第5話 地の塩や世の光でなくとも

「根性がないわ。不採用」


 あたしがペケ印をつけた履歴書を見て、ゴローさんはぽかんとした顔で立ちつくしていた。

 イガラシ首長の執務室、応接用のテーブルには所狭しと、チルドレンの世話係シッター候補の人間の資料が並べられている。そのほとんどには赤いペケがついていて、その全部はあたしがつけたものだ。

 ソファーに胡坐で腰かけ、肘をつき、資料を眺める。多少お行儀が悪くとも、イガラシ首長は意外と放任してくれるらしいと気づいたのは、ここ最近の話だ。

 資料と睨めっこしたり、世話係シッター候補者たちと面談したりするため、この執務室を借りる機会が増えた。そうして顔を合わせるうちに、イガラシ首長は気さくな方なんだと知ることができた。


「また不採用か」自身の机で作業をするイガラシ首長が、目も遣らずに呟いた。「ついに両手の指を超えたな。せっかくゴローが厳選した人員だったんだが」

「ゴローさんには申し訳ないのですが、妥協はしたくありません。そもそも、前の世話係シッターが辞めた原因が過労なら、体力の有無は絶対に外せません。あたしやゴローさんが最低ラインだと思います」

「首長補佐レベルか。だとしたら、その上の三人は足切りだな。頭はキレるが、運動面が他と比べてやや劣ったはずだ」

「なるほど。不採用」


 あたしが華麗に赤ペンを滑らせると、ゴローさんは「ああ……」とどこか重い表情でこぼした。

 トカゲと電話をしてから一週間ほど経った。

 臨時世話係シッターであるあたしは最後の仕事として、次の世話係シッター選びに口を出させてもらっていた。この話を持ちだしたとき、ゴローさんは少し驚いたものの、「お気遣いいただきありがとうございます」と快諾してくれた。しかし、その喜色もすっかり消え失せ、どんどんと落とされている候補者たちを、やつれた顔で見下ろしている。

 ここまでお膳立てしてくれたゴローさんには心苦しいが、しょうがない。あたしが去ったあとのことを考えると、どうしても審査の目は厳しくなってしまう。

 もちろん、専門的なスキルを重要視しているわけではない。体力だって、仕事をしているうちに培われることがほとんどだ。首長補佐なんていう微塵も関係ない仕事をしていたあたしですら繋ぎを担えたくらいなのだから、あの子たちの世話係シッターは、極論、覚えれば誰だってできるのかもしれない。

 だからこそ、面接の通過者にはアシスタント実習もおこない、あの子たちと対面したときの実際の動きなども観察してみたのだ。こちらが指導すればなんとかやっていけそうな者もいれば、どうにも歯が立たない者もいた。

 あたしもゴローさんと同じように唸る。そうしているうちに、執務室の扉を叩く音が聞こえ、続いて「ジュリー、遊ぼうー」というニィナの声が響いた。


「ごめん、まだ」

「十分前も同じこと言ってた。お仕事いつ終わるの?」

「あとちょっと」

「そう言ってさっきから全然終わんないじゃん」

「そんなのほっといて俺たちと遊ぼうぜ」


 あんたたちのための仕事だっつの。

 あたしは顔を顰める。

 五人には、あたしがオオサカに帰る日が近づいていること、次の世話係シッターが見つかりそうだという話はもうしていた。みんなそれぞれ嫌がってくれたり、残念がってくれたり、受け入れてくれたり、だけど駄々をこねたりした。

 ニィナは片時もあたしから離れたがらないし、世話係シッター候補に会ったときには本を投げつけたり顔に落書きをしたりと、悪魔的な暴挙で相手を困らせたりもした。ミクロとヨハクは、ニィナに便乗する形で、あたしや大人たちの手を焼かせることが増えた。オオサカに帰ると話したときにはぶっきらぼうなことを言われたものの、そのときの二人の顔はどこかつらそうで、それはあたしの見間違いでなかったと思いたい。レーヨンもレーヨンで、一日に一回はボードゲームに誘われるから、あたしのことを惜しんでくれているのだと思っている。五人の中では比較的落ち着いているのがイチルだ。次の世話係シッター選びにも前向きで、あたしに要望を伝えてくれている。


「レーヨンを楽しませる計算力と、ニィナを相手取れる体力と、ミクロをサポートできる戦闘力と、ヨハクを窘められる包容力……って誰が当て嵌まるのよそんなん! あたしだって無理だわ!」

「あと、俺的には、気さくでしっかりしてて面白いひとがいい」

「扉越しに要望追加すんな!」


 扉の向こうが騒がしくなってきた。執務室の前の廊下にはあの子たちがたむろしているんだろう。やんややんやと声を上げているので、見かねた(というよりも聞きかねた)ゴローさんが「今日はここまでにしては?」と苦笑まじりに言った。


「チルドレンもジュリさんと遊びたがっているようですし。それに、まだ時間もあります。僕のほうでももう一度見直しておきますから」

「いいこと言うねゴロー」

「やるじゃんゴロー」

「ありがとうゴロー!」


 と、扉の向こうで口笛が吹かれる。聞き耳を立てているわけではないにしろ、この子たちには聞こえてしまうのだ。あたしはゴローさんに向き直り、「すみません。ありがとうございます」と礼をする。仕事の邪魔をしてしまったであろうイガラシ首長にも頭を下げた。

 そもそも、先日の、チルドレンがエアロゾルに大穴を開けた一件のせいで、イガラシ首長の仕事が増えてしまっていた。星空を見上げたあの一瞬は最高の気分だったが、後々にして気づくのは、とんでもない環境問題だ。

 イガラシ首長曰く、「オゾン層がどれだけ破壊されているかわからない現状、太陽放射から地球を守っているのはエアロゾル」「一部とはいえ、それを焼ききるのは危険すぎる」「太陽熱により強酸性の海水を干上がらせて、どのような気象に発展するか」、エトセトラエトセトラ。事の報告を受けたときは、ゴローさんも絶句していた。

 しかも、これはトウキョウだけの問題にはとどまらないため、現状の把握と列島連邦各地への情報共有、今後の対策などが必要となっている。直接的には実行していないとはいえ、あたしは大やらかしをしてしまったというわけだ。

 ただ、イガラシ首長は一頻ひとしきりあたしとチルドレンを叱りつけたあと、「……で、星空はどうだった?」と耳打ちしたので、あたしはこのひとへの苦手意識を完全に喪失させた。

 そんなことをしみじみ思い返しているあいだに、あの子たちを待たせてしまっていたらしい。扉の向こうで、「ジュリは俺たちの力を甘く見てる」「こんな扉一枚も蹴破れないと思うてか」などと不穏な話し声が聞こえたので、あたしは「出るから出るから」と声を張った。

 急いで執務室の扉を開ければ、いの一番にニィナがあたしに抱きつく。あたしの腰にぎゅっと細腕を回して、胸に額をうずめた。


「ジュリー、あのね、ジュリーのためにね、編み物で靴下を作ったよ」

「そうなの? ありがとう」

「それとね、玉蟲蜚蠊タマムシゴキブリの翅で、ネックレスも作ったの」

「ごめん……それは……いらんわ……」


 ニィナのトウモロコシの房みたいな髪を撫でながら、あたしは苦い声で言った。ぎゅううっとニィナの腕の力が強まる。普通に痛くて呻いた。

 ニィナの背後にいたイチルたちに、「今日の玉蟲蜚蠊タマムシゴキブリの駆除は終わったんですね」とゴローさんが言う。イチルの代わりに、ミクロとヨハクが「楽勝」「片手でいけたね」「寝ぼけてても終わる」「むしろ寝てた」と答えた。余裕ぶっこきたいからって、逆にわけわかんなくなっていた。


「だから、ジュリちゃん、早く遊ぼう。レーヨンもボードゲームしたくてうずうずしてるから」

「あたし、いまだにあれのルールわかんないんだけどな……気づかないうちにぼろ負けしてるらしいし」

「だったらチーム戦にしようよ。俺がジュリちゃんのサポートにつくし。一番強いレーヨンも、誰かのサポートにつく。どう?」

「誰がジュリと対戦するの?」

「競走で決めようぜ。一番最初に部屋についたひと!」

「よーいどん!」


 ばびゅんっと、ニィナ、ミクロ、ヨハクの三人が駆けだす。ニィナについて、レーヨンもいなくなった。その足音すらすぐに聞こえなくなったので、きっともう首相官邸跡を出たあとだ。

 そんな四人を「わあ」という間の抜けた声で見送ったのは、悠々とした態度であたしの隣に佇むイチルだ。


「ジュリちゃん、人気者だね」


 にこりと笑ってあたしを見上げる。自分が煽りたてたんやろ。しれっと絶対にゲームに参加できるポジションを獲得しやがって。

 ただ、「人気者」とあたしをからかうイチルには、一時期あったような嫉妬を感じなかった。成長なのかしら、とあたしはなにも言わなかった。

 皇居跡へと向かった彼らを追うわけではないだろうが、ゴローさんもイガラシ首長とあたしへ一礼して、執務室を出て行った。その背中を見送ったのち、イチルは「そういえば、」とイガラシ首長へ向き直る。


「あの件について考えてくれた?」


 あたしが「あの件?」と首を傾げたとき、イガラシ首長が答える。


「お前が以前に提案した、ホトケユリを巡って抗争している薬座ヤクザを取り締まるという話だな」あたしが目を遣ると、イガラシ首長は説明してくれた。「ジュリ補佐とミクロを襲撃した落伍社の者が、ホトケユリの毒を持っていたことから、くだんに上がった薬座ヤクザと落伍者は繋がっているのではないかというのがイチルの見解だ」

「少なくとも、売買はしてるでしょ」とイチルが言う。「ホトケユリを独占しようとしている薬座ヤクザで、落伍社と深い繋がりを持つ派閥が存在するのは確実だよ。毒なんて食らったところで俺たちはビクともしないけど、他のひとたちは違う。大事にならないうちに手を打っておくべきだと俺は思う」


