が枝を伸ばしている。屋根付きのバス停にはベンチが二つ並べてあり、知唯はこれ幸いとそれに腰掛けた。「あー」訳もなく声を漏らし、姿勢悪く背もたれに首を乗せて息を整える。マスクの内側が濡れて気持ち悪い。額の汗を袖で拭いかけてやめた。机にハンカチを置きっぱなしにしてきたのを思い出す。

「あぁもう!」

 なんでこう、上手くいかないんだろう。前の学校ではもっと――。

「あら、雨だわ」

 突然女性の声と共に、サァと細かな粒が風に打つ音がした。通り雨、むっと土埃の匂い。

「え?」

 知唯は顔を横に向けた。雨はともかく、隣に人がいたことに今さら気づいたからだ。

「あ……こんにちは!」

 学校では「いつも笑顔で元気にあいさつ」をスローガンにしているので、子どもも教員も然りだ。知唯は驚きも合わさり大声を出した。知らず恥ずかしさで、顔も火照った。

「あら元気でいいわねぇ。こんにちは」

 場違いな調子にもころころと笑う老女に、知唯はポカンと口を開けた。聞いたことのある声、その笑顔。

「……もしかして、典子テン子先生……?」

「そういうあなたは……あぁ知唯先生。久しぶりねぇ! マスクしてると顔が分からなくて、気づかなかった」

「わぁ……! テン子先生お会いできて嬉しいです!」

 知唯は慌てて立ち上がり、深くお辞儀をした。

「やだ。もう随分前に辞めたんだから、そんなに畏まらないで。ほら、座ってよ」

 あぁ、と知唯は嬉しさで泣きそうになった。典子に言われた通り、同じ場所に腰掛けた。

「初めて会ったときは新採でピチピチしてたのに、何だか貫禄がついたんじゃない? 今はどこ小?」

 その物言いも懐かしく、変わらない。

「この四月から、ここ……S小です」

「奇遇ねぇ。私、家がすぐそこなのよ。と言ってもね、もうずうっと籠もりっきりなんだけど。知唯先生は今からどこに行くの?」

「R小で研修なんです。あ!……バス、遅れてるのかな」

 時間が気になり鞄を探ったが見つからない。どうやらスマホまで職員室に置いてきたと分かり、知唯は肩を落とした。

「どうしたの、さっきまで元気だったのに。知唯ちゃん忙しそうね?」

「テン子、先生」

 あぁテン子先生だ。知唯は今度こそ目頭が熱くて我慢できなくなった。

 放課後の職員室で、知唯が何かに困っている様子を見せると典子は必ずそう聞いた。

 学校の右も左も分からない、国語も算数も授業も、得意でもない体育や理科の実験もしなければならない三年の担任になった新採一年目。保護者との遣り取りも、子ども達の治め方も、学級だよりの書き方も――何もかも悩んだ年。

 二年担任で隣の席だった典子は「忙しそうね?」とさりげなく知唯の悩みを聞いた。そして時には教材研究に助言をし、「あぁあそこの家はね」と情報を惜しげもなく教えては知唯を勇気づけた。

 しかし典子はその年を最後に退職し、職員のお別れの会では知唯の方がまぶたを腫らしたのだった。

 ――今、楕円の眼鏡の奥からまるで変わらない優しい笑みが知唯に届き、彼女は三月までの慣れた職員室に戻ったような心持ちになった。素直に肯いた。ぐぅ、と喉が詰まったようになったのを懸命に震わせる。

「初めて、一年生の担任になって」

 何もかも上手くいかなかった。子ども達が知唯の言うことをまともに聞いたのはたった一週間だけだった。

「授業参観も、失敗、してしまいました」

 学級懇談会の保護者の冷たい視線。

「主任にも、毎日迷惑かけてばっかで」

 範子先生はベテランだけど、厳しい。範子先生が教室に来ると、子ども達も大人しくなる、でも。

「そう。授業が上手くいかないの?」

 知唯は肯いた。

「何人か……私が話してても立ち上がって歩き回ったり、後ろ向いてしゃべったり。注意してる間に授業が終わっちゃうんです。全然進まなくて、私のクラスだけ遅くて」

 保育園がいい! と、休み時間に騒ぐ子ども達。

「主任、真面目な人?」

「……はい」

 そりゃ大変ねぇ。雨音に呑気な声が重なった。

 今日の休み時間も給食も、うるさくて注意している間に別な子ども同士がケンカを始めた。いただきますが遅れ、食べるのが遅い子達が半分も残して調理師にも謝りに行った。「二組は普段からお残しが多いのに」と小言をもらった。

 帰りの会でも。下校中も。きっと来週の月曜日も――。

 これまで持った学級ではあり得なかった目眩のするような光景が思い出されて、知唯は顔を覆った。恥ずかしかった。典子でなければ言えない、今の同僚の先生には決して言えない弱音を口にした。

「私じゃ、ダメです。私、一年生向いてないんです」

 冷たい汗がこめかみから流れた。

「あら、もう雨が上がりそうね」

 唐突に、典子が呟いた。のろり億劫に顔を上げると、確かに雲間から光が差しているような明るさが感じられた。雨の音もかすか。

 そういえばバスは、と考えたときだった。

「ねぇ……知唯ちゃん、学校には慣れた?」

「え?」

「誰か何でも相談できる人はいる? 分からないことを聞けたり、嬉しいことがあったら一緒に喜んでくれたり」

「……いません。誰も、誰もいなくて」

 テン子先生がいれば! と言いかけた。悩みを聞いて、優しく助言してくれる人がいれば私だって! と。

「じゃあ、一年生は知唯ちゃんが一番向いてる」

 向いてる?

