第4話 きらきら光るエレメノピー

 その日の夜、あたしが出かけたのは、世話係シッターとしてではなく、オオサカ首長補佐としての仕事のためだ。

 出向したとはいえ、あたしの出所は紛うことなくオオサカだ。そもそもあたしが出向になった理由は、オオサカ・トウキョウ間の取引によるもので、空気清浄機との交換条件のためだ。

 あたしがこちらに差しだされたのと同様、トウキョウは空気清浄機二基をオオサカに差しだしている。オオサカはそれをもとに空気清浄機の製造を目論んでいるのだ。なので、空気清浄機を手に入れればそこまで、なんてことはなく、オオサカでも製造できるようにしなければならない。

 というわけで、『オオサカでの開発が行き詰った。現地の空気清浄機を見て、どんなふうに作動してんのか見てきてくれへんか~』とトカゲから連絡が入ったのだ。

 見てきてくれと言われても、マジであたしは見てくることしかできないぞ。機械の仕組みなんてものにはてんで疎いんだからな。

 とはいえ、なんの収穫もなしでは報告のし甲斐もないので、せめてその効果の立証のため、ゴローさんに頼んで手配してもらった空気汚染測定器を持ちながら、あちこちを測りまくっていた。どれだけ効果的かがわかれば現場の士気も上がるだろうという魂胆だ。

 ダイマオウイカの一件のときにも乗った、四輪駆動のオフロード車を乗り回し、あたしは一人でピッピと測りつづける。

 街灯もなく、車の灯りだけが頼りの走行は、どれだけ慣れても恐ろしいものがある。インパクトよりも前ならば、街灯だってなんだってあっただろうし、少なくとも月明かりを頼りにすることはできたはずだ。だが、現代の汚染された空ではそれも叶わない。分厚い雲のような汚染物質に遮られているため、昼だろうと夜だろうと関係なしに光を鈍らせる。太陽も月も星も見えないこの世界では、人工の灯りを失うってしまっては、生きていけないのだ。

 正直、早く帰って寝たい。あの子たちの寝静まったころに出かけたからまあまあの深夜だし。どうせ粗方は測ったんだから、最後にトウキョウ湾のほうまで寄って終わりにするか。

 そうしてあたしは車を走らせ——そのとき見た光景に、目を見開くことになる。


「……ほあっ」


 なんと、海に宇宙が広がっていた。






「あんたたち、夜中に抜けだしてドライブするわよ」


 食堂で昼食を終え、部屋に戻ろうとする道すがら、周りにあたしたち以外の誰もいないことを確認して、そう告げた。

 これにいい反応を示したのはニィナとミクロだ。ニィナは「えっ、冒険?」と身を乗りだし、生き物の尻尾のように自由な動きではしゃいだ。ミクロは「ドライブっつってんだろ」とツッコみつつも楽しそうで、ヨハクも控えめながら目を輝かせている。意外にもレーヨンも「する」と乗り気だった。

 一方、イチルは「ジュリちゃん?」と胡乱な目をあたしに向けていた。たぶんだが、〝夜中に抜けだして〟という言葉が引っかかったのだろう。あたしは宥めるようにイチルへ声をかける。


「まあまあ、そんな固いこと言わず」

「まだ言ってないけど」

「悪いようにはしないから。ちょっとついて来てよ」

「ジュリ賞くれる?」

「あ、おま、その名を出すなて」


 イチルのわざとらしい言葉に反応して、ニィナが「ジュリ賞!?」と目を剥いた。ニィナはあたしの腰にしがみついて「ねえねえ、ニィナもジュリ賞もらえるの?」と頬擦りをする。最近のニィナはジュリ賞をもらったイチルが羨ましくて仕方がないのだ。こうなったニィナを剥がすのは面倒だぞ。

 あたしはイチルを睨みつけたが、イチルはにこにこと微笑み返すだけだった。こいつ、意外と煽ってきよる。

 顕著なのはニィナだが、みんなの中でジュリ賞という言葉はブームとなっていた。日常の事あるごとに「これはジュリ賞」とか「ジュリ賞もらえないぞ」とか使うのだ。

 今回はヨハクが「いまのイチルの対応はジュリ賞」と嘲笑った。あたしは「やかましいねん」とツッコむ。


「とにかく、今日の夜、ドライブに行くわよ。しっかり厚着して一階に集合ね」

「まあいいけど……どこに行くの?」

「トウキョウ湾」

「なんでまた。ダイマオウイカが出たとか?」

「任務じゃないわ」あたしは笑う。「宇宙を見に行くの」


 いまや図鑑でしかお目にかかれないような、星座だとか天の川だとかのような、満天の星々を。

——真っ暗闇の中、極小の炎を散らしたかのように、光の飛沫が走っていた。夜にはあるまじき眩さで、海そのものが発光しているようにも見えた。あんなに神秘的で幻想的なものを見たことがない。波と潮風の冷たい音が響く世界で、あの輝きだけが熱烈だった。

 海に宇宙が広がっていた——というのも、トウキョウ湾の海には、青色に発光するホタルがいるのだ。

 昔は美しい川に棲む発光する虫をホタルと言い、海の蛍はウミホタルと言ったらしいが、いまや川のホタルは絶滅した。そのため、当時のウミホタルを、いまはホタルと呼ぶのだと、イガラシ首長から教わった。

 もちろん、水質が変わった海に、当時のウミホタルがそのまま生息しているわけではない。その環境に適応したなんらかの個体が生まれたのだろうと推測されており、その正体も明らかになっていない。

 しかし、そんなことはどうでもよかった。この絶景を、あの子たちに見せてあげたいと思った。そう思い、今夜、あたしは五人を浜辺まで連れてきたのだが。


「宇宙って言うから、もっと壮大なのを期待した」

「これの正体も所詮はプランクトンの一種だよ」

「ジュリちゃんって、けっこうロマンチストなんだね」


 宇宙って——と半ば白けた反応で、彼らは光る海を眺めるだけだった。ちなみに、順にミクロ、ヨハク、イチルの台詞せりふである。

 なんでやねん。もうちょっと楽しんでくれてもええやろ。

 五人ともこの絶景に対する感動は薄い。ミクロはフードを目深に被って「眩し……」と目を細めるし、ヨハクは「プランクトンの生態には興味があるけどさ」などとかわいげのないことを言う。寒がりなイチルは潮風に耐えきれなかったのか、ジャケットのポケットに両手を匿ったうえで、あたしを風除けにしていた。もっと景色を見ろ。ニィナだけは最初「わあ! きらきら!」と声を上げたが、いまはレーヨンと一緒に砂の城を作っている。景色を見ろて。

 ちなみに、今回は、ダイマオウイカと対峙したときのような埠頭ふとうではなく、ビーチだった浜辺まで来ている。なるべく近くで見たほうが喜ぶかな、と思ってのことだったが、まさかここまで彼らの関心が薄いとは。わざわざイガラシ首長に車を借りられないか直訴した——燃料の無駄遣いだと言われるかと思ったが、意外と快諾してくれた——うえで、ここまできたというのに。

 ミクロはあたしの持っていたバスケットを覗きこむ。この景色を見ながら食べようと思って作ってきた夜食だ。ミクロが「あ、サンドイッチだ」とこぼすと、「ニィナお腹いっぱい」という遠回しの拒否が返ってきた。傷口に強酸性の海水を揉みこまれて死にそうだ。


「くそ……せっかく作ってきたのに」

「えっ、ジュリの手作り?」顔色を変えたミクロは、遠慮もなしにサンドイッチの一つを啄んだ。「……ん? おいしい」


 ミクロの反応が意外だったのか、ヨハクが「嘘だあ」とこちらへ近づいてくる。イチルもあたしの背後から手を伸ばす。二人がサンドイッチを食べたのは同時のことだった。次の瞬間、あたしの前後で「うっま!」「なにこれ!」という声が響く。いくらなんでも驚きすぎである。


「どれだけあたし料理下手だと思われてたのよ」


 テンションの上がったヨハクたちの声を聞きつけて、ニィナも慌ててこちらへと駆け寄る。さっきまで満腹だと言っていたその口で、バスケットからサンドイッチを掠め取った。


「んんん~! ほんほにおいひぃ!」咀嚼を終えたニィナが、目をきらきらとさせる。「ジュリー、お料理上手! 料理人コックやってたの?」

「そんなわけあるか」

「いや、本当に。ジュリちゃんすごい。いままで食べたサンドイッチの中で一番おいしい」

「そんなわけあるか」


 まるでゴマでもられてるみたいな手の平返しだ。

 四人は——レーヨンは例のごとく「お腹すいてない」とのことだったので——むしゃむしゃとサンドイッチを頬張っている。

 星の海には目もくれず。こういうのなんて言うんだっけ。色気より食い気? 昔は〝花より団子〟という言葉があったとイガラシ首長から聞いたことがあるが、星よりサンドイッチとでも言うべきか。

