6
朝
館の前で、ぼくは、こくりと
「えっ……?」
かちゃり、と内側から、
「……おまえ……?」
ひらかれた扉から、思いがけない顔が
「……どうして……」
さらりと耳もとを流れる黒髪。ぼくを映す深淵の瞳。彼が、扉をあけていた。
「枷鎖を、外してもらえた、の……?」
ぼくの唇から、茫然と言葉が
「四六時中つけているわけじゃない。縛めるのは、眠るときだけだ」
「眠るとき……?」
「ああ。俺は眠ると狂うらしい」
呟くように、そう言って、彼は少し視線を
「それって、どういう……?」
重ねた問いに、彼は答えなかった。ただ、「あいつは?」と、短く訊いた。
「今日は、ぼくの独断で来ました」
中に入っても? 彼を見上げて、ぼくは微笑む。彼は一瞬、怪訝そうに眉を寄せたものの、ぼくを拒みはしなかった。
「やるのか?」
「はい」
淡々と
「あなたに、訊いてみたかった」
彼の
「あなたは、《シヴィタス》ですか?」
「違う」
彼は、静かに答えた。じゃあ……と、ぼくは彼の肩から、するりと襯衣を落とす。あらわになる彼の体。刻まれていた傷は、もうほとんど癒えていた。
「《ブリーダ》ですね」
ぼくの
この国には、三種類の存在がある。この国の民である権利をもつ《シヴィタス》と、ぼくたち《オルタナ》、そして、《ブリーダ》――《シヴィタス》の資格を剥奪された人間。彼らは矯正施設に隔離され、生活のすべてを管理されている。
「博士が、あなたを、矯正施設から、ここへ……」
ひらり、と、彼の胸に、肋の起伏に、ぼくは
「どうして、《シヴィタス》の資格を……?」
「絵を描いた」
「絵……?」
どんな絵を? と、ぼくは続けた。さらり、と彼の前髪が、彼の瞳を影で覆う。
「ひとが自由に生きている姿を」
吐息とともに落とされた、彼の声は微かだった。けれど、その響きには、凛とした強さが宿っていた。
「……見てみたかったな、あなたの絵」
「もうない。一枚残らず、《カンパニ》に燃やされた」
「……そう」
残念だな、と呟いて、ぼくは彼の背中に腕をのばした。
「あなたは、どうして……」
ベルトに手をかけながら、ぼくは問いを重ねる。
「ぼくに、抱かれることを、ゆるしたんですか」
彼の胸に、額をつけて、ぼくは
「……あいつが、俺に、望んだから」
ふ、と、ぼくの口もとに、自然と笑みが浮かんだ。これで、もう、ぼくを繋ぎとめる鎖は、なにもない。
顔を上げて、彼を見つめて、ぼくは微笑む。
「今日は、あなたを抱きに来たんじゃないんです」
彼の瞳が、ぼくを映す。博士に整えられた、綺麗なぼくを。
「ぼくは、何度も、あなたを抱いてきました。あなたの体には、ぼくの仕草が、完璧に刻みこまれているはず。それを、ぼくに、しかえしてください」
ぼくの仕草、それはつまり、かつて博士が、ぼくを抱いた仕草ということ。
「おまえに抱かれたやりかたで、おまえを抱けってことだな」
「はい」
腕をほどく。寝台に身を横たえ、彼に躰を宛てる。
「……わかった」
ふたり分の重みを受けとめて、寝台がわずかに軋む。
はじまりを告げる額へのくちづけ。幾度も繰り返しぼくがほどこしてきたそれを、彼は忠実に再現していた。目を閉じる。優しい暗闇が、ぼくを包む。これでいい。これで、いい。
「あなたと話をしたのは、初めてですね」
ただ、抱いて、抱かれてしか、なかったから。
「あなたに、ひとつ、きいてみたかった」
ここへ来るまでに、考えていたこと。
「何だ?」
ぼくの首筋を
「どうして、生の反対は、死しかないんだろう。生きていたくないなら死ぬしかない。でも、生きていたくないことと、死にたいってことは、違う気がするんです」
「消極的か、積極的かの違いだろ」
「あなたは、どちら、ですか?」
「どちらも、選べなかった」
自分に、
平然と生きることも、死んで解放されることも。
「だから、死に損なった」
彼に、命を繋がれた。