 もうこの子たちがどんなことを考えていたところで、あたしが驚くことはない。イチルがイガラシ首長に口出しするというのも、まああるだろうなという気持ちだ。

 ただし、薬座ヤクザの絡んだ売買を禁止するのは難しいだろう。ホトケユリの毒は自衛用として一般的に販売されているし、需要も高い。というのも、玉蟲蜚蠊タマムシゴキブリと並ぶ害獣、アカギレドブネズミの駆除に有効だからだ。ホトケユリは、人間を助ける毒にも薬にもなる。


「販売を禁止することはできなくても、規制することはできるんじゃない?」イチルは主張した。「ルールを決めたところで、最初のうちは、簡単には守ってはくれないだろうけど、違反したら罰則を設けるなりすればいい。多少の抑止力にはなるんじゃない?」

「罰則すら効かなかったらどうする?」

「実力行使」

「誰がそれを?」

「俺たちが」


 イチルは平然と言ってのけたが、あたしは眉を顰めた。

 気乗りしない、というか、心底やらせたくない。イチルもみんなもきっと難なくこなすだろうが、それでも、進んでしてほしいとは思えない。


「……検討しよう」


 イガラシ首長は短く答えた。

 こういうところで、あたしとイガラシ首長は反りが合わない。

 あたしが不満に思うだけの返答を、イガラシ首長から引き出したというのに、当のイチルはどこか苛立ったように眉を跳ねさせた。しかし、流れるように「うん」と答えて、執務室から出ようとする。

 あたしは「片付けしてから行くわ」と言って、イチルを先に行かせた。執務室はあたしとイガラシ首長だけになる。


「……君がなにを言いたいのかはわかる」


 イガラシ首長はわずかに苦い顔をしていた。

 あたしの苦々しい思いを悟っているからだ。

 悟っているなら口に出しやすい。


「あの子たちにあんまり負担をかけないでください」

「……その負担を、自ら望んでいるのに?」

「子供の背伸びです。大人がそれにつけいるのはだめでしょう」

「本当に君は彼らをただの子供として扱うのだな……」

「ただの子供ですから。イガラシ首長はあの子たちに夢を見すぎてるんじゃないですか?」


 爆心期より前、つまりチルドレン計画が公然たる国際策であったときから生きているイガラシ首長としては、人類の希望と謳われた彼らを過大評価するのは無理もないことなのだろう。そうあるべくして生まれたからそう扱う。見た目はそのまんま子供で、人生経験が片手もない子たちを相手に、よくそういうふうに受け取れるものだが。


「夢もなにも、彼らの力は驚異的であり、脅威だろう。暴動の鎮圧など……ドローン映像のような画面越しに見ると、昔の特撮ヒーローみたいだ」

「特撮?」

「いや……なんでもない」失言をしたというふうに、イガラシ首長はわざとらしく咳をした。「前にも言ったように、私だけは、節度を持って、彼らと関わらなくてはいけない。トウキョウ首長として、公平であることが求められる」

「ご自身の対応が公平だとでも?」

「……ジュリ補佐は、ずいぶんずけずけと言うようになったな」


 皮肉でも愚痴でもなく、感嘆の音色でイガラシ首長は言った。あたしだってまさか自分がこんな態度を取るようになるとは思っていなかった。ただし、なにも怯むことはない。


「あたしはあの子たちの世話係シッターなので。あの子たちの事実上の後見人がこんなに頼りないなら、それを指摘するのは当然ですよ」


 イガラシ首長は〝後見人〟という言葉には顔を顰めたが、それ以上はなにも口にしなかった。


「イガラシ首長は、あの子たちに肩入れしすぎるとよくないって、均衡が崩れるって思ってるみたいですけど、そのくせ仕事を手伝わせてるんだから、本末転倒なんじゃないですか?」

「立っている者は親でも使えという諺を知らないのか」

「知らないですし、あの子らは親じゃなくて子供です」

「……喩えが悪かった。この際、君の言うとおり、私が未熟な子供に対して、過剰な期待を寄せているというのは認めてもいい。私は彼らを神の落とし子チルドレンとして見ているのだからな。だが、ただの子供として接しろと言われても、正直、そちらのほうが難しい。どう対応すべきかわからない」

「どうって、普通に」

「普通に対応するものの陰では悪口を言われているような、耄碌した勘違いジジイにはなりたくない……」


 難儀なやっちゃな。口には出さず、あたしは呆れる。

 このひともこのひとで思うところはあるのかもしれない。別に悪いひとってわけじゃないし。

 あたしはフォローのつもりで「まあ、いまも嫌われてはないと思いますよ」と呟いた。そもそも嫌われるほども関われていないのだから当たり前だが……あの子たちにとってのイガラシ首長は、たまに小言を言ってくるえらい大人、という感じだ。


「だから、彼らの管理はゴローに、現場対応は世話係シッターに任せるようにしたんだ。チルドレンに対して、私はノータッチと言ってもいい」


 イガラシ首長も自覚はあるらしい。いや、彼らを見守る大人としては究極に無自覚ではあるが。


「これからはもう少し携わりましょう。トップである貴方の対応が変われば、他のひとたちも変わります。それがきっかけで、あの子たちも変わるかもしれない」


 トウキョウをコンサルするための提案ではないが、このように言ったほうがイガラシ首長にも響くと思った。よくも悪くも、全体の利益を見る人間なのだ。案の定、イガラシ首長は少しだけ顔色を変えた。


「……検討しよう」


 イガラシ首長は短く答えた。

 あたしもイチルに対してえらそうにはできないな。

 検討だけじゃ不服なのだ。

 あたしは「お願いします」と頭を下げて退室した。息をつきながら首相官邸跡を出たのだった。






 それから幾日が経ったが、肝心の後任世話係シッターはまだ決まっていない。

 イチルの注文をまるっと無視したとしても、目ぼしい人間は極端に少なかった。

 というか、書類や面接の段階ではまあまあかなと思った相手も、実際に子供たちの世話をさせると「うん?」と首を捻ってしまうことが多い。

 ゴローさんがある程度は絞ってくれているわけだから、これでもまだましな面々が残っているんだろうが、この中から次の世話係シッターを選ぶというのは、正直、気乗りがしない。

 ゴローさんの目利きを疑うようで申し訳ないが、探せばもっと適任の者が出てきそうなのに。厳しい基準があるんじゃなかったのか? でも、これ以上落とすと、ゴローさんの顔に泥を塗ることになりそうだし……。


「うーん……」

「どうしたんだ? ジュリ」

「やっぱりごはんおいしくない? ニィナと一緒に残す?」


 ニィナがどさくさに紛れて自分の昼餉の皿をあたしのほうに寄せてきたので、あたしは「ちゃんと食べ」と押し返した。

 いつものように食堂で向かい合うようにして座っているあたしたちは、互いの顔色なんてすぐに伺えてしまう。後任世話係シッターのことで頭を悩ませているあたしに、四人はちゃんと気がついていた。


「このままジュリが世話係シッターでもいいんじゃねえの?」

「いいわけあるかい。あたしは一応オオサカ首長補佐なんだから」

「でも、でも、ニィナ、ジュリーの代わりのひとが来ても、そのひとの言うことなんて聞いてあげないよ? 全部無視しちゃうし、お野菜だって一つ残らず残しちゃうよ?」

「どういう脅迫?」

「だったらニィナ、ジュリちゃんの前ではちゃんと野菜を食べるところを見せなきゃだめだろ」

「イチルのツッコミもちゃうねんて」あたしは足を組んだ。「ていうか、あたしの代わりじゃなくって、あたしが代わりだったのよ。知ってのとおり臨時の世話係シッターだったんだから。次のひとの言うことも素直に聞いて、困らせないようにすんのよ。野菜も全部食べなさい」


 むくれたニィナが水笛を吹いたように唸る。テーブルの下で両足をばたばたさせるせいで、振動がこちらにまで伝わってきた。

 そうなると、いつもならイチルやヨハクあたりが小言を言うのだが、イチルは困ったような顔をするだけだし、ヨハクはフォークでステーキを突きながら「舌を腐らせたあとにギリ焼いたみたいな肉」なんてぼやいている。

 駄目元でミクロを見遣ったところ、つまらなそうにそっぽを向かれた。うわ、反抗期。

 これはあれだ。単純に拗ねているのだ。あたしも後任を探すのに忙しくって、引き継ぎの準備もしなくちゃで、この子たちと一緒にいるときですら、この子たちの相手ができなかった。心を傾けている相手がちっともこっちを見てくれないのは、たしかにいやなものだ。

 食事のときくらいは、後任を探すことを忘れてもいいだろう。


「……今日は特別よ」あたしは自分の皿を差しだした。「あんたたちの嫌いなもの、食べてあげる。そんだけ嫌がられてちゃ、料理人コックにも申し訳ないしね」


 ニィナとヨハクがわっと喜色を散らした。イチルは物珍しそうに瞬きをして、ミクロは「はあ? いっつもうるさいくせに?」と訝しんだ。あたしは「だから今日だけ特別だって」と返す。ニィナはせかせかと嫌いな食べ物をあたしの皿に移した。ヨハクの皿のステーキも加わって、あたしの皿の上はこんもりと膨らむ。


「いい? 本当に今日だけだから。好き嫌いが悪いっていうより、あんたたちみたいにまだ体が小っさいときにちゃんと栄養を取らないと、病気になってすぐに死んじゃうんだからね」

「死ぬかよ」

「いいから早く食べて」

「好き嫌いはだめだよ、ジュリー」


 こいつら……。

 まあ、今日くらいは大目に見よう。

 あたしはフォークに突き刺した野菜を口に入れた——ん?