 まあ、夜のピクニックを楽しんでくれているなら、それはそれでいいんだけども……。


「喜ぶと思たんやけどな」


 そんなあたしの呟きを聞きつけたのは、あたしを風除けにするために真後ろに潜んでいたイチルだった。


「……もしかして、ジュリちゃん、星が好きなの?」


 イチルの言葉に、あたしは「んー……」と唸る。


「好きというか、綺麗でしょ、きらきらしてて。夜空のエレメノピーってなんのことかわかんなかったけど、きっとこれのことを言うんだって思った」


 あたしがそう言うと、ニィナは「きらきらリトルスター 夜空のエレメノピー」と歌いだした。すると、輪唱が始まる。ヨハク、ミクロ、レーヨンと続いていく。あたしはそれを聞きながら言葉を続けた。


「オオサカじゃ見られない光景よ。観光名所になるわ。昨日の夜、たまたま見つけたんだけど、あたしメッチャびっくりしたもん」

「ああ、出かけてたよね、ジュリちゃん」

「げっ。出ていく音聞こえた? 起こしたくなかったんだけど」

「レーヨンも気づいてたよ。どこに行ってたかは知らないけどね。ドローン飛ばそうにも、あれ、夜は映像がだめだめで」

「追跡しようとすんな」あたしは呆れる。「元上司から仕事を頼まれて、それでちょっと出かけてたのよ。んで、たまたま海岸沿いを通ったら、海が光ってんの見えてね」

「俺たちにこれを見せようとしたってことは、ジュリちゃんはこれを見て喜んだってこと?」

「だって、こんなに綺麗なのよ?」あたしは星の海を眺める。「きらきらしたもの見ると、わくわくするじゃない。心が洗われて、楽しくて幸せな気分になるじゃない。イガラシ首長が言ってたんだけど、昔はプラネタリウムっていう、星を見るためだけの建物があったんだって。正直なんの意味があるのってそのときは思ったけど、あの雲の奥の星空がこんなに綺麗なら、そりゃあ、いつだって見られるようにしたいって、考えるわよね」


 この子たちにも見せてやりたいと思った。

 汚いものに溢れた世界で、こんなにも綺麗なものがあるんだって。


「……ふうん」


 イチルの返事は短かった。あんまり心に響かなかったようだ。イチルだけでなく、輪唱を終えたニィナもミクロもヨハクも、お互いに顔を見合わせている。そんなあからさまな〝こいつこんなこと言ってるけどお前らはどう思うよ〟って反応をするな。ちょっとくらいはあたしを気遣え。

 不服なあたしは、レーヨンに助けを求めることにした。


「どう? あんたは楽しい?」

「楽しい」

「本当に?」

「本当」

「具体的には」


 あたしの言葉に、イチルが「その切り返しはジュリちゃんの中でのブームなの?」と悴んだ声で言った。呂律も微妙に回っていない。寒さが限界に来ているのかもしれなかった。

 ただ、レーヨンははっきりと、考えるそぶりさえ見せずに、即答した。


「みんなやジュリさんと一緒にお出かけできて、楽しい」


 あたしは小さく笑った。

 想像とは違った反応だったが、楽しんでくれていたならよかった。


「……ていうか、レーヨンに初めて名前呼ばれたかも……あんた、あたしのことそんなふうに呼ぶのね……」

「ジュリさん」


 レーヨンが覆面越しに笑ったように見えた。

 それからしばらくして、イチルが「凍死する」と限界を向かえたので、あたしたちの夜のピクニックはそこでお開きになったのだった。






 その日は、午前中から猿山サルヤマで鬼ごっこをして、昼食を摂ってまた鬼ごっこ、というハードスケジュールから始まった。途中、小雨が降り出したので、部屋に戻ったのがついさっき。

 ちなみに、へとへとのあたし以外はまだまだ元気だ。

 ヨハクは『光増幅放射の実用』とかいうよくわからん強面こわもての本を読んでいて、イチルはドローンを飛ばして遊んでいるらしく、目を光らせているところだった。

 ニィナは自作の編みぐるみでおままごとに興じていた。あたしと自分の編みぐるみを携えて、「ニィナはかわいいわねぇ、大好きよ」「ニィナも大好きよ、ジュリー」とキャッキャしている。

 ミクロはボードゲームを持ち出して、レーヨンに対戦を挑んだ。他の三人も、二人の試合が白熱しているとわかるや否や、各々遊びを投げだして、その周りに集まった。

 あたしも近くでプレイを見ているが、ちっともルールがわからない。盤上にかわいい駒をひたすら並べて鑑賞しているようにしか見えないのだ。

 ミクロが長考の末、指人形の駒を動かす。間もなく、レーヨンが自陣の駒を進めた。なにがなんだかわからなかったが、イチルとミクロは二人揃って渋い顔をした。


「やられたね、さすがレーヨン」

「五手前の道化師ジョーカーが利いてる。銀の女王クイーンももうすぐで成駒かよ」

「金の女王クイーンはトレード済みだし、手元でばたついてる歩兵ポーンをどう進ませるかが鍵になりそう。真ん中のスペードを、レーヨンよりも先に取りたいところだな」


 真剣に悩んでいる二人の姿を横目に見ながら、「ずっと思ってたんですけど、これ、どういうルールなんですか?」とゴローさんに尋ねる。ゴローさんからは「僕にもなにがなにやら……」という苦笑いが返ってきた。

 ゴローさんはさきほどまで侍従職の面々とのミーティングがあったらしく、この皇居跡まで来ていたのだ。ついでのようにあたしたちのほうへ顔を覗かせてくれただけで、普段は連絡係としてしかこちらには訪れない。それでも、このボードゲームの様子は見慣れているようで、「またやってるんですね」という言葉はこぼしていた。


「ていうか、ゴローさん、まだルール覚えてなかったの?」イチルが顔を上げる。「俺たちとも何回か対戦してるから、てっきり理解してると思ってた」

「いやあ、実はあれ、適当に駒を動かしてるだけだから」

「だからか。いつもゴローはボロ負けしてんのに何故かゲームを進めてくるから、おかしいなって思ってたんだ」

「自分の駒全部取られてんのに、相手の駒を勝手にぶん盗って動かしまくるから、気でも狂ってんのかと」


 ゴローさんは「いやあ……」と困り顔で頭の後ろを撫でた。あたしにはゴローさんの気持ちがよくわかったので、深くはツッコまないでおいた。代わりに、ゴローさんに話しかける。


「今日はなにやら大事なお話があったようですね」

「ええ、実は面倒なことになりまして……薬座ヤクザの抗争です」


 あたしは驚いて「抗争?」と顔を顰める。

 あたしとゴローさんの会話を聞いたヨハクは、左右で色の違う目を瞬かせながら、「抗争って?」とゴローさんに尋ねた。


「親元から枝分かれした組織同士がホトケユリの利権を巡って対立したようです。おかげで、生薬の製造は一時ストップ。トウキョウの各所で抗争が起こってます」


 またもや知識不足というか、事態の把握に困る対話が、あたしの目の前で繰り広げられた。

 あたしは「あのう、」とおそるおそる手を挙げた。申し訳なさと、純粋な疲れとで、それはあまりに力ない挙手となる。


「トウキョウの薬座ヤクザって枝分かれしてるんですか?」

「ああ。七連の薬座ヤクザとはまた違う形態ですよね」ゴローさんが気づいたように言った。「七連の薬座ヤクザは、ヒョウゴによる巨大な一個の完全組織でしたっけ。ヒョウゴの山地だけでなく、キョウトやシガの山地も管轄していると聞きました」


 ヒョウゴの薬座ヤクザは実に巨大で、その勢力をヒョウゴ外にも伸ばしている。と言っても、ヒョウゴがキョウトやシガを侵略したという話ではなく、純粋な管理権移譲だ。山地が地続きになっていることから、いっそヒョウゴで管轄したほうが都合がいいという話である。

