#5 ペトルーシュカの墓標
conclusion
南の窓の緞帳をひらくと、銀色の海がよく見えた。
薄雲の紗を重ねた空から降る光は、白く淡い。影を描かず、すべての物の輪郭も境界も、曖昧に
ひらいた窓から流れこむ潮風には、わずかにみどりの香りがとけている。ひんやりと涼しい、初夏の風だ。
洋館を模した別荘地の一角、高台にひっそりと
一人用の椅子に、深くかけて、ぼくは窓から外を見ている。そして彼は、ぼくをキャンバスに描き出していく。彼の瞳が、ぼくの影を
「姿勢は、これで良い?」
ぼくは尋ねる。
「ああ、楽に……自然にしてくれてかまわない」
彼の答えは、いつも同じだ。彼はぼくに命令しない。もっと顔を上げろとか、目線をこちらに向けろとか、そういった指示を、ぼくは一度も受けたことがない。動くな、という声さえ。だから、ぼくは、いつも海を眺めている。光を
彼は、丁寧に、ぼくを描く。あたたかい大きな
「終わったの?」
「……ああ」
彼の手が止まり、この部屋にたゆたう音が、ひとつ消える。代わりに、ぼくと彼の声が、静寂を穏やかにゆらしていく。ぼくは席を立ち、彼の背中に回った。華奢だけれどかっしりとした、彼の肩越しに、キャンバスを
まっさらのキャンバスに、小柄な青年が
――これは、ぼく?
胸の内で問いかける。ぼくは、自分のかたちを知らない。自分の姿を見たことがないからだ。この邸には鏡がなく、窓の硝子も夜になるとすべて緞帳が下ろされる。ぼくのからだを映すものは、何ひとつない。
「昼食にしよう」
彼とふたりでスープを作る。分量は、一人分と三分の一だ。小さな器に注いだそれを、ぼくは時間をかけて食べる。そろそろと口に運んで、ゆっくりと呑みこむ。すりおろしたにんじんとじゃがいもの、やわらかな味がした。少しずつ、ものを食べることができるようになっている。以前は、何も受けつけなくて、何を食べても吐いていた。液体栄養どころか、水でさえ、そうだった――と、教えてくれたのは、週に一度往診してくれる、白衣姿の女の人だった。
――まるで、こころが、からだを殺そうとしているみたい。
女の人は、そう言った。背中を流れる小豆色の髪と、
――
《カンパニ》を悩ませている、《オルタナ》の
「ぼくも、幻心病だったのかな」
こくり、とスープを飲み干して、ぼくは呟く。バゲットを千切っていた彼の手が、止まる。
「おまえは、自分を、《オルタナ》だと認識しているのか」
「違うの?」
ぼくは、ゆらりと首をかたむける。「いや……」と、彼は言いよどみ、視線を落とした。彼の瞳に、少し長めの前髪が、さらりと紗をかける。まっすぐな、濡烏の髪。
ぼくの記憶は彼から始まり、そしてずっと彼とともにある。初めて
――誰、だった、の……?
「……セロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミン」
うたうように、ぼくは呟く。ぼくの中に残っていた知識。〝
「感情なんて、結局は化学物質の生体反応の連鎖にすぎない。今や薬の
だから、この国は《オルタナ》をつくれた。《イノセンス》を生み出せた。
「それでも、心には、まだ……人の手の及ばない未知の領域が残されているみたいだ」
まるで、人の手垢にまみれない聖域みたいに。
あらゆる危険因子を排除し、健康に整えたはずの体でも、わずかな細胞の傷や、遺伝子の誤差をきっかけに、癌細胞が生じるように。
完璧に漂白したはずの《オルタナ》に、死に至るほどの心を滲ませるものがあるとすれば、それはいったい何なのか。
「あなたは……」
彼を見つめる。澄んだ黒の双眸は、影に沈んで
「どうして、ぼくを、生かしたの?」
生かしつづけるの?
ぼくの問いかけが、雫のように、ぽつりと落ちた。
「……遺言、だったから」
「遺言?」
誰の? と、ぼくは彼の答えを
彼が視線を上げる。そのまなざしは、ぼくではなく、ぼくの向こうにいる別の誰かに向けられているみたいだった。
「《イノセンス》を打たれる前の俺の……遺志だった」
彼は、静かに答えた。記憶の水を、
「あいつは、完璧だった」
痩せた頬が、かすかに
「あいつ……?」
ぼくの
社会から隔絶されたこの場所に、舞台に立つための役名はいらない。
「おれたちの物語を定めた、創造主の男だ」
答える彼の声はやわらかかった。影の向こうに垣間見えた瞳は、春の陽のようにあたたかかった。
「そのひとの
彼は脚本に従ったのだろう。けれど、たったひとつだけ、
「ぼくは、そのひとの
ぼくは問う。ぼくという存在を。ぼくという命を、心を、罪を。
「……いや」
彼の瞳が、ふっと、ゆれた。漆黒の水面が、ぼくを映す。ぼくのかたちが、あらわれる。
「忘れ形見だ」
彼の言葉が、ぼくの水面に落ちる。ぼくの中に静止した、澄んだ薄青の水。ゆらゆらと沈んで、ぼくの水底を撫でる。ひとつの泡を、浮かび上がらせていく。
――僕の罪を、
泡に包まれた声は、ぼくのものだった。呼吸が、喉の奥でさざめく。
――僕を
淡い光を抱いた泡が、水面に届く。ぼくの呼吸が止まる。泡が、
「……っ、あ」
ぼくの喉が、声を放った。呼吸とともに、
心が、
降る涙は、産声だった。水底に封じていた呼吸を解き放ち、生きるためにあげた、ぼくの心の産声だった。
――この命は、正しいですか?
幾度も殺し、葬ってきた。罪は数えきれないほどあって、僕は、罰がほしくてたまらなかった。だから吐いて、吐いて、吐き尽くして、体すべてで命を拒絶して、潰えていくはずだったのに。
――正しくなどなくても。
彼の大きな
「どうし……て……」
どうして、僕を死なせなかったの。
僕を殺す
どうして、ぼくを、生んだの。
ぼくの命を、肯定するの。
「生きることを、望んだから」
彼の声が降る。言葉が響く。ぼくの涙に触れて、とけて、星みたいに、きらきらと
――どうか。
ぼくのからだが、いのちに願う。
ぼくのいのちが、こころに祈る。
正しくても、正しくなどなくても。
それでも生きろと。
それでも生きると。
僕の願いで、彼はゼロになった。
彼の祈りで、僕はゼロになった。
そして、ぼくたちは、生まれた。赦される罪などなくて、命という、最も重い鎖で、互いを繋ぎ合った。
光の雫が降り注ぐ。
願いと祈りに満ちた水の中から、ぼくたちは生まれてゆく。
産声をあげて。命を叫んで。
笑って、泣いて、願って、祈って。
生きて、生きて、生きていく。
ファントム・パラノイア ソラノリル @frosty_wing
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