 しゃきしゃきとした瑞々しさの中に滲んでいく苦み。ドレッシングが違う? 違和感を覚えたが、咀嚼を止めるほどではなかった。ちゃんと食べなさいって言った手前、文句はつけられない。

 でも、ドレッシングを舐めとる舌にじんわりと熱さを感じて、いよいよなにかがおかしいことを知った。

 彼らに悟られないよう平静を装いつつ、逃げるようにステーキのほうを口にする。焼き加減も味つけも絶妙で美味しかったはずだ。噛みしめた瞬間に口内で肉汁が蕩けだす。

 すると、持っていた食器も蕩けた。テーブルも食堂の壁もどろどろになっていくのを眺めながら、まずい、と思った。

 食堂の奥で控えていたらしい料理人コックが悲鳴を上げてすっ飛んできた気がするが、あたしにはそれすらも定かではない。肩や腕には小さな手がたくさんしがみついているのに、それぞれ誰のものかわからなくて、なにか言おうとしたのに言えなかったのは、無意識のうちに「吐かなくちゃ」と考えたからだ。

 前後不覚の体を引きずりながら、目や耳で感じるものの全てを振り払って、あたしは水道のある場所を探した。耳の後ろの脈がうるさくて、脳も心臓も血管もずたずたにされそうなくらいだ。そのままなにも見えなくなったのは、あたしが目を瞑ったからか、それとも視界が潰れたからか。

 口の奥に指を突っこんだら、焦げた蜜みたいな苦みがせりあがる。それは喉を焼きながらきれいに口から出てきた。つられて胃の中にあったものまで全部ひっくり返る。

 甲高い声に名前を呼ばれたような鼓膜の揺らぎ。それさえも脳髄をぐちゃぐちゃに踏みつけていく。眩暈だと理解したのは頭から水を被ったあと。節水なんて知らない。ありったけの水を被りながら必死に飲んだ。飲んでは吐いてを呼吸でもするみたいに繰り返しているうちに、胃がひくひくと引き攣った。

 なにかの拍子に床に倒れて、瞼を薄っすらと開けると、小さな顔があたしを見下ろしている。双子の顔に貼られたシールがちらちらと光っていた。その光がどんどん増えていって視界を埋めつくしたから、これはいっそ意識を手放したほうが楽になれるんだろうなと悟る。


「食中毒」


 それでも口が動いたのは、あの子たちがきっとそばにいるから。

 あたしを心配しているだろう彼らが心配だったから。


「食べちゃだめ」


 吐いたのは言葉なのか胃液なのかわからないまま、あたしの意識は落ちていく。腹の底が燃えるように熱い。涙が出た。






 怒涛の不意打ちを食らって気を失ったあたしは、沼底から這いあがるように目を覚ました。喉が焼けたように痛くて、「あ」と漏らした声は掠れていた。それを聞きつけてそばに寄ってきたのは、覆面の顔をしたレーヨンだった。


「ジュリさん、気がついた」

「……レーヨン?」


 ぼんやりとした意識が覚醒していく。自室のベッドの上にいるのがわかった。窓を叩く雨の音も聞こえた。淀んだ光が射しこんでいたので、まだ昼間なのだろう。

 他のみんなはどうしたのか。あたしの思考を見透かしたように、「イチルとヨハクは浸水被害の支援、ニィナは熱電発電、ミクロは雷を見に」とレーヨンが告げる。


「……イガラシ首長は?」

「呼んでくる」


 宣言するや否や、レーヨンは部屋を出ていった。気が利く子で助かる。

 あたしは目を瞑った。頭がぼんやりする。少しだけ痛むのは軽度の脱水症状によるものだろう。吐き気はだいぶ鎮まって、あるのは空腹感と脱力感。強く拳を握ったはずなのに、思ったよりも力が入らなかった。グローブが小さく軋むだけ。

 そんなふうに一つ一つ確認していると、部屋の扉をノックされる。返事も待たずに「入るぞ」と声がかかった。扉を開けたのはイガラシ首長とゴローさんだった。


「体調は?」イガラシ首長が枕元へ近づく。「食中毒と聞いたが」

「……かなり回復しました」

「いきなり倒れたと聞いて驚きましたよ! 貴女は半日ものあいだ高熱に魘され、そこからさらに半日眠りつづけていたんです」


 ということは、あれから丸一日経っているのか。そのときの記憶がほとんどないので気づかなかった。

 あたしを心配するイガラシ首長とゴローさんの背後から、レーヨンがひょっこりと顔を出す。あたしは上体を起こしながらそれを眺め、ややあってから「レーヨン、」と声をかける。


「ごめん。イガラシ首長たちと話があるから、ちょっと出てて」


 他の子たちなら上手くはいかなかったはずだ。でも、聞きわけのよいレーヨンは、すぐに「わかった」と返した。

 レーヨンが部屋を出るのを見送り、イガラシ首長は「どうした」と言った。


「毒です」

「……毒?」

「食中毒じゃなくて、毒です」あたしは頭を抱える。「なんで今まで気づかなかったんだろ……あの子たちの料理に、毒が入ってます」


 あたしの言葉に、イガラシ首長とゴローさんは息を呑む。

 口に出すと身に染みて、最悪の気分だ。

 思えば、ずっとあの子たちは料理に文句を言っていた。単なる好き嫌いや子供のわがままだと思っていたが、本当にあの料理はおかしかったのだ。

 悔しい。もどかしい。あたしの目の前で食べてた料理の中にも、きっと気づかなかっただけでずっと、毒が入っていた。


「幸い、すぐに気づいて吐き出したので、大事には至りませんでしたが……あの子たちの食事の全部に毒が入っているのだとしたら、致死量は普通に超えているはず」


 好き嫌いせずに残さず食べろ、というのは親が子にする当たり前の躾だが、まさかその食事に毒を入れていたなんて。これが本当の毒親か。こんな笑えないギャグがあるか。


料理人コックが怪しいと思います。彼はいまどこに?」


 渋い顔をしたイガラシ首長とゴローさんが顔を見合わせる。

 あたしが訝しく思っていると、ゴローさんはこちらへと向き直って口を開いた。


「すみません、解雇しています」

「え、解雇?」

「食中毒は調理した人間の管理責任です。死人が出てもおかしくはありません。当然、厳罰に処されます」

「君が倒れる寸前に食中毒だと言っていたようだから、確信もあり、私からも処分を急いだんだ……まさかこんなことになるとは」


 しまった、とあたしは顔を顰めた。

 毒なんて言ったらあの子たちが驚くだろうから、咄嗟に隠してしまったのだが、まさかこんなところで裏目に出るとは。


にわかには信じがたい」イガラシ首長は言う。「本当に、チルドレンの料理には毒が入っていたのか?」

「あたしに出された料理とはまったく違う味がしました。それに、誰か一人の皿だけなら食中毒で片づけられますが、あのときはニィナとヨハクの皿、それも別々の料理に口をつけています。二人とも……というか、あの子たちは日頃から、料理がまずい、と言っていたので、服毒が常態化していると見て間違いないでしょう。もし残っているなら、あのときの料理を調べてみてください」


 症状と独特の風味からして、ホトケユリの可能性が高い。

 思いつくのは落伍社の犯行の線。


「……チルドレンを殺そうと? 滅多な毒では効かないんだぞ?」

「だから、毎食摂取させたのかもしれません。無駄打ちとわかっていても長期戦を狙ったのかも」あたしは腕を組む。「滅多な毒では効かない、症状も出ない、ということは、ばれにくいということです。あの子たちは毒の解析もおこなえるみたいだけど、あくまで能動的なものだから……ちょっと味が変、くらいじゃあ料理を解析しようなんて思わない。少ないリスクであの子たちの身体を少しずつ壊していければ僥倖ってことです」

「でも……イガラシ政権の名の下、行政部で雇った侍従職ですよ?」

「いや、だからこそありうる」ゴローさんの戸惑いを、イガラシ首長が断じる。「チルドレンの身の回りに関する立場は入れ替わりが激しい。私の足をなんとかして引っ張りたい連中が敵を送りこむことも、不可能ではない。むしろ、下手な潜入よりもずっと成功率は高いだろうな。いつも人手不足の売り手市場。世話係シッターに至ってはこちらからスカウトするような始末だ」


 それなのに、あの子たちに万が一があると、イガラシ首長は痛手を負う。行政部の看板施策はチルドレンだから。あたしが反対勢力でも、それくらいの打算はしたかもしれない。


「ただ、料理人コックが単独で計画・実行したとは考えにくい。あまり考えたくはないが、共犯がいることも視野に入れたほうがいいだろう。組織的な犯行……いよいよ、落伍社あたりが怪しくなってくるな」


 イガラシ首長もあたしと同じ考えらしい。そのように見つめていると、イガラシ首長と目が合った。


「……君を責めているわけではないが、何故これまでのあいだ、彼らの皿に毒が盛られていることに気づかなかったのかが不思議だ」


 本当に責めているわけじゃないんだろうが、あたしはもろに食らってしまった。

 その顔色を見て、イガラシ首長が言葉を続ける。


「違う、世話係ならば、君に限らず、彼らの皿のものを食べる機会だってあったはずだ。他の誰がいつ気づいてもおかしくはなかったのではないかと」

「……いや、どうでしょう。料理人コックからは最後まであの子たちに食べさせるよう言われたし……あたしなら、どれだけ嫌がっても、自分のために食べなさい、って言いますよ」

「それでも彼らが残そうとしたら? まさかこんな時代に食料を捨てはしないだろう。もったいないと言って代わりに食べてもおかしくはない。それに、もしも世話係シッターとチルドレンの皿を取り違えでもしたらどうするつもりだったんだ? 世話係シッターまで殺す気だったのか?」

「それは……」


 たしかにおかしい。あんな暴れん坊たちのいる食卓なら、皿がごちゃ混ぜになることだって絶対にある。イガラシ首長の持つ人材を削れるなら、という考えがあったとしても、それで毒の混入が明るみになれば、当然、今回のように犯人を突き止めようとするし、防衛策を取ることになる。イガラシ首長のガードを堅くするのは不利益のはずだ。


