6

 朝もやに覆われた黎明の街を、馬車で進む。雨は止んでいて、磨硝子のような曇天から、白い薄日が射している。いつか、試験管の中から見上げた天井の光と、似ていた。プリズムにふるわれた、清潔で正しい光。

 館の前で、ぼくは、こくりとつばを呑みこむ。スパナを持つ手が、すこし震えた。教育インプットされた遵法精神が、ぼくに〝不法侵入〟を躊躇ためらわせる。でも、扉をあけなければ、始まらない。扉の鍵は、博士が持っている。スパナを握りしめ、唇を引き結んだとき――

「えっ……?」

 かちゃり、と内側から、掛金かけがねの外れる音が響いた。予想外のことに、ぼくは逃げることもできずに立ち尽くす。

「……おまえ……?」

 ひらかれた扉から、思いがけない顔がのぞいた。

「……どうして……」

 さらりと耳もとを流れる黒髪。ぼくを映す深淵の瞳。彼が、扉をあけていた。

「枷鎖を、外してもらえた、の……?」

 ぼくの唇から、茫然と言葉がこぼれ落ちる。彼は軽く瞬きをして、ぼくの疑問に答えた。

「四六時中つけているわけじゃない。縛めるのは、眠るときだけだ」

「眠るとき……?」

「ああ。俺は眠ると狂うらしい」

 呟くように、そう言って、彼は少し視線をらした。

「それって、どういう……?」

 重ねた問いに、彼は答えなかった。ただ、「あいつは?」と、短く訊いた。

「今日は、ぼくの独断で来ました」

 中に入っても? 彼を見上げて、ぼくは微笑む。彼は一瞬、怪訝そうに眉を寄せたものの、ぼくを拒みはしなかった。



「やるのか?」

「はい」

 淡々とうなずく。彼の背中に続いて、階段を上がる。どこまでも自然に。まるで、生活の一部みたいに。いや、一部なんかじゃない。事実、これは、すべてだった。日常ライフであり、生存ライフそのものだった。閉ざされる寝室の扉。どちらからともなく服を解く。ちらりと、ぼくは腕時計に目をる。まだ大丈夫だ。

「あなたに、訊いてみたかった」

 彼の襯衣シャツにかけた手を止めて、ぼくは尋ねた。

「あなたは、《シヴィタス》ですか?」

「違う」

 彼は、静かに答えた。じゃあ……と、ぼくは彼の肩から、するりと襯衣を落とす。あらわになる彼の体。刻まれていた傷は、もうほとんど癒えていた。

「《ブリーダ》ですね」

 ぼくの科白せりふに、彼が、わずかに息をつめるのがわかった。そう、と、ぼくは呟く。

 この国には、三種類の存在がある。この国の民である権利をもつ《シヴィタス》と、ぼくたち《オルタナ》、そして、《ブリーダ》――《シヴィタス》の資格を剥奪された人間。彼らは矯正施設に隔離され、生活のすべてを管理されている。

「博士が、あなたを、矯正施設から、ここへ……」

 ひらり、と、彼の胸に、肋の起伏に、ぼくはてのひらを重ねる。とくとくと、彼の音が流れこみ、じわりと、彼のぬくもりがにじむ。

「どうして、《シヴィタス》の資格を……?」

「絵を描いた」

「絵……?」

 どんな絵を? と、ぼくは続けた。さらり、と彼の前髪が、彼の瞳を影で覆う。

「ひとが自由に生きている姿を」

 吐息とともに落とされた、彼の声は微かだった。けれど、その響きには、凛とした強さが宿っていた。

「……見てみたかったな、あなたの絵」

「もうない。一枚残らず、《カンパニ》に燃やされた」

「……そう」

 残念だな、と呟いて、ぼくは彼の背中に腕をのばした。華奢きゃしゃだけれど、かっしりとした、おとなの体だった。引き寄せて、なにもまとわない胸を重ねる。ぼくの臍の下に、彼のものが当たった。ぼくの躰が彼にもたらす条件反射だった。彼の意識の支配が及ばない領域、そのさらに奥にある本能の部分に、ぼくの躰をおぼえこませたしるし。

