5
宵闇が、東の
「さいかち、はかせ」
長い
「……久しぶりだね」
伊型の傍に跪き、梍博士も、かすかに笑った。硝子の破片を抱きしめるような微笑だった。
「きみは、僕を憎む?」
憎んでくれる?
梍博士の声が、ぽつりとひとつ、雫を落とす。
「どうして、にくむ、の?」
微笑を崩さないまま、伊型は博士を見つめた。躰を、命を、心を、絶望を、つくりだした、創造主を。
「きみには、その自由がある」
僕を憎む自由も、呪う自由も、殺す自由も。
「にくんで、なんか、いない」
投げかけられた波紋に、ひらりと
「あなたの、おかげで、わたしは、わたしを、あいせた」
愛されなくても、愛することができた。
「あのね、さいかちはかせ、わたし、ここにたどりつくまで、いろんなところへ、いったよ。たくさんのものを、みたよ。じぶんのあしで、じぶんのいしで、ゆくさきを、きめて……じぶんの、こころで、かんじたんだよ。たのしいって、うれしいって、わらったんだよ」
心から、笑うことが、できたんだよ。
「からだも、こころも、いのちも……わたしは、わたしで、つかいつくせた」
願うまま、望むまま、自由に。
「だから、わたしは、ぜつぼう、しない」
さいごまで、この躰を、この命を、否定せずにいられる。
「それで、ね、はかせ……わたし、わかったの……あなたの、つみが、わたしたち、だってこと……でも、わたしたちが、あなたの、つみなら、わたしが、あなたを、ゆるす。とうに、ゆるしている。あなたに、ばつを、わたしは、あたえない」
殺してあげない。
叶えてあげない。
「僕が……
梍博士の、声が降る。とけおちた心の雫のように、願いのように、祈りのように。伊型の躰に、命に、降る。
ふわり、と、伊型の笑顔が、ひらく。どこまでも無垢に――純白の、花のように。
「めいれいは、もう、きかない」
伊型は
「さよなら、はかせ」
――ありがとう。
「……筏を」
ふたりで、伊型の躰を――少女の体を、筏に乗せた。
春先の
灰色の海に、
海に入る。打ち寄せる波は、凍てついた冬のままだった。
ねえ、どうか、――
押し返す波が、ふっと和らいだ。灰色の
「……わたしには、とうとう、わからないままだった」
わたしの声が、冷たい水面に、ぽつりと落ちる。
「でも、こういうとき……ひとは、泣くのでしょう?」
隣に
「ひとが泣くのは、心を守るためだって、きいたことがあります」
心に涙を封じつづけたら、いつか、内側から砕けてしまう。
「あなたは、《オルタナ》じゃない。あなたには、泣かなければ壊れる心がある」
ひとは、最初に、生きるために泣くのでしょう?
産み落とされた瞬間に、声をあげて、泣き叫ばなければ、ひとは死んでしまうのでしょう?
「今ここで、泣かなければ、あなたは、きっと死んでしまう」
産声をあげずに生まれてくる、わたしたちは、生涯、泣くことはない。わたしたちは壊れない。ただ躰の正しさだけがある。
――躰は正常だもの。
楓博士の言葉が、脳裏に
――部品としては、何の問題もないわ。
ああ、そうか……と、わたしは
「心をもつから、ひとは、死ぬのですか」
わたしの言葉が、波に呑まれて、
「……きみは、自由になりたいと思う?」
博士の
「……わたし、は……」
梍博士の瞳が、わたしを映す。暗く、深い、淵のように。光のささない、
「……死にたく、ない」
わたしは、伊群とは違う。
わたしには、この躰しかない。使われなければ、わたしは、どこにも、なくなってしまう。消えてしまう。
「…………そう」
梍博士の瞳が、ゆらりと、波立つ。
「きみは、正しい《オルタナ》だ」
ぱしゃん、と、水の跳ねる音が、わたしの耳を揺らした。瞬間、ふわり、と、わたしを抱き寄せる、ぬくもりを感じた。華奢だけれど、強さのある、梍博士の腕だった。
「きみの望みを、叶えてあげる」
視界の隅を、鋭く
「……さいかち、はかせ……?」
両足を支える海底の砂が、一斉に崩れたような気がした。わたしの躰から力がほどける。急速に重くなる
「きみは死なないよ」
穏やかな声が、水の中に響く。
沈みながら、わたしは思った。
ああ、このひとは、とうとう泣かなかったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。