5

 博士がぼくを抱くことはなくなった。代わりに博士は夜毎ぼくをあのやかたに連れて行き、ぼくに彼を抱かせつづけた。

 少しずつ、すこしずつ、彼の体が、ぼくに馴染みはじめている。拒絶か無反応しか返さなかった彼の体は、今ではあの白い薬を使わなくても、ぼくを奥まで呑みこむことができる。無意識の部分にも、変化があった。奔流の中、深くくちづければ、蹂躙じゅうりんされた意識の裏側から、彼の舌は、ぼくのそれをねだる衝動をみせてきた。がらんどうだった瞳が、次第に、ぼくに、博士に、焦点を結ぶようになった。きっと、博士の、望むとおりのかたちで。

 それでも、彼の瞳に恐怖や憎悪がとうとう浮かばなかったのが、ぼくは不思議でならない。無理やり体を拓かれたのに。条件付けを施されたぼくでさえ、最初の夜はこわくて痛くてたまらなかったのに。

 白にまみれた躰に、熱い湯を頭から被った。広い湯殿に、ぼくひとり。湯気と疲労でかすむ視界に目を細め、ぼくは片手をおもむろに、脚のあいだに進ませる。前じゃなく、後ろに。ぼくの躰に刻みついた、博士のあとを、辿たどって。中指、そして、ひとさし指、くすり指。目を閉じて、博士の温度を思い出す。

「――っ」

 集束する熱。吐いた白。注ぐ宛てのない、ぼくの欲。

「……っは……あはっ……ははっ……あははっ…………」

 可笑おかしいね。ぼくは機械なのに。彼のための装置なのに。

 湯殿の壁にもたれて、ぼくは笑いつづけた。ぼくは由一〇。《オルタナ》。自我をもたない、代替可能オルタナティブな人形。主を愛せと設定プログラムされた、隷属と献身の指令コマンドを実行しつづける肉の器。

(それなのに、どうして、ぼくは……)

 愛されたいと、願ってしまったのだろう。捧げるために、綺麗に在れと、つくられたのに、どうして、醜い見返りを、求めるようになってしまったのだろう。躰を捧げる代わりに心を与えてほしいなんて、どうして乞うようになってしまったのだろう。完璧に整えられてつくられたはずの、ぼくの欠陥バグ。この欠陥を知られたら、ぼくも回収されるのだろうか。伊シリーズと同じように。

「……《マリアの子宮》に、生み直されてしまう……」

 《イノセンス》を打たれて、博士のことも、すべて忘れて、初期化されて……あるいは、この躰ごと、葬られて……違う、葬るという表現は、正しくない。それは、生きていたひとに使う言葉だ。削除デリート抹消エリミネート修正デバッグ廃棄スクラップ……《オルタナ》に、悼みはない。ぼくは……ぼくたちは、何度でも、生み直される。まっさらになったぼくは、博士とは違う別の誰かのもとに渡るのだろうか。新しい、次のぼくを……代わりのぼくを、博士は再び抱くのだろうか。でもそれは――

「……ぼく、じゃ、ない……」


――どうすれば、ぼくは、ぼくを、失わずにいられる?


 博士に拓かれた躰を抱えて、博士がくれた熱を、痛みを、宿したままでいられる?

 ぼくの中の博士を、葬られずにいられる?


――さいごまで、愛していられる?


 下ろしていたまぶたを、薄くひらく。雫のしたたる躰を引きずり、湯殿を出る。閉ざされた緞帳。消された洋燈。闇ににじむ群青。誰もいない無音の居間に、ぼくは裸足で、ひたひたと歩いていく。時計を確認し、重い受話器を、ゆっくりと上げる。

「楓博士」

 薄闇にきらめく透明な雫が、声とともに、ぼくの胸へと伝い落ちていく。ぼくの頬を濡らすのは、ぬくもりのない、ただの水だ。《オルタナ》の躰は泣かない。泣けない。

「これから伝えるモノ、誰にも……梍博士にも、知られずに、ぼくに届けていただくことは、できますか?」

 緞帳の隙間から漏れる薄青の光が、水をまとうぼくの躰を照らしている。遠い昔、試験管の中で目をあけて、最初に瞳に映した色と、とてもよく似た、澄んだ青。ぼくたちの命を育んだ、人工羊水の色。絶望の始まりを告げる色。

 ぼくは、もう二度と、生まれない。





「これでいいの? 危ない薬とかは、おことわりよ?」

「大丈夫です。ぼくが欲しいのは、からのカプセルです」

 中身は自分で用意しますから。

「なにそれ……」

 楓博士は瞠目した。こんなことを言い出す《オルタナ》は、ぼくくらいだろう。

「それも、粗悪品では困るんです。設定した時間に、正確に溶ける品が欲しい」

「……あの子を殺すの?」

「え?」

 今度は、ぼくが瞠目する番だった。

 楓博士が、真剣な面持ちで、ぼくを見つめている。

「まさか」

 ぼくは苦笑した。そもそも、《オルタナ》であるぼくに、《シヴィタス》である博士を殺すことは不可能だし、考えもしない。《シヴィタス》に危害を加える要素は、条件付けで徹底的に排除されている。

「安心してください。誰も死なないし、殺しません」

 《オルタナ》は、嘘をつけない。だから、これは、嘘じゃない。誰でも知っている、《オルタナ》の原則のひとつだ。だから、楓博士も、張りつめた視線を緩める。

「……ならいいけど」

 胡乱うろんげに瞬きをして、楓博士は肩をすくめた。ありがとうございます、と、ぼくは微笑む。

「でも、どうして、ぼくが博士を殺すかもしれないなんて思ったんですか?」

 小首をかしげて、ぼくは尋ねた。楓博士は一瞬、唇を引き結び、きまりが悪そうに視線を下げた。

「望むものが手に入らないならいっそ壊してしまおうって考えてしまう人間は、少なくないのよ」

 相手の価値より自分の価値のほうが上なのね、と楓博士は小声で言い足した。

「それなら……」

 ふ、と息をついて、ぼくは答える。

「ぼくは、《オルタナ》で良かったです」

 博士を殺さないでいられるのなら。

 隷属のかせも、献身の鎖も、ぼくにとっては、いとしいいましめだ。この条件付けプログラムのおかげで、ぼくは、博士を愛することができた。博士を害することなく守ることができた。ずっと、ずっと、しあわせ、だった。

「さいごに、ふたつだけ、頼んでもいいですか?」

「なに?」

「東の丘の別荘地……そこへ行ける馬車と、通行証の手配をしてくださると、助かります」

 楓博士の瞳に映るぼくは、穏やかに笑っている。

 博士に整えられた、美しい造形で。

(そう、誰も、殺さないし、死なない)


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