 その代わりに、キョウトは七連の服飾や紡績、製品加工の多くを担当しており、シガは水瓶の管理に専念できるのだ。


「ワカヤマやナラの薬座ヤクザはまた別の話にはなりますが……ヒョウゴが大きく管理し、エリアごとで担当長がいる感じでしょうか。あくまで系列は同じ薬座ヤクザです」

「トウキョウは所持している山が限られています。そこを管理していたたった一つの薬座ヤクザが親元にはなるのですが、利権を巡って完全に分派しています。元々、大量の滓玻璃金おりはりきんと数種の植物が自生するだけの山ですが……幾度とない政権交代の煽りで、組織の結束も不安定になり、枝分かれしました。小さな薬座ヤクザを大量に抱えている状況です。親元の薬座ヤクザの長はわりと静観するタイプのようで、特に取り締まることもありません」


 ヒョウゴであの巨大な薬座ヤクザが機能できたのは、特殊な植物の発生した山々を多く保持していたことが大きい。

 列島連邦の各地で採掘される滓玻璃金だけでなく、自白剤のもとになるイワヌガハナの群生や、絹糸のような繊維を出すナガマキギヌなどにも恵まれた。

 取り合いになるほどの人員がいないのに、植物だけが溢れかえっているのだ。むしろ管理のほうに四苦八苦している。


「ジュリのほうの薬座ヤクザは対立とかしねえの?」


 盤上から視線を上げたミクロが、あたしへと振り返って尋ねた。


「うーん。衝突が完全にないかと聞かれたら、そうでもないけど……基本的には平穏かしら。七連は、互いが互いに生命線みたいなもんだから、喧嘩なんてしたら全員で死ぬのよね」

「ずぶずぶの平和協定ってわけか」

「どこの薬座ヤクザもうちみたいに争ってるもんだと思ってた。イガラシの反対勢力はごろごろ出てくるわ、次から次へと問題は起こるわ……よっぽどトウキョウって自治能力ねえのかよ」

「いやあ、こっちが無問題ノーマンタイってわけでもないわよ」あたしは苦笑する。「水瓶の治水についてはいまだに七連間でも揉めてるし、食人木であるヒトクイボダイジュの対処については逆に押しつけあいになってる。生活が安定してるぶん、ゴミの排出も多いから、その処理のために環境悪化が著しいし、駆除剤を克服した新種の玉蟲蜚蠊タマムシゴキブリも出てきててんやわんやよ。トカゲも他の首長も頭を抱えてるわ」


 トウキョウはたしかに治安が悪いが、空気清浄機の活用により、地上を漂う汚染物質はほとんど除去されている。ガスマスクがなくとも生活できるのはトウキョウだけだ。


「問題の中身が違うだけで、実際はどこも大変でしょうね」


 爆心期を乗り越えたとはいえ、列島連邦の各地で、問題は山積みなのだ。地上の楽園と噂されるホッカイドウも、実際には大なり小なりの問題を抱えているのだろう。

 話を戻す。


「今回の抗争の原因となっているのはホトケユリでしたっけ」

「はい。生薬として流通させているので、トウキョウの外ではホトケ百合ビャクゴウという名のほうが、聞き馴染みがあるかもしれませんね」

「鎮静剤……風邪薬として利用されているものですね。正しく利用される前までは死人が出ていたころから、その名前になったとか」

「鱗茎は生薬となるけど、葉や花弁は強い毒性があるからね」説明を引き継いだのはヨハクだった。「この前、落伍社がミクロに撃った毒矢もホトケユリの毒だよ。また、花の蜜にも幻覚作用があって、強い依存性も見られることから、中毒に陥る危険性もあるんだとか」

「いいようにも悪いようにも使える植物ですね」ゴローさんが話をまとめる。「その旨味を巡って、薬座ヤクザ同士が抗争している、ということです。ホトケ百合ビャクゴウの生産はトウキョウ事業の一つでもあるので、かなりの大打撃ですよ。加えて、ホトケ百合ビャクゴウはここの医務室でも使われているものでしたので……代わりの薬剤をどうするか、相談していたんですよ」


 ふむふむ。なるほど、そういうことね。ゴローさんはいろいろなところに気を回さなくちゃいけなくて大変だな。首長補佐となれば、イガラシ首長から、五人の身の回りのことを委ねられているだろうし、対処すべきことは山ほどある。


「別にそんなのなくてもいいじゃん」


 と、ゴローさんの気遣いを踏みにじるようなことを言ってのけたのはミクロだ。自陣の駒を動かしながら、あっけらかんと告げた。


「どうせ俺たちは怪我なんてしねえし病気にもならねえ」


 そりゃそうだけどさ。

 ゴローさんが「そうも行ってられませんよ。ここには君たちだけでなく、ジュリさんだっていらっしゃるんですよ」と言うのにも、ミクロは「ジュリは俺たちが守るから大丈夫」と突っ返す。

 不覚にもかわいいと思ってしまったが、かわいさ余って生意気が五千倍くらいはあった。


「あほんだらあ。ここだけじゃなくって、どこもかしこもホトケ百合ビャクゴウが不足してるってことでしょうが」あたしは声を低くする。「こんな至れり尽くせりな環境でぬくぬくとしてるあたしたちより、よっぽど困ってる人間がトウキョウのそこかしこにいんのよ」


 あたしは呆れ交じりにそう言ったのだが、ミクロはその言葉を真に受けたらしく、「じゃあ、頭使うけど、」とその身ごと盤上からこちらへ向けた。


ホトケ百合ビャクゴウが風邪薬として有用なのは、成分として含まれるステロイドサポニンの変異体が作用してるからだと思うんだよな。俺たちの持ってるは爆心期より前のデータだから、確証はないんだけど……同じ成分を持つ植物、たとえばリュウノヒゲも同じように変異していると仮定して、ホトケ百合ビャクゴウの類似品、もしくは麦門冬バクモンドウに近い生薬が作れるんじゃないかなって思う」

「……そのリュウノヒゲって植物を、ホトケユリの代わりに使おうってことよね? 見つけられそうなの?」

「元々はこの列島のあちこちに分布してる植物だから、探せば見つかるかも」話を引き継いだのはヨハクだ。「でも、リュウノヒゲがインパクトを生き延びてるかはわかんないし、適応のために見た目が変わってたら識別もできない。もしそうなら詰みだね。むつもりがんでるってわけだ」

「そもそも、植物にはコネクトできないから、探すとなるとマジの手探りだろうぜ。俺たち五人で手分けしても時間はかかるだろうな。レーヨン、俺たち一人当たりの仕事量とこの列島の植物系の生体反応とを照らし合わせて、およそどれくらいの時間がかかるのか、計算できたりするか?」

「不可能」

「てことは、行き当たりばったりになりそうだな。爆心期より前と後とじゃあ島の地形も変わってるし、俺らの脳内マップにも限界がある」

「ニィナたち、お花も探して、鬼ごっこもするの? お昼寝できる?」

「これだけは断言できるよ。できない」


 長期的に見据えることは考慮すべきだが、現実的な解決策ではない、と……ミクロの提案には舌を巻いたので、残念な気持ちはあった。


「……大本の問題は、薬座ヤクザ同士の対立だよね」イチルはおもむろに口を開いた。「ホトケ百合ビャクゴウを作ること以外でホトケユリを加工できたら、そのあたりの利権問題も少しは落ち着くんじゃないの? 蜜や花弁の利用は禁止されてるけど、その法を変えちゃえばよくない? 悪用がだめなだけで利用は大丈夫でしょ。部位ごとに権利を分ければ薬座ヤクザだって納得するはずだよ」

「自警団との連携が取りづらい現状、利用そのものを禁止するほうが対処しやすいんですよね」

「その自警団も、公式の組織として認可すればいいのに。首長会議のたびに警視庁本部跡のヘリポートを活用してるわけだし、いよいよそこを本部にして、各所の自警団を統括するとか」

「そもそも、全ての自警団を把握し統括できるか、という問題もあるんです。前時代ならともかく、現在のデータベースは書類によるものですからね。整理も大変です。また、警視庁本部跡の改修にも費用が嵩みます。とてもじゃないですがトウキョウの財政では……」


 イチルの案は次々と却下されていく。

 こちらも、悪くない案だとは思うのだが、現実的でないのもたしかだった。

 というより、ゴローさんの持ち寄った問題は、一朝一夕で解決できるようなものではないのだ。

 たとえば、力尽くで抗争そのものを止めたところで、薬座ヤクザの抗争の原因であるホトケユリの扱いについて取り持たなければ、対立は続くだけだ。全部が丸く収まるまでは、ホトケ百合ビャクゴウの再生産もできないだろう。

