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 わたしが外套を失くした理由を、楓博士は追及しなかった。「凍えていたひとにあげてしまったので新しいのをいただけますか」と事実だけ伝えて頼んだわたしに、博士は顕微鏡をのぞきながら、「適当に《カンパニ》に請求するといいわ」とだけ、おざなりに返答した。

「あっ、そうそう」

 楓博士の意識は、わたしの外套のことなど俎上に載らず、別のことで占められているようだった。

「明日、また休暇をとるから。私の研究、よろしくね」

 博士の声ははずんでいた。嬉しそうだった。

「わかりました」

 わたしはうなずき、《カンパニ》に送る書類に手早く筆を走らせた。外套を二着と、首巻を三枚。これなら、寝具の代わりにもなるだろう。





 明け方の海は、濃い霧に覆われていた。水平線はおろか、波打ち際さえおぼろにしか見えない。それでも、昨日のわたしの足跡は、波にさらわれずに残っていた。

 背負っていたかごを、どさりと下ろす。いかだの材料になりそうなものを、詰められるだけ詰めてきた。

「それから……これ」

 研究室に残っていた液体栄養を、わたしは、こっそり持ち出していた。わたしの分が一瓶と、もう一瓶は楓博士のものだったけれど、博士の休暇が終わる頃には消費期限が切れているだろう。

「自分で……は、飲めそうにないね」

 わたしは首巻マフラを解き、丸めると、伊型の頭の下に置いた。瓶を少しずつ傾け、ゆっくりと飲ませる。ありがとう、と、伊型は微笑んだ。花のような笑顔だった。ひとの美醜を判断できないはずのわたしでも、伊型の姿は、きれいだと、感じられた。これが、美しさ、なのか。かつて、《マリアの子宮》の傑作とうたわれた、完璧な美少女。愛玩用に整えられ、ひとに愛されることが存在価値だった《オルタナ》。

 筏の作り方なんて、わたしも、彼女も、教わっていない。知識にある筏のかたちを、ひたすらになぞって、組み立てるしかなかった。それでも、試しに波に乗せてみたら、それは頼りなくも、ちゃんと浮かんだ。

「躰を乗せるには、まだ少し足りないね」

 持ってきた材料を使い終えた頃には、日はすっかり高くなっていた。朝もやも晴れ、曇り空の下でも、うっすらと水平線を望むことができた。

「また、来るから……」

 からになった籠を背負い、わたしは立ち上がって膝についた砂を払った。今日の夕方には、《カンパニ》に注文した外套コート首巻マフラも届くだろう。

「……ねえ」

 返しかけたきびすを留めて、わたしは、もういちど伊型を見下ろした。

「誰にも使ってもらえずに終わるって、どんな感覚?」

 自分の存在価値を捨てて、たったひとりで消えていくなんて。

 製造、出荷、消費、故障、破壊、解体、廃棄――それが、わたしたちの一生だ。《シヴィタス》のように墓標をたてられることもない。存在したというあかしひとつ遺さず消滅する。

 けれど、躰を使ってもらえたら、この躰は、なくならない。

 この命は、なくならない。

 《シヴィタス》の体の一部になって、生存できるから。

「わたしは、ずっと考えている。わたしの躰は、誰に使ってもらえるのかなって」

 《オルタナ》の使用期限は、長くても十年とされている。十代半ばの姿で出荷された後、おおよそ二十代半ばの外見になるまでだ。それを超えると、抗老化手術の部品になるのが難しくなる。老いた躰に、値打ちはない。そして、その年数には、上限はあっても、下限はない。需要があれば、十代の躰でも、試験管から出たばかりの躰でも、部品になる。躰が若いほど、高い値がつく。

「わたしの躰は、いつ、使ってもらえるのかなって」

 わたしは出荷されて、もうすぐ五年になる。十代の躰ではなくなってしまう。

「誰にも使ってもらえなかったら、どうしようって」

 喉の奥で、声がすこし、震えた。

 命を繋ぐのは、義務の鎖だ。

 義務を果たして初めて、生きる権利が与えられる。

 わたしたちの義務は、献身だ。

 わたしたちの躰は、《シヴィタス》に使われるためにある。

 わたしたちの命は、《シヴィタス》を生かすためにある。

 なのに――

「わたしは、これでいい……だれにも、つかわれたく、ない、から……」

 伊型は、静かに答えた。

「……《オルタナ》なのに……?」

 《シヴィタス》に使われることが、至上の幸福であるはずなのに?

「……あなたの、ことばは……まちがっていない……」

 伊型の澄んだ声が、潮騒しおさいに乗って、穏やかに流れる。

 わたしの胸の奥へと、流れこんでくる。

「その、しあわせは、きっと、ただしい…………」

 ゆらゆらと、わたしの中に、水の綾が編まれていく。胸の奥、閉ざされた深淵に、さざなみが立てられていく。

「でも、それは……わたしの、しあわせじゃ、ない」

 統制されたわたしの静寂が、さざめいていく。やめて、と、耳を塞ぎたかった。けれど、できなかった。わたしの躰は、彼女の言葉にひらかれていた。にごりのない意思が、よどみのない意志が、どこまでも澄みきった遺志が、わたしの中に流れこむ。堤防を、わたしは築けない。

 彼女の願いが、わたしの中に、満ちる。

「わたし、は……わたし、で……いたい、から……」

 自由で、いたいから。

「……そんな……」

 この国で、自由を望むことは、誰にも、何にも、生かしてもらえなくなるということ。

「それこそが、望みだって、いうの?」

 誰にも使用されない道を?

 何にも消費されない未来を?

「いのちがけの、じゆう、だよ」

 伊型は笑った。ほがらかな笑みだった。透明な水のように、それは、ひたひたとわたしを満たし、すすいでいく。わたしの中を、あらわにしていく。

「わたしは……」

 ぎゅっと、両手を握りしめる。うつむいて、爪先に力をこめる。わたしを包む透明な水に、溺れてしまわないように。

「自由、なんて、いらない」

 彼女の言葉を拒絶する。水を吐くように否定する。正しく、ただしく、わたしは、わたしを、き止める。

「わたしは、非正規品とは、違う……!」

 きびすを返し、坂の上へと駆け上がる。研究室に、戻らなければ。早く、はやく。博士の代わりを務めなければ。

 需要を満たして。

 役に立って。

 使われて。

 消費されて。

「……死にたく、ない……」

 波のように、言葉が、打ち寄せる。

「生きていたい」


――どうか。


 わたしを使って。

 わたしを必要として。


――わたしを生かして。


 そのための義務なら、いくらだって果たすから。


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