#4 テセウスの筏

1

 午後の薄日が、灰白色の研究室に、淡い金色の紗を重ねている。かすかに春の息吹を含んだ、ほんのりと温かな光だ。

「外は、まだ、冷たいのにね」

 曇った窓硝子に、そっと指を添えて、楓博士が呟く。短く整えられた、清潔な爪。白い硝子の曇りが、滑らかな指先になぞられて、透明な雫に収束する。それは、つう、と細く、惑うように博士の指を伝い、白衣のそでを、わずかに濡らした。窓の結露が、この部屋の温かさと、外の冷たさを、わたしに教えている。

「髪、変えたんですね」

 博士の後ろ姿に目をとめて、わたしは気づいた事実をそのまま述べた。うなじで緩く束ねられた博士の髪は、つややかな淡い亜麻色で、柔らかく、しなやかに、華奢な背中を流れている。元々は、短い栗色の巻毛まきげだったのに。

「先日、しばらく休暇をとるとおっしゃっていたのは、これが理由だったのですね」

「ええ」

 窓から指先を離し、博士は軽く勢いをつけて振り向いた。こころなしか幼い笑みを浮かべて。

「どう? 似合うかしら」

「ええ、とても」

 わたしはうなずく。正直なところ、わたしに人の美醜を解する機能は備わっていないのだけれど、似合うという判定を下せない代わりに、似合わないという評価もできないから、このわたしの返答は、嘘をついてはならないという規定には抵触しない。わたしの脳は、博士にとっての最善だけを演算し、求められる最適解を返す。わたしは、楓博士の助手だから。

「よかった」

 嬉しそうに笑顔を咲かせた博士を見て、わたしは、自分の返答が間違っていなかったのだと、安堵する。

「所内で、抗老化手術を受ける人がいてね。髪はいらないって言うから、見に行ったの。そしたら、この髪よ。こういう髪、ずっと欲しかったの。手に入れられてよかったわ」

 楓博士は、ほがらかに笑った。博士は、これまでにも数回、手術を受けている。抗老化手術だけでなく、今回のような、容姿を整える手術も。

「またひとつ、理想に近づけたわ」

 楓博士は満足そうに声をはずませた。ふわふわと揺れていた巻毛は、もうない。あどけなさを強めていた雀斑そばかすも消えた。四十代である博士の体は、実年齢より十歳ほど若く保たれている。

 老いに抗い、理想の姿を目指すことは、別段、珍しいことではない。《シヴィタス》なら、誰でも受けている手術だ。

 ただ、ふと思う。博士の体は、何体の《オルタナ》の部品パーツで構成されているのだろうと。

「……博士は」

 首をかしげる代わりに瞬きをして、わたしは尋ねた。

「自分以外に、なりたい誰かがいるのですか?」

 博士は、ずっと、理想の部品を――《オルタナ》の躰を、探しているように見えたから。

「……そうね」

 博士の微笑が、わずかにかげる。自嘲と、どこか寂しそうな色をにじませて。

「あなたたちは、きれいね」

 しわひとつない博士の指が、わたしにのびる。

「醜い嫉妬に狂うことなんて、ないのだもの」

 指先に残った硝子の温度が、ひやりとわたしの頬をかすめる。

「次は、白い肌が欲しいわ」

 博士の唇が、うっとりと笑みを引く。

「透きとおるような、白磁の肌を」





 灰白の空が、群青に染まりはじめた時刻。わたしは研究室から出た廃棄物をまとめて、隣接する焼却施設へ運んでいく。普段なら研究室のフロアにあるダストシュートに放りこむのだけれど、今日は嵩張かさばるものがあって、投入口に入らなかった。

 台車を押し、わたしは焼却施設の門前に立つ。焼却施設は、《マリアの子宮》の影に潜むように、ひっそりとたたずんでいる。他の機関からの廃棄物も処理しているから、敷地は広大で、搬入口も細かく分かれている。

「奈七八です」

 受付の職員に、わたしは自分の型番を告げる。

「ああ、楓博士のところの仔ね」

 眠そうに目をしばたたきながら、職員の《シヴィタス》は何か書類に走り書きをした。作業員の《オルタナ》がすぐに寄ってきて、わたしから台車を引き継ぎ、門の中へと運んでいく。

 焼却炉は、巨大なコンクリートの建造物だ。遠目には、濃灰色の箱――ひつぎのようにも見える。高く屹立きつりつする煙突からは、絶えず灰色の煙が流れ、空を覆う雲と同化していく。

 焼却施設には、さまざまな廃棄物が集められてくる。使いものにならなかった部品パーツ。出荷前の検査でねられた商品。ダストシュートに捨てられた、未分化の《オルタナ》の躰。

 わたしも、いつか、ここへ運ばれるのだろう。そのとき、わたしは、どこまで部品になっているのだろうか。空の下、たなびく煙に手をかざす。わたしの部品は、小豆あずき色の長い髪と、朽葉色のと……あとは、至極、標準的な、十代後半の少女の肉体だ。楓博士は、もう、雀斑そばかすのない顔も、亜麻色の髪も、手に入れている。博士の求めた白磁の肌を、わたしは持ち合わせていない。

(わたしの躰は、楓博士に、使ってもらえない)

 ぱたり、と手を下ろす。かすかに潮の匂いを含んだ風が、わたしの白衣をなびかせていく。宵闇に冷やされた風は冬の名残を濃く宿していて、わたしは寒さにえりをかきあわせ、身を縮めた。

(早く、戻ろう)

 きびすを返し、《マリアの子宮》へと小走りに歩き出したとき、

(……あ)

 不意に、視界の端を黒い影が掠めて、わたしは足を止めた。二つ向こうの門から、大きく、細長い、黒い袋に詰められたものが、担架たんかに乗せられ、運ばれてくる。袋には、不用意に触れることを禁じる赤い警告印ハザードマークが刻まれていた。担架を持つ《オルタナ》は、白い手袋とマスクをつけている。

(……〝非正規品〟だ)

 わたしは、こくりとつばを呑みこむ。

 《オルタナ》は、すべて、《カンパニ》に登録され、徹底した管理の下に供給されている。けれど、最近、その管理網のどこかにほころびが生じたのか、無登録の《オルタナ》が、裏で出回りはじめたのだという。選別の過程でふるい落とされた個体や、廃棄対象となった個体が、処分されずに流通し、非合法に使用されている――事態を重く見た《カンパニ》は、〝非正規品〟の捕縛に乗り出すと同時に、ワクチンの管理をいっそう厳重にした。ワクチンの接種が断たれれば、わたしたちの躰は一年と保たない。あの黒い袋に封じられた躰は、どんな姿に成り果てているのだろう。

(どこまで使ってもらえたのかな……)

 黒い袋が、焼却炉に運びこまれていく。

 わたしが持ちこんだ廃棄物と、同じように。


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