 枝分かれした薬座ヤクザ間の抗争を止め、その仲を取り持ち、ホトケ百合ビャクゴウの再生産を促す——いくらなんでも、この子たちの解決力の範疇を超えている。それこそ、首長が時間をかけて捌くような仕事だ。


「チルドレンの貴重なご意見、感謝します。この件については、今後も議論していく予定なので、進捗があればまたご報告いたしますね」


 そこであたしは、自分が大きな誤解をしていることに気づいた。

 これはあくまで首長や首長補佐の議題であって、チルドレンを出動させる問題ではない。諍いの解決なんて、この子たちに任せるような仕事ではないのだ。この話はあくまでゴローさんの愚痴というか、情報共有というか。とにかく、解決策を求めてあたしやチルドレンに話したものではなかった。

 そりゃあそうだとは思うのだが、ここまで真剣に考えただけに、なんだか肩透かしを食らったような気分になる。


「天気雨ですね」


 ゴローさんは窓の外を見て、そう言った。

 あたしも窓の外へと視線を移す。

 音も立てないような小粒の雨が、窓に貼りついていた。空は黄ばんだ煤煙も溶けてゆくような、まばゆい鼠色だ。太陽の輪郭は見えず、西のほうに薄っすらと明るいなにかが浮かんでいるような気がするだけだ。光も影も溶けていて、のっぺりとした世界。


「もしかしたら、明日は雨が降るのかも……チルドレン、申し訳ないのですが、また三時間ほどをしていただけますか? 明日の稼働効率が下がることを見越して、エネルギーを貯蓄しておきたいんです」


 ニィナとヨハクが「はあい」と溶けたような返事をする。ややあって、空の上でアルミをひっくり返したような遠い音が鳴った。


「……雷?」


 ミクロがおもむろにこぼすと、五人は窓の前に集まり、「どっかで落ちたのかもね」「ぴかってなった?」「見えない」と様子を伺う。

 雷の光が気になるのだろうか。ピカピカ光るのが好きなんていかにも子供っぽいが、ウミホタルのきらきらにも感動しなかった彼らが、そんなものに心を奪われるのだろうか。星よりも雷のほうがかっこいいってこと?

 あたしが腑に落ちないで眺めていると、ゴローさんがすぐそばまで来ていた。


「無邪気ですよね、いつの時代の子も、雷には目がないのでしょう」

「はあ……そうなのかもしれませんね」

「今日はまだ穏やかなのでそのもありませんが、ひどい雷雨の日なんて、雷の様子を見に行く、と言って外へ飛びだしてしまうんですよ」


 無邪気というか無鉄砲というか。

 どんな雨でも怖くないからこそできてしまえることだ。

 案の定、彼らは「早く外行こうぜ!」とこの部屋を出て行ってしまう。苦笑するゴローさんも、その後を追うようにして部屋を出た。部屋にはあたしとレーヨンだけが残る。


「レーヨンは遊びに行かないの?」

「行かない」


 レーヨンは簡潔に答えた。相変わらず、淡々とした抑揚のない声。

 彼は雨の日は外に出ない。今日も、ほんの小雨とはいえ降っているから、そのためだろう。

 いや、チルドレンの感覚がバグっているだけで、本来は雨の日に出かけないものだ。あたしがオオサカにいたころなどは、雨が降ればロックダウンになるほどだった。


「じゃあ、レーヨンはあたしと遊ぼっか」あたしはボードゲームを指差した。「せっかくだし、あれのルール、教えてくんない? あたしも未だにルールをよくわかってないのよね」


 レーヨンはこくんと静かに頷いた。

 一本足の円卓を挟んで向かい合わせに座る。典雅な椅子は座り心地がよく、お尻も太股も深く沈んだ。レーヨンは盤上の駒を初期位置へと整えながら、あたしに説明をしてくれる。


隕石落下メテオインパクト前の時代にオーソドックスな遊戯だった、チェスと将棋とリバーシの要素を融合したゲームで、ルールもある程度は踏襲してる。王様キングを取られたら負け。相手の駒を奪って自分の駒にできる。特定の駒で挟んだ相手の駒も自分の駒にできる」

「ふーん。そう言われるとイメージはしやすいわね」

「ただ、トランプのスートを模したマテリアルがあって、それらは初め、プレイヤーの駒ではない」

「覚えてる。真ん中に並んでる四つの駒でしょ」

「それぞれスペード聖杯ハートクラブ護符ダイヤと呼ばれている駒で、奪取した者に有用なマテリアルになる。たとえば、聖杯ハートを携えた駒は、一ターンだけ相手の攻撃を無効にできる」


 一つ一つの駒の持つ動き、意味を教えてもらえば、あたしの脳みそはぱんぱんに詰めこんだトランクみたいになった。ちょっとでも突つけば今にも弾け飛びそう。デザインのてんでバラバラな駒を覚えなくちゃいけないのがまた厄介なのだ。耳も目も滑りそうだった。


「あんたらよくこんな複雑なの覚えられるわね」

「うん。覚えられる」

「これは誰が考えたゲームなの?」

「みんなで。最初はチェスとして遊んでたけど、将棋のルールを混ぜたら面白そうだからって。それからリバーシ。そのあとはトランプ」

「へえ。じゃあ、チェスとかの遊びは誰に教わったの?」

「はじめから知ってた」

「生まれたときから?」

日を生まれた日とするなら」


 あたしは一瞬間だけ怯んだ。なんとなく、踏みこんではいいのかな、と尻込みしたのだ。しかし、当の本人であるレーヨンからはなんの感情も見られなくて、あたしはさらに問いかけることにした。


「……レーヨンは自分がどうやって生まれたか知ってるの?」


 チルドレンは、十年と十ヶ月をカプセルの中ですごし、荒廃していく世界に適応できる人体へと培養されるらしい。カプセルから出た日を出産日としているが、実際には、彼らの生命は、その目覚めよりもずっと前から誕生していた。


「どうやって」レーヨンは復唱した。「知識として? 記憶として?」

「どちらでもかまわないけど……」

「記憶としてなら、ジュリさんに言えることはあんまりない。培養液の中にいるときの意識は曖昧だから。イチルも僕と同じことを言っていたから、チルドレンの生成上、そういうものなんだろう。知識としては十全だ。宇宙の実験施設によって、ある科学者たちにより生みだされたのがチルドレン」


 そういうことを聞きたいのではなかったが、これ以上どうやって聞きだせばよいかわからなくって、あたしは押し黙った。

 レーヨンを傷つけたいわけではないし、傷つくかもわからないし、それどころか、レーヨン自身がどのように自覚しているかもわからない。

 しかし、レーヨンは聡かった。彼もやはりチルドレンだった。あたしの言いたいことを言外から拾いあげて、的確に突いた。


「もしくは、僕の身体のこと?」


 あたしはかすかに怯んだ。その反応を見て、レーヨンは確信を得たらしく、「そう」と返す。相変わらず淡々とした声。乱れも揺らぎもない、調律の取れた声。きっとこの言葉が似合うのだろう。機械的。


「これも、記憶ではなく、知識として知っている。僕はニィナたちと同じように生命として生まれたんだけど、そのときはずいぶんと体が弱かったみたいで、出産までの十年と十ヶ月を耐えきるのは不可能とされていた。しかし、科学者たちは数少ない被検体であり大事な原材となる胎児を廃棄したくはなかった。だから、その身体よりもよっぽど丈夫な身体を作って、それに脳を移したんだって」


 レーヨンは、その顔を被っていた覆面をゆっくりと外す。

 つるりとした陶器のような表皮を持つ、骸骨のような右半分。眼窩には人形の瞳のような眼球がきっちりと嵌めこまれていて、鏡のようにあたしの顔が映っている。左半分は透明の表皮で、奥に走る微細で難解な回路や部品までもが丸見えになっていた。左目と思わしき位置に、青白い電灯のようなものがあって、覆面の奥で光っていたのはこの目だと気づいた。