「それに、その質問は、真実ではないだろう」
「どういう、こと……?」
「おまえのいう、生きていたくない、と、死にたい、って、いうのは、幸せに生きたいってことじゃないのか」
願いたかったのは。
叫びたかったのは。
生きていたくない、でも、死にたい、でも、なくて。
たとえ、この命が、正しくなんてなくても――
「……あなたの言葉を、きけてよかった」
ぼくは笑った。多分、わらった。
彼は優秀だった。神経の、筋の、骨の一本一本が、ぼくの仕込んだ仕草をおぼえていて、彼の無意識が、それを完璧に
けれど、ぼくたちは、その先には進めなかった。ぼくが、かつて、彼を相手に
「やっぱり、ぼくじゃ、たたないですか」
「……悪い」
「いえ。最初は、ぼくも、そうでしたから」
あなたに、博士に抱かれるぼく自身を、重ねられるようになるまで。
「脚、このままひらいていてください」
躰を起こして、彼と向かい合う。すこし後ろに下がって、ぼくは寝台にひれ伏すようにかがんだ。
ぼくの意図を察した彼が、ぼくの頭に手をのせて制する。
「……んなこと、別に――」
「しないと先にすすめませんから」
「だからって」
「黙っててください」
かまわずに、ぼくは彼を口に含んだ。これをやるのは初めてだった。うまくできるかわからない。でも、ここで止めるわけにはいかない。早くしないと計算が狂う。間に合わなくなる。
舐めて、啜って、手もつかった。次第に喉を塞いでいく欲。じわじわと苦い味が舌の端に
(博士、あなたは……)
ぼくに、彼の抱きかたを仕込むだけじゃなく……ぼくを通して、あなたは彼を抱いていたんですか? ぼくの向こうに彼をみて、ぼくを抱いていたんですか? だから、この行為なしに、ぼくを抱くことができたんですか?
(そうか、彼は……)
どうして、今まで、思い至らなかったんだろう。
《ブリーダ》を収容する矯正施設は、《マリアの子宮》の傘下にある。《ブリーダ》は、そこで、厳重な管理体制の下、ぼくたち《オルタナ》の躰をつくるための受精卵――それのもととなる精子と卵子を提供しつづける。
彼は、そこにいた。そして、博士に、連れ出された。
濡烏の髪、黒曜石の瞳――ぼくと同じ、彼の漆黒。
(ばかだな、ぼくは、いまさら気づいても、もう……)
彼がちいさく呼吸を呑みこむ気配がした。ぼくの喉の奥に、とろりと苦いものが注がれる。でも、さいごまではやらない。そそりたつぎりぎりのところで、ぼくは口を離した。
「これでいいでしょう」
彼の肩に手をかけて、自分の躰を支えながら、ぼくは自ら膝で立って、彼を迎えいれた。
「止めないで……つづけて、ください……時間がない」
彼を咥えこんだつなぎめがぴくぴくとふるえた。うごいて。はやく。時間が追いつく前に。
「っ、おまえ――」
言いかけた彼の唇を塞ぐ。気づかないでほしかったのに。
躰の中、集束しかけていたぼくの熱が、すっと、凍えて、霧散した。さざめく肌。わななく呼吸。喉の奥で、火花が、
(だめ、まだ――)
胸を
なのに、
「っ……」
ぼくの唇の端から、赤が
「死ぬな!」
叫ぶ声が、遠くきこえる。あなたが言うんですか? それ。
(ぼくは、死なない。だって、ぼくは……)
死は、生きものに対して使う言葉だ。人形に、機械に、死なんて存在しない。ただ破壊があるだけ。需要を満たせなくなった
(抱いていて、ください。抱きつづけて、ください)
ぼくの呼吸が止まるまで。ぼくの躰が、完全に機能を停止するまで。
(博士)
あなたに抱かれて終わる幸せ。それを、どうか、叶えて、ください。
(梍博士)
ぼくのなかにのこった、ただひとつの祈りを、どうか。
(さいかち、はかせ)
ああ、でも――
もし、願えたなら、ぼくは、
あなたの心が、ほしかった。
ぼくの心で、生きたかった。
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