2

 施設を出て、馬車に乗った。海岸から、丘の上に向かう。灰色の海は夕暮れに沈み、黒い影を波間に溶かしこんでいる。夕陽のしずくは雲に塞がれしたたらず、街を濡らす光は家々の窓から漏れる灯りだけだ。東の浜からい上がる夜の影に追われるように、僕は丘の上の洋館に辿りつく。

 玄関に入ると、あたたかい空気が頬をかすめた。じわり、とさざめく肌に、僕は自分の体が思いのほか凍えていたことを知る。身を包む羽織は夕もやを吸い、しっとりと重く、そして冷たくなっていた。

 つとめて淡々と、歩調を整え、階段を上がる。

 彼の部屋の扉に、手をかける。

「起きたの、はる

「……ああ」

 さっきな、と口の中で呟きが転がる。寝台に横たえられた彼――緪は、唯一自由に動かせる顔を僕に向けて言った。

「だから、これ、外せ」

 緪の手足をいましめる鎖が軋み、冷たい音でく。僕は無言で目を伏せて、ふところから鍵を取り出し、緪を繋いだ枷鎖を解く。

 緪は、夜が訪れるとともに目を覚ます。昔からの習慣だ。街が眠りについて、やっと静かになるからだという。数多あまたな人の雑音ノイズは、緪には耐えがたい苦痛らしい。

 黄昏と黎明に、僕はこの邸を訪れ、緪の鎖を解き、そしてまた嵌める。自在に筆を操っていた緪の手を、縛める。緪の無意識が、緪を殺さないように。

 夢遊病と自傷癖の併発――と言うべきだろうか。三年前、空の下が姉さんの血で染まってから、緪は、眠ると緪自身を害するようになった。あらゆる刃物を遠ざけても、硝子を割って、その破片を使ってしまう。周りに道具がなくなった最後には、緪は両手の指で喉をえぐり、頸動脈を引き千切ろうとさえした。声ひとつあげることなく、淡々と、どこまでも静かに。

 手錠の痕が生々しく残る緪の手に視線を落とす。すらりとのびた、骨のかたちが美しい、長い指。絵筆を支える指先の皮膚は今でも硬く、絵を描く者の証は消えていない。

 部屋の隅には、描きかけのイーゼルが、ひっそりとたたずんでいる。どんな絵になるのかは、うかがえない。

 緪は人を描かない。この国の日常風景を写実的に描くのが緪の作風であったけれど、ぱちぱちとはぜるまきの音が今にも聞こえてきそうな暖炉の傍にも、朝霧に濡れて瑞々みずみずしく光をたたえた果物が並ぶ屋台にも、人の姿はない。緪が描くのは、そういう絵だった――はず、なのに。

「……緪」

 かしゃん、と、ひとつめの手枷を外しながら、僕は言った。

「なぜ、抵抗しないの?」

 いつまでこんなことをつづけるつもりだ、とか。

 こんなことをしてなんになる、とか。

 いくらでも、健全な抵抗を、非難を、並べ立てられるはずなのに。

「……なぜ、って……」

 緪の瞳が、静かに瞬く。

「これは、桜の復讐で、俺の断罪、だろう」

 僕の手が、止まる。ぎゅっと、唇を引き結ぶ。桜。さくら。姉さんの名前が頭の中にゆらめく。黒い水の中から、透明なあぶくが浮き上がってくるように。

「復讐? 断罪?」

 はっ、と僕の喉から乾いた笑い声が滑り落ちた。

「……たとえ目覚めても、姉さんに、あなたの記憶は、もうないよ」

 《イノセンス》を打って、僕が、姉さんを、ゼロに戻したから。あなたのことも、僕のことも、消したから。

「三年前……父が矯正施設へ収容されて、姉さんが、やっと退院できた日……」

 手の中の鍵を、ぎゅっと握りしめる。

「あなたは、姉さんを拒絶した」

 のばされた姉さんの手を、振り払って。

「父親に抱かれた姉さんは、そんなに汚かった?」

 ねえ? と、僕はささやく。奇妙に歪んだ僕の笑顔が、深淵の瞳に映りこむ。

「……後悔している」

 かすかに目を伏せて、緪は重く口をひらいた。

「どうして、あのとき、俺は、桜の手をとらなかったのか。どうして、俺は――」

「遅いよ」

 緪の言葉を遮る。緪の拒絶が、姉さんの絶望を、決定的なものにしたんだ。

「いいことを教えてあげる」

 かしゃん、と僕は、ふたつめの手枷を外す。これで、緪の両手は自由だ。僕の首を一思いに絞めることだってできる。

「このあいだ、あなたを抱かせて、そして、あなたが抱いた、《オルタナ》の仔……あの躰はね、姉さんと、あなたから、つくったものだよ」

 気づいていた? と、僕は挑戦的に笑ってみせた。

「あなたが拒絶した女の体と、あなたが否定した自身の命、それをはらんだ躰に抱かれ、抱いた、気分はどう?」

 ひらひらと言葉を降らしながら、僕は心を、そっとうずめる。

 緪は気づいているだろうか。

 あの《オルタナ》を――由一〇を、僕が抱いていたこと。

 姉さんの面影を感じながら、緪を重ねて、触れていたこと。

「近親相姦になるのかな」

 あなたも、僕も。

「あなたと姉さんの子供を、僕は殺したことになるのかな」

 僕の父と、同じように。

「ねえ? 緪」

 姉さんが飛び降りて、あなたの絵は変わった。今までかたくなに描かなかった人の姿を描くようになった。あげく、禁制の絵を発表して、矯正施設へ入れられた。

 僕は、それが、ゆるせなかった。

 緪の命の欠片を、僕以外の、数多あまたの研究員が使うなんて。

 《ブリーダ》という、公共の資源リソースになってしまうなんて。

「あなたは、まだ、人を描く?」

 外した枷を、握りこむ。金具の先がてのひらに食いこみ、痛みが走る。構わずに、僕はさらに力を強めた。

「僕を、描く?」

 描いてくれる? いつか、僕に、断罪の日が訪れたなら、あなたの手で、僕のかたちを、なぞってくれる? その手で、その指で、その瞳で。抱くより、犯すより、ずっと緻密に。ずっと、綺麗に。

 僕の体は、姉さんの記憶のひつぎだから。

 姉さんには、未来だけがあればいい。僕には、過去だけがあればいい。

「……そうしたら、お前は死ぬのか」

 低く抑えた緪の声が、しずくのように、薄闇を揺らす。いだ水面に、ぽつりと波紋をひとつ打つように。

 僕を見上げる緪の瞳は、静かなままだった。激情に揺らぐことなく、夜の湖水のように、僕を映しつづけた。

「生きることは、未来をつくることでしょう」

 僕は微笑む。姉さんの面影をもたない体で。

「僕は、未来を必要としない」

 静止した水は、命を宿せば、やがて腐る。

「さいごの日が来たら、僕は、あなたに、《イノセンス》を打つよ」

 それで、僕の復讐は完成する。

「あなたの中から、姉さんの記憶を、欠片ひとつなく奪い取ってやる」

 あなたに死をもたらす記憶を。

 あなたに宿る、僕の記憶も、また。

「生きるという牢獄に、あなたを放りこんでやる」

 封じた水が濁る前に、時を止めて。

 綺麗なまま、永遠に抱えて。


 僕は、生きることから、自由になる。


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