「僕の身体は作り物」


 マスクでもしているみたいに、レーヨンの口元には真っ黒な機器が貼りついている。それはどうやらスピーカーのようで、いつも聞いている無機質な声が滔々と流れた。

 これじゃあなにも食べられないよなあ、とあたしはぼんやり思った。

 食事だけじゃない。レーヨンがあくびやくしゃみをしないことに気づいたのは、いつだっただろうか。十二歳のこの子が筋肉とはまるで違う硬さを持つことに気づいたのは、子供とは思えないような体重をしていることに気づいたのは、人肌とは思えないくらいに冷たいことに気づいたのは。

 もしかしたら人間でないかも、なんて、そんなおかしなことを考えるようになって、しかし、あたしのその考えが、当たらずとはいえ遠からずであることを知る。


「脳の一部を除いて、僕の身体は機械でできてる。機械義体サイボーグだよ」






 雷がやんで少ししたころにレインコートを羽織ったミクロが帰ってきた。イチルたちと鬼ごっこをしていないのかと聞くよりも先に、ずぶ濡れになったレインコートを脱いで、「んじゃ、行ってくる」と言ってもう一度出かけて行った。

 猿山サルヤマからは雨の打つ音とは別に、木々の折れていく音もする。強酸性の雨に打ちのめされて、弱いところから朽ちてしまうためだ。きっかり三時間を経て、四人は鬼ごっこから戻ってきた。肌のあちこちを赤くしながら「あったかいお風呂に入りたい」「でも沁みそう」「凍死する」「火火火!」と喚いていた。

 あたしはその日、はじめて、晩ごはんを食べなかった。なにをするでもなく自室に閉じこもって、ベッドの上でぼんやりとしていた。窓を打つ雨を感じながら、レーヨンのことを思い出す。

 レーヨンの身体は機械でできている。

 前から体が弱くて、整備された宇宙空間どころか、汚染された地球上では、とてもじゃないが生きてはゆけなかった。しかし、実験施設において、チルドレンを生みだすための細胞には、精子や卵子には、限りがある。何一つとして無駄にはできない。だから、科学者たちは叡智を結集させ、レーヨンの魂を宿すための強靭な義体を作った。

 でも、人工でない部位が脳だけなんて、人間といえるのだろうか。

 レーヨンには心臓がない。血は通っていないし、酸素だって必要ない。食事もしなければ排泄だってしない。消化器官がない。首から下の臓器が一つも残っていない。

 唯一残された彼の一部と言えるその脳ですら、チルドレンは改造された状態なのだ。かつての最先端技術によって開発された最高の知能。まさに、人工知能。レーヨンに限っては記憶どころか思考すらも、ただのデータなのかもしれない。だとしたら、それは機械義体でなく、機械擬態だ。

 どうしてあの四人がレーヨンを雨や水から遠ざけたがるのか、やっとわかった。

 人体であるかぎり自然治癒のできる四人とは違い、レーヨンは壊れたら修理できない。

 レーヨンの身体を構成する材料も、知識も、技術も、きっとこの地球上には存在しないのだ。

 イチルがあれだけ追いつめられていたのにも、本当の意味で理解した。

 チルドレンの消費期限。大人になるのが先か、体内機械が壊れるのが先か。

 もしその日が来たとき、真っ先に壊れるのはおそらくレーヨンで、そして、それはレーヨンにとって、きっと死を意味する。ガラクタとして捨てられる。チルドレンとしての利用価値がないから。

 いつかこの世界をきらきらと照らす光となりますように——未来が絶望に塗り潰されてゆく時代に、人類の期待を一身に受け、その命を望まれたのが、あの五人だった。

 あたしは思わず口元を手で押さえた。吐き気があるわけではないのに、そうせずにはいられなかった。お腹の中に泥水が溜まったような最低な気分だ。そういう病気だと言われたら絶対に信じる。この気持ちに名前をつけることができない。

——こんなの、ただの偶像だ。

 チルドレンは、人類のためにと望まれた。機械だか人間だかも知れないようなありさまにしてまで、希望の光となるように、先人たちによって作りあげられた。求められたから生まれて、望まれたから生きている。

 チルドレンである部分にしか利用価値がないのではない。

 チルドレンであることこそが存在価値なのだ。

 だから、あの子たちは、今日のように誰もがひきこもる雨の日であっても、外へと出かけて鬼ごっこをする。電力を供給しないといけないから。元気に遊ぶのは、チルドレンの権利ではなく、義務だから。

 あんなに小さな体に、途方途轍もないものが押しつけられているように思えて、あたしはぞっとした。


「……ジュリ?」


 扉のほうから声が聞こえたので、あたしは顔を上げる。

 ミクロの声だった。

 珍しい。ミクロがあたしの部屋を尋ねてくるなんて。しかも、ちゃんとあたしからの了承を待ってるなんて。あたしは「どうしたの」と尋ね返す。間も置かずに「ごはんは?」と返ってきた。どうやら心配をかけてしまったらしい。


「ちょっと気分が悪くて……ゆっくりしたかったんだ」

「大丈夫かよ? 一応、ジュリのごはん、持ってきたんだけど」

「ありがとう。扉の前に置いといて」


 あたしがそう言うと、沈黙が返ってくる。床に置いてくれているのだろうと思っていたのだが、ややあって、カチャリと扉が開いた。

 食事の乗ったお盆を両手で持ったミクロが、器用にも部屋の扉を開けて中に入ってきたので、あたしは思わず「なんでやねん」とツッコんだ。

 ちなみに、ミクロは後ろ足で蹴って部屋の扉を閉めていた。行儀は悪いが鮮やかな手つき、いや、足つきだった。


「ジュリ、病気?」

「ちゃうちゃう」

「毛布いる? お願いしてストーブつけてもらう?」

「そんな大袈裟な」

「でも変だろ。ごはんいらないなんて」

「一食抜いたくらいでなに言ってんの」


 毎食抜いているレーヨンじゃあるまいし——そう思っただけで、決して口には出さなかった。自分でも失言だと、すぐに気づいてしまったからだ。それなのに、ミクロは気づいた。


「ジュリの脈拍と体温が変になった」

「え、こっわ……そんなの見てんの?」

「顔色もよくない。そういえば、昼間に俺が帰ってきたときには、ジュリの様子ちょっとおかしかったよな」お盆を適当な場所へ置き、あたしのもとへと近づいた。「ジュリはレーヨンと一緒にいたみたいだけど、レーヨン関係?」

「悟りよる」

「もしかして、レーヨンの身体のこと?」


 直球な質問だったが、この子たちはきっと全部知っているはずだから、あたしは素直に頷いた。


「なに? びっくりしちゃったってこと? レーヨンのことなんていまさらじゃん、むしろジュリは気づいてなかったのかよ」

「や、もしかしたらそうなのかなあ、くらいは思ってたわよ。本人から顔を見せてもらったのが今日だっただけで……」

「レーヨンは顔を見られるのを嫌がるんだよ。俺は銀色でカッコイイと思うんだけど、レーヨンは左右非対称なのがコンプレックスなんだってさ。左目が二重で右目は奥二重なジュリ的にはどう?」

「やかましいわ」


 ミクロはレーヨンの身体が機械であることをずっと知っていて、しかし、レーヨンが一人の人間であるようにあたしに語る。なんとも言えない気持ちになった。

 すると、ミクロが「あ、」とこぼした。


「ジュリが悩んでるのは、人間の定義と、レーヨンがそれに当てはまるかどうか、って話?」


 ガキ大将なイメージの強いミクロだが、やっぱり頭は回るんだよなあ、とあたしはしみじみ思った。知識を好むヨハクよりも理屈っぽいところがあるし、五人の中で一番試行錯誤が上手なのがミクロだ。察しのよさは、イチルに勝るとも劣らない。


「アンドロイドは人権を獲得できるか、ってのと似たものがあるよな。あくまでも似て非なるものだと俺は思うけどさ」

「あんたがずけずけ言ってくれるおかげであたしもしゃべりやすくなったけど、まあ、そういうことよ。身体のほとんどが機械でできていて、脳みそだって手を入れられていて、だから怖いとか、そういうことじゃないんだけど……」


 レーヨンが怖いわけではない。そうではなくて、そうまでして生かされた彼の宿命が、彼を生かしたその意志が恐ろしいのだ。

 だが、慎重に言葉を選ばないと、生かすべきではなかったとか、死んだほうがよかったとか、レーヨン自身を否定するような言葉になりそうで、そんなことを言いたいわけじゃなかったから、あたしはしばし詰まった。


