南十字に血を捧ぐ

佐古間

南十字に血を捧ぐ

 煩わしいテレビの笑い声が、ケトルの音をすっかりかき消してしまった。

 ぬるくなったお湯でコーヒーを淹れて、舐める程度に口をつける。苦いのか、酸っぱいのか、よくわからない。

 習慣とは恐ろしいもので、無意識のうちにトーストを焼き、バターを塗りたくり、目玉焼きと、ウィンナーを焼いていた。皿に並んだ食事は見慣れたもので、これに、少し濃い目に淹れたコーヒーを飲むのが朝のルーティンだった。

 テレビの中で、人気の芸人が最近のトレンドを面白可笑しく案内している。わははは、と流れる笑い声に鳥肌が立って、けれど苛立ちのまま、消してしまうことはできなかった。食事をしながら、毎朝この番組を見ていたからだ。

 馬鹿らしい、と、吐き出した声はコーヒーの中に消えた。

 苦いのか、酸っぱいのか、よくわからないコーヒーを飲み続けることはできない。これがただのお湯だったなら飲み干せたのに、味のわからない、黒い液体を飲み干すことは随分と苦痛だった。

 いつも通りの朝だったのに、決定的に違ってしまった。トーストを焼く必要など本当はなくて、目玉焼きも、ウィンナーも、もう買わなくとも良いものだった。

 そうだ、冷蔵庫の中を空にしないといけなかったから、なんて、空しい言い訳でしかない。冷蔵庫は既に違うものが納まっている。真っ赤な液体の入った、真空パック。

 グラスに注いだ赤い液体は、一見するとトマトジュースのようにも、赤ワインのようにも見えた。本当に、“そういうもの”だったならよかったのに。

 グラスを持って、赤い液体を仰ぐ。少し粘度のあるそれは、とろりと喉を通過して、こくり、と。

 瞬間、いつか見た、彼の筋張った首筋と赤い点を思い出す。

 そうだ、変わってしまったのだ、と、誰にともなく呟いた。





 残念ですが、と、目の前の医師は言った。

 特に感情の見られない顔だ。言葉の割に、深刻というわけでもなさそうだった。ただ難しい顔をして、ぽつりと「吸血病です」と吐き出す。

 吸血病? と問い返した声は震えていた。聞き覚えがあるが、それがどこにも結び付かない。医師はゆっくり頷くと、机上に置いていた封筒をこちらに寄越した。

 受け取るまま、中身を取り出す。『吸血病について』とゴシック体で書かれたパンフレット。文字の下で、簡略化された男女のキャラクターが抱きしめ合っている。

「ご存知ですか?」

 問われたので首を振る。聞き覚えがあるし、見覚えもあるが、“知っている”わけではない。義務教育で習った記憶がうっすらとある。

「今は難病指定されている病気です。血液型に、吸血因子があることは?」

 続けながらも特にこちらの答えは期待していないようだった。医師の視線がパンフレットまで下がっていき、じっと、『吸血病について』を睨みつけている。

「人の血液には、吸血因子というものがあります。それはプラス因子とマイナス因子に分けられ、日常生活を送る上では特に関係のないものです」

 日常生活、という言葉で、ああ、そうか、と幾らかを思い出す。数週間前から、今に至るまで。すっかり“日常生活”とかけ離れていたせいで、どこか遠いもののように感じていた。

 それで、なるほど吸血病を発症したのか、と、ぼんやりと理解する。医師はこちらの理解度を確かめぬまま、早く終わらせたいというかのように口を動かした。

「黒須さんのように、手術で輸血が必要な場合、ABO型とRH型の他に、本来吸血因子の適合した血液を輸血します。ですが、申告頂いていた吸血因子と、輸血した因子が異なっており……」

 最後まで言葉は続かず、医師の頭が深く、深く下げられる。

「五年ぶりに、吸血病を発病させてしまいました。誠に申し訳ございません」

 白髪の混じった、医師の頭頂部を見つめた。

 なんと答えたら良いのかわからなかった。確かに妙だと思っていたのだ。

 術後三日間、意識が戻らず、それほどの手術が必要な大事故だったと聞いた。事故当時の記憶がないので、どれだけ悲惨な状況だったのかは知らない。けれど、肉体に何らかの変化が起こっているようだ、とは感じていた。

 その日、痛みを感じていた部位が、翌日には痛みがなくなり動かせるようになっている。治りが異様に早い。代わりに何を食べても味を感じられなくなって、食事をやめた。眠れぬ時間が増えていき、夜中になるとやってくる、水を飲んでも何をしても紛らわせない喉の渇きに恐怖した。

 眠れないのに眠くない。やがて日中起きている間も喉の渇きに苦しむようになり、無意味と知りつつ何本もミネラルウォーターのボトルを開けた。それで渇きが薄れることはなかったが。

「現代医学では完治させることが出来ません。しかしながら、吸血病最大の特徴である吸血衝動は、緩和剤を処方できます」

 ゆっくりと顔を上げた医師が、「Bタブレットと言います」と錠剤を差し出した。PTPシートに収まった十錠の白い薬は、一見すると何の変哲もない。胃薬か何かだと言われても疑問に思わなかっただろう。実際、数日前から処方されていたのはこの錠剤だった。「喉の渇きを緩和するから」と指示を受けて服用し、確かに今は喉の渇きが落ち着いている。

「根本的に“渇き”を無くすためには、黒須さんの持つ因子と別の因子の血液を摂取することが必要です。こちらは、病院から定期購入をしてください。補助金が使えるのでそれほど高額にはなりません。黒須さんはプラス因子でしたので、購入いただくのはマイナス因子の血液になります」

 医師はもう、こちらを見ようとしなかった。言いにくそうに、「それから」と言葉は続く。

「患者によりますが、血液主体の生命維持活動に体が変化した結果、味覚を無くす方もいらっしゃるようです。その、黒須さんは、恐らく――」

 もう、何も話してほしくはなくて、パンフレットをぐしゃりと握る。強く皺が付いたのを咎めることもなく、医師は冷徹なまでに淡々と、感情の見えない声で、「申し訳ございません」ともう一度謝罪した。

 謝ってほしいわけでもなかったのだ。





 吸血病に罹ると、人間としての体のつくりが変わってしまう。

 食事の一切が不要になって、睡眠も短時間で事足りる。一つの生命体、として考えてみたら、ある意味人類の進化だろう。

 その代わりに必要となるのが、自分の持つ吸血因子と異なる因子を含んだ血液だった。そのため、患者は吸血衝動を起こす。

 そも、何らかの要因で異なる因子を多量に含んだ時に発症する病気である。医療行為以外でそのような事態は起こりにくいので、患者のほぼすべてが手術時の輸血事故で発症している。

 吸血衝動を持ち、血液で活動をする、その特性から。

 古くは吸血鬼などと迫害されて、小学校の社会の授業で取り上げられた。記憶にあったのはそのためだった。

「……吸血病?」

 彼は繰り返すと、驚いた顔の後、不安げな表情をした。日に当たると茶色に見える、濃い色の瞳がじっとこちらを見据えていた。そう、と頷くと、探るように「病院は」と問いかけられる。

「補償はしてくれるの? 病院が原因だろ」

 心配と、それから僅かに怒りを含ませた声に、そうだけど、と頷き返す。吸血鬼、と迫害されていた過去から、難病指定へと変化はあったものの。現在の制度では吸血病発症は輸血事故の扱いにならない。当事者たちが、「あれは輸血事故である」と認識しているだけだ。

 制度として輸血事故の扱いにならないのは、同じ条件下でも発症するかどうかは患者の適合率によるからだった。そして普通は、発症しない人の方が多い。可能性を無くすために血液の保管方法や輸血時の注意など徹底されているものの、吸血因子違いは“本来なら”何ら障害を残さないため、取り違えても罰則などはない。

 ただ、その内の一人が血を飲む体質に変わってしまっただけ。僅かでも“運”の要素があったなら、それは、そうなる運命だったのだろう。

 だから曖昧に、構わないのだ、と笑って返す。

 吸血病になって、良いこともあった。

 睡眠が短くて済むので、活動時間が増えたこと。新陳代謝が活発になるため、怪我をしてもすぐに治ること。……食事が必要ないので、食費が、浮くこと。

「……無理、してない?」

 不意に彼の手が伸びてくる。ゆっくりと髪に触れて、するすると梳くように。近づいたその顔が不安に揺れていた。ぐ、と眉間に皺を寄せているのは、眉尻を下げないようにするための彼の癖だった。

 してないよ、と、答えようとする。彼の指がそろりと慎重に、頬に触れた。むわりと、香る、甘い匂いに一瞬思考が奪われる。

「……ミモザ?」

 自分でも驚くほど激しく、彼の体を突き飛ばしていた。

 体は震えていた。自分が自分ではないようだった。顔の周りに甘ったるい匂いが纏わりついているような。突き飛ばさなければ、果たして彼に、何をしようとしていたのか。

「ミモザ。落ち着いて。急に触ってごめん」

 震える体に触れないように、体勢を戻した彼が少し距離を開けて顔を覗き込んだ。いつもの表情。優しい顔。情緒不安定なのはこちらなのに、気にした様子も見せず、「大丈夫だよ」なんて。

「ほら、退院の支度、終わらせちゃおう。早く家に帰ろうよ」

 それで、微笑む彼の瞳を。

 見つめ返せぬまま、差し出された手を取る事は出来なかった。





 彼との別れは魂に刻みつけられた印のように、鮮明に思い出せた。

 事故がなければ、今頃一緒に南の島へ移住して、星を見ながら生活するのだと信じていたのだ。否、彼は、事故があろうとなかろうと変わらなかった。変わらず手を差し出していたのだ。いつだって。

 振り払ったのは必然だった。思い出そうとしなくても、鮮明に蘇る匂い。香しい、彼の体内を流れる赤い血液の匂い。

 別れの前に、一度だけ、彼の少し太く、筋張った首筋に、口を寄せたことを思い出す。

 数日前に喧嘩をして、和解できぬまま迎えた夏の夜だった。

 都会の夜空は寂しくて、眠れぬ時間を紛らわせるのに不便だった。月が丸く大きくて、彼が何度も、二人で綺麗な星を見ようと笑ったのを思い出す。

 和解するのは簡単だったのに。

 できなかったのは臆病だったからだ。「ミモザは変わってない」と何度も何度も繰り返す、その口を縫い付けてしまいたかった。

 だから、ああ、そう、証明だったのだ。変わってしまったことへの。

 開きっぱなしのカーテンのせいで、月光に照らされる彼の寝姿は絵画的で、ともすればごくごくありふれた日常の一コマのようで、どこか異質だった。無防備にさらけ出された首筋に、そっと指で触れてみる。甘い、甘い匂いは彼の近くに寄れば寄るほど強くなって、その頃はもう耐えることさえ困難だった。

 待ちわびた、その、肌に触れる。自分の首よりしっかりとした皮膚に。急所であるがゆえに、薄く血管を透かす肌に。

 ぷつり、と。

 あの夜、確かに噛みついた。

 瞬間逃れられない感覚に陥って、彼から逃げるしかないのだと強烈に理解する。


(もはや、人間ではないのだ、)





 約束していた南の島に逃げ込んだのは、逃げてなお、彼に縋りたかったからかも知れないし、見つけてほしかったからかも知れない。

 温くなった黒い液体をシンクに落として、食べられない食事を前に途方に暮れる。赤い赤い、粘度のある液体は、先ほどすっかり飲み干した後だった。捨ててしまえばいいのに、どうしてか捨てられないのは“以前”の自分の名残だろう。無意味に食材を買ってしまうのも、“人間”のふりをしたいだけだ。

 いつ、食べられるかわからないのに。ラップをして保存する。

 今日はのんびり島を歩いて、峠の方に行ってみようと決める。夜になると、そこから南十字星が見えるらしい。ベンチに座って読書をしながら、静かに夜を待つのも良いかと思えた。長閑な時間を過ごす度、感じる“遠くへ来た”という感覚は、きっと逃げ続けるのに必要なものだった。

 だからことさら、のんびりと支度をする。何時間でも読んでいられるように、気に入りの本を吟味して数冊選ぶ。時間の制約も、急ぐ必要もない。必要なものも必要じゃないものも、目についたものをとりあえず鞄に入れて、扉を開けた。


「ミモザ」


 瞬間響いた声に、体が固まる。どれほど時間が経っても忘れない。彼が、扉の前に立っている。

 歓喜とも、恐怖とも知れぬ感情が胸中を支配する。逃げてしまいたいのに、体はちっとも動かない。彼は変わらず香しい匂いを放ちながら、じっと、こちらを見据えていた。

 その口が開く。あの、筋張った白い首が、静かに震えた。


「ミモザ、」

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南十字に血を捧ぐ 佐古間 @sakomakoma

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