4

 楓博士の休暇は一日だけだった。数回に分ければ日帰りも可能な手術だという。

「次は一週間後なの」

 声をはずませて、楓博士は笑う。ほのかな桜色に上気した、透きとおるような、白い頬で。

「……そう、ですか……」

 わたしは、ぼんやりと、博士を見つめた。わたしの中で、はかなく明滅していた光が、すっとついえていくのを感じた。袖の影で、こぶしを固く握りしめる。

「きれい?」

 楓博士が無邪気に尋ねる。

「ええ、とても」

 わたしは肯定する。博士の望む答えを、正しく返答する。けれど、次に博士の口から放たれた科白せりふに、わたしの肩は、びくりと跳ねた。

「ほんとうは伊群のシリーズ皮膚が欲しかったけど、仕方ないわね」

 博士は苦笑する。わたしがれた珈琲を、ゆっくりと口に運びながら。

「発売当時から、伊群の部品パーツは貴族御用達だったし、今では破格の高値で競売されているもの。とても手が出せないわ」

「……そんなに、需要が、あるのですか」

 回収命令が出された《オルタナ》なのに。

「躰は正常だもの。部品としては、何の問題もないわ」

「……躰は正常……?」

 じゃあ何が――と、言いかけたわたしの声は、おもむろに扉を叩く音に掻き消された。

「失礼します」

 静かに放たれた声には聞き覚えがあった。開発部の主任だ。以前は同じ課で毎日顔を合わせていたけれど、楓博士が今の部署へ異動になってからは、ほとんど見ていない。わたしの心臓が、どくんと跳ねた。そうだ、このひとは――

「頼まれた試料サンプル、持ってきましたよ」

 均整のとれた小柄な痩躯そうく。ふわりと遊ぶ、栗色の短い巻毛。あどけない印象を与える雀斑そばかす。弱冠二十代で一大人気商品を――伊シリーズを生み出した研究員。

「……梍博士……」

 わたしの呟きが、足もとにこぼれる前に、

「…………母さん……そのからだは……なに…………?」

 梍博士の手から、硝子の試料箱サンプルケースが滑り落ち、けたたましい音を立てて、床に砕けた。

「驚きすぎよ」

 でも嬉しい、と、楓博士は笑った。

「見違えたでしょう、私。あなたを、びっくりさせたくて、異動してから、ずっと、あなたに、見せてこなかったもの」

 うたうように、楓博士は続けた。場違いなほど、朗らかに。

「姿が変わると、心の持ち方だって変わるものね」

 一歩、楓博士が、梍博士に、距離を詰める。

「どう? よく見てちょうだい、梍」

 楓博士が微笑む。亜麻色の髪が縁取る、ほんのりと桜色に染まった、透き通るような白い頬で。

「桜の体に、近づけたかしら」

 うれいのない、あどけない色で。

「この体なら、私の夫あのひとが戻ってきても、私を愛してくれるわよね」

 かげりのない、光の笑顔で。

「……さ…………」

 梍博士の喉が、呼吸を塞ぐのが分かった。零れかけた声は言葉をかたちづくることなく、引きれた風音についえていった。瞠目した瞳が、凍りついたように静止する。言葉を失い、声を止め、表情を消し、梍博士は、人形のように立ち尽くしていた。ぴんと水を張ったような静寂が、刹那、打ち広がる。最初に波紋を立てたのは、梍博士の足だった。あとずさる、床を擦る靴音が、静寂の水を跳ねる。

「……すみません、また、あとで」

 狭まる喉で、震えた唇で、絞り出すようにそれだけ言って、梍博士はきびすを返した。ふらりと覚束おぼつかない足音が、次第に駆け足となり、遠ざかっていく。

「あんなに驚くなんてね」

 くすくすと笑う声が、静寂を破り捨てていく。さざなみのような日常の音が、戻ってくる。

 床に散らばった硝子の破片を、わたしは手早く片づけた。

「この試料、もらってきます」

 楓博士の返事を待たず、わたしは小走りで研究室を出た。

 廊下のつきあたりで、左右を見回す。最奥の排水溝の前に、膝をついた白衣の背中を見つけた。ひとけのない、影の下で、ひざまずくように、体を折って、梍博士は、嘔吐していた。体の中が空になっても、かすれた咳を繰り返して、嗚咽おえつにもなれない引きれた呼吸に、痩せた肩を震わせて、梍博士は、その身すべてで、拒絶していた。体を、心を、世界を、吐き尽くしても足りないほどに。――そう、感じた。感じられた。共感するすべも、機能も、わたしには備わっていないはずなのに。わたしの躰は拒絶を知らない。わたしの躰は心をもたない。わたしの躰は世界のものだ。それなのに、どうしてだろう、梍博士の絶望を、わたしは感じとることができた。

「梍博士」

 白い背中に、わたしの影が落ちる。梍博士が、ゆっくりと振り向く。かげに沈む、くまの刻まれたが、わたしを映す。

――わたしは、そこに、自分と同じ闇を見た。

 冷たい深淵が四方から押し寄せ、わたしたちを呑みこんでいく。光も音もない、くらく静かな水の底で、わたしたちは、この瞬間、同じ冷たさを、たしかに共有していた。

「わたしと、一緒に、来ていただけますか」

 吐き出した声は、透明なあぶくのようだった。ゆらりと上り、けれど、浮かぶべき水面は、どこにも見えなかった。


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