「……歴代の世話係シッターが共犯者という可能性もあるな」イガラシ首長は冷たく笑った。「料理人の指定した皿の料理しか食べなければ、世話係シッターが毒を摂取することもないんだからな。だとしたら、私はそれだけの敵の侵入を許したことになるが」

「調査はしたほうがいいと思います。こんなことになった以上、行政部に関わっている人間は全員……」


 と、そこで、浮き彫りになったことがある。

 行政部が本当に敵勢力に侵入を許したとして。臨時世話係シッターであるあたしはイレギュラーだ。そのイレギュラーを自ら招き入れたイガラシ首長は白。

 では、チルドレンに食事を振る舞う料理人コックも、面倒を見る世話係シッターも、誰が採用しているのだったか。チルドレンに関する管理を誰に一任しているのだったか。どうしてそんな立場にいる人間が、こんな事態になるまで気がつかなかったのか。

 あたしはグローブをゴローさんに向ける。

 グローブの篭手から、赤いリボンが噴射した。リボンはゴローさんの両腕ごと上半身を縛りあげたと思ったのが、あたしの捕縛を悟っていたゴローさんは、右腕だけ回避させていた。

 捕縛と同時にベッドから跳躍していたあたしは、そのまま飛び蹴りを食らわせるも、自由の利く右腕で防がれて、そのまま押し払われた。

 ぶうんと音が鳴ったと思うほどの剛力。あたしは小石のように軽く吹っ飛んで、床に着地する。と同時に、ゴローさんが腰に佩いていた警棒を振りあげ、あたしに突撃した。あたしは両手で白刃取りにする。掴みあげた警棒から、バチバチッと電撃の火の粉が散る。スタンガンになっているらしい。グローブがなければ危なかった。

 ぎりぎりと鍔迫り合いのような緊張が走る。力勝負なら相手に分がある。この攻防が長丁場になるのはまずい。

 あたしは咄嗟に足払いをかけ、ゴローさんの体勢を崩そうとしたが、ゴローさんは警棒を刀のように振るい、グローブから伸びていたリボンを焼き切った。

 目まぐるしい一連のあと、ゴローさんは軽い跳躍で距離を取る。あたしもグローブを構えたまま、イガラシ首長の前に立った。背後では呆然とした息遣いが聞こえる。


「貴女が首長補佐でなかったら、きっと僕は部屋を出て、そのまま逃げおおせていたはずです」

「貴方が首長補佐じゃなかったら、ここまでしようとは思わなかった」


 対峙するゴローさんは至って平静だ。だが、いつもの柔和な表情は消えている。ぞっとするような眼差しで、あたしの前に立っていた。


「お互い実力行使には慣れてる以上、先手必勝。白黒どちらにしろ捕縛しておいて損はないから。結果、尻尾を出してくれたけど」

「咄嗟に体が動いてしまいました。いまさら困惑するふりをしてもわざとらしいかなって。それに、病みあがりの貴女に僕が後れを取ることはないでしょう」


 そりゃそうだ。丸一日寝こんでいたせいで体は鈍いし、頭は秒針が進むごとに鈍痛を刻んでいく。だから先手を取ったのだ。相手に火がつくよりも前に鎮圧しておきたかった。結果このざまだが。


「……気をつけろ、ジュリ補佐」状況を呑みこんだイガラシ首長が背後で口を開く。「ゴローの暗器道具は弾を、」


 イガラシ首長の言葉は続かなかった。言い終わるよりも先に蟀谷こめかみを撃たれたからだ。

 あたしが息を呑むと、警棒を構えていたゴローさんが「ゴム弾です」と囁いた。死にはしないが、直撃したら脳震盪くらいは起こすはず。呻きながら横たわるイガラシ首長を見下ろしながら、あたしは震える。


「首長補佐失格ですね、ジュリさん。あ、いまは世話係シッターでしたっけ」


 あんたが言うのかとあたしは歯を食いしばった。

 ずっと潜んでいたのか。あたしやチルドレンどころかイガラシ首長すら騙して。

 目の前の男は飛び道具まで持つ手練れだ。

 近くに仲間は何人いる? あたし一人でやれる?


「——ジュリさん、大丈夫?」


 そのとき、扉の向こうで声がした——レーヨンの声だ。

 異変を察知して来てくれたのだろう。あたしは助けを求めようとして、逡巡。

 そして、その隙をゴローさんは見逃さない。

 素早くあたしに詰め寄ったゴローさんは、警棒を振りかざす。


「っ、く!」


 あたしは間一髪でそれを避けるが、態勢が整わない。瞬く間に背後から抱きすくめられ、顎の下に警棒を押しつけられる。ぐるんと勢いよく反転したとき、扉を開けたレーヨンがいた。


「レーヨン、動いたらジュリさんは死にますよ」


 耳元で声がした。生温い嫌な温度がした。

 ゴローさんは、レーヨンに言い聞かせるように言葉を続ける。


「電撃を浴びせます。眼球から撃ちます。悲鳴も上がらなくなるまで殴打します。貴方が一歩でも動いたらジュリさんが死ぬんです。いいですか。死なせたくないなら動かないでください。他の四人に知らせてもだめです。わかりましたね」


 レーヨンは動かない。思考回路に不具合でもあったみたいに、どうしたらいいかわからなくて、困り果てたみたいに。

 あたしはゴローさんに引きずられるようにして連れていかれる。レーヨンの横をすり抜ける間際、彼の手があたしへと伸びたような気がした。しかし、ゴローさんの言葉もあってか、その手があたしを捉えることはなかった。

 ゴローさんはレインコートを着て、外に止めていた車の後部座席にあたしを乗せる。その際、懐から取りだした手錠であたしの両手をがっちりと固定した。手抜かりのない男だ。

 車を発進させたので、あたしはルームミラー越しのゴローさんを睨みつけた。


「なにが目的」

「イガラシ政権の破滅。ひいては神の落とし子チルドレンなどという誇大妄想の討滅です。我々の思想にあれらは邪魔ですから」

「思想?」

「言ったじゃないですか。どうせこんな世界は長くはもたないんだから、苦しいまま延命するよりは楽しく死のう、って」


 厭世主義のデストルドーと思われがちだが、実際は刹那快楽主義。


「……やっぱり落伍社の人間だったのね」

「はい。そして、ご存知でしょうが、あの毒はホトケユリの毒です。オオサカでは希少なので、ばれないと思っていたのですが……目論見が甘かったですね。そもそも、貴女に服毒させた料理人コックのミスですが」

料理人コックも落伍者の者?」

「ええ。過去の世話係シッターはあくまでも協力者ですが。そんなほいほい潜入できるわけじゃないので、都合のいい人間を揃えるので精一杯ですよ。怪しまれない程度に少しずつ、イガラシ政権を瓦解させる計画だったのに、貴女のせいで滅茶苦茶だ」


 ゴローさんは自嘲するように顔を顰めた。

 今回のことだけでなく、あたしという存在は、真実ゴローさんにとってはイレギュラーだったはずだ。

 これまでは、自分にとって都合のいい人材を行政部に紛れこませ、チルドレンの世話係シッターに配置した。間違ってもあの子たちに情の移らないような、いざとなれば切り捨ててしまえるような、あるいは円滑にコントロールできるような、そんな人間を。

 道理で、後任の世話係シッターがなかなか決まらないわけだ。あたしが候補者を見て直感的に納得できなかった理由が、今、はっきりとわかった。


「で、あたしをどうするつもり? 殺してやろうって?」

「あはは、西の人間は血の気が多いんですかね? さすがにそこまで非人道的なことはしませんよ」ゴローさんは場違いなほど屈託なく笑った。「ただ、いい交渉材料にはなってくれるんじゃないかと。臨時の世話係シッターなんて勝手に雇われたときにはどうしたものかと思いましたが……貴女は彼らのよい弱点になりました」

「弱点?」

「人質ってことですね」


 あたしは目を眇めて笑った。


「はあ? オオサカ首長補佐のあたしが、人質として上手く機能すると思うわけ? このことをオオサカが知れば、最悪、七連が介入することだってありえる。そうでなくとも、あたしは全力で抵抗する。ベッドの上でしか生活できないようなお嬢ちゃんを車に乗せてるんじゃないのよ? 死ぬ覚悟でこのまま暴れ散らかして、車ごとあんたと一緒に強酸性の海に沈んでやろうかしら」

「どうでしょうね。貴女は知りたいはずだ。所詮は禁忌培養児タブーでしかないあの子供たちがかわいくて仕方がないのだから。僕や落伍者がなにを考えて、彼らをどうやって討滅しようとしているか。残された彼らの今後を案じながらトウキョウ湾に沈みたいですか?」


 あたしは舌を打つ。

 いやらしい相手だ。こんな男を、あたしはいいひとだ、なんて信じてた。同じ苦労を分かち合う首長補佐として、気安い相手だと思ってた。最悪だ。その薄ら笑いすら虫唾が走る。


「貴女には驚いているんですよ……イガラシの見立てどおり、彼らは貴女に懐いた。ただ貴女を喜ばせたいというそれだけで、エアロゾルを焼ききるほどに。さすがは、晩年の先人たちが死に物狂いで生みだした禁忌。彼らの力は脅威そのものです。本来ならば、旧人類とも言える僕たちなんて、なすすべもなく殲滅されるはずだった。しかし、つけいる隙ができた。いくらあのタブーでも、危険な目に遭っている貴女を、見捨てることなんてできないでしょう」

「違う」あたしの声は氷点下を這った。「あの子たちはきっとあたしを助けに来るけど、それはひととして当然だからよ」


 あの子たちを人でなしのように扱われたのに腹が立った。視野が狭まるほどの怒りにくらくらした。血を吐くように言葉を続ける。


「もし誰かが危険な目に遭っていて、そのひとのためにできることがあるなら、助けようと思うのが普通でしょ。あの子たちは心ない脅威じゃない。人質になったのがあたしじゃなくたって、絶対に見捨てたりしなかったわ」