 虚を突かれて、知唯は典子を真っ直ぐに見た。最後に会ったときより増えた白髪の側、笑い皺が優しく下がった。マスクをしていない痩せた口元が、にっこりと微笑んだ。

「だって子ども達も同じ気持ちよ、きっと」

 あ。息が止まった。

「保育園てねぇ、一日中遊ぶのよ。あたしも孫を見てよぉく分かったのよねぇ。そりゃちょっとは鉛筆の練習もするらしいけど。でも一年生になった途端、全然知らない先生相手に一日中座ってなきゃいけないのよ」

「知らない先生……一日中」

「それって大人でも辛いでしょう? もちろん、子どもって何でも楽しんじゃう才能があるから頑張れちゃうんだけど。あたし達も異動したばっかりだと……特に知唯ちゃんは二校目だからやりづらくて仕方ないでしょう?」

「はい」

 知唯は呆然と返した。

「それも上手にできないと怒られちゃったりして。何かあると主任からすぐ指導入っちゃうのと一緒よ。そりゃ嫌になっちゃうわよ」

 あぁ私、私!

「五月と言えば、そろそろ遠足よね。あたしもあと一回だけ子どもと遠足行きたかったなぁ。……ほら知唯先生。ふふ、このハンカチあげる」

 そ、と目に柔らかな布が押し当てられた。じわと吸い取られた水分が冷えて気持ちよく、知唯はついそれを受け取った。

「あ、洗って返します……!」

 大丈夫、誰でも初めてだから。

 典子の声がした。そうだ、そうだったと知唯は何度も肯いた。

 『誰でも初めて』は典子の口癖だった。教室も教科書も学習内容も、相手も先生も毎年何かが変わる。全く同じ一年は決してない。

 それは教員も子どもも同じで、世界中の人が新学期はきっと同じ。

「だから、『間違ったって……いい』」

 そう。そうやってみんな大きくなるのよ。次よ、次。また明日!

 はい、頑張ります。私、頑張ります。

 布越しでも、知唯には空が晴れていると分かった。

 短かった雨は止み、そこら中の新芽や緑葉が伸び上がったように煌めいた。

 知唯はガーゼのハンカチが濡れて、指の爪まで湿ったとき、バスのクラクションを聞いた。

 いつの間にか典子の姿はなかった。


「まったく。ケータイを忘れたら連絡着かないでしょう!」

「すみません、範子先生」

 無事に研修を終えた知唯は、帰りのバス停の前で待つ範子の車を見てポカンと口を開けた。ウィンドウを開けた範子は「学校戻るんでしょう? 早く乗って」といつものため息を吐いた。

「あの……ありがとうございます。でもどうして来て下さったんですか?」

「今日は教頭もいないし、先生方みんな帰って学校閉めようって話になったから、電話したのよ。そしたら机で鳴ってるからびっくりしたわよ」

「すみませんでした……」

 もう何度目か分からない謝罪を口にし、知唯は俯いた。

 そうだ、誰とだってすぐ仲良くなれるわけじゃない。

 バス停で会った典子の言葉を心の中でなぞる。

「それと、来週じゃ知らせるのが遅いかと思って」

「え、何ですか?」

「知唯先生、山本先生知ってる? テン子先生……山本典子のりこ先生。今朝お亡くなりになって日曜に葬儀だって」


 私も会いたかった、と範子は知唯の譲り受けたハンカチを見て、そうこぼした。耳朶の黒真珠が鈍く光った。

「わたしも範子でしょう? 初めてお会いしたとき、同じ名前だからって『あたしはテン子先生になろうかな』っておっしゃったの」

「そうだったんですか」

「テン子先生って、困ってる人見つけると話しかけちゃって、いつも帰るのが遅かったから……きっと、うっかり知唯先生を見つけたんでしょうね」

 そうかもしれません、と知唯はハンカチを強く握った。

 曇天の帰り路、知唯は再び範子の車に乗って、学校へと向かっていた。金曜の夜にするつもりだった学級通信が終わらなかったからだ。着慣れない喪服は買ったときより少しキツく、彼女は落ち着きなくシートに座り直した。

「あぁそうだ。公開研究会の指導案、昨日できたから見ておいてね」

「え!? もうですか? すごい」

 公開研は七月頭だったはず、と月暦を思い返す。

「……主任はともかく、研究主任と授業者の兼務は初めてだから急いで作ったのよ。二組は公開授業はないけど、同案で行くんだから。全体事前研の前に一緒に検討会しましょう」

「はい……」

「どうしたの? 『忙しいの?』」

 知唯は範子を見た。唇が少し突き出た、とっつきにくそうな横顔。小学校教員の宿命の、目元に散らばったシミ。薄らと刻まれた笑い皺。

「いいえ」

 口を閉じて、開けた。

「私、一年担任が初めてで……授業も進んでないし、検討も的外れなことばっかり言っちゃうかもしれません」

「そうね、そうかもしれないわね」

「すみませ」

「でもね『間違ったっていい』、でしょ? それにフォローするために主任わたしがいるんだから」

「範子先生……ありがとうございます……」

 学校のフェンスが見えた。バス停が近づいて知唯が目を凝らしても、もう誰の姿も見えない。

「そういえば、何で金曜は自転車で通勤したの?」

「私、S小にきてからもう二キロ太ったんです」

「えぇ?」

「給食美味しくて、食べすぎちゃって」

 あっはっはは、と範子は笑った。車は学校のロータリーに滑るように入った。

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