「……あー、やっぱ、上手く言えないわ。ただ、レーヨンとの接しかたがわかんなくなっちゃったのよね」


 可哀想だなんて言って憐れみたくはない。レーヨンが自分の身体のことをどう思っているかもよくわかっていない。もっとちゃんと話せばよかったのに、あまりの衝撃にあたしは言葉を失ってしまった。

 そもそも、レーヨンとの対話は会話ではなかった。思い返せば、いつも、レーヨンは尋ねたことにしか返してはくれない。それこそ、演算から弾きだされた最適解を音として発信するように、レーヨンは言葉を紡ぐ。その心理を感じとれたことなんて一度もなかった。


「でも……人間らしいなって思うこともあるのよ。この前、夜中に宇宙を見に行ったとき、みんなと一緒にお出かけできて楽しい、ってレーヨンが言ったじゃない? あれ、あたし、めちゃくちゃ嬉しかったのよね。レーヨンが本当に喜んでくれたんだって思えて」


 けれど、それさえも、レーヨンが演算した台詞だとしたら。レーヨンには心も命もあってほしいと考えるあたしが、都合のいいように捉えただけの言葉だとしたら。

 ミクロは純粋にあたしに尋ねる。


「それが、レーヨンが本心で言った言葉だって、思わないの?」

「思いたいけど……あたしは、それを、押しつけたくない」


 これ以上この子たちに、大人の考えを押しつけるべきじゃない。レーヨンのありかたすら、チルドレンの存在すら、大人たちが望んだものでしかないのだ。あたしはそれに気づいてしまったから、せめて、そういうふうに扱いたくない。


「……ミクロや他の子たちは、レーヨンについてどう思ってるの?」

「どうって。レーヨンはレーヨンだしなあ」

「そりゃあそうだけど……」


 そうやって当たり前のように受け入れられるミクロをすごいと思う。

 無意識のうちに相手を尊重して、ただそばにいる。

 この子たちは、気遣うことも譲りあうことも苦手なくせに、身を寄せあうことは抜群に上手だ。


「本来、人間にあるはずの器官がないこととか、人間にはないはずの機械があることとかは、あんま関係ねえよ。俺たちはレーヨンの言ったことを信じたい」ミクロは続ける。「たとえばだけど、ごはんを食べるか聞いたら、あいつは〝お腹すいてない〟って答えるんだ。食べられない、とか、いらない、じゃなくて。だから、俺たちも、お腹がすいてないなら食べなくていい、って思ってる。無理して食べなくても、レーヨンのお腹がすいたときに食べればいいんだよ」

「…………」

「それに、レーヨンの全部が作り物だとは思わない。その証拠に、俺たちはレーヨンにはコネクトできないんだ。レーヨンが創造物でない証拠だ。あいつにはなにかを考える脳やなにかを思う心があって、魂と人権のある人間として、この世界で産まれたんだ」


 先人たちからなにをどう望まれたとて、レーヨンは、この世界で産まれ、そして生きている、生身の人間だ。

 生身でなくとも、等身大の人間だ。

 泥遊びも鬼ごっこも好きで、ボードゲームが得意で、泳ぐのが苦手で、だけど、そんなたくさんの遊びよりも、みんなでいることが大好きな、まだ幼い男の子だ。

 レーヨンだけじゃない。チルドレンはみんなそうなのだ。誰にどう望まれたとて、人類の希望あるいは禁忌培養児タブーと囁かれたとて、一人の人間としてこの世界に産まれ、あどけない命として生きている。

 目の前の少年がそう証明してくれたのだと思えば、あたしの口からふと漏れた。


「なんでミクロはニィナが好きなの?」


 漏れた瞬間、失敗だと思った。きっとミクロは「好きじゃねえよ!」とか「うるせえ!」とか言いながら怒ってしまう。からかいたかったわけでも、ましてや怒らせたかったわけでもなくって、もっと純粋な質問だったのに、あたしが茶化したみたいになってしまう。

 そう危惧したのだが……意外にもミクロが騒ぎたてることはなかった。

 雨が降ったあとのように、雲が晴れる直前のように静かだった。

 あたしはミクロの顔をじっと見つめる。

 ミクロはじわじわと顔を真っ赤にさせて、握りしめた両手で顔を隠した。恥ずかしがりながらも掠れた声で、ミクロは弱々しく答えた。


「目が綺麗でかわいいから」


 じゅわっと血色の滲む耳から火が吹きでそうなほど、ミクロは真剣で、心からそう思っているはずで——だからこそ、等身大の人間が、あどけない命として生きているのがわかって、あたしは息を漏らす。


「……ふ」

「な……なんだよ」

「っふふふ、ふあは、はは、あははははっ!」

「そ、そんなに、笑うことかっ?」

「いやあ」愛おしくて頬が緩んだ。「ほぉーんま、あほやなあ」


 と言われてショックを受けたミクロがさらにかわいく思えて、あたしはフードに覆われたその頭を撫でる。

 どれだけ聡くて賢くても、ミクロはまだ十一歳の男の子だ。出産されてからと考えると、人生三年目。目が真っ青で綺麗だから、かわいいからっていう理由だけで、女の子を好きになる。そのいじらしい気持ちが尊くて愛らしい。捏ねくり回したいくらいだ。

 本当に、まだ子供なのだ。純真で、なにも知らなくて。仕事をする大人の邪魔はするし、遊びと暴力の違いをわかっていないし、相手の気持ちを考えずに無神経なことを言ってしまいもする。でも、素直だから褒められたら嬉しそうにするし、真面目だから仕事はきちんとこなすし、無邪気だから相手を悩ませてやろうなんて悪意はない。

 みんなの邪魔をしちゃいけないとか、痛がることをしちゃだめだとか、傷つける言葉を言わないだとか、そういうことを、世話係シッターとして、大人として、この子たちに教えてあげなくちゃいけないのだ。

 自分たちはなんのために生まれたのかだとか、なにをすべきかだとか、そういうことはきっとどうでもいい。

 だってこの子たちはまだなんにも知らない子供なんだから。

 ミクロはされるがままだったが、あたしが「あほあほ」と歌うように言うと、「悪いかよ!」とやっと嚙みついた。そのとき、あたしのお腹から、ゴム風船の空気を絞りきるような音が響く。気が抜けたせいで、お腹がすいてきた。


「みんなはまだ食べてる?」

「ニィナとヨハクが豆と格闘してるのに、イチルが付き合ってる」


 持ってきてくれたお盆を持って、あたしとミクロが食堂へ向うと、ニィナとヨハクが「もうやだあ」「菽穀類しゅこくるいの死に損ないのくせに」「緑と茶色の悪魔」「悪霊退散」と生意気な感じでぶうたれていた。

 イチルは手を焼きながらも笑っていて、その隣には意外にもレーヨンがいた。レーヨンは目を青白く光らせているだけで、食事に参加しているわけではないようだった。

 すると、レーヨンが「あ、」と漏らす。


「コネクトした」


 レーヨンの言葉に、子供たちが一様に、ぱあっと顔を輝かせた。






「やっとコネクトできるのが見つかったんだ!」


 ヨハクは見たことないくらい嬉しそうな顔をしていた。ニィナと顔を見合わせて、こうしちゃいられないとばかりに、あれだけ嫌がっていた豆をもぐもぐと口の中に詰めこむ。ニィナと一緒にうげえうげえと苦い顔をしながらも、勢いよく飲みこんでいった。


「よく見つけたな、レーヨン」あたしの隣にいたミクロがレーヨンへ駆け寄る。「どこにあったんだ?」

「軍港」

「嘘だろ。海水に耐えた船があったのか?」

「船じゃなくて、空軍の戦闘機。けっこうあった。もう飛ばしてる」

「さすが、仕事が速い」イチルはあたしを振り返る。「ジュリちゃんもちょうどいるし、今夜、やっちゃう?」


 再びみんなが顔を輝かせる。

 レーヨンまでぱっと明るくなった気がした——と思ったが、気のせいではなかった。

 レーヨンの瞳がひときわ強く青白んでいる。

 あたしは逆に顔を青白くさせた。


「ちょっとちょっと、不穏な言葉が飛び交いすぎたんだけど、あんたらなんか悪巧みしてんじゃないでしょうね?」

「悪巧みだって」

「失礼しちゃう」

「俺たちはジュリの真似をしてるだけなのにな」


 こんなときばっかり気の合う三人——ヨハク、ニィナ、ミクロだ——は、おすまし顔でいた。あたしの手にあったトレイを掻っ攫い、どこからともなく用意したバスケットに詰めなおしている。