「…………」

「馬鹿にすんなやワレ。いてこますど」


 ゴローさんはルームミラー越しにあたしを見遣り、肩眉だけを跳ね上げて、それから口を閉ざした。

 しばらく車を走らせて、見えてきたのはコスモツリーだ。

 雷雨の中でも気高く聳える破格のタワー。

 展望台として、電波塔として、雷の観測施設として、かつてはトウキョウのランドマークだったというそれも、いまではほとんど廃墟のようなものだ。特殊ガラスの窓も割れている箇所があちこちあって、降りつける雨に晒されている。

 ここに落伍者の仲間がいるのか……自然とあたしの身は強張る。

 車が止まり、ゴローさんはドアを開ける。後部座席のあたしを引っ張りあげた。無理矢理あたしを連れて出た。雨に降られ、あたしの肌がきしきしと悲鳴を上げる。フードを深く被ることで凌ぐ。コスモツリーの足元まで来て、そのまま中へと入った。


「結局、落伍者の目的はなに」あたしは先を歩くゴローさんを見据える。「延命治療よりは安楽死って、まさか本気で思ってるの?」

「安楽死よりも延命治療だと、貴女たちは本気で思っているんですか?」ゴローさんは尋ね返した。「隕石落下メテオインパクトから五十年。世界は衰退の一途を辿っている。僕の生まれはカナガワですが、あちらも酷いものですよ。生きているだけで体は汚染され、飢えに苦しみ、明日をも知れない。僕の祖父母はすでに亡くなっていますが、その死体から発生した病で両親も死にました。こんな惨めなことがありますか。別に生まれたくてこんな世界に生まれたわけじゃないのに、いつの間にかこんな世界で生きていた。僕は愛する誰かのせいで病んだり、愛する誰かを病ませたりするのは真っ平御免だ。幸せなまま共に死にたい」


 壮絶な人生だが、この世界ではよくあることだ。

 この列島の各地で、そういう不幸が擦り切れるほどに起こっている。


「必死にがんばることに疲れたんです。もうついていけないんです。生きられるかもわからない未来よりも、生きている今のほうがよっぽど大事だ。倉庫を開放して食べ物をみんなに分け与えましょう。そして、思いつくかぎりの贅沢をして、それで突然死んだとしても、悔いはない。僕たちは悔いのない人生を送りたいんです」


 あたしとゴローさんはエレベーターに乗る。目まぐるしく階数は上がり、展望デッキへと着いた。

 灯りもないため薄暗かったが、見晴らしのいい窓の外で空に亀裂が入ったのが見える。閃光であたしたちの影が浮き彫りになった。遅れて深い音が割れるように轟く。


「……あんたらの考えはわかったわよ」あたしは、ずっと言いたかったことを言う。「でも、そんなことにあの子たちを巻きこまないでくれる? そういうのは大人の問題よ。人生を悔いれるくらい生きてきたやつらの特権みたいな話。あの子たちにはなんの関係もないわ」


 負の遺産を与えられたと喚いてるが、あの子たちのほうがよっぽどだ。こんな世界に生まれ落ちて、こいつらみたいな破滅思想に付き合わされそうになっている。


「自分がされて嫌だったことを他の誰かにしてんじゃないわよ」

「タブーこそが先人たちの遺した最悪の象徴です」ゴローさんは声を尖らせる。「希望の光? 神の悪戯? 馬鹿馬鹿しい。隕石からのリンチでぶっ潰れるような文明にいつまでも縋りついて……超人的な能力を持っていたってたったの五人でなにができますか? 一瞬は救われたとて、そいつらを使い潰したあとは? どちらにしろ地獄ですよ。早く死ぬか後で死ぬかの違いだけ。仮初の光に救われた気になるくらいなら、そんな灯火は吹き消してやりましょう」


 もう聞き捨てならなくて、あたしは縛られた両手でゴローさんの胸倉を掴みあげる。ゴローさんは踏鞴を踏んだが、曇天よりも澱んだ目であたしを見下ろした。


「つまりあんたらは、あたしであの子らを強請ゆすって、殺してやろうって魂胆なんやな」

「言ったでしょう。そんな非人道的なことは僕たちだってできません。そもそも殺したって死なないような相手ですからね。ただ、自分たちで勝手に死んでくれたらとは思っています」

「こっんの、」


 あたしは頭突きを食らわせてやろうとしたが、それよりも先に、ゴローさんはあたしの腹に膝蹴りを浴びせた。

 もろに入ったあたしはその場で蹲りそうになって、しかし、ゴローさんに胸倉を掴みあげられる。

 呻くように息をするあたしを、ゴローさんは眇めた。


「冷静に考えてみればわかります。僕たちにできることといえば、この世界に耐えきれなくなる日を指折り数えることだけ。大地も海も空も汚れたこんな世界のどこに未来があるんですか? みんなで仲良く死ねばいいじゃないですか」

「うっさい黙れや」あたしは言った。「死にたいんなら一人で死んでろ。あんたや世界にはなくたって、あの子たちは……まだ子供なのよ。あの子たちはこれからもこの世界を生きていくの」


 ゴロー補佐はあたしの言葉を鼻で笑った。あたしの胸倉を掴んだまま、乱暴に別のエレベーターへと連れていく。コスモツリーの最上階、展望回廊へと直通するエレベーターだ。

 ごうんごうんと階が上がっていくごとに、体にも静かな圧力を感じた。箱の中で押さえつけられ、髪を結わえていたバナナクリップがぱちんと解ける。

 いよいよあたしもただではすまないのだろうな——そう思うのに、こみあげるのは怒りだけ。


「貴女も『神の落とし子チルドレン計画』なんて馬鹿げた話をいつまでも信じているんですね」ゴローさんは吐き捨てる。「あの子供たちの持つ脅威の力も失われた技術ロストテクノロジー。今あるそれだっていつかは失われる運命です。あれを希望の光として掲げるなど、愚かにも程がある」


 チルドレン。神の落とし子。先人たちの遺した人類の希望。

 子供たちよ、君たちこそが希望なのだ。いつかこの世界をきらきらと照らす光となりますように——チルドレンの入っていたカプセルには、そのような文言が刻まれていたと聞く。

 未来が絶望に塗り潰されてゆく時代、先人たちの期待を一身に受け、晴れてこの世に生まれたのが、あの五人の子供たちだった。

 でも。



「希望の光になんてならなくていい」



 なんのために生まれたのかだとか、なにをすべきかだとか、そういうことはどうでもいい。

 だって、あの子たちはただの人間だから、太陽みたいに照らしたり、星みたいに輝いたりしなくていいのだ。


「誰かのために生きなくていい。それをしていいのは、あの子たちが自分のためにそうしたいときだけ。いい加減に、あの子たちは世界のためだけにあるような、物としか見てないような言いかたをやめろ!」


 ポーン、と音が鳴って、エレベーターの扉が開く。

 ひゅううと湿気を孕んだ冷気が吹きこんで、あたしの頬や髪を撫でた。

 また一つ雷が落ちる。ぴかりと視界が白んだら、あたしを押さえつけるゴローさんに眼光が宿った。研ぎ澄まされるような静寂。


「……貴女を餌に、タブーを誘き寄せます」ゴローさんの声には一切の感情が乗っていなかった。「貴女をトウキョウ湾に沈める、なんて脅し文句としてちょうどいいでしょうか。逆に彼らに沈んでもらいましょう。潜水スーツがなければ、しものタブーも死んでくれると思います。その責任をイガラシ首長に擦りつける、なんて筋書きならば、邪魔者は一気に消せる。希望でないなら絶望になればいい」


 ゴローさんが呪いのように言葉を吐く——その背後に、あたしは信じられないものを見た。

 ガラス張りの回廊で逆光に染まった、赤錆のように鮮やかな髪。その右手にはずぶ濡れのレインコートを携えている。よく見ると前髪の毛先が濡れていた。間違えて嵌めこまれたみたいに左右で色の違う目が、笑む。ペイントシールの賑やかな頬と鼻筋が、いたずらな顔に顰められた。

 あたしが呆然とするのを見て、ゴローさんは訝しむ。そのままあたしの視線の先を追い、振り返った。息を呑む。


「待ってたぜ」


 言うが早いか、ミクロは右手のレインコートをゴローさんの顔面へと投げつけた。

 そのまま弾丸のように飛びだして、レインコートごとその頭を鷲掴み、骨っぽい膝をめりこませる。

 あたしはすかさず背後から逃れ、エレベーターから抜けだした。ハッとなって展望回廊を見渡す。トウキョウの街並みと空を一望できるよう、ぐるりと円形に巡らせたスロープ状の回廊では、頂上デッキへと続く道順に、落伍社の者らしき連中が伸びていた。

 まるで嵐に巻きこまれたみたいな惨事。あたしは素で「なんやこれ」とこぼす。


「あーっ、ジュリーだ!」


 明るい声と共に、真っ青な二つ目が、回廊の先から覗いた。ニィナだ。

 ニィナは、気絶した落伍社の連中を避けるよう、器用なスキップであたしに駆け寄り、むぎゅっと腰から抱きしめる。


「ニィナ? なんで……ていうか、こいつらはニィナが?」

「うん! ちょうど上のほうまでしてきたとこ。イチルもいるよ。レーヨンとヨハクは念のために他の階も観に行くって上のエレベーターで下りてった」


 すると、あたしの乗ってきたエレベーターのほうから砲弾が吹っ飛んできたので、ヒッと情けなく声を漏らす——砲弾の正体はゴローさんだった。剥きだしの鉄骨と特殊ガラスで張り巡らされた回廊の窓に、強かに身を打ちつける。荒く呼吸をするゴローさんが身を起こすと、エレベーターのほうからミクロがひたひたと歩いてきた。


