#5 ペトルーシュカの墓標

conclusion

 南の窓の緞帳をひらくと、銀色の海がよく見えた。

 薄雲の紗を重ねた空から降る光は、白く淡い。影を描かず、すべての物の輪郭も境界も、曖昧にかすませていく。弱い光だ。それでも、水面に注げばそれはきらきらとまばゆく輝き、まるで白銀の鱗のように見える。大海原の波間に留まり、深く眠る、巨大な魚だ。

 ひらいた窓から流れこむ潮風には、わずかにみどりの香りがとけている。ひんやりと涼しい、初夏の風だ。

 洋館を模した別荘地の一角、高台にひっそりとたたずむこの邸には、街の喧騒は届かない。ここにある音は、ぼくの声と、彼の声と、あとひとつ。彼の手が、ぼくを描く音だけだ。

 一人用の椅子に、深くかけて、ぼくは窓から外を見ている。そして彼は、ぼくをキャンバスに描き出していく。彼の瞳が、ぼくの影をとらえる。彼の指先が、ぼくの輪郭をなぞる。彼が向かう真白の紙上に、ぼくのかたちがあらわれていく。

「姿勢は、これで良い?」

 ぼくは尋ねる。

「ああ、楽に……自然にしてくれてかまわない」

 彼の答えは、いつも同じだ。彼はぼくに命令しない。もっと顔を上げろとか、目線をこちらに向けろとか、そういった指示を、ぼくは一度も受けたことがない。動くな、という声さえ。だから、ぼくは、いつも海を眺めている。光をちりばめた水面を、影に沈むうねりを、見つめている。くすんだ街と、きらめく海。その境に、もうすぐ海霧が立つ。

 彼は、丁寧に、ぼくを描く。あたたかい大きなてのひらで、ぼくの背中を撫でるように。すらりとした長い指で、ぼくの肋を辿るように。なんだかくすぐったいような、奇妙なここちがして、脚のあいだが、ざわざわした。すこしうつむいて、膝をぎゅっと閉じる。彼のは、ぼくのからだのすべてを見て、彼の手が、それを憶えていく。ぼくの命を、記していく。

「終わったの?」

「……ああ」

 彼の手が止まり、この部屋にたゆたう音が、ひとつ消える。代わりに、ぼくと彼の声が、静寂を穏やかにゆらしていく。ぼくは席を立ち、彼の背中に回った。華奢だけれどかっしりとした、彼の肩越しに、キャンバスをのぞく。

 まっさらのキャンバスに、小柄な青年がたたずんでいる。歳は二十代半ばくらいだろうか。骨のかたちがみてとれる華奢な体躯。彼が、いつも、描いているモデル。見慣れたからだのはずなのに、違和感を覚えるのはなぜだろう。

――これは、ぼく?

 胸の内で問いかける。ぼくは、自分のかたちを知らない。自分の姿を見たことがないからだ。この邸には鏡がなく、窓の硝子も夜になるとすべて緞帳が下ろされる。ぼくのからだを映すものは、何ひとつない。

「昼食にしよう」

 彼とふたりでスープを作る。分量は、一人分と三分の一だ。小さな器に注いだそれを、ぼくは時間をかけて食べる。そろそろと口に運んで、ゆっくりと呑みこむ。すりおろしたにんじんとじゃがいもの、やわらかな味がした。少しずつ、ものを食べることができるようになっている。以前は、何も受けつけなくて、何を食べても吐いていた。液体栄養どころか、水でさえ、そうだった――と、教えてくれたのは、週に一度往診してくれる、白衣姿の女の人だった。


――まるで、こころが、からだを殺そうとしているみたい。


 女の人は、そう言った。背中を流れる小豆色の髪と、まつげを伏せた朽葉色の瞳が印象的だった。その頃のことは、ぼくは憶えていないのだけれど、死に向かっていたぼくのからだが今こうして僅かずつでも生きる機能を取り戻しているのは奇跡らしいということは、なんとなく分かった。


――幻心病ファントム・パラノイアを、知っている?


