隣のクラスの高橋さん
KaoLi
隣のクラスの高橋さん
「あの、返却の確認をお願いします」
彼女は図書室にいる番犬の如く、眼光鋭く僕を射抜く。
僕はその眼光に気圧されながらも借りていた本を返却しようと彼女の目の前に差し出す。彼女はその本を受け取ると中に差し込まれている貸出カードを確認した。
「……はい、確かに」
素っ気ない態度で許しを得る。僕の緊張はここでやっと解放されるのだ。
彼女の眼光は鋭いが、裏腹に彼女の指先はいつも綺麗だ。僕は去り際、彼女を横目に眺めながら彼女のことを想像した。
*
僕は本が好きだ。そして図書室が好きだ。
それは国語の授業でやるような本よりも、より多くの知識を得ることのできる空間だからだ。そんな理由で僕は放課後に部活動そっちのけでこの図書室に入り浸っていることが多い。もちろん、図書室やこの本たちが好きだという理由もあるけれど、一番の理由は……。
「あの、これを借りたいんだけど……」
図書委員の席でもある図書室のカウンターに向かい、その席に座っていた、大人しそうな雰囲気の、セミロングの黒髪が似合うメガネ女子に僕は話しかける。話しかけても視線を上げてくれないので名前を呼ぶことにした。彼女の名前は確か……。
「高橋さん」
高橋さんは、たくさんの本を読むひとだ。僕がこの図書室に入り浸ってから気づいたことだが、彼女は毎日この図書室の本を読んでいると思う。もしかしたらもうこの部屋の全ての本を読み終えているのではないかと思うくらいに。
僕は高校三年生になってからこの高校に転校してきた新参者だった。たまたま帰りに寄った図書室で、授業で分からなかった事柄を調べようと思ってどの本を借りようか迷っていたところを助けてもらったのが、彼女とのファーストコンタクトだった。
僕は、二年生までの高橋さんを知らない。知らないけれど、彼女がよく読んでいると思われる好きそうなジャンルの本の貸出カードを確認すると、そこにはいつも彼女の名前が記載されていた。
高橋栞さん。
彼女を
「あ、ごめんなさい。なんでしょう」
「あのこれを借りたいんですけど……」
彼女はとても集中して今日も本を読んでいた。
高橋さんはよく映画化された原作小説を読んでいるイメージだ。今回借りたいと言っている本もそのひとつだ。確か先月映画化された恋愛小説だ。一度気になって苦手なジャンルではあったけれど、僕もさわりだけ読んだことがある。だけどなんだか悲しそうな内容だったので最後まで読み切ることができなかった。
高橋さんが読んで、その内容に感動し涙している姿を想像してみる。想像、できてしまう。僕はどうやら、いつの間にか彼女のことを想像せずにはいられない性分になっていたようだ。
「それでは一週間後にご返却ください」
「はい。ありがとうございます」
さらりと彼女の前髪が揺れる。メガネの奥の瞳が潤んでいるように見えて、少しだけ僕は心配になる。何か悲しいことでもあったのだろうか。それとも眠いだけなのか。彼女のことが気掛かりだったけれど、今の僕には彼女に話しかけられるほどの勇気はなく、僕はそのまま図書室を去ってしまった。
高橋さんの感受性の豊かさとそのギャップに、僕は心を奪われていた。
この時の僕は気づいてしまったんだ。
――ああ、僕は高橋さんが好きなんだ、と。
*
季節が巡る。
夏休みに入ると、図書室の利用者数も自然と増える。僕たち三年生は大学受験や就職活動に向けての勉強に
ふとカウンター席に視線を向ける。高橋さんは今日もいた。彼女は今日も本を読んでいるがどんな内容の本だろう?
自然と視線が向いてしまうのは、きっと僕が意識しすぎているからだ。勉強に集中できないのは、きっと、僕の無意識の
「……あの」
「えッ? わ、高橋さんっ⁉」
突然、目の前に現れた高橋さんに僕は驚いて席を勢いよく立ってしまった。僕としたことが静かにしなければならない図書室でガタガタッと大きな音を立ててしまった。その音にも驚いて、驚きのダブルパンチで僕はそのまま床に転んでしまった。
「……大丈夫?」
「だ……大丈夫、大丈夫。えと、高橋さん? どうかしたの?」
「どうかした、というか……今日は……」
今日は、のあとの言葉を高橋さんは何故か
「今日は、本は、借りないの……?」
「……え?」
「だってほら」
高橋さんが僕の方を指差す。差された場所に視線を向けるとそこには僕の勉強用具が散らかっていた。
「いつも本を借りるのに、今日は借りてないから」
「いや、それは! ごめん! 勉強のために来てみただけで……」
僕は急いで机上を片づける。ぐちゃぐちゃになった教科書たちを鞄の中に隠して、僕は何か口実のための本を探しに行く。なんだか彼女を落胆させてしまったような気分になって、申し訳なくなった。
「……じゃあ、今日は、これを」
「え?」
それは、いつも僕が借りるような本じゃなかった。
気が
「えっと?」
「あ、ううん……。では一週間後に返却ください」
「……? ありがとう」
高橋さんのさらりと揺れた黒髪から、フローラルな香りが
去り際、何気なく彼女の読んでいたであろう本のタイトルを横目に確認した。それはいつも彼女が読んでいるような恋愛小説の
彼女は好きなひとが好きなジャンルの小説を頑張って読もうとしているのかもしれないと思うと、心臓がぐっと握られたような感覚に襲われる。
あのフローラルが僕の初恋の香りになると同時に、失恋の香りになりそうだ。
*
夏休みが明けて初秋がやってくる。
今年の残暑は長くなりそうだと朝のニュースのお天気お姉さんが言っていた。暑いのは苦手だ。やっと夏が終わったかと思ったのに、夏の残り香は嫌でも体に絡みついてくる。
それでも……新緑が秋色に染まっていく街並みを見ては、高校生活もあと少しなのかと思い知らされて感慨深くなる。
秋になれば受験勉強や就職活動が活発になる。ピリピリとした空気が肌に触れて、クラスの皆の本気度が伝わってくる。
僕は……皆のように受験や就活に本気になることができなかった。
それには多分、高橋さんが少なからず影響しているのかもしれない。
彼女と会える時間も、残り半年を切った。クラスが違うから(といっても隣だけれど)毎日会うことができないし、最近僕は高橋さんを無意識に避けてしまっていて図書室に寄ることをしていなかった。
しかしずっと行かないわけにもいかないのだ。借りた本を期限内に返却しなければならない。期限を過ぎれば、図書委員から呼び出しがあるのだ。呼び出されるのはまたとない好機と思えるけれど、その分、自分の名前を全校生徒に聞こえる形で呼ばれることに羞恥心が
これを
僕の心は一向に決まる気配が無かった。
放課後になると、夕方が近くなる。夕日が図書室を照らして室内が温かい光に包まれる。図書室の扉の向こうに見える高橋さんは、どこか
今日が返却期限最後の日だというのに、僕はいつまで経っても覚悟を決められないまま扉の前で立ち尽くしていた。
ガラリ、と近くで扉の開く音がした。
近く、といってもそれは僕の物の
「……高橋さん」
僕の目の前に現れたのは、紛れもない、高橋さんだった。
彼女はどうやらこれから帰宅するようだった。時計を確認すれば確かに下校時間が近かった。そうだよな、時間になれば帰るよな。
……僕は少しだけ……。
……この時間がほんの少しでも長く続けばいいと思ってしまった。
「どうしたの?」
「あ。いや……。もう図書室閉めちゃう、よな?」
「え、ええ。もう下校時間だし」
「そ、そうだよな! ごめん……」
「? どうして謝るの?」
「……いやぁ……その、さ」
高橋さんが首を傾げている。それもそうだ、僕がいつまでもはっきりしないから疑問に思っているのだろう。
僕は無意識に深呼吸をしていた。それを、意識的に変える。数回深呼吸を終えてから、僕は、覚悟を決めた。
「高橋さん」
「うん?」
僕は持っていた今日が返却期限のあの恋愛小説を鞄から取り出して、高橋さんに渡す。高橋さんは何も言わずにその本を僕から優しく受け取った。
「これ、返す。……まだ、間に合うかな?」
気づかれるだろうか、僕の気持ちが。
いや……気づいてほしくないな。
例え、あと数ヶ月の知り合い関係だったとしても、僕は高橋さんに伝えたいよ。
高橋さんがあの時のように僕とその本を驚いた表情をして交互に見ている。その表情にはどんな意味があるのだろう。その謎を考え続けるのも悪くない。
僕が返した本の名前は――。
*
『明日の放課後、君に「好きだ」と伝えたい』
隣のクラスの高橋さん KaoLi @t58vxwqk
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