 ていうか本当にどこから用意したんだ。嘘みたいに早い動作である。

 あたしは飄々としているイチルを眇める。


「あたしの真似って、どういうことよ?」

「宇宙を見に行くんだよ」


 へ、とあたしが漏らしたとき、レーヨンがあたしのほうに近づいてきた。覆面越しの瞳が、あたしをじっと見つめては瞬いている。

 レーヨンはあたしの脇に腕を通したかと思えば、ひょいと脚まで持って、あたしの身体を抱きあげた。


「捕まってて」


 言うが早いか、レーヨンはその場をと離脱した。

 世界が一気に後ろへ流れていく。超人的で爆発的なスピード。あたしを抱えたまま、レーヨンは狂ったように駆け走った。

 そういえば、はじめて会ったときも、ニィナを引きずったまま、とんでもない速度で移動してったんだっけな。そんな遠い感想さえも踏み砕いていくように、レーヨンは皇居から飛びだしたのだった。

 元気よく「びゃーっ!!」なんて叫べたのは最初だけだ。息も詰まりそうな圧力を体に受ける。風に晒せれる手も耳も裂かれそうなほどに冷たくて痛い。あたしはがっちりとレーヨンに抱きつきながら、どうしてこんなことになったのかと考えていた。


「レーヨン、減速して。ジュリちゃんが潰れちゃう」


 ふと近くでイチルの声がした。たちまち走る速度は落ちてゆき、体に受ける圧力も緩やかになる。あたしがそっと顔を上げると、厚着をしたイチルが並走していた。その後ろにはバスケットを持ったミクロと、ニィナ、ヨハクの三人もいた。


「ジュリー! ニィナも抱っこして!」

「ニィナはこれが抱っこに見えるの? しがみついてるんだよ。笑えるね。ジュリってば振り落とされたくなくて必死」

「ジュリさんのことは絶対に落とさない」

「驚かせてごめんね、ジュリちゃん。でも、そんなに怖がらなくても大丈夫だから、とにかく俺たちについてきて」


 ついてくるもなにも、こうやって攫われてるんだからどうしようもないだろうが。こちとら食堂についた途端にこれだったんだぞ。


「待てい! とにかく一から説明しなさいよ、あんたら!」


 舌を噛みそうになるのも恐れずにあたしが悲鳴まじりに叫ぶと、彼らは「一からぁ?」「しょうがねえな」と口々に言った。


「ジュリはさ、そもそも俺たちのコネクトをどう思う?」

「はあ!? 急になんやねん!?」

「理不尽。一から説明してんのに」

「文句言う前に最後まで黙って聞いたら?」


 色違いの双子が同じ表情をする。

 なに? あたしが悪いの?

 あたしの不満や不服も置き去りに、ミクロは話を続ける。


「俺たちチルドレンの脳は爆心期より前の文明の利器にコネクトできる。インターネット・オブ・シングスの名残だかなんだかとは言われてるけど、そのインターネットとやらは爆撃されずに済んだのかって話。そんなわけねえよな。ありとあらゆる通信機器、通信機能は隕石にぶちのめされた。プロバイダだって壊滅。当時の海底ケーブルも強酸性の海に融けて水の泡。空に上げた通信衛星だって、人の手入れもなきゃ朽ちる。ていうか、この分厚い雲に覆われてるんじゃ通信も阻害されちまうよな」


 そう言って、ミクロは汚い空を見上げた。

 月も星もなにも見えない、ただエアロゾルに塗りつぶされただけの暗い夜空。


「つまりさ。まぐれの電話は本当になんだよ、なんで繋がってんのかわかんねえのに繋がってんだ。じゃあ、なんで俺たちだけが、こんなにも自由に接続コネクトできるのかっていうと、通信可能な回線を見つけるアンテナを張ってるからなんだ。まあ、理屈はもっと複雑で、それがあってもすぐに見つけられるもんじゃねえんだけどさ。よく使うコネクトラインならまだしも、戦術高エネルギーレーザーだぜ? 産まれて初めて探したし、すんごい時間かかった」

「しかも、そんなレーザーを搭載してるものなんて、戦艦くらいのものだと思ってたからさ、」イチルがミクロに続く。「強酸性の海の中を生き抜いてる船か、陸にあるのばっかり探してたんだ。それでもやっぱり見つからないから、ドローンをあちこちに飛ばして探ってたんだけど、まあ収穫はゼロだった。そもそもレーザー以外の方法を考えるべきなのかなあって悩んでたところだったんだけど……さっきレーヨンがやってくれたってわけ。さすが。純粋な情報処理はレーヨンが一番得意だもんね」


 ヨハクが「泳ぐのは苦手だけどね」と鼻で笑った。


「ちなみに、レーザーに着目したのはヨハクのアイディア。ニィナの電磁投射砲を使うっていうアイディアも悪くなかったんだけど、演算上で、弾きだした高熱弾道で本当にエアロゾルが流動するほどの風速を出せるかっていう不安と、あるいは局所的なスコールが起こる可能性の二つがあったんだよね」

「あとなによりも電力不足。いくら僕たちでもそんなにチャージできるわけないじゃん」

「ふんだ。ニィナはできるもん」

「いや、いくら体力おばけのニィナでも、それは無理でしょ」

「ニィナでも無理だ」

「レーヨンまで酷い!」

「残酷なのは僕じゃなくて現実」

「ちなみに、レーヨンのコネクトした戦闘機に搭載されてるのはフッ化重水素レーザーだってさ。演算上はなにも問題ないはずだけど、万が一、失敗していろいろだめになったらどうする?」

「そのときは潔くイガラシに怒られようぜ」


 あたしにはまだ、彼らがなにを企んでいるのか、理解できていなかった。けれど、明白なことが一つある。彼らはあの日と同じ浜辺へ向かっていて、もうすぐ辿り着こうとしている。

 相変わらずホタルは星空のように輝いていた。あたしたちは波の音を聞きながら、網膜を焦がすほどの光を、文字どおり目いっぱいに受けた。

 あたしはレーヨンを見た。その目は皇居跡を飛びだしてからずっと煌々としている。


「……よくわかんないけど、レーヨンはその戦闘機とやらにコネクトしてるのよね?」

「うん」潮風の冷たさに縮こまったイチルが、あたしを抱えるレーヨンの背後に立つ。「もうすぐこっちまで来るよ。ニィナ、ミクロ、操縦を手伝ってあげて」


 ニィナとミクロは頷いた。その瞳がレーヨンと同じように光り輝いた。二人ともどこか楽しそうだ。ヨハクはそんな二人を焦ったように見つめる。


「いや、もしかしたら、演算どおりにはいかないかもしれないからさ、もしだめだったとしてもあんまり気落ちしないでおこうね?」

「ぐちぐちうるせえ、ヨハク」ミクロが光る眼で睨んだ。「この方法でやるって決めただろうが。成功する。そうだろ? レーヨン」

「うん」レーヨンは続ける。「きっとなにもかも上手くゆく」


 レーヨンの揺るぎない声は、まるで絶対の自信が宿っているみたいで、ヨハクを励ましたように、あたしには聞こえた。


「ジュリさん、空を見て」


 これからなにが起こるかもわからないまま、あたしは空を見上げる。

 眼下の海とは打って変わった、生気さえ奪うような沈黙の色だ。成層圏にまで溜まったエアロゾルによって、この地球上には太陽の熱も光も届きにくくなった。太陽どころか月も星も、この世界には届かない。汚く淀み、塗りつぶされただけの無機質な闇。

 その分厚い雲の波間を滑るように、いくつかの機体が空を切る。この子たちの操る機体であろうことは悟った。こんな夜更けに航空ショーでもしようというのか——あたしが目を瞬かせたところで、なにかが爆ぜるように光った。


「えっ——」


 闇を貫くような光線。まるで夜空をキャンパスにした落書きのように、幾線と轟き乱反射する。

 超常的な光景は、まさしく神の悪戯。あたしたちにどれだけの文明があろうと、この圧倒的な驚異にはきっと歯が立たない。ともすれば、世界の終わりだと見紛うような、あまりに幻想的な光景だった。