 《カンパニ》を悩ませている、《オルタナ》のやまいだ。初の症例は、伊シリーズの一体だったという。発症した《オルタナ》は、ひとと同じように笑い、泣き、願い、祈り、ときには自ら命を絶つ。致死率つまり自殺率は、およそ三割と言われている。脳をいじられて、条件付けを受けて、心を失くしたはずなのに、まるで心があるような情動をみせる、この病を、幻肢痛ファントム・ペイン――四肢を切断した人が、失った手足をまだあるかのように感じ、痛みを感じること――になぞらえて、幻心病ファントム・パラノイアと、呼ぶ。

「ぼくも、幻心病だったのかな」

 こくり、とスープを飲み干して、ぼくは呟く。バゲットを千切っていた彼の手が、止まる。

「おまえは、自分を、《オルタナ》だと認識しているのか」

「違うの?」

 ぼくは、ゆらりと首をかたむける。「いや……」と、彼は言いよどみ、視線を落とした。彼の瞳に、少し長めの前髪が、さらりと紗をかける。まっすぐな、濡烏の髪。

 ぼくの記憶は彼から始まり、そしてずっと彼とともにある。初めてまぶたをひらいた日、ぼくの瞳に映ったのは、ぼくを見下ろす彼の静かな双眸だった。ぼくのからだは、薄汚れた粗末な寝台に横たえられていた。寝衣から覗く胸は肋が濃く影を落とし、まるで水底で朽ちた魚の骨のようだった。からだを起こそうとしたけれど、肉の削げた脚は立たず、腕も青白く痩せ衰えて、とうてい使いものにならなかった。心臓がまだ動いているのが不思議なくらい、白く、もろく、がらんどうになった、珊瑚の屍骸のようなからだだった。重い頭で、首をめぐらすと、力なく垂れた彼の右手に、光るものがあった。注射器だった。既に注ぎ終えたのか、中は空だった。ぼくに、打ったの? それ。問いかける声は無残にかすれていて、ただひゅうひゅうと隙間風に似た音ばかりが、途切れとぎれに喉から流れていった。あなたは、誰なの? ぼくは、誰なの?


――誰、だった、の……?


「……セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミン」

 うたうように、ぼくは呟く。ぼくの中に残っていた知識。〝憶えている記憶メモリ〟を全て失っても、〝知っている記憶ナレッジ〟は忘却のふるいに残る。

「感情なんて、結局は化学物質の生体反応の連鎖にすぎない。今や薬のさじ加減ひとつで、快楽も苦悩も容易たやすく左右できる」

 だから、この国は《オルタナ》をつくれた。《イノセンス》を生み出せた。

「それでも、心には、まだ……人の手の及ばない未知の領域が残されているみたいだ」

 まるで、人の手垢にまみれない聖域みたいに。

 あらゆる危険因子を排除し、健康に整えたはずの体でも、わずかな細胞の傷や、遺伝子の誤差をきっかけに、癌細胞が生じるように。

 完璧に漂白したはずの《オルタナ》に、死に至るほどの心を滲ませるものがあるとすれば、それはいったい何なのか。

「あなたは……」

 彼を見つめる。澄んだ黒の双眸は、影に沈んでうかがえない。ぼくの姿を、彼の瞳に映すことはできない。

「どうして、ぼくを、生かしたの?」

 生かしつづけるの?

 ぼくの問いかけが、雫のように、ぽつりと落ちた。いだ水面に、波紋をひとつ、描くように。

「……遺言、だったから」

「遺言?」

 誰の? と、ぼくは彼の答えをすくい上げる。

 彼が視線を上げる。そのまなざしは、ぼくではなく、ぼくの向こうにいる別の誰かに向けられているみたいだった。

「《イノセンス》を打たれる前の俺の……遺志だった」

 彼は、静かに答えた。記憶の水を、さざなみを立てないようにそっと汲み上げるような響きだった。

「あいつは、完璧だった」

 痩せた頬が、かすかにほころんだ。ぼくに向けた微笑だろうか。それとも、彼の記憶の水面に映る誰かに宛てたものだろうか。かげを宿した、不完全な微笑だった。いくつもの感情が、複雑に綾取られていた。それを解くすべを、今のぼくはもたない。《オルタナ》なら、きっと完全に微笑むことができただろう。ひとは、うれしくなくても笑うことができる。演技できる。社会は舞台だ。心なんてなくても、いや、心がないからこそ、《オルタナ》は正しく、完璧に、望まれる科白せりふを読み上げることができる。相応ふさわしい表情をつくることができる。