「あなたは、どうして……」

 ベルトに手をかけながら、ぼくは問いを重ねる。

「ぼくに、抱かれることを、ゆるしたんですか」

 彼の胸に、額をつけて、ぼくはうつむく。彼の答えが、霧雨のように、ぼくの上に降る。

「……あいつが、俺に、望んだから」

 ふ、と、ぼくの口もとに、自然と笑みが浮かんだ。これで、もう、ぼくを繋ぎとめる鎖は、なにもない。

 顔を上げて、彼を見つめて、ぼくは微笑む。

「今日は、あなたを抱きに来たんじゃないんです」

 彼の瞳が、ぼくを映す。博士に整えられた、綺麗なぼくを。

「ぼくは、何度も、あなたを抱いてきました。あなたの体には、ぼくの仕草が、完璧に刻みこまれているはず。それを、ぼくに、しかえしてください」

 ぼくの仕草、それはつまり、かつて博士が、ぼくを抱いた仕草ということ。

「おまえに抱かれたやりかたで、おまえを抱けってことだな」

「はい」

 腕をほどく。寝台に身を横たえ、彼に躰を宛てる。

「……わかった」

 ふたり分の重みを受けとめて、寝台がわずかに軋む。

 はじまりを告げる額へのくちづけ。幾度も繰り返しぼくがほどこしてきたそれを、彼は忠実に再現していた。目を閉じる。優しい暗闇が、ぼくを包む。これでいい。これで、いい。

「あなたと話をしたのは、初めてですね」

 ただ、抱いて、抱かれてしか、なかったから。

「あなたに、ひとつ、きいてみたかった」

 ここへ来るまでに、考えていたこと。

「何だ?」

 ぼくの首筋をみながら、彼がうながす。ちりり、と牙を立てられて、ぼくは喉の奥で、ちいさく声を鳴らす。

「どうして、生の反対は、死しかないんだろう。生きていたくないなら死ぬしかない。でも、生きていたくないことと、死にたいってことは、違う気がするんです」

「消極的か、積極的かの違いだろ」

「あなたは、どちら、ですか?」

「どちらも、選べなかった」

 自分に、ゆるせなかった。

 平然と生きることも、死んで解放されることも。

「だから、死に損なった」

 彼に、命を繋がれた。

「それに、その質問は、真実ではないだろう」

「どういう、こと……?」

「おまえのいう、生きていたくない、と、死にたい、って、いうのは、幸せに生きたいってことじゃないのか」

 願いたかったのは。

 叫びたかったのは。

 生きていたくない、でも、死にたい、でも、なくて。

 たとえ、この命が、正しくなんてなくても――

「……あなたの言葉を、きけてよかった」

 ぼくは笑った。多分、わらった。

 彼は優秀だった。神経の、筋の、骨の一本一本が、ぼくの仕込んだ仕草をおぼえていて、彼の無意識が、それを完璧に複写トレスし、出力リアクトしている。胸の尖りをつぶす強さも、中を掻き乱す円の幅も、指を増やす頃合タイミングも、同じ。梍博士と、同じ。

 けれど、ぼくたちは、その先には進めなかった。ぼくが、かつて、彼を相手につまずいたのと、同じところで。

「やっぱり、ぼくじゃ、たたないですか」

「……悪い」

「いえ。最初は、ぼくも、そうでしたから」

 あなたに、博士に抱かれるぼく自身を、重ねられるようになるまで。

「脚、このままひらいていてください」

 躰を起こして、彼と向かい合う。すこし後ろに下がって、ぼくは寝台にひれ伏すようにかがんだ。

 ぼくの意図を察した彼が、ぼくの頭に手をのせて制する。

「……んなこと、別に――」

「しないと先にすすめませんから」

「だからって」

「黙っててください」

 かまわずに、ぼくは彼を口に含んだ。これをやるのは初めてだった。うまくできるかわからない。でも、ここで止めるわけにはいかない。早くしないと計算が狂う。間に合わなくなる。