 けれど、現実は、そんな幻想さえも凌ぐ。

 光線で切り裂かれたエアロゾルの隙間から、が覗いた。

 爆心期から隠されてきた憧れの彼方——雲を散らす光の剣戟より、エアロゾルの焼ける眩さより、この世のなにより神々しくて煌びやかな光の大合唱。

 本物の星空が、あたしたちの視界を占領した。


「う……っわああああ!」


 感嘆の声を漏らしたのは、あたしではなかった。ニィナが声をひっくり返しながら飛び跳ねている。ミクロとヨハクは黙って見上げながら、静かにハイタッチをした。イチルも呆然とした様子で「宇宙だ」と呟いた。

 あたしは感動のあまりに息を吸いこんだ。


「綺麗……」


 そんな言葉でしか表現できなかった。

 いままで見てきたもののなかで一番美しい。

 きらきらリトルスター。

 夜空のエレメノピー。

 夜空に開けた大穴の向こう側は、絵にも描けない美しさだった。

 海を煌めかせるホタルまで瞬いて、どこもかしこも眩しかった。本当に宇宙にいるみたいだ。五人があたしをここに連れてきた意味に、そっと気づく。


「どう? ジュリー」


 てってと近づいてきたニィナがあたしを見上げる。

 あたしは光を噛み締めながら「最高。すごい」と振り返った。


「あんたたち、これのために?」

「これのため?」ニィナは青白さの残る瞳を瞬かせた。「ジュリーのためだよ?」


 ニィナの言葉に続くように、「ジュリさんが喜ぶと思って」「きらきらしてると、幸せな気分になるんだろ?」と口々に声が上がる。

 今度はあたしが目を瞬かせる番だった。

 自分がどんな顔をしているかまでは意識できなくて、けれどそんなあたしを見て、ヨハクは「ははっ」と楽しそうに笑った。


「ホタルの海なんかで満足してるジュリを、アッと驚かせようと思ってさ。ご覧よ。これが本当の宇宙だよ」


 あたしは再び満天の星空を見上げる。潮風に晒された鮮やかな光は目に痛いほど眩しくて。

 こんな美しい星々の下であたしたちは産声を上げたのだと、我が身を誇らしく思ったほどだった。

——失った色を、君たちにも見せてやりたいとは思う。

 いつかイガラシ首長が言っていたことを思い出す。あのひとも、昔、こんなに美しい色彩を、光を、目に焼きつけたのだろうか。それをあたしたちにも見てほしかったのだろうか。あたしがこの子たちに見せたかったように、この子たちがあたしに見せてくれたように。


「……いつもありがとう、ジュリちゃん」


 お礼を言うのはあたしのほうなのに、イチルはそう言った。

 イチルの言葉に四人は続く。


「ジュリが俺たちの世話係シッターになって、もう一ヶ月くらい経っただろ? これまでのやつらと比べたら、よくがんばってるんじゃねえの?」

「あくまで臨時だし、ジュリがいつまでここにいてくれるかはわかんないけど、日ごろの感謝をこめて。僕たちからのプレゼントだよ」

「どう? ジュリー、嬉しい?」

「う、」あたしは感極まって声が詰まった。「嬉しいに決まってる」


 だって、この子たちは、あたしのためにと動いてくれたのだ。そう思ってくれたことがもうすでにたまらないのに、こんなに素敵なものを見せてくれるなんて。

 レーヨンは「よかった。ジュリさんが喜んでくれて」と言った。

 銀色の頭で、無機質な喉で、けれど、等身大の心でレーヨンがそう言ってくれたから、きっとそうなんだと思えたから、あたしは破願した。

 イチルも「うん。本当に、喜んでくれてよかったよ」と苦笑する。


「本当は、もっと形に残るものとか、価値のあるものとか、そういうものをあげられたらよかったんだけど……ごめんね」

「そんな、謝らなくても、」

「俺たちには、こんなことしかできないから」


 イチルの言葉にはもどかしい切なさが滲んでいた。

 笑いながらも、そこには壮大な無力感が植わっている。

 レーヨンもニィナも、ミクロもヨハクも、なにも指摘しない。むしろ、彼らの顔に浮かぶのは、イチルの言葉を裏づけるような安らぎだ。自分たちの精一杯を褒めてもらえたような、拙い誇らしさ。

 だから、それは謙遜でもなんでもなく、本心から言っているのだと、あたしは悟ってしまった。

 、なんて。

 あたしのために星空を用意してくれたのは絶対に偉業と言えることだ。こんなこと、きっと彼らにしかできない。

 あたしのためにという気持ちだけで、この光景を見せてくれた。あたしはきっと今日という夜を忘れない。それくらい嬉しくて、感動した。

 それなのに、当の彼らからしたら、で終わってしまう。

 星空を見せるなんて、世界からしてみれば、なんの役にも立たないことだから。

 彼らはチルドレン。この世界を生き抜き、背負うことを希望された、未来ある子供たち。世界のためにと求められたから生まれて、望まれたから生きている。

 雨の日の鬼ごっこも、海での怪獣退治も、武装した敵勢力との抗争も、彼らの担う仕事は全て、誰かのためになることだった。

 チルドレンであることが存在価値なのではなく、存在理由そのものなのだ。そうして使い潰されるのを悟りながら、先人のしがらみに囚われつづけている。なにもできない、無力な子供たち。


「そろそろイチルが凍死しそう」

「帰ろっか、ジュリー」


 自分たちはなんのために生まれたのかだとか、なにをすべきかだとか、そういうことはどうでもよくて。

 あたしはここを去るまでに。

 この子たちに、どれだけのことを。

 どんなことを。






 ゴローさんから、オオサカから連絡があったと聞いたのは、あの子たちに連れられて星空を見た日から、数日としないうちだった。

 あのあと、トウキョウ湾の上空にエアロゾルの穴が開いていることが明るみになり、発覚と同時にイガラシ首長からお叱りを受け、一緒に平謝りして、でも、星空を見たという話を聞いてイガラシ首長がなんとなく羨ましそうにしていて、それが少しだけおかしかった。

 寒さの研ぎ澄まされていく夕暮れ。トカゲと繋がっているというまぐれの電話をあたしは受け取った。電話口のトカゲは挨拶もそこそこに、あたしへと告げた。


『空気清浄機の解析が終わった。お前の臨時世話係シッターもお役御免だ』


 七連の技術班がかなりがんばってくれたらしい。実際の製造、設置、運営などを考えると、先は遠いという話だが、オオサカひいては七連にとって大きな前進だったことは言うまでもない。


『トウキョウのゴロー補佐が言うには、次の世話係シッターも見つかりそうだって話だ。ジュリのいないあいだ、こっちはてんてこまいだったし、お前もそろそろ子供のお守りには飽きてるころだろ。お疲れさん。今週中にでもオオサカに戻ってこい』


 オオサカの首長補佐であるあたしがこれ以上ここにいても、なんのメリットもない。

 あたしはあくまで繋ぎとして、あの子たちの面倒を見ていただけだから、こうなることは最初からわかっていた。だけど。


「……トカゲ、あたし、もう少しここに残っちゃだめ?」


 あたしの言葉に、トカゲは『はあ?』と素っ頓狂な声を上げた。


『なんでまた』

「もう少しあの子たちのことを見てたいの」

『はあああ?』トカゲは少しだけ声を荒げた。『昔っから責任感強かったけど、そこまで? 真面目すぎやろ。どうせ臨時の世話係シッターなんだから、っぽりだして戻ってくればいいのに』

「責任感っていうか……あの子たちが気になるだけよ」


 トカゲは『ふうん』とこぼす。淡々としているようでわずかに閃くような絶妙な調子。

 あたしにはわかる。トカゲは疑っている。


『お前にも母性ってもんがあったんだな。情でも移ったか』

「そりゃあね。ずっと身近にいれば、情くらい湧くっての」

『俺を補佐するのも投げ打つくらい?』

「ずっとこっちにいようってわけじゃないわよ。あたしの仕事はずっとオオサカ首長補佐だし、あんたに命令されなきゃ臨時の世話係シッターにだってならなかったもの」

『あのクソガキどもにほだされるなんて思ってもみなかったんだよ』

「〝自分たちはまだなにもできない子供なんだって教えてやれ〟……あの子たちの世話係シッターになるって決めたとき、あんたはあたしにそう言ったわよね」


 あの子たちはまだ幼くて、分別もなければなにも知らない。なにも知らないのに、なんでも知っているふりをして、調子に乗って、驕り高ぶって、大人の手を焼かせるような、滅茶苦茶な子供たちだった。


「でも……」


 だけど、人類の希望と謳われ、そうあるべくして生まれたから、あの