4
ほんとうに、雪が降ればよかったのに――馬車の窓から、硝子を伝う雫の連鎖を眺めながら、ぼくは思った。
まだ陽は落ちていないはずだけれど、厚い雲に遮られて、光の在り処はわからない。霧雨に輪郭を
ぼくが着ているのは、いつもの
ぼくたちを乗せた馬車は、ひとけのない道ばかりを選んで進んだ。だから、ぼくの目が街の人を映すことはなく、また、ぼくたちを目にする人も、誰もいなかった。
やがて、丘の先、大きな鉄柵の門の前で、馬車は止まった。
別荘地の最奥、魚の鱗に似た屋根をもつ洋館が、ぼくたちの行先だった。
辺りにひとけはなく、
玄関を開けると、あたたかい空気が、ふわりと頬を
「さっき話したとおりだ。いいね?」
「はい」
ぼくは
中は広く、板張りの床には
奥の寝台に、ひとがいた。
博士よりも、いくつか年上だろう、男の人だった。ぼくと同じ、
「……梍……と……?」
無表情な瞳を、ほんのわずかに
「初めまして」
寝台の
博士の手が、部屋の緞帳を引く。黄昏の光が遮られ、夜が
(ああ、そうか……)
かしゃん、と、かすかに
(博士が、ぼくを抱くとき、ぼくに、腕や脚を博士に絡めることを禁じていたのは、これが理由だったんだ)
彼の四肢には
なにもまとわない躰で、ぼくは
(これが、博士にとっての、ぼくの、ほんとうの需要)
今日、陽が
「これから、ぼくは、あなたを抱きます」
すらりとした、背の高い人だった。癖のない、まっすぐな黒髪は、ぼくのそれとよく似ていて、指で
――僕がきみを抱いてきたのと
博士の言葉が脳裏をよぎった。いちど目を閉じて、ひらく。毛布を除け、彼の体を膝で
痩せた頬に、手をのばす。額から、鼻筋をとおって、唇へ。
博士の視線を浴びながら、ぼくは、ぼくの躰に刻まれた、博士の所作をなぞる。
彼は抵抗しなかった。白い砦をこじあけて、舌をさしこむ瞬間でさえ、ほんの少し肩を跳ねさせただけだった。それも、心が拒絶したのではなく、ただ異物の侵入に、神経が反射を起こしたにすぎないようだった。前から奥へ、奥から前へ。繰り返し、ゆっくりと、舌で牙をひとつひとつ
(……傷痕……?)
指先に触れた違和感に、ぼくは躰を起こして、彼を見た。刺傷か、それとも、切傷か、あるいは、その両方か。彼の体には、大小さまざまな傷痕が無数に散っていた。古いものもあれば、まだ完全には癒えていないものもあった。
(……いけない)
博士が見ている。ぼくは彼の体に戻った。塞いでいた唇の端から、透明な雫が流れ、彼の痩せた顎の線を伝っていた。指先で、ぼくはそれを、するりと
前は
「っ……」
反応が、あった。彼の心が、じゃない。彼の体が、全力で拒んでいた。ひくひくと
「っあ……っ!」
膝を割って、指をいれた。ためらいなんて欠片もなかった。軽く指を曲げてうごかす。博士がぼくにそうしてきたように。彼の体が跳ねる。手足の自由を奪う
(あつ、い……?)
ひとの体の中は、こんなにも温度が高いのか。それとも、ぼくの指が冷えているだけだろうか。
(ここから、博士は、どう、うごいていたっけ……)
躰の記憶を
(でも……)
ぼくの所作に、彼は歯をくいしばって耐えている。それを見下ろしながら、ぼくは
(どうすれば……)
右手は止めないまま、博士を振り返る。冷ややかな瞳が、ぼくを見すえた。
「自分でやるんだよ。両手を使えば早い。彼の体に薬が効いてから、再開すればいい」
「……自分で……両手で……?」
「ああ」
温度のない声が言い放つ。両手の意味は分かるね、と。
愕然とした。思わず手が止まる。でも、他に方法は、思いつけない。
そろそろと、彼の体から指を抜いた。左手と右手、それぞれを、ぼくは自分の前と後ろにまわす。ぎゅっと目を閉じて、歯をくいしばる。早く終わらせたい。早く。はやく……
(でき、た……)
指にわずかに残った薬が、うまくぼくにも作用したのかもしれない。躰が、熱い。生理的な涙が
「っ……!」
痛い、はずがなかった。使った薬の作用で、今、彼の体は、与えられる刺激を、すべて快楽に変換しているはずだから。
ぼくを受けいれている場所が、さざなみを生みはじめる。響くのは、鎖の音と、
彼の中を
(博士)
ぼくは、博士に、どうされたい? もっと、何をされたい? どこを、どう
(梍博士)
呼びたい。
(さいかち、はかせ)
呼んでほしい。
ああ、これは、ひとつの自慰だ。
+
車輪の音が、
躰が重かった。躰中の血が、すべて水銀に変わってしまったみたいに、重くて、だるくて、しかたがなかった。馬車の座席に、倒れこむように背中を預ける。博士が馭者の《オルタナ》に、邸へ戻るように短く命じる。
「最後のほうは、きみの
角をひとつ曲がったところで、博士は静かに言った。問いかけではなく、確認だった。ぼくは
「余計なことは、しなくていい」
加速する馬車。窓に滲む雫の連鎖。
(雪が降ればよかったのに)
雨から顔を背けて、ぼくは目を閉じる。知識だけで、実物を見たことのない、熱も色も覆い尽くす真白のひとひらを、ぼくは夢想する。
(そうか……)
とろとろと落ちていく意識のはざまで、思う。
《隣の国》では、ぼくたちの役目は《機械》が担っているという。
(ひとじゃないんだ、ぼくは)
彼に快楽を与えるための《機械》。博士が手ずからつくり仕込んだ、彼の抱き方を
意識が白い闇にとけていく。
《機械》でも、夢はみられるのだろうか。
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