3
わたしが外套を失くした理由を、楓博士は追及しなかった。「凍えていたひとにあげてしまったので新しいのをいただけますか」と事実だけ伝えて頼んだわたしに、博士は顕微鏡を
「あっ、そうそう」
楓博士の意識は、わたしの外套のことなど俎上に載らず、別のことで占められているようだった。
「明日、また休暇をとるから。私の研究、よろしくね」
博士の声は
「わかりました」
わたしは
+
明け方の海は、濃い霧に覆われていた。水平線はおろか、波打ち際さえ
背負っていた
「それから……これ」
研究室に残っていた液体栄養を、わたしは、こっそり持ち出していた。わたしの分が一瓶と、もう一瓶は楓博士のものだったけれど、博士の休暇が終わる頃には消費期限が切れているだろう。
「自分で……は、飲めそうにないね」
わたしは
筏の作り方なんて、わたしも、彼女も、教わっていない。知識にある筏のかたちを、ひたすらになぞって、組み立てるしかなかった。それでも、試しに波に乗せてみたら、それは頼りなくも、ちゃんと浮かんだ。
「躰を乗せるには、まだ少し足りないね」
持ってきた材料を使い終えた頃には、日はすっかり高くなっていた。朝
「また、来るから……」
「……ねえ」
返しかけたきびすを留めて、わたしは、もういちど伊型を見下ろした。
「誰にも使ってもらえずに終わるって、どんな感覚?」
自分の存在価値を捨てて、たったひとりで消えていくなんて。
製造、出荷、消費、故障、破壊、解体、廃棄――それが、わたしたちの一生だ。《シヴィタス》のように墓標をたてられることもない。存在したという
けれど、躰を使ってもらえたら、この躰は、なくならない。
この命は、なくならない。
《シヴィタス》の体の一部になって、生存できるから。
「わたしは、ずっと考えている。わたしの躰は、誰に使ってもらえるのかなって」
《オルタナ》の使用期限は、長くても十年とされている。十代半ばの姿で出荷された後、おおよそ二十代半ばの外見になるまでだ。それを超えると、抗老化手術の部品になるのが難しくなる。老いた躰に、値打ちはない。そして、その年数には、上限はあっても、下限はない。需要があれば、十代の躰でも、試験管から出たばかりの躰でも、部品になる。躰が若いほど、高い値がつく。
「わたしの躰は、いつ、使ってもらえるのかなって」
わたしは出荷されて、もうすぐ五年になる。十代の躰ではなくなってしまう。
「誰にも使ってもらえなかったら、どうしようって」
喉の奥で、声がすこし、震えた。
命を繋ぐのは、義務の鎖だ。
義務を果たして初めて、生きる権利が与えられる。
わたしたちの義務は、献身だ。
わたしたちの躰は、《シヴィタス》に使われるためにある。
わたしたちの命は、《シヴィタス》を生かすためにある。
なのに――
「わたしは、これでいい……だれにも、つかわれたく、ない、から……」
伊型は、静かに答えた。
「……《オルタナ》なのに……?」
《シヴィタス》に使われることが、至上の幸福であるはずなのに?
「……あなたの、ことばは……まちがっていない……」
伊型の澄んだ声が、
わたしの胸の奥へと、流れこんでくる。
「その、しあわせは、きっと、ただしい…………」
ゆらゆらと、わたしの中に、水の綾が編まれていく。胸の奥、閉ざされた深淵に、
「でも、それは……わたしの、しあわせじゃ、ない」
統制されたわたしの静寂が、さざめいていく。やめて、と、耳を塞ぎたかった。けれど、できなかった。わたしの躰は、彼女の言葉にひらかれていた。
彼女の願いが、わたしの中に、満ちる。
「わたし、は……わたし、で……いたい、から……」
自由で、いたいから。
「……そんな……」
この国で、自由を望むことは、誰にも、何にも、生かしてもらえなくなるということ。
「それこそが、望みだって、いうの?」
誰にも使用されない道を?
何にも消費されない未来を?
「いのちがけの、じゆう、だよ」
伊型は笑った。
「わたしは……」
ぎゅっと、両手を握りしめる。
「自由、なんて、いらない」
彼女の言葉を拒絶する。水を吐くように否定する。正しく、ただしく、わたしは、わたしを、
「わたしは、非正規品とは、違う……!」
きびすを返し、坂の上へと駆け上がる。研究室に、戻らなければ。早く、はやく。博士の代わりを務めなければ。
需要を満たして。
役に立って。
使われて。
消費されて。
「……死にたく、ない……」
波のように、言葉が、打ち寄せる。
「生きていたい」
――どうか。
わたしを使って。
わたしを必要として。
――わたしを生かして。
そのための義務なら、いくらだって果たすから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。