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「私の休暇のあいだ、とてもよく検証を進めてくれたのね」

 素晴らしいわ、と、楓博士はわたしの報告書をめくりながら、満足そうに笑った。いつでもあなたに任せられるわね、と。

「恐縮です」

 わたしは深く頭を下げる。博士が不在のあいだ、わたしが代わりを務めることができたのなら、これ以上の幸せはない。わたしはマスタの需要を満たせたのだ。

「夕食、買ってきますね」

「ええ、お願い」

 いつものをね、と、博士はわたしにお金を渡し、顕微鏡に向かった。うなずいて、わたしは研究室を出る。

 日が沈むと、わたしは博士の夕食を買いに行く。施設の中に食堂はあるけれど、博士は丘のふもとの商店街で売られている日替わりのお弁当が好きだった。

 春の兆しを感じさせた陽射しは夕闇についえ、吐く息は白く、夜霧に混じる。わたしは外套コートえりをかきあわせ、首巻マフラに顔を半ばうずめた。今の季節、雪こそ降らないけれど、霧に濡れた道は所々凍りついている。

 海から吹き上がる夜風が、わたしの髪をあおった。それほど強い風ではなかったけれど、わたしの髪を、何かがするりと滑り落ちる感覚があった。気づいたわたしは、はっと頭に手をり、振り向く。何かの拍子に緩んでしまっていたのか、わたしの髪を束ねていた組紐リボンが解け、ひらりと風に舞う。

(いけない)

 つかもうと、手を伸ばした。けれど、それはするりと闇夜の狭間をくぐり抜け、転落防止の柵を越え、すぐ下の海岸へと落ちていった。組紐は、楓博士がくれたものだった。わたしは急いで左右を見回す。少し離れたところに、柵の切れ目があった。海岸へ下りられる階段が、影の淵に沈みこむように伸びていた。

 ひとけのない海岸だった。坂の上からしたたるわずかな灯りが、ぼうっと影をにじませるように、辺りを照らしている。こころもとない光だ。落とした組紐を見つけられたのは、奇跡かもしれない。波打ち際の、ぎりぎり波にさらわれない場所に、それはあった。拾い上げて、ちいさく安堵の息をつく。早く戻らなければ……組紐を巾着におさめ、階段へと足を向けたとき、

(……なに?)

 視界の端で、何かが微かに動く気配があった。

(なにか……いるの……?)

 ざわり。肌がさざめく。危険回避の反射だ。ここから先の、わたしの取るべき正しい行動は、今すぐ階段へ走って、坂の上に戻ることだ。ひとのいる場所に逃げることだ。

 頭では、分かっていた。けれど、わたしは、どうしてか、影に目を凝らしていた。

(……女の子……?)

 闇に慣れたわたしの目が、影の姿をとらえる。堤防の下に、小柄な女の子がひとり、身を横たえていた。

 どくん、と、わたしの胸が、大きく跳ねた。引き寄せられるように、わたしの足は、ゆっくりと、女の子のほうへ歩む。

(……生きている……の……?)

 女の子を、見下ろす。華奢な手足が、ぼろぼろの小袖からのぞいていた。

(きれい……)

 夜の下にあってもなお、その肌は白く、ほのかに光を宿すように浮かび上がって見えた。

 けれど、その肌は――

(……非正規品……なの……?)

 透きとおるように白い四肢は、赤さびのようなただれと、絞り染めのような青あざに、無残に蝕まれていた。日和見感染症のひとつだと、すぐに分かった。ワクチンを与えられなかった《オルタナ》の末路だと。

「……あなたは……」

 わたしの声が、女の子の躰に落ちる。

 額を流れる黒髪の下で、長いまつげが、ぴくりと動いた。

 きらめく漆黒が、のぞく。

 半ば光をなくしてもなお、見る者の視線を引き寄せてやまない、黒曜石の瞳。

「……伊シリーズ……?」

 わたしは立ち尽くす。わたしの知識データベースが彼女の特徴を照合し、伊群の一体であると判定する。伊群――回収措置がとられ、市場からとうに消えたはずの、幻の《オルタナ》。

「どうして、ここに……」

 わたしの声が、足もとの影に吸いこまれていく。

「……にがして……もらえた……の…………」

 かすれた、けれど鈴の音のように澄んだ声が、影からひらりと、あえかに飛び立つ。

「逃がして、もらえた?」

 逃がされた、じゃなくて?

