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 薄曇りの空から、淡い蜂蜜色の光が射し、灰色の研究室を温かく包んでいる。外に出れば、きっと、吹き抜ける潮風に、春の息吹を感じることができるだろう。腕時計を、ちらりと見やり、わたしは昼休みまでの残り時間を計算する。

「失礼します」

 行儀よく扉を叩く音が、停滞する静寂を小気味よく揺らす。先週、ここへ配属されたばかりの、助手の《オルタナ》だ。

「頼まれていた試料サンプル、もらってきました」

「ありがとう」

 受け取って、わたしは再び顕微鏡に向かう。わたしの隣で、《オルタナ》は早速、次の作業に取りかかっていた。

回復訓練リハビリ、順調そうで、良かったです」

 手際よく器具を並べながら、彼女はわたしの機嫌をとる。マスタのことを第一に考える、規格通りの正しい《オルタナ》だ。

「どうか、ご無理はなさらないで……わたしにできることがあれば、何でもお申しつけくださいね」

 彼女は明るく笑って、慣れた手つきで溶液を注いだ。

 先月、この研究室で、実験中に、が起こった。は全身に化学火傷を負い、内臓と神経の一部、そして皮膚のほぼ全てを移植する手術を受けた。

「脳が移植できれば、もっと簡単だったのだけど」

 くすりと笑って、わたしは肩をすくめてみせる。

 この国の技術は、まだ、脳の移植を可能にするまでには至っていない。まるで、聖域のように、最後の砦のように、脳だけは、代替不可能でありつづけている。

「でも、脳を移植するのと、脳以外のすべてを移植するのと、どう違うのか、わたしにはわかりません」

 小首をかしげて、《オルタナ》は溶液をくるりと混ぜた。

「体は意識に隷属するのよ」

 わたしは答えた。よどみなく、答えることができた。

「そのひとが、そのひとであることを決定づけるのは、そのひとの脳だけなの」

 意思で始まり、意志で生き、遺志で終わる――わたしも、よくわからないけどね、と、わたしは彼女から試験管を受け取る。ささくれだらけの醜い指だけれど、爪だけは短く整えてある。

「不可解ですね」

 次の試験管を準備しながら、《オルタナ》は言う。

「脳なんて、《イノセンス》を打たれたら、記憶も感情も、まっさらになってしまうのに」

 昼休みを告げる鐘が鳴り、わたしは外へ出た。

 坂を吹き上がる海風は、冷たいけれど穏やかだ。深く吸いこめば、潮の匂いに混じって、新芽の香りが鼻をくすぐる。

「楓博士」

 背中を叩く声に、わたしは振り向く。隣の研究室の職員が、小走りに追いついてきた。えりにつけられた紋章から、わたしより下級の研究員であることが分かる。

「予定より早く退院できたんですね。良かったです」

 快活に笑う男の研究員だった。外見は、今のわたしと同じ二十歳前後だけれど、実年齢は、たしか、五十過ぎだったか。

「もし、また整形したくなったら、言ってくださいね」

 良い《オルタナ》を紹介しますから、と彼は明るく言った。至極、軽い口調だった。

「あいにく、手術は、もうたくさんよ」

 ひらりと外套コートをなびかせて、わたしは歩く。

「楓博士?」

 男は、きょとんと瞬きをする。

「なんか、雰囲気、変わりました……?」

 途惑う声を、潮風がさらっていく。門の前で、わたしは、一度だけ振り返った。

「心を入れ替えたのよ」

 きびすを返し、歩き出す。わたしの腕も脚も、目も耳も、きちんと正しく機能している。わたしの脳に、従っている。

 鉄柵の向こうに、灰色の海が見えた。わずかな光を一身に浴びて、水面は儚く――美しく、きらめいていた。

 歩調を速めて、坂を下りていく。

 丘のふもとのお弁当屋さんに、わたしは食事を買いに行く。


 このからだを、生かすために。


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