4

 ほんとうに、雪が降ればよかったのに――馬車の窓から、硝子を伝う雫の連鎖を眺めながら、ぼくは思った。

 まだ陽は落ちていないはずだけれど、厚い雲に遮られて、光の在り処はわからない。霧雨に輪郭をかすませた街が、ぼんやりと車窓を流れていく。邸の外へ出たのは初めてだった。冷たい風が肌を刺し、潮の匂いがぼくを包む。馬車の中で、ぼくは、ぎゅっと自分の躰を抱きしめた。

 ぼくが着ているのは、いつものはかまじゃない。博士と過ごす夜の服――襯衣シャツ上着ジャケット洋袴ズボン――《隣の国》の装束だった。

 ぼくたちを乗せた馬車は、ひとけのない道ばかりを選んで進んだ。だから、ぼくの目が街の人を映すことはなく、また、ぼくたちを目にする人も、誰もいなかった。

 やがて、丘の先、大きな鉄柵の門の前で、馬車は止まった。つたの模様をあしらった柵の向こうには、洋館――《隣の国》の建物を模した家が並んでいた。大きく、広く、見るからに高級な別荘地だった。門の脇には守衛室があり、ぼくたちの馭者ぎょしゃが、何か書類を見せた。守衛は、青年型の《オルタナ》だった。彼は、ちらりとぼくに視線をったものの、すぐに目をそらした。重厚な門が、ゆっくりとひらく。

 別荘地の最奥、魚の鱗に似た屋根をもつ洋館が、ぼくたちの行先だった。

 辺りにひとけはなく、やかたもや細雨さいうの中にひっそりとたたずんでいた。

 玄関を開けると、あたたかい空気が、ふわりと頬をでた。灯りは落とされていたけれど、暖房は効いていた。

 螺旋らせん階段を二階へ上がる。長い廊下のつきあたり、最奥の部屋の前で、博士は足を止めた。

「さっき話したとおりだ。いいね?」

「はい」

 ぼくはうなずく。博士の手が、ゆっくりと扉をひらく。

 中は広く、板張りの床には深縹こきはなだの毛足の短い絨毯が敷かれ、必要最低限の調度品が、落ち着いた桃花心木マホガニでまとめられていた。

 奥の寝台に、ひとがいた。

 博士よりも、いくつか年上だろう、男の人だった。ぼくと同じ、白黒モノクロの洋装をまとっている。痩せているけれど、骨格はしっかりしていることが、襯衣シャツの上からでも分かった。少し長めの黒い前髪の向こうで、同じ色の瞳が、かすかに瞬く。

「……梍……と……?」

 無表情な瞳を、ほんのわずかに途惑とまどいに揺らして。

「初めまして」

 寝台のかたわらに、ぼくは進む。彼は寝台に横たわったまま、静かにぼくを見上げた。ぼくを映す瞳に、今しがたよぎったさざなみはもうなく、深淵のように、黒々といでいた。

 博士の手が、部屋の緞帳を引く。黄昏の光が遮られ、夜がせたような薄い闇が満ちる。それが合図だった。

 外套コート上着ジャケット襯衣シャツ……淡々と、ぼくは自ら衣服をおとしていった。暑くも、寒くもない。がらんどうの温度が、ぼくの躰を包んでいく。

(ああ、そうか……)

 かしゃん、と、かすかにきしんだ鎖の音に、ぼくは胸の内で合点する。

(博士が、ぼくを抱くとき、ぼくに、腕や脚を博士に絡めることを禁じていたのは、これが理由だったんだ)

 彼の四肢にはかせめられ、寝台の四隅に繋がれていた。

 なにもまとわない躰で、ぼくはおもむろに、寝台へ上がる。彼の傍にひざまずき、ぼくは静かに彼を見下ろす。

(これが、博士にとっての、ぼくの、ほんとうの需要)

 今日、陽がかげるとともに告げられた、ぼくの、ほんとうの役割。

「これから、ぼくは、あなたを抱きます」

 すらりとした、背の高い人だった。癖のない、まっすぐな黒髪は、ぼくのそれとよく似ていて、指でけばさらさらと水のようにとどこおりなく流れた。黒い淵のような瞳はいだまま、どこまでも静かだった。心をともなわない、空洞だった。


――僕がきみを抱いてきたのと寸分違たがわず、彼を抱くんだ。いいね?


 博士の言葉が脳裏をよぎった。いちど目を閉じて、ひらく。毛布を除け、彼の体を膝でまたぐ。

 痩せた頬に、手をのばす。額から、鼻筋をとおって、唇へ。辿たどるように、自分の唇を重ねていく。博士は、ただ、それを見ている。寝台の傍の椅子に座って、冷ややかに、ぼくを――ぼくたちを、観ている。

 博士の視線を浴びながら、ぼくは、ぼくの躰に刻まれた、博士の所作をなぞる。

 彼は抵抗しなかった。白い砦をこじあけて、舌をさしこむ瞬間でさえ、ほんの少し肩を跳ねさせただけだった。それも、心が拒絶したのではなく、ただ異物の侵入に、神経が反射を起こしたにすぎないようだった。前から奥へ、奥から前へ。繰り返し、ゆっくりと、舌で牙をひとつひとつでていく。反応の返らない彼の舌を無理やり絡めてすすりながら、彼の襯衣シャツボタンを手探りで外していく。ぼくよりも少し高い体温。ぼくは両手で、彼の首から肩、そして胸へと、襯衣をひらきながら撫でていく。

(……傷痕……?)