「あいつ……?」

 ぼくのが、瞬きをひとつ数える。ぼくたちのあいだに、名前は存在しない。彼は彼で、ぼくはぼくだった。

 社会から隔絶されたこの場所に、舞台に立つための役名はいらない。

「おれたちの物語を定めた、創造主の男だ」

 答える彼の声はやわらかかった。影の向こうに垣間見えた瞳は、春の陽のようにあたたかかった。

「そのひとの脚本シナリオでは、ぼくは衰弱して、きっと酷く惨めに、死んでいく結末だったんだね」

 彼は脚本に従ったのだろう。けれど、たったひとつだけ、意志アドリブを遺した。その遺志が、定められていた終幕エピローグを、違ったかたちに変えてしまった。ぼくの命を結んで、新しい序章プロローグに繋げてしまった。

「ぼくは、そのひとの代替オルタナ?」

 ぼくは問う。ぼくという存在を。ぼくという命を、心を、罪を。

「……いや」

 彼の瞳が、ふっと、ゆれた。漆黒の水面が、ぼくを映す。ぼくのかたちが、あらわれる。

「忘れ形見だ」

 彼の言葉が、ぼくの水面に落ちる。ぼくの中に静止した、澄んだ薄青の水。ゆらゆらと沈んで、ぼくの水底を撫でる。ひとつの泡を、浮かび上がらせていく。


――僕の罪を、すすがないで。


 泡に包まれた声は、ぼくのものだった。呼吸が、喉の奥でさざめく。


――僕を無垢イノセンスにしないで。無罪イノセンスに、しないで。


 淡い光を抱いた泡が、水面に届く。ぼくの呼吸が止まる。泡が、はじける。

「……っ、あ」

 ぼくの喉が、声を放った。呼吸とともに、ほどけた声だった。視界が水をたたえて揺れる。あたたかい光が頬を伝い、流れる。膜を破って、堰を切って。

 心が、あふれる。

 降る涙は、産声だった。水底に封じていた呼吸を解き放ち、生きるためにあげた、ぼくの心の産声だった。


――この命は、正しいですか?


 幾度も殺し、葬ってきた。罪は数えきれないほどあって、僕は、罰がほしくてたまらなかった。だから吐いて、吐いて、吐き尽くして、体すべてで命を拒絶して、潰えていくはずだったのに。


――正しくなどなくても。


 彼の大きなてのひらが、ぼくの頭に触れる。ぼくの栗色の巻毛を、撫でる。

「どうし……て……」

 どうして、僕を死なせなかったの。

 僕を殺す記憶こころを消して。

 どうして、ぼくを、生んだの。

 ぼくの命を、肯定するの。

「生きることを、望んだから」

 彼の声が降る。言葉が響く。ぼくの涙に触れて、とけて、星みたいに、きらきらとまばゆく儚くきらめいていく。


――どうか。


 ぼくのからだが、いのちに願う。

 ぼくのいのちが、こころに祈る。

 正しくても、正しくなどなくても。

 それでも生きろと。

 それでも生きると。


 僕の願いで、彼はゼロになった。

 彼の祈りで、僕はゼロになった。


 そして、ぼくたちは、生まれた。赦される罪などなくて、命という、最も重い鎖で、互いを繋ぎ合った。


 光の雫が降り注ぐ。

 願いと祈りに満ちた水の中から、ぼくたちは生まれてゆく。

 産声をあげて。命を叫んで。

 笑って、泣いて、願って、祈って。


 生きて、生きて、生きていく。


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ファントム・パラノイア ソラノリル @frosty_wing

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