「何故、ここに、」ミクロを見据えながら、ゴローさんが呻く。「まさかレーヨンが知らせたのか?」

「いんや。俺はここの天辺てっぺんに登って雷の様子見てただけ」

「……は?」

「でも、猿山サルヤマで走り回ってたニィナがさ、〝ゴローの車にジュリーが乗ってるのが見えた! 二人で遊びに出かけたんだ! ずるい!〟って電信メールで全員に喚きやがってさ。イチルとヨハクが手分けして、トウキョウの防犯カメラにコネクトして、二人の乗ってる車を追い回したんだよ。そしたらこっちに向かってるって言うから、お迎えドッキリ仕掛けてやろっかなって思って」

「でも、ジュリちゃんについて留守番してたレーヨンが車には乗ってないみたいで、変だなって思ったんだよね」


 言葉を継いだのはイチルだった。イチルもニィナがやってきたほうから鷹揚な足取りでやってくる。その手には、落伍社の連中が持っていたであろう、武器の数々が押収されていた。手抜かりない。

 イチルはあたしの隣までやってきて、ゴローさんに言う。


「しかも、ミクロ曰く、落伍社の人間がコスモツリーにはうようよいた。あんまり怪しいから、一応レーヨンに〝事件?〟って聞いたら、〝話しちゃだめって言われた〟って返ってきてさ」

「それもう言うとるやん」

「でしょ。てことで、ゴローさんよりも一足先にコスモツリーに乗りこんじゃおうと思ったんだ」イチルはジャケットのポケットに手を突っこみ、優雅に微笑んだ。「でも、俺もびっくりしたなあ。ゴローさんが落伍社の人間だったなんて。しかも、ジュリちゃんを人質に俺たちを脅そうって? トウキョウ湾に沈むのは、俺たちとゴローさん、どっちが先かな?」


 イチルにしては珍しく脅すようなことを言った。いつも通りの爽やかで柔和な物腰が白々しく感じられる態度。

 あたしは呆れて、しかし、笑いそうになっていた。

——本当にとんでもない子たちだ。

 そのとき、ピカッと鮮烈な光に照らされる。分厚い雨雲が真っ二つに裂けた。たちまちゴロゴロと地響きにも似た音が鳴って、「雷がやばい」「えっぐい」とみんなが空を見上げる。無邪気で暢気で、ついさっき落伍社の集団を殲滅したとは思えないほどだ。

 いや、この子たちは本当に無邪気で暢気だった。殲滅してはいなかった。

 ミクロに吹っ飛ばされたゴローさんが、起き上がっていたのだ。

 ゴローさんは棒立ちになっていたニィナに突き飛ばす。体重の軽いニィナはぬいぐるみのように容易く吹っ飛んだ。あろうことかその身体は、特殊ガラスの砕け落ちた大穴の向こう、天空へと浮いた。


「ニィナ!」


 タワーから落ちていくニィナを、誰よりも早くミクロが迎えに行く。

 素早く跳んだミクロは片方の手でニィナの腕を掴み、もう片方の手で晒された鉄骨を掴んだ。が、雨で滑ったせいで、鉄骨を掴んでいた手は、瞬く間に剥がれ落ちる。

 その手を掴んだのがヨハクだ。ただ、二人分の体重を支え切れなかったヨハクも、しばしの時間を稼いだのち、前のめりに傾いた。

 イチルとレーヨンも地を蹴る。レーヨンは片腕でヨハクを抱きしめて、もう片腕を背後のイチルに伸ばした。イチルはレーヨンの手を掴み、足を踏ん張らせる。イチルとレーヨンの二人がかりで三人を引き上げようとしたものの、強風でニィナやミクロの身体が揺れ、レーヨンまでタワーから落ちそうになった。

 あたしが間に合ったのはこのときだった。

 ほとんど落ちかけていたイチルの身体を抱きしめる。交差させた両腕の先、グローブからリボンを伸ばして、晒された鉄骨に巻きつけた。ぎちぎちと音がしたものの、寸でのところで静止する。

 子供たちはタワーからぶらさがり、イチルだけがフロアに足を引っかけた状態だ。あたしはそんな彼を抱きしめたまま、リボンによって支えられている。それさえもいつ切れるかわからない。あたしは雨に打たれながら、なにがあっても彼らを離しはしないと、ただそれだけを考えていた。

 そんなあたしたちを尻目にエレベーターへと乗りこむゴローさんを、イチルは視線だけで追いかける。

 あくまで逃げるための時間稼ぎだった。たったそれだけのことでニィナを突き落とした。いくらチルドレンでも、この高さから落ちて無事でいられるわけがないのに。

 怒りだか悲しみだかわからない気持ちで、あたしの頭には血が上った。

 踏ん張りながら上体を起こし、あたしは体重を後ろへ傾ける。でも、あたしの体も持って行かれそうになっていた。コスモツリーを旋回する風に髪が吹雪く。じりじりと足が滑った。


「ジュリちゃん、」イチルが腕の中で口を開く。「無理だ、千切れる」

「やからイチルも踏ん張れ!」

「このままだとジュリちゃんただじゃ済まないでしょ」

「うるさい黙れいいからがんばれ!」

「俺たちだけなら、落ちたって怪我で済むかもしれない」

「あんたたちでも、落ちたら怪我するやろ!」


 もう怪我なんてさせないとあたしは約束した。

 彼らよりもずっと弱い、臨時の世話係シッターでしかないあたしが、彼らのためになにができるかわからない。でも、それでも、彼らが傷つくのは嫌なのだ。


「死んでも絶対、離さんからな」


 雨に掻き消されそうな奥で、瞬きの音がする。震えるあたしの腕の中でイチルがふっと笑った気がした。

 ややあってから「ジュリちゃん」と囁かれる。イチルはあたしを抱きしめ返した。


「死んでも絶対に離さないでね」


 トン、とイチルは地を蹴る。

 その力に逆らえず、あたしの体も大きく傾いた。

 かろうじてあたしたちを支えてくれていたリボンが、臍の緒のように千切れていく。

 ちっぽけなあたしたちは容易く宙へと放りだされてしまった。

 落ちていく。落ちていく。重力のままに、淀んだ空気の壁を突き破っていく。

 その瞬間があまりにもゆっくりと感じられた。それこそ、宇宙から成層圏を貫き、この地上へと降りてゆくみたいに。

 きっと彼らはこんなふうに産み落とされた。遥か彼方の宇宙、絵にも描けない美しい星空から、光り輝けという大志と祈りをこめて。

 彼らをこの世界へ突き落としたのは、神なのか、研究者なのか、わからないが——その誰かも、あたしと同じように、彼ら自身の幸せを祈ったなら、と願う。

 そのとき、イチルがぐいっと腕を動かす。

 ずっと繋がっていたレーヨンが、ヨハクが、ミクロが、ニィナが、あたしを余すところなく抱きしめた。

 ぎゅっと強い人肌を全身で感じたとき——突如、雷が落ちた。

 一切の容赦もなく叩きつけられる閃光。清々しいほどの直線コースでコスモツリーを襲った。走る稲妻はいっそ見えなくて、数瞬、なにが起こったかわからなかった。

 網膜を焼こうと、鼓膜を痺れさせようと、そんなのは気取らせないほどの圧倒的な光線。人類では太刀打ちできないようななにかに支配された気分だった。

 そのあいだも、彼らはぎゅっとあたしを抱きしめていてくれた。地上へと絶賛真っ逆さま中だ。


「間に合え間に合え」「ああああ俺たちでコネクトできるやつだったらよかったのに」「このまま落ちちゃったらどうしようね」「限りなく死に近い」「せめてジュリちゃんとレーヨンを庇って落ちよう」「俺たちの自癒因子を信じろ」


 こんな状態でも、子供たちはわいのわいのと騒がしい。あたしの心臓は並々ならぬ重力と風で跳ね狂い、微塵の声も出せなかったものの、非常な臨死体験に頭のほうはいっそ冷静で、このままじゃ死ぬな、とシンプルに思った。

 すると、レーヨンが「来た」とこぼした。ニィナがぱっと顔を上げる。一機のヘリがこちらへと近づいていた。

 彼らはあたしから身を放して、「ジュリー!」とそのヘリを指差した。


「あれに!」


 皆まで言わずともわかった。

 あたしはグローブからリボンを噴射する。ヘリの足に巻きつけた瞬間にくんっと手前に引っ張れば、リボンはグローブの篭手へと高速で巻き取られていった。あたしたちの体はヘリのほうへと引っ張られる。


「レーヨン!」


 ヨハクが叫んだ途端、強風に背中を押された。それはもちろん錯覚で、実際はレーヨンが犯人だった。ジェット推進——レーヨンの足の裏からは、ガスバーナーから火が噴射するように、光の尾が伸びていた。

 リボンと推進力であたしたちはヘリまで辿りつく。

 機体の横の、大きな口のようなドアが開いた。

 中にいたイガラシ首長が「こっちへ!」とあたしたちへと手を伸ばした。

 ニィナがその手を掴み、イガラシ首長へと引っ張りあげられる。雪崩れこむようにあたしたちはヘリへと乗りこんで、ドミノのように倒れこんでいく。もどかしかった呼吸が健常になり、心臓も脳も熱くなった。やっと足をつけたことに安堵した。


「……っまじで、死ぬかと、思った」

「ね」

「ね、とちゃうねん」


 あたしはいまだに震える体で、彼らへと振り返る。

 コスモツリーから落ちてヘリに回収されるまでの、地獄のように長くも短い、たったこれだけの時間で、聞きたいことが山ほどあるのだが。


「あ……あんたら、まさか、雷まで落とせんの……!?」

「そんなわけないじゃん」濡れたパーカーを絞るヨハクが言う。「雷が落ちたのは偶然だよ。コスモツリーに落ちたのは奇跡と言えるけどね。建物の中にいた連中は無事だろうけど、ゴローの乗ったエレベーターは絶対に止まったでしょ」


 ヨハクはイガラシ首長のほうを向き、「至急、現場に人を向かわせて、確保して」と告げた。あたしはいやいやいやと絞りだす。すると、ヨハクの後をミクロが継いだ。


「元々、コスモツリーの避雷針は、経年劣化で潰れてんだよ。導線までイカれたわけじゃないから、地中に放電するのには困らねえけど、やっぱ危険じゃん? だから、雷雨の日は、俺たちのうちの誰かが、避雷針の代わりをやってたんだ」