 指先に触れた違和感に、ぼくは躰を起こして、彼を見た。刺傷か、それとも、切傷か、あるいは、その両方か。彼の体には、大小さまざまな傷痕が無数に散っていた。古いものもあれば、まだ完全には癒えていないものもあった。

 あばらの上に、手を重ねてみる。てのひらの向こうで、ことことと、命の水が煮えているのがわかる。温かい。生きているんだ、と、ぼんやりと思う。

(……いけない)

 博士が見ている。ぼくは彼の体に戻った。塞いでいた唇の端から、透明な雫が流れ、彼の痩せた顎の線を伝っていた。指先で、ぼくはそれを、するりとぬぐう。濡らしたその指で、ぼくは彼の胸を摘まむ。ちいさな突起の片方を、ぬめる指でおしつぶすようにね、もう片方は口に含み、舌先でいじった。空いたほうの手は、そこからつづくさらに下、脇腹を通って、ファスナを外す。

 前はいじらない。直接後ろへ手をすすめる。目当ての窪みを探し、中指のはらで、たしかめるように軽く撫でる。

「っ……」

 反応が、あった。彼の心が、じゃない。彼の体が、全力で拒んでいた。ひくひくと戦慄わななひだを、指の先に感じる。手を止めて、ぼくは静かに躰を起こした。寝台の下に脱ぎ捨てた外套を探り、博士から渡されていた品物を取り出す。セルロイドの小箱に入れられた、片手で包めるくらいの大きさの、乳白色の球体。薄い膜に爪を立てると、それはぷつりと破れ、とろとろと半透明の液が指に絡む。ぼくの初めてのときは、博士、こんなの使ってくれなかったよ。

「っあ……っ!」

 膝を割って、指をいれた。ためらいなんて欠片もなかった。軽く指を曲げてうごかす。博士がぼくにそうしてきたように。彼の体が跳ねる。手足の自由を奪う枷鎖かさが、かしゃんと音を立てて寝台にぶつかる。

(あつ、い……?)

 ひとの体の中は、こんなにも温度が高いのか。それとも、ぼくの指が冷えているだけだろうか。

(ここから、博士は、どう、うごいていたっけ……)

 躰の記憶を辿たどりながら、ぼくは彼をひらいていく。はじめはゆっくりと、段々強弱をつけて、さらに指を増やして。

(でも……)

 ぼくの所作に、彼は歯をくいしばって耐えている。それを見下ろしながら、ぼくは途惑とまどった。ぼくの躰は、彼に、欲の反応を呈さない。

(どうすれば……)

 右手は止めないまま、博士を振り返る。冷ややかな瞳が、ぼくを見すえた。

「自分でやるんだよ。両手を使えば早い。彼の体に薬が効いてから、再開すればいい」

「……自分で……両手で……?」

「ああ」

 温度のない声が言い放つ。両手の意味は分かるね、と。

 愕然とした。思わず手が止まる。でも、他に方法は、思いつけない。

 そろそろと、彼の体から指を抜いた。左手と右手、それぞれを、ぼくは自分の前と後ろにまわす。ぎゅっと目を閉じて、歯をくいしばる。早く終わらせたい。早く。はやく……

(でき、た……)

 指にわずかに残った薬が、うまくぼくにも作用したのかもしれない。躰が、熱い。生理的な涙がにじんで、ぼくの視界をうるませる。手の甲で拭って、彼の体に戻った。紅く咲いた頬と胸。きつくつむられたまぶたこらえきれない不規則な呼吸。もう指は必要なかった。

「っ……!」

 痛い、はずがなかった。使った薬の作用で、今、彼の体は、与えられる刺激を、すべて快楽に変換しているはずだから。

 ぼくを受けいれている場所が、さざなみを生みはじめる。響くのは、鎖の音と、しずくの音。放っているのか、あふれているのか、ひと波、ひと波、ゆれる度、こぼれる、半透明の白が、ぼくと彼のはざまを汚していく。

 彼の中を穿うがちながら、ぼくは、ふと奇妙な感覚をおぼえた。今のぼくは、博士の動きを完全に透写トレスしている。ぼくの下で、彼は今、ぼくを通して、博士によがらされている。ぼくは、博士だ。そして、彼は、ぼくだ。

(博士)

 ぼくは、博士に、どうされたい? もっと、何をされたい? どこを、どういじってほしい? もっと、もっと、もっと……

(梍博士)

 呼びたい。

(さいかち、はかせ)

 呼んでほしい。


 ああ、これは、ひとつの自慰だ。





 車輪の音が、発条ぜんまいのように時を刻んでいく。重く垂れこめた雨雲が星を隠し、時間を推し測ることはできない。

 躰が重かった。躰中の血が、すべて水銀に変わってしまったみたいに、重くて、だるくて、しかたがなかった。馬車の座席に、倒れこむように背中を預ける。博士が馭者の《オルタナ》に、邸へ戻るように短く命じる。

「最後のほうは、きみの自発行動オリジナルだね」

 角をひとつ曲がったところで、博士は静かに言った。問いかけではなく、確認だった。ぼくはうつむくことで、それを肯定する。

「余計なことは、しなくていい」

 加速する馬車。窓に滲む雫の連鎖。

(雪が降ればよかったのに)

 雨から顔を背けて、ぼくは目を閉じる。知識だけで、実物を見たことのない、熱も色も覆い尽くす真白のひとひらを、ぼくは夢想する。

(そうか……)

 とろとろと落ちていく意識のはざまで、思う。

 《隣の国》では、ぼくたちの役目は《機械》が担っているという。

(ひとじゃないんだ、ぼくは)

 彼に快楽を与えるための《機械》。博士が手ずからつくり仕込んだ、彼の抱き方を記憶プログラムされた快楽人形セクサロイド

 意識が白い闇にとけていく。

 《機械》でも、夢はみられるのだろうか。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る