5
博士がぼくを抱くことはなくなった。代わりに博士は夜毎ぼくをあの
少しずつ、すこしずつ、彼の体が、ぼくに馴染みはじめている。拒絶か無反応しか返さなかった彼の体は、今ではあの白い薬を使わなくても、ぼくを奥まで呑みこむことができる。無意識の部分にも、変化があった。奔流の中、深くくちづければ、
それでも、彼の瞳に恐怖や憎悪がとうとう浮かばなかったのが、ぼくは不思議でならない。無理やり体を拓かれたのに。条件付けを施されたぼくでさえ、最初の夜はこわくて痛くてたまらなかったのに。
白にまみれた躰に、熱い湯を頭から被った。広い湯殿に、ぼくひとり。湯気と疲労で
「――っ」
集束する熱。吐いた白。注ぐ宛てのない、ぼくの欲。
「……っは……あはっ……ははっ……あははっ…………」
湯殿の壁に
(それなのに、どうして、ぼくは……)
愛されたいと、願ってしまったのだろう。捧げるために、綺麗に在れと、つくられたのに、どうして、醜い見返りを、求めるようになってしまったのだろう。躰を捧げる代わりに心を与えてほしいなんて、どうして乞うようになってしまったのだろう。完璧に整えられてつくられたはずの、ぼくの
「……《マリアの子宮》に、生み直されてしまう……」
《イノセンス》を打たれて、博士のことも、すべて忘れて、初期化されて……あるいは、この躰ごと、葬られて……違う、葬るという表現は、正しくない。それは、生きていたひとに使う言葉だ。
「……ぼく、じゃ、ない……」
――どうすれば、ぼくは、ぼくを、失わずにいられる?
博士に拓かれた躰を抱えて、博士がくれた熱を、痛みを、宿したままでいられる?
ぼくの中の博士を、葬られずにいられる?
――さいごまで、愛していられる?
下ろしていた
「楓博士」
薄闇に
「これから伝えるモノ、誰にも……梍博士にも、知られずに、ぼくに届けていただくことは、できますか?」
緞帳の隙間から漏れる薄青の光が、水をまとうぼくの躰を照らしている。遠い昔、試験管の中で目をあけて、最初に瞳に映した色と、とてもよく似た、澄んだ青。ぼくたちの命を育んだ、人工羊水の色。絶望の始まりを告げる色。
ぼくは、もう二度と、生まれない。
+
「これでいいの? 危ない薬とかは、おことわりよ?」
「大丈夫です。ぼくが欲しいのは、
中身は自分で用意しますから。
「なにそれ……」
楓博士は瞠目した。こんなことを言い出す《オルタナ》は、ぼくくらいだろう。
「それも、粗悪品では困るんです。設定した時間に、正確に溶ける品が欲しい」
「……あの子を殺すの?」
「え?」
今度は、ぼくが瞠目する番だった。
楓博士が、真剣な面持ちで、ぼくを見つめている。
「まさか」
ぼくは苦笑した。そもそも、《オルタナ》であるぼくに、《シヴィタス》である博士を殺すことは不可能だし、考えもしない。《シヴィタス》に危害を加える要素は、条件付けで徹底的に排除されている。
「安心してください。誰も死なないし、殺しません」
《オルタナ》は、嘘をつけない。だから、これは、嘘じゃない。誰でも知っている、《オルタナ》の原則のひとつだ。だから、楓博士も、張りつめた視線を緩める。
「……ならいいけど」
「でも、どうして、ぼくが博士を殺すかもしれないなんて思ったんですか?」
小首をかしげて、ぼくは尋ねた。楓博士は一瞬、唇を引き結び、きまりが悪そうに視線を下げた。
「望むものが手に入らないならいっそ壊してしまおうって考えてしまう人間は、少なくないのよ」
相手の価値より自分の価値のほうが上なのね、と楓博士は小声で言い足した。
「それなら……」
ふ、と息をついて、ぼくは答える。
「ぼくは、《オルタナ》で良かったです」
博士を殺さないでいられるのなら。
隷属の
「さいごに、ふたつだけ、頼んでもいいですか?」
「なに?」
「東の丘の別荘地……そこへ行ける馬車と、通行証の手配をしてくださると、助かります」
楓博士の瞳に映るぼくは、穏やかに笑っている。
博士に整えられた、美しい造形で。
(そう、誰も、殺さないし、死なない)
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