「……え? まさか、雷が鳴ると出かけてたのって、それが理由?」

「うん」


 なんでもないことのように頷くけど、普通にあんたたちが危ないし、そもそも人間にそんなことができるのか……? できてしまうのだろう。本当に何でもないことのように。だからこそ、これまで誰も気づかなかった。

 イチルは体を抱き竦めながら言う。


「さっきも、雷が落ちる予兆はあったんだ。あんな高いところで宙ぶらりんなんてわりと危ない位置だし、なのに、ジュリちゃんは離す気がなさそうで、巻きこむのは避けようがなかったから、俺たちで絶縁したんだけど」


 なるほど。抱きしめられたのはそういうことだったのか。

 イチルはあたしを気遣うように「そういえば怪我はない?」と尋ねてくる。あたしは「ないよ」と答えて、着ていた上着をイチルに羽織らせた。

 イガラシ首長は「雷が落ちても絶縁破壊が起こらないのか……?」と戦慄していた。この子たちに驚いていたきりがない。


「雷撃を避けるためにコスモツリーから落ちたのはわかったわ」あたしはため息をつく。「助かる見込みがあったから落ちたの? このヘリもあんたたちが用意したってこと?」

「ここに来る前、イガラシさんに頼んでおいた」答えたのはレーヨンだ。「いくつかの予測のうち、どの状況に転ぶかわからなかったから、陸路と空路、両方で駆けつけてもらってた」

「間に合ってよかった」イガラシ首長は顔を強張らせていた。「まさかゴローに裏切られるとは思っても見なかったが……最悪の事態を防げたようでなによりだ」


 ゴローさんに撃たれたイガラシ首長だったが、もう動ける状態にはなったらしい。本当によかった。


「で。さっきのレーヨンのあれはなに?」

「ジェットエンジン!」ニィナが朗らかに答える。「すっごいかっこいいでしょ! ニィナにも欲しかったなあ。そしたら一緒に飛べるのにね。レーヨン」


 ニィナに振られて、レーヨンは「うん。みんなと飛びたい」と答えた。チルドレン、最早なんでもありだな。

——結局、ヨハクの予想どおり、ゴローさんはコスモツリーのエレベーターの中に閉じこめられていたという。

 その後、イガラシ首長はゴローさんや落伍社の人間を捕縛し、今回の騒動を解決させたのだった。






 なんて、万事解決とはいかない。出向先で事件に巻きこまれたとあっては、オオサカだって黙っていない。下手をすると一悶着ひともんちゃくだ。

 トウキョウはオオサカに一連の事件を報告しないわけにはいかず、ただし、せめてもという情けで、あたしの口からトカゲに伝えることにした。


『だから早く帰ってこいっつったんだボケェ』

「こんなことになるとは思わんやん」

『あほ通り越してあほんだら。いっぺん死んどいたらよかってん』

「生きてるから言える冗談よな」

『いいから気をつけて帰って来いよ』


 その捨て台詞で通話は切れた。とりあえずトウキョウはお咎めなしだ。

 落伍社の企みが明るみになり、イガラシ首長は後始末や対策に忙殺されたが、あたしの仕事は変わらず、五人の世話である。

 相変わらずみんなやんちゃくれで、国会議事堂で泥水鉄砲鬼ごっこに興じたり、猿山サルヤマで高鬼をしたり、いまだにルールのよくわからないボードゲームを観戦したり、夜中にトランプをしたりした。

 あんなことがあったというのに、全然けろっとしている。少なくない時間を共に過ごした大人が裏切り者だったというのに。少しくらいはショックを受けるのではと思っていただけに呆れた。子供ってすごい。このまま強く生きてほしい。

 さて、そんなふうに彼らとすごす合間に、あたしは後任の世話係シッターを探した。計算力も体力も、戦闘力も包容力もなくていい。ただ、あの子たちと真摯に向き合ってくれそうな人間を見極めようと思った。

 また、突如いなくなった料理人コックの代わりに、今後は自分たちで料理を作ることを選んだ。彼らに火器や刃物を使わせるのは怖かったが、あたしの監督下で挑戦してみることにした。はじめはみんな面倒くさがっていたものの、出来上がった料理を一口食べるごとに「おいしい」と顔を綻ばせていた。

 そういえば、ニィナとヨハクの編み物の腕前は、至高の境地に達していた。特に先に始めたニィナなんかはいろんなものを作れるようになっていて、寒がりなイチルのために、もこもこのセーターとマフラーを編んでやった。それを羨ましそうに見ていたミクロがいたことは述べておこう。

 雨の日はお留守番のレーヨンとしりとりをした。ほとんどは決着がつかないまま終わることが多かったが、たった一度だけ、レーヨンが「〝ジュリさ〟」と言って、負けたことがある。あたしはその一度がとても嬉しかった。その理由はもちろん勝てたからじゃない。

 そうして幾日かが経って、あたしが書類と睨めっこしていると、同じく書類を片していたイガラシ首長が、ふとこぼした。


「少年よ、大志を抱け」


 突飛なことにあたしは「はい?」と返す。イガラシ首長らしくない、あまりに聞きなれない言葉に、小さく混乱していた。

 そんなあたしへ、イガラシ首長は言う。


「私が生まれるよりもずっと昔、外国の教育者が残した言葉だ。まだ幼い少年たちよ、この老いぼれのように、大きな志を抱くのだ、と。だが、老いぼれになって、気づいたこともある」


 そういえば、このひととは意外にも砕けた関係になったな、としみじみ思う。堅物で、厳格で、トカゲ曰く〝爆心期を生き延びたハングリージジイ〟なイガラシ首長だが、あたしにはもう違うように見える。


「私が爆心期を生き抜いたのは、世界の再興の一端を担ったのは、この死に体を引きずって首長の座についたのは、たしかに大志だったと思う……だが、こんな私のように必死になる必要が、後世の人間にはあるだろうか」

「…………」

「大志を抱き、大役を果たせば、それはたいそう立派な心栄えだろう。私はかつて安寧を手に入れるため、我武者羅に働いた。そんな己を誇らしいと思っている。そしていまがある。世界は荒廃したが、生きていけるほどにまでは回復した。安寧とは言えなくとも、小休止だ。誰も必死にならなくていい時代。なのに、私のような大志を、まだ後世にも抱かせるのか」イガラシ首長は目を細めた。「望んで抱くならばまだいい。それこそ立派な心栄えだ。だが、無自覚なまま、あるいは誰かに強いられたまま、いつの間にか抱かせられていたとしたら……それは、本当によいことなのか? そうならないように望んだのは、他でもない私なのに」


 あたしは眉を下げて笑った。

 イガラシ首長は言葉を続けた。


「望んで誕生したわけでもあるまいに、生きているだけで重圧に押し潰され、死に体を強いられ、身を粉にすることを望まれるなんて。私は、後世の人間に、こんな世界なら生まれてこなければよかったとは、思ってほしくない」

「ゴローさんのことですか?」

「それもあるが……検討してみたんだ。チルドレンのことを」イガラシ首長は躊躇いがちに言った。「君がそのように後任に悩む原因は私にもあるだろうからな。君のようにとはいかずとも……私も、彼らについてもっと考えるようにする。なるべく。少しずつ」

「…………」

「だから……安心するといい。私も見たが、その者なら、次の世話係シッターを任せられると思うぞ」


 あたしは手元の資料に目を落とす。

 イガラシ首長と二人で厳選した、後任の世話係シッターだ。能力は申し分なくて、きっとあの子たちとも上手くやれると思っている。このひとに後を任せてしまおうか悩んでいたのだ。

 なかなか決めきれなくて、ずっと睨めっこしていたけれど、あたしは視線を逸らす。負けてもいいや。あたしが勝つことよりも大事なことがあるのだから。


「……ありがとうございます。勇気が出ました」あたしは微笑む。「このひとに決めます。すぐに連絡はつきますか?」

「ああ。面談ももう終えているから、このまま採用すれば、明後日には来てくれるだろうな」

「早いなあ」


 それは、思ったよりもずっと近い将来で、あたしは力なく肩を落とした。

 寂しいと思ってしまう。

 あくまであたしは臨時なんだから、しょうがないんだけど。


「遅いくらいだ。君にはずいぶんと助けられた」イガラシ首長は言う。「オオサカからは早く君を返せとせっつかれている。後任が決まったならすぐにでも帰すよう圧力をかけられていてな」

「あいつ、あたしがいないとなんにもできないんで」

「君は優秀だからな。本当によくやりとげてくれた。臨時の世話係シッターだったのに。首長補佐であった君が、いきなりこんな仕事をすることになるなど、思ってもみなかったろうに」


 あたしは「それ、貴方が言います?」と苦笑した。イガラシ首長は少しだけ笑った。このひとがこんなに心を開いてくれたことは、あたしにとっての誇りかもしれない。


「でも、違うんです。あたしもあの子たちといて楽しかったし。そりゃあ毎日くたくたになるほど大変で、このクソガキって思ったことは一度や二度じゃないけど……でも、帰るのが惜しくなるくらいには、あの子たちが好きだったから」

「彼らもそう思っているはずだ」

「すぐに忘れますよ」あたしは苦笑する。「あの子たちがあたしを慕ってくれる気持ちは本物でも、一緒にいた時間なんて、あの子たちがこれから生きる時間に、すぐに押し流される。そういうものでしょう」


 寂しいけれど、そういうものだ。

 きっと彼らは次の世話係シッターにすぐに懐いて、あたしよりもそのひとのことを大好きになる。それがちょっとだけ悔しくて、でも、彼らのためになることなら、あたしはそれでいいのだ。

 あたしもきっと、彼らとすごした時間を遠い記憶のように感じるようになって、そういえば、騒がしくてかわいい子供たちがいたんだよな、とたまに思い出すくらいになる。それでいいと思う。