 わたしが問いかけると、伊型は、ゆるく首を横に振った。

「にがしてもらえた、で……あっている……にげることを、わたしが……のぞんだから………」

「……望んだ……?」

 《オルタナ》なのに?

 《シヴィタス》の意志に従ったのではなく?

「……わたし、は……」

 薄い唇が、かすかにほころぶ。羽のように、言葉は舞い落ちる。ひら、ひら、と、闇の中に。

「しにたく、なかった……ころされたく、なかった……」


――生きたかった。


「……生きたい……?」

 ぞくり、と足がすくんだ。この反応は、知識データベースにある。人体が、おそれを感じたときに起こす反射だ。……おそれている? わたしが? なにを?

「あなたの言葉は、矛盾しているわ」

 ぎゅっと両手でこぶしをつくり、わたしは言葉を積み上げる。伊型の言葉を乗せた波をき止めるつつみを築くように。

「生きることは、義務を果たすことよ。生きたいってことは、義務を果たしたいってことよ」

 《シヴィタス》に従って、需要を満たして、さいごまで、使い尽くされること。それが、生きるという定義だ。生きたいという、正しい動機だ。わたしたちの、命の条件だ。

「あなたたち伊群の処分は、《シヴィタス》の意志だった」

 言い放つ。これ以上の会話は危険だ――危険? 何が? わからない。でも、わたしが取るべき行動はひとつだ。一刻も早く戻って、楓博士を通じて、《カンパニ》に、この場所を通報しなければ――

「それは、いきる、って、いわない」

 凛と響いた伊型の声が、きびすを返しかけたわたしの足をいとめる。

「ただ、いかされて、いる、だけ……だって、そこ、に……じゆうは、ないもの」

「……自由……?」

 打ち寄せる波の音が、わたしの声をさらう。黒い海に引きずりこんでいく。

「わたし、は……」

 色せた薄桃の唇が、ゆるやかに笑みを引く。

「いきたかった、けど……それいじょうに…………じゆう、に……なりたかった……たとえ、いのち、と……ひきかえに……してでも……」

 義務を果たすために、生きたくなかった。

 生かされたくなかった。

「だから、わたし、こうかい、してない」

 ああ、でも……と、伊型は言葉を切り、少し咳きこんだ。

「うみ、の、むこうに……いけなかった、のは……ざんねん、かな……」

 いかだを作っていたの、と伊型は言った。視線で示した砂浜の片隅に、海岸で拾ったのか、さまざまながらくたを繋ぎ合わせたものがあった。躰を乗せるには、とても足りない大きさだった。

「海の向こうには、自由があるの?」

 わたしは尋ねた。伊型は、ちいさく首を横に振った。

「そうじゃ、ない……わたし、の……いし、で……うみの、むこうに、いく……それじたいが、じゆう、って、こと……」

「……わからないな、わたしには」

 〝じゆう〟も〝いし〟も、わたしにはない概念だ。口の中で呟いて、わたしは外套コートボタンを外した。おもむろに脱ぎ落とし、伊型の躰を覆う。気休めかもしれないけれど、ないよりはましだろう。今まで小袖一枚で、よく耐えられたものだ。

「明日、またここに来るわ。だから、まだ……死なないで」

 無意識に口をついて出た最後の言葉に、わたしは、はっと唇に手を遣る。

 死なないで、なんて。

 わたしたちに、死なんて、ないのに――


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