 舐めて、啜って、手もつかった。次第に喉を塞いでいく欲。じわじわと苦い味が舌の端ににじみはじめる。そういえば、と、ぼくは思った。博士は、ぼくを抱くとき、この行為を必要としなかった。

(博士、あなたは……)

 ぼくに、彼の抱きかたを仕込むだけじゃなく……ぼくを通して、あなたは彼を抱いていたんですか? ぼくの向こうに彼をみて、ぼくを抱いていたんですか? だから、この行為なしに、ぼくを抱くことができたんですか?

(そうか、彼は……)

 どうして、今まで、思い至らなかったんだろう。

 《ブリーダ》を収容する矯正施設は、《マリアの子宮》の傘下にある。《ブリーダ》は、そこで、厳重な管理体制の下、ぼくたち《オルタナ》の躰をつくるための受精卵――それのもととなる精子と卵子を提供しつづける。

 彼は、そこにいた。そして、博士に、連れ出された。

 濡烏の髪、黒曜石の瞳――ぼくと同じ、彼の漆黒。

(ばかだな、ぼくは、いまさら気づいても、もう……)

 彼がちいさく呼吸を呑みこむ気配がした。ぼくの喉の奥に、とろりと苦いものが注がれる。でも、さいごまではやらない。そそりたつぎりぎりのところで、ぼくは口を離した。

「これでいいでしょう」

 彼の肩に手をかけて、自分の躰を支えながら、ぼくは自ら膝で立って、彼を迎えいれた。

「止めないで……つづけて、ください……時間がない」

 彼を咥えこんだつなぎめがぴくぴくとふるえた。うごいて。はやく。時間が追いつく前に。

「っ、おまえ――」

 言いかけた彼の唇を塞ぐ。気づかないでほしかったのに。

 躰の中、集束しかけていたぼくの熱が、すっと、凍えて、霧散した。さざめく肌。わななく呼吸。喉の奥で、火花が、はじける。

(だめ、まだ――)

 胸をさかのぼる激痛と灼熱。彼から唇を離し、口をおさえる。顔をそむけ、外へ出ようとするそれを呑みこもうとする。もう少しだから。あとすこしだから。抑えこんでみせる。今まで、ずっと、声も言葉も情動も、何度だって呑みこんできたのだから。抑えこむことができたのだから。

 なのに、

「っ……」

 ぼくの唇の端から、赤がこぼれた。泡の混じった、鮮やかな赤だった。いちどせきを切ると、それはもう止まらなかった。口を塞いだ手のあいだからあふれて、手首を伝い、腕を流れ、白い敷布にしたたり落ちる。

「死ぬな!」

 叫ぶ声が、遠くきこえる。あなたが言うんですか? それ。可笑おかしい。というか、そもそも科白せりふ自体が、おかしいですよ。死ぬな、なんて。

(ぼくは、死なない。だって、ぼくは……)

 死は、生きものに対して使う言葉だ。人形に、機械に、死なんて存在しない。ただ破壊があるだけ。需要を満たせなくなった快楽人形セクサロイドが一体、永久に再起動しなくなるだけ。

(抱いていて、ください。抱きつづけて、ください)

 ぼくの呼吸が止まるまで。ぼくの躰が、完全に機能を停止するまで。

(博士)

 あなたに抱かれて終わる幸せ。それを、どうか、叶えて、ください。

(梍博士)

 ぼくのなかにのこった、ただひとつの祈りを、どうか。

(さいかち、はかせ)


 ああ、でも――

 もし、願えたなら、ぼくは、


 あなたの心が、ほしかった。



 ぼくの心で、生きたかった。


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