2
「私の休暇のあいだ、とてもよく検証を進めてくれたのね」
素晴らしいわ、と、楓博士はわたしの報告書を
「恐縮です」
わたしは深く頭を下げる。博士が不在のあいだ、わたしが代わりを務めることができたのなら、これ以上の幸せはない。わたしは
「夕食、買ってきますね」
「ええ、お願い」
いつものをね、と、博士はわたしにお金を渡し、顕微鏡に向かった。
日が沈むと、わたしは博士の夕食を買いに行く。施設の中に食堂はあるけれど、博士は丘のふもとの商店街で売られている日替わりのお弁当が好きだった。
春の兆しを感じさせた陽射しは夕闇に
海から吹き上がる夜風が、わたしの髪を
(いけない)
ひとけのない海岸だった。坂の上から
(……なに?)
視界の端で、何かが微かに動く気配があった。
(なにか……いるの……?)
ざわり。肌がさざめく。危険回避の反射だ。ここから先の、わたしの取るべき正しい行動は、今すぐ階段へ走って、坂の上に戻ることだ。ひとのいる場所に逃げることだ。
頭では、分かっていた。けれど、わたしは、どうしてか、影に目を凝らしていた。
(……女の子……?)
闇に慣れたわたしの目が、影の姿を
どくん、と、わたしの胸が、大きく跳ねた。引き寄せられるように、わたしの足は、ゆっくりと、女の子のほうへ歩む。
(……生きている……の……?)
女の子を、見下ろす。華奢な手足が、ぼろぼろの小袖から
(きれい……)
夜の下にあってもなお、その肌は白く、ほのかに光を宿すように浮かび上がって見えた。
けれど、その肌は――
(……非正規品……なの……?)
透きとおるように白い四肢は、赤
「……あなたは……」
わたしの声が、女の子の躰に落ちる。
額を流れる黒髪の下で、長い
きらめく漆黒が、
半ば光をなくしてもなお、見る者の視線を引き寄せてやまない、黒曜石の瞳。
「……伊
わたしは立ち尽くす。わたしの
「どうして、ここに……」
わたしの声が、足もとの影に吸いこまれていく。
「……にがして……もらえた……の…………」
「逃がして、もらえた?」
逃がされた、じゃなくて?
わたしが問いかけると、伊型は、ゆるく首を横に振った。
「にがしてもらえた、で……あっている……にげることを、わたしが……のぞんだから………」
「……望んだ……?」
《オルタナ》なのに?
《シヴィタス》の意志に従ったのではなく?
「……わたし、は……」
薄い唇が、かすかに
「しにたく、なかった……ころされたく、なかった……」
――生きたかった。
「……生きたい……?」
ぞくり、と足が
「あなたの言葉は、矛盾しているわ」
ぎゅっと両手で
「生きることは、義務を果たすことよ。生きたいってことは、義務を果たしたいってことよ」
《シヴィタス》に従って、需要を満たして、さいごまで、使い尽くされること。それが、生きるという定義だ。生きたいという、正しい動機だ。わたしたちの、命の条件だ。
「あなたたち伊群の処分は、《シヴィタス》の意志だった」
言い放つ。これ以上の会話は危険だ――危険? 何が? わからない。でも、わたしが取るべき行動はひとつだ。一刻も早く戻って、楓博士を通じて、《カンパニ》に、この場所を通報しなければ――
「それは、いきる、って、いわない」
凛と響いた伊型の声が、きびすを返しかけたわたしの足を
「ただ、いかされて、いる、だけ……だって、そこ、に……じゆうは、ないもの」
「……自由……?」
打ち寄せる波の音が、わたしの声をさらう。黒い海に引きずりこんでいく。
「わたし、は……」
色
「いきたかった、けど……それいじょうに…………じゆう、に……なりたかった……たとえ、いのち、と……ひきかえに……してでも……」
義務を果たすために、生きたくなかった。
生かされたくなかった。
「だから、わたし、こうかい、してない」
ああ、でも……と、伊型は言葉を切り、少し咳きこんだ。
「うみ、の、むこうに……いけなかった、のは……ざんねん、かな……」
「海の向こうには、自由があるの?」
わたしは尋ねた。伊型は、ちいさく首を横に振った。
「そうじゃ、ない……わたし、の……いし、で……うみの、むこうに、いく……それじたいが、じゆう、って、こと……」
「……わからないな、わたしには」
〝じゆう〟も〝いし〟も、わたしにはない概念だ。口の中で呟いて、わたしは
「明日、またここに来るわ。だから、まだ……死なないで」
無意識に口をついて出た最後の言葉に、わたしは、はっと唇に手を遣る。
死なないで、なんて。
わたしたちに、死なんて、ないのに――
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