「……でも、さすがにゴローさんよりかはあたしのことを思い出してほしい」

「比べるまでもないと思うが」


 そんなこんなで、後任の世話係シッターが決定し、とんとん拍子であたしの帰る日も決まった。

 明日である。

 あの子たちにも、「そのうち帰る」「いつかは帰る」と口酸っぱく伝えていたけれど、まさかこんなに呆気なく、突然に、決まってしまうとは。

 イガラシ首長との話を終え、窓の外を見た。どんよりと汚れた空の光は、猿山サルヤマのある皇居跡を白ませる。影の落ちるころには空気もすっかり冷えていて、火がなければ足元も見えないような夜が来るのだ。

 朝を迎えれば、あたしはトウキョウを発つことになる。






 その日の夜、ニィナが枕を持って、あたしの部屋を訪れた。

 荷作りをしていると、小さくノックが鳴って、「ジュリー、トイレについてきて」という声が聞こえてきたのだ。

 蝋燭の火灯りだけが揺れる暗闇の中、よくもまあこの部屋まで辿りつけたものだ。チルドレンは夜目も利くから怖くないのかもしれないけど、あたしは今でもたまに、おばけとか出そうだな、なんて思ってしまう。

 あたしは荷作りをやめ、部屋の扉を開けに行った。開けた途端、枕に顔をうずめるニィナが見えた。トイレに行くのになんで枕。しかもニィナは一人でトイレに行ける。

 あたしは呆れつつ首を振った。


「一人で行きなさい」

「やだ」

「やだじゃないの。あたしは荷作りがあるから」

「怖いの、お願い」

「本当に怖いならここまでだって来れないでしょ」

「じゃあ、ご本読んで。眠れないの」

「本だって自分で読めるじゃない」

「お願い、ジュリー」


 うるうるとニィナはあたしを見上げ、ちょいっとあたしの服の裾を摘まんだ。

 それでも、あたしは「だめ」ときっぱり断った。

 ニィナは抱きしめていた枕にそっと額をこすりつける。真ん丸な瞳は見えなくなった。ただ、これまで見たなかで一番綺麗な真っ青が、涙に濡れていたような気がした。それは気のせいではなかった。


「……きらきらの唄を歌って。一緒に寝て」ニィナは涙声になる。「それがだめなら帰らないで」


 ニィナが本当に言いたかったのは、きっと最後の言葉なのだと思った。

 火に照らされるつむじを見下ろしながら、あたしの胸は痛む。

 あたしは、この子を、こんなにかわいい子たちを、置いて行くんだ。あたしをこんなに慕ってくれる子を、放りだしてしまうんだ。

 心の片隅で、帰りたくないなあ、なんて思ってしまう。あなたたちがこれからどんな未来を生きていくのか、すぐそばで見守っていたい。

 でも、そう思うだけだ。あたしはニィナのお願いを聞いてはあげられない。

 あなたたちはきっと、これからたくさんの初めてと出会うだろう。出会いと別れを繰り返すだろう。そうして少しずつ大人になって、この世界を生きていく。あたしはそれを祈っている。

 あたしは小さく笑って、ニィナと目を合わせた。


「おいで。一緒に寝よう」


 ニィナはきゅっと口を縛って、その眉を震えさせた。お願いが叶わなかったのだと悟ったから。

 けれど、ややあってから力なく笑って、あたしのベッドへと潜りこむ。あたしもそれに続いた。荷作りなんて、明日の朝やればいいのだ。

 枕を二人で半分こすれば、微睡の香りがした。

 あたしはニィナの頭を撫でながら歌う。


「きらきらリトルスター 夜空のエレメノピー」

「瞬きしてる あなたを見てる」


 その細い髪を耳にかけてやる。ニィナはくすぐったそうに目を細めた。次第にその目は瞼の奥に隠れていって、あたしたちは身を寄せ合いながら、蕩けるように眠りに就いた。






「ジュリ、おひさ~。二ヶ月にもわたるバカンスはどないやった~?」


 トウキョウ出立の朝。警視庁本部跡のヘリポートで、河豚ふぐみたいな機体のヘリを背景に、トカゲが陽気に手を振った。電話口ではあんなだったくせに、会うとこれだ。

 あたしは「バカンスなわけあるか」とツッコんだ。ちょっと小突いただけなのに、トカゲは大袈裟に「ひんっ」と悲鳴を上げた。


「気持ち悪い声出すなや。どつくぞ」

「もうどついてるだろ」トカゲは肩を竦めながら言う。「そんな調子でよくチルドレンの世話係シッターなんてやれてたよな。大丈夫? 恨まれたりしてない? やんちゃくれに拍車がかかって、トウキョウだけじゃなくてオオサカの支配まで目論むようなクソガキになってない?」

「クソガキの域超えてるでしょ。あたしはそんなふうに産んだ覚えも育てた覚えもないわ」

「そりゃ産んどらんやろ」


 軽口を叩き合っていると、イガラシ首長が「元気そうだな、トカゲ殿」とトカゲに声をかける。


「お久しぶりです、イガラシ首長。ジュリがお世話になりました」

「世話になったのはこちらのほうだがな」

「わかります。俺もジュリにはお世話になりっぱなしなんで」

「チルドレンの次はこの男か。君も大変だな、ジュリ補佐」

「お気遣い痛み入ります」


 ちなみに、この場にあの五人の子供たちはいない。朝食のあと、別れを惜しむ暇もなく、彼らは電熱発電のために鬼ごっこへ出かけたのだ。散々っぱら別れを意識してきたぶん、いざそのときになるとあっさりしたものだった。

 トカゲと二人でヘリに乗りこみ、イガラシ首長に手を振るりながら、あたしはトウキョウを発った。窓からその街並みを眺める。数時間もすればオオサカだ。


「……で、空気清浄機の製造はできそうなの?」

「時間はかかるだろうな。材料も馬鹿にならない。すでにこの世にない素材は代わりになるものを探す必要があるし」

「おまけに試作段階だもんね、トライアルアンドエラーは絶対だ」

「ま、ジュリがいないあいだサボってたわけじゃないからな。七連との共同開発ってことで、一応目処は立ってる」トカゲは睥睨した。「ていうか、この前イガラシ首長と電話したとき、繊維事業について興味があるって言われたんだけど。話が上手く進んだら、チルドレンの毛髪とうちの繊維を練りこんだ雨傘が開発されるかもしんない。突然すぎるだろ。どうしてそうなった。お前、あのイガラシ首長をどうやって口説き落としたんだ」

「よかったじゃない、自分の補佐が優秀で」あたしはにやりと笑ってみせた。「あたしも、あんたがいないあいだサボってたわけじゃないってことよ」


 あたしはオオサカの首長補佐だ。首長であるトカゲのサポートが仕事だ。

 大地も海も空も汚れたこの世界で、それでも生き抜くため、あたしがそうやって成すことは、もしかしたらイガラシ首長の言ったような大志になるのだろうか。

 誰かのためにしているわけじゃない。もしかしたらトカゲのためかもしれないし、もちろんあたしのためでもあるが、世界をよりよくしようだとか、そんな大それたことは考えちゃいない。ただ、あの子たちが将来どんなふうに生きていくのか、それを見届けられるような世界になればいいと、つくづく思うのだ。


「はあ。オオサカに帰ったら仕事が溜まってるんだろうなあ」

「いっぱい用意してるで」

「してるなや。臨時の補佐はどうしたのよ」

「一夕一朝でジュリの代わりが務まるかよ。さ、まずは治水問題からだ。次の七連の会議で、シガにがつんと言ってやるぞ」

「原稿できてんの?」

「まだ。お願いジュリ、助けて」

「この男はほんまに……」


 そのとき、がくんと機体が揺れる。

 気流に巻きこまれたにしてはあまりに大きな振動。機体の傾きはいっそ旋回と言えた。突然のことに「なんやなんや」とトカゲが目を瞬かせる。


「大変です!」すると、運転席から声が上がった。「制御不能! ヘリが言うことを聞きません!」


 あたしとトカゲの「はい?」という声が重なる。

 オオサカへと向かっていたヘリは、急な旋回のあと、来た道を引き返していく。


「ちょ、なんでよ! そっちはトウキョウよ!?」

「わかりません! 機体が勝手に!」

「まさか故障か?」

「にしては動きが安定してる。いったいどうなってんの?」


 運転席からは焦る声と息遣い。どれだけ機械を叩いても、うんともすんとも言わないのだ。なんで急にこんなこと。

 あたしが瞠目していると、トカゲが「あ」と漏らした。

 ちょいちょいと上着の裾を引っ張られて、あたしは顔を上げる。

 トカゲはもう片方の手で、窓の外を指差していた。視線を遣ると、窓の向こう、快晴の上空に——彼らはいた。

 航空機にも劣らないジェットエンジン。ぎゅうぎゅうに犇めきあう五人の体さえも支えて、広い空を飛んでいる。フライトジャケットを着て、寒そうに首を竦ませる少年。かわいらしい水兵さんの格好をした少女。色違いの髪を持つ双子。そんな彼らをまとめて抱きかかえる、覆面を被った大柄な少年。

 度肝を抜くあたしに、彼らは手を振っていた。ヘリが彼らの隣を通過する間際、文字の書かれた一枚の画用紙を、みんなが掲げる。

 あたしは目を凝らした。


『これからも遊んでジュリー!』


 それはニィナの字だった。

 手も足も出ずに彼らを見送ったとき、その真ん丸な瞳が淡く発光していることに気がついた。神の悪戯。神がかりな御業は、彼らの仕業だ。悪戯なんて言うけれど、そんなかわいいものじゃない。悪戯の範疇を越えている。

 運転手もトカゲもぽかんとしていたが、ややあってから、トカゲは爆笑した。あたしはあたしで、笑いたいんだか怒りたいんだか自分でもわからなくて、口角が引き攣っていた。

 ややあってから、天秤が傾く。

 あたしは肩を震わせながら、怒声を張りあげる。


「こんの、クソガキぁああああ!」

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