#3 クラインの水槽

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 硝子の天井から降る白い光が、施設の内側を満たしている。影を描かない、淡い光だ。フィルタに整えられた空気は風を流さず、閉ざされた厚い窓は潮騒しおさいを遠ざけ、静寂にひびが入るのを防いでいる。かげらない光、そよがない空気、震えない音。ここでは、すべてが静止しているように感じる。光も影も、時間も、命も。まるで、凍りついた水槽のように。

 光をふるうプリズムや、ちりぬぐう装置、音を遮る厚い硝子が使われているのは《マリアの子宮》と同じだが、この施設に試験管はない。この施設から出てくるのは新しい命じゃない。光を宿さない、声を奏でない喉、命をもたない抜殻ぬけがらの体だ。

 冷たいリノリウムの廊下を、最奥まで歩く。寂れた海岸にたたずむ、小さな施設だ。外では、潮騒が絶えず時を刻んでいるけれど、扉と窓を閉ざせば、中まで押し寄せることはない。時の経過から守るように、この施設は在る。そう思うのは、僕の願望だろうか。

 白い扉を、ゆっくりとひらく。床は廊下と同じリノリウムで、天井と壁には、扉と同じく、白い漆喰が塗られている。

 寝台と、小さな薬品棚、そして、一人用の椅子と机があるだけの、質素な部屋だ。全部、ほこりひとつなく磨かれ、清潔に整えられている。けれど、この部屋のあるじが使っているのは、もうずっと、寝台だけだ。

「……ただいま、姉さん」

 僕のささやきが、水のように静止した部屋に、かすかな波紋を立てる。


――おかえり、梍。


 返る声は、僕の耳を揺らさない。体の奥、記憶の水底から、そっと汲み上げて、抱きしめるように再生する。

 姉さんのが閉ざされたままになって、もうすぐ三年だ。僕よりも淡い亜麻色の髪も、透きとおるように白い肌も、僕は受け継がなかった。僕の体は、母にばかり似た。それが、幸いなことだったのか、判断はつかない。この体に父の面影をわずかでも認めれば、僕はとても正気を保てないだろう。自分の体を、ずたずたに切り裂かずにはいられないだろう。けれど、もし、そうしていたら、僕は容易たやすく死ねただろうし、僕の体に宿った父の亡霊に、刃を突き立てて復讐することもできたかもしれない。

 姉さんの体は、父にも、母にも、似なかった。姉さんの体をかたちづくったのは、父方の祖母の遺伝子だった。姉さんの不幸を決定的にした、呪いの鎖。父を狂わせた、美しさの螺旋らせん

 姉さんの体は、ここで眠りつづけている。幾本もの管で、命を、この世界に繋がれている。姉さんの望みを、僕は叶えない。僕は、姉さんを死なせない。

 眠る姉さんに、夢は現れるだろうか。悪夢の引き金なら、僕が薬で撲滅したけれど、そのうえで、もし夢が訪れるなら、安らかなものであってほしいと願う。僕はばくにはなれても、姉さんを夢そのものから守ることはできないから。

 三年前、姉さんは空の下に立った。いつもと同じ、薄雲に閉ざされた空だった。もし、雲が切れていたなら、姉さんの命は、透きとおった青の向こうへ飛び立てていただろうか。姉さんの望んだとおりに。

 姉さんは眠っている。死なないでくれという、僕の願いを叶えつづけている。目覚めなくて良い。姉さんを絶望させたこんな世界、姉さんの目に映す価値なんてないよ。

(あぁ、でも……)

 僕は、相反する夢想をいだく。再び目をあけた姉さんに、「おかえり、姉さん」と微笑む自分を想像する。姉さんは、僕を見て、途惑とまどったように瞬きをして、言うだろう。「それ、私のこと?」って。

 姉さんが飛んだ日、空の下に潰れた姉さんの体にすがって、僕は夢中で《イノセンス》を打った。壊された姉さんの心を、まっさらにして、もう二度と姉さんの命を奪わせないように。父の存在を、姉さんの中から、ひとかけらも残さず消し去るために。

(姉さんは、憶えなくて良いんです)

 どうか、すべて忘れて。

(姉さんの絶望、全部、僕にください)

 姉さんの体に、父の子供は宿らなかった。姉さんの揺籠ゆりかごは、今でも月ごと、命を流す。僕がそれをすくいつづけていると知ったら、姉さんは、どんな目で僕を見るだろう。

「みんな……僕を置いて、いこうとする……」

 僕の呟きは、届く宛てもなくリノリウムの床に落ちて、粉々に砕けていった。

「ねえ、姉さん」

 僕は言葉を落としつづける。色も温度もない、硝子細工の科白せりふを。

 姉さん。

 綺麗な仔が、できたよ。

 僕の愛した、あなたと、彼の、命の欠片から。

 とても綺麗な仔たちを、僕は、つくっているよ。

 透きとおった白磁の肌はあなた譲りで、濡烏の髪と黒曜石の瞳は彼のものだ。

 彼らには、あなたと彼の面影だけがある。

 あなた自身と、彼自身を殺そうとした、あなたと彼の面影だけがある。

 僕が、そう整えた。

 僕を置いていこうとしたあなたも、彼も、僕は憎んでいる。そして、その憎しみごと、愛している。

 だから、僕は、あなたと彼からつくった仔たちに、ひとつの種を植えたんだ。呪いというべきか、願いというべきか、祈りというべきか、判断はつかないけれど、どれも等しく、僕の身勝手だ。植えつけた種は、自由の希求。あなたと彼の遺伝子をもつ彼らが、はたして自由を求め得るのか、僕は、見届けたい。あなたは父に命の自由を奪われ、彼はこの国に心の自由を奪われた。

 僕の検証は、長くは続かないだろう。《ブリーダ》以外の卵子と精子から《オルタナ》をつくることは禁止されている。母は薄々気づきはじめているようだ。そう遠くないうちに、僕は告発されるかもしれない。僕の所業が明るみに出れば、僕は罰を受けるだろう。《シヴィタス》の資格を剥奪されて、《ブリーダ》になるだろう。父と同じように。

 姉さん。《イノセンス》を打たれたあなたの中には、もう僕はいないでしょう。僕が、あなたを、姉さんと呼べるのは、あなたが目覚めるまでのあいだだけだ。姉さん、さっき僕は、あなたに目覚めなくて良いと言ったけど、ほんとうは、再びあなたの目がひらくことを、おそれているのかもしれない。姉さん。姉さん。姉さん。命の自由を求めたあなたを、僕は無理やり生かして、この世界に繋ぎとめている。僕に記憶を奪われたあなたは、まっさらになった瞳で、この世界に何を見るのかな。

 姉さん、あなたを縛るものは、もう僕だけだ。

 目覚めたあなたが、自由を求めて生き、それゆえに、僕に絶望の鎖を見たならば、僕は、僕を殺さなくてはならない。

 この施設を、生者が出て行くことはないという。けれど、僕はまだ、心のどこかで、奇跡を信じているのだ。おそれて、いるのだ。

 姉さんの体に注がれていく、透明な薬液を、僕は眺める。規則的に落下していくしずくがなければ、時間の経過も感じない。ここは静かだ。僕が「ただいま」と言える場所は、今はもう、この病室だけだ。ここには姉さんの体があって、命があって、僕に収めた姉さんの記憶がある。

 姉さん。この部屋の安寧の寿命は、いつ尽きるのだろう。断罪の日、空は晴れるだろうか。あなたが飛び立とうとした空へ、僕はけるだろうか。あなたの記憶と一緒に。

 姉さん。あなたが目覚めないかぎり、僕は、あなたの弟でいられる。あなたの瞳が再び世界を映さないかぎり、あなたの絶望は、僕の命とともにある。

 あなたの記憶を内包して、僕の心は、あなたの命とともにある。


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