隣の席の相原くんは秘密のマジシャン

くれは

ソーダがぱちぱちと弾けるような

 きっかけは授業中に見たペン回し。

 ふと陽がかげったから顔を上げて窓の外を見た。大きな雲がちょうど空を横切っていた。わたしの席は一番後ろ、窓からは二番目。

 窓際の席の相原あいはらくんがくるりと指先でペンを回したのが、ちょうどその時。ボールペンの赤い色が人差し指の上で回って、一回転して終わりかと思ったら、まだ止まらずに回り続けた。

 思いがけない展開に、わたしは目が離せなくなった。

 ボールペンは人差し指と中指の隙間を縫って、まるで手にじゃれついているみたいに動いている。子犬をあやすように大きな手が動けば、ボールペンは手の甲に乗っかってくるくると回る。

 そこから手のひらが上むきになってもボールペンは落ちずに手のひらに乗っかって──長い指が折りたたまれて、ボールペンが握られた。

 息を吐いてから、自分が息を詰めてその様子を見守っていたことに気づいた。

 相原くんの手はボールペンをシャーペンに持ち替えると、ノートの端っこに「黙っててほしい」と書いた。ちょっと尖ったような、少し癖のある文字。

 わたしは瞬きしてからようやく、その文字が自分に向けられたものだと気づいた。そっと視線をあげると、相原くんが困ったような顔で左手の人差し指を立てて口元に置いた。

 わたしはなんだか特別なものを見たような気分で相原くんの顔を見ていた。相原くんはやっぱり困ったような顔のままだった。

 胸の奥がまだざわざわとしていた。

 それでも授業中だったことを思い出して、小さく頷いてから自分のノートに視線を戻した。なんだかまだどきどきしているみたいで、ノートをとる手はちっとも動かなくなってしまっていた。


 授業が終わって五分休みになって、教科書やノートをしまうよりも先に相原くんの方を見る。相原くんはわたしが何も言わないうちから困ったような顔をしていた。

皆川みながわさん、やっぱり見てたよね?」

「見た。あの」

 すごかった、と言おうとしたけど、相原くんはまた人差し指を立てて口元に持ってきた。それで気づいたけれど、相原くんの手は大きくて、指が長い。

「黙っててほしい」

 そう言って、相原くんは次の教科のノートと教科書を取り出した。まるで何事もなかったみたいに。

 さっきの様子を思い出す。赤いボールペンが相原くんの指に絡むようにくるくると回って、まるでひとりでに動く魔法の杖みたいで──やっぱりなんだか胸の奥がざわざわするような、どきどきするような、そんな気分になる。

 わたしは思い切って口を開いた。

「黙ってる。だからもう一度見せて。見たい」

 小さな声で伝えれば、相原くんは何度か瞬きをして振り向いた。目を見開いてびっくりした顔をわたしに向ける。そのまま何秒かわたしの顔をじっと見て、それから目を伏せた。

「あの……じゃあ、放課後に」

 それだけ言って、相原くんはまた前を向いてしまった。


 次の数学の授業中、わたしは時々そわそわと相原くんの方を見てしまった。相原くんにはわたしのそわそわが気づかれてしまっていたと思う。

 最後の十五分はプリントの練習問題を解く時間。そのときに、相原くんが机の端っこを指先でとんとん、と叩いた。リズミカルなそれに視線を向ければ、相原くんの指先がプリントの隅をつついていた。

 そこにあったのはアルファベットと数字の羅列で、少し考えてからそれがメッセージアプリのIDだと気づいた。わたしは慌てて自分のノートの隅にその文字の並びをメモした。わたしがメモし終えると、相原くんはその文字を消しゴムで全部消してしまった。

 そして、何事もなかったかのようにプリントの問題に取りかかり始める。

 今すぐにでもメッセージアプリを確認したいのを我慢して、わたしもできるだけ何事もなかったような顔をする。プリントの問題は、なかなか進まなかった。


 放課後、メッセージアプリでやり取りをして、学校から離れた場所で待ち合わせする。友達やクラスメートに見られて何か言われたりしたら確かに面倒だと、きっと相原くんもそう考えたんだと思う。

「皆川さん、本当にもう一度見たいと思ってる?」

 待ち合わせ場所にした公園で、顔を合わせるなりそう言われた。わたしは頷いた。

「だって、すごかったから。もう一度っていうか、もっと見たい」

 相原くんは困ったような顔を周囲に向ける。ブランコや砂場で遊ぶ小さい子供。それを見守る母親。そんな、どうってことない小さな公園の光景だった。

 少しして、相原くんは小さく息を吐いてまたわたしを見た。

「落ち着くところに行っても良い? その、変なところじゃないから」

 相原くんの言い方がなんだかちょっとよくわからなくて首を傾けてしまった。でもわたしの中では期待の方がずっと大きかった。わたしが頷くと、相原くんはちょっと眉を寄せたまま笑う。

「これから行く場所のことも、学校では黙っててほしいんだけど」

「そんなところに、わたしが行っても良いの?」

「黙っててくれるなら、良いよ」

 そう言って、相原くんは歩き出した。わたしは慌ててその背中を追いかける。


 相原くんに連れて行かれたのは、小さなビルだった。一階と二階はファーストフードのお店だけど、相原くんは地下に降りていこうとする。その先は、なんだかお酒を出すようなお店に見えた。制服のまま入って大丈夫か不安になって、階段を降りる直前で足を止めてしまう。

 なんて言えば良いかわからずにいたら、振り返った相原くんはまた困ったような顔をした。

「あの……本当に変な場所じゃないから。親戚の、従兄弟の人のお店で、お店が開いてないときに使わせてもらってて。開店する前には追い出されるけど」

「でも、お店入れるほどお金持ってないよ、わたし」

「お客さんじゃないから大丈夫。あの、変なところじゃないからね、本当に」

 通り過ぎる大人の人たちに、場違いな制服姿をじろじろと見られているような、そんな気持ちになる。それはそれで落ち着かない。思い切って足を踏み出す。

 相原くんは慣れた足取りで階段を降りてゆく。蛍光灯の灯りは充分とは言えなくて、薄暗い。そして降り切った先に黒く塗られたドアがあった。金色のラインで模様が描かれている。

 ドアには「CLOSED」と書かれた板がぶら下げられていたけど、相原くんは気にすることもなくドアを開けた。

 お店の奥から出てきたのは、お父さんよりは若い、でもわたしたちよりはずっと大人な人だった。その人はわたしを見て、それから相原くんの方に視線をやった。

 この人が相原くんの従兄弟の人らしい。名乗って頭を下げたら「ユウキです」と言われた。どんな字を書くのかはわからないし、名前なのか名字なのかもわからない。

 足が細い背の高いテーブルと椅子。腰の高さと変わらないような椅子に座るけど、当然足が地面から浮いてしまう。相原くんはユウキさんと何か話してからわたしの正面に慣れた様子で座った。

「マジックバーなんだ、この店」

「マジックバー?」

「手品を楽しめる店ってこと」

「手品」

 相原くんの説明を、わたしは繰り返すことしかできなかった。相原くんはそれ以上は何も言わずに胸元から赤いボールペンを出した。それを人差し指と親指の間に挟む。

 始まるんだ、と思って、わたしはその指先を見詰める。相原くんはわたしの顔をちらりと見ると、少し笑ってからペンを回し始めた。

 親指に沿うように回ったペンが、今度は人差し指と中指の間を通って、そこから小指まで動いてゆく。ペンは嬉しそうに跳ねるように動き回る。相原くんの手はそれを遊ばせるように動く。手の動きで、ペンはじゃれつく子犬になったり魔法の杖になったりする。

 不意に、その動きが止まった。

 気づけばユウキさんがテーブルの脇に立っていて、グラスを二つテーブルの上に置いてくれた。

「あ、わたし、お金なくて」

「お店のお客さんじゃないから、今日はサービス」

 そう言って置かれたグラスの中身は、多分オレンジジュース。濃い橙色の液体と、甘酸っぱい柑橘の匂い。

 頭を下げて「いただきます」と言えば、ユウキさんは笑って相原くんを見た。

「友達連れてくるとか、珍しいね」

 相原くんはちょっと拗ねたみたいな顔でユウキさんを見上げた。

「授業中、うっかり回しちゃって、うっかり見られて」

「なに、相変わらず学校では秘密?」

「だって……学校で知られてもロクなことにならないから」

「なのに連れてきちゃったの?」

「それは、だって」

 急に口ごもった相原くんが、わたしの方をちらりと見る。それから、ユウキさんを睨みあげて、小さい声で言った。

「もう一度見たいって言うから」

「ああ」

 ユウキさんが声をあげて、朗らかに笑った。その笑顔のままわたしを見る。

「つまり、君はこいつのファンってこと?」

「ファン」

 思いがけない言葉に、わたしは瞬きをする。相原くんを見ると、困ったような顔で目を逸らされた。

 思い出すのはペン回しを見ていたときの胸の奥のざわざわ。

「そうか。そうかも」

 わたしが頷けば、ユウキさんはまた楽しそうに笑った。そして「開店までには帰りなよ」と言ってカウンターの向こうに引っ込んでしまった。


 手品師になりたい、と相原くんは言った。オレンジジュースを飲みながら。

「じいちゃんがさ、趣味で手品とか好きな人で、素人だけど自分でも手品の道具とか買って見せてくれたんだ。手品ってすごいんだよ。タネも仕掛けもって言うけど、そのタネも仕掛けも全部技術なんだ。カードもコインも、綺麗に扱うのを見てかっこいいって思って。それで、ユウにいと俺は手品が好きになって、ユウにいはこの店を始めて」

 わたしはオレンジジュースの甘酸っぱい味を飲み込んで「そうなんだ」と相槌をうつ。相原くんは興奮したように言葉を続ける。

「この店にくるマジシャンの人、すごい人なんだよ。教えてもらうこともあって、時間があるときだけだけど、開店前とか。そんなマジシャンになりたいんだよね、俺、まだまだなんだけどさ」

「すごいね、将来やりたいことが決まってるの。わたしなんか、まだ何も考えてないよ」

「そうかな」

 わたしの言葉に、相原くんは短くそう言って、目を伏せた。視線を揺らした後に、小さく首を振る。

「でも、まだ駄目なんだ。親がさ、俺が手品やりたいって言っても、趣味の話だと思ってるんだよね。プロのマジシャンなんて、なれるわけがないって。そんなことないって言えるほどの腕前はまだないし。だから、もっと練習して『できる』って言えるくらいにならないと」

「そうやって考えてるの、やっぱりすごいと思う」

 相原くんは顔をあげてわたしを見た。今度はほっとしたように笑う。

「そうかな」

 わたしはその言葉に頷いた。実際わたしは何も考えてないし、何も言うことができない。わたしからしたら、相原くんはとてもしっかりしているように思えた。


 空っぽになったグラスを相原くんが片付けて、それからまた向かいに座って、今度はコインを取り出した。鳥の絵で、五百円玉くらいの大きさのコイン。

 そのコインが、ペン回しのときみたいに相原くんの手の上を動いてゆく。指から指へ、手のひらを潜って、また指の隙間から出てきて。なんだか本当に、小鳥が相原くんの手の上で遊んでいるみたいだった。反対の手に飛び移って、また戻って。

 最後に、相原くんはそのコインを宙に弾きあげた。それを追いかけて視線が上がる。落ちてくる途中のコインを相原くんの手が捕まえる。そして、その握った手をわたしに向かって差し出してきた。

「手を出して」

 言われるままに両手のひらを揃えて差し出す。相原くんの手がわたしの手のひらの上で開かれる。ぽとりと落ちてきたものは、想像してたコインの重みよりもずっと軽い。

 それは、青い飴。

 その姿に瞬きをして顔をあげると、相原くんは両手をあげて空っぽの手のひらをこちらに向けた。

「コインの鳥は実は幸せを運ぶ青い鳥で、今度は飴になりました。なめると良いことあるよ、きっと」

 ちょっとおどけたように相原くんが言う。

「もらって良いの?」

「嫌じゃなければ」

 手の中の飴を握りしめる。ペン回しを目撃したときよりも、もっとどきどきしていた。きっとこの青い飴はソーダ味だと思った。ソーダがぱちぱちと弾ける、その刺激を思い出す。

「すごいね。すごい」

 わたしの言葉足らずな感想を、相原くんはどう受け取ったのか、またちょっと目を伏せた。

「俺なんかたいしたことないんだよ、本当に」

 相原くんの言葉に首を振って、それでもわたしは「すごい」と繰り返すことしかできなかった。


 ユウキさんに「遅くなる前に」と言われたのはその後すぐ。店を出て階段を上がってみれば、もう夕方だった。

「学校でもやったら良いのに」

 帰り道、何気なくそう言ったら、相原くんはとても困った顔をした。

「小学校のときさ、ペン回しが流行ったんだよね。俺は手品の練習に似てるなと思って、やってみたらクラスのやつにすごいって言われて。それで調子乗ってみんなの前で手品もやったんだけど、失敗した」

「何かあったの?」

「多分、俺が調子に乗ったのが気に入らなかったやつがいたんだよね。誰かが先生に何か言ったらしくて、ペン回しが禁止になってさ。何人かに『面白くない』とか『うざい』とかも言われた」

「何それ」

「俺も良くなかったんだよ。きっと、褒めて欲しいとか、すごいって言われたいとか、そんなだったんだ。調子乗ってたんだよね、ほんと。でもそれで、学校だといろんな人がいるから、やらない方が良いんだなって気づいて」

 そう言って、相原くんは笑った。笑ってはいたけど、やっぱりどこか困ったような顔だった。わたしは慌てて口を開く。

「わたしは、すごいと思ったよ。ペン回しも、さっきのコインも」

 相原くんは足を止めて、真面目な顔でわたしを見た。わたしも真剣に言葉を続ける。

「すごかったし、どきどきした」

 わたしはやっぱり、言葉足らずにしか伝えられなかった。何も言えない自分が恥ずかしくなる。相原くんはとてもしっかり自分のことを話すことができるのに。

 相原くんはちょっと目を伏せて、それからまた顔をあげて、笑った。

「ありがとう」

 それからもうしばらく夕暮れの中を歩いて、別れ際、相原くんが覚悟したみたいな顔で口を開いた。

「皆川さんにもう一度見たいって言われて、本当はすごく嬉しかったんだ。それに、見てもらえて、すごいって言ってもらえるのも、すごく嬉しかった」

 その表情を見て、わたしはユウキさんに言われた言葉を思い出した。きっとそうだと納得して、だからそのまま伝えることにした。

「わたし、相原くんのファンだから。だからまた見たいな、相原くんの手品」

「うん、今練習してるやつ、できるようになったら見て」

 夕焼けの中、相原くんは嬉しそうに笑って、手を振って、駆けていった。

 その背中を見送る胸のどきどきは、ペン回しを見せてもらったときとはまたちょっと違うような気がした。自分でもまだ、はっきりとはわからないけど。

 それはまるで、青いソーダがぱちぱちと弾けるような。






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