#4 テセウスの筏
1
午後の薄日が、灰白色の研究室に、淡い金色の紗を重ねている。かすかに春の息吹を含んだ、ほんのりと温かな光だ。
「外は、まだ、冷たいのにね」
曇った窓硝子に、そっと指を添えて、楓博士が呟く。短く整えられた、清潔な爪。白い硝子の曇りが、滑らかな指先になぞられて、透明な雫に収束する。それは、つう、と細く、惑うように博士の指を伝い、白衣の
「髪、変えたんですね」
博士の後ろ姿に目をとめて、わたしは気づいた事実をそのまま述べた。うなじで緩く束ねられた博士の髪は、
「先日、しばらく休暇をとると
「ええ」
窓から指先を離し、博士は軽く勢いをつけて振り向いた。こころなしか幼い笑みを浮かべて。
「どう? 似合うかしら」
「ええ、とても」
わたしは
「よかった」
嬉しそうに笑顔を咲かせた博士を見て、わたしは、自分の返答が間違っていなかったのだと、安堵する。
「所内で、抗老化手術を受ける人がいてね。髪はいらないって言うから、見に行ったの。そしたら、この髪よ。こういう髪、ずっと欲しかったの。手に入れられてよかったわ」
楓博士は、
「またひとつ、理想に近づけたわ」
楓博士は満足そうに声を
老いに抗い、理想の姿を目指すことは、別段、珍しいことではない。《シヴィタス》なら、誰でも受けている手術だ。
ただ、ふと思う。博士の体は、何体の《オルタナ》の
「……博士は」
首をかしげる代わりに瞬きをして、わたしは尋ねた。
「自分以外に、なりたい誰かがいるのですか?」
博士は、ずっと、理想の部品を――《オルタナ》の躰を、探しているように見えたから。
「……そうね」
博士の微笑が、わずかに
「あなたたちは、きれいね」
「醜い嫉妬に狂うことなんて、ないのだもの」
指先に残った硝子の温度が、ひやりとわたしの頬を
「次は、白い肌が欲しいわ」
博士の唇が、うっとりと笑みを引く。
「透きとおるような、白磁の肌を」
+
灰白の空が、群青に染まりはじめた時刻。わたしは研究室から出た廃棄物をまとめて、隣接する焼却施設へ運んでいく。普段なら研究室のフロアにあるダストシュートに放りこむのだけれど、今日は
台車を押し、わたしは焼却施設の門前に立つ。焼却施設は、《マリアの子宮》の影に潜むように、ひっそりと
「奈七八です」
受付の職員に、わたしは自分の型番を告げる。
「ああ、楓博士のところの仔ね」
眠そうに目をしばたたきながら、職員の《シヴィタス》は何か書類に走り書きをした。作業員の《オルタナ》がすぐに寄ってきて、わたしから台車を引き継ぎ、門の中へと運んでいく。
焼却炉は、巨大なコンクリートの建造物だ。遠目には、濃灰色の箱――
焼却施設には、さまざまな廃棄物が集められてくる。使いものにならなかった
わたしも、いつか、ここへ運ばれるのだろう。そのとき、わたしは、どこまで部品になっているのだろうか。空の下、たなびく煙に手をかざす。わたしの部品は、
(わたしの躰は、楓博士に、使ってもらえない)
ぱたり、と手を下ろす。かすかに潮の匂いを含んだ風が、わたしの白衣をなびかせていく。宵闇に冷やされた風は冬の名残を濃く宿していて、わたしは寒さに
(早く、戻ろう)
きびすを返し、《マリアの子宮》へと小走りに歩き出したとき、
(……あ)
不意に、視界の端を黒い影が掠めて、わたしは足を止めた。二つ向こうの門から、大きく、細長い、黒い袋に詰められたものが、
(……〝非正規品〟だ)
わたしは、こくりと
《オルタナ》は、すべて、《カンパニ》に登録され、徹底した管理の下に供給されている。けれど、最近、その管理網のどこかに
(どこまで使ってもらえたのかな……)
黒い袋が、焼却炉に運びこまれていく。
わたしが持ちこんだ廃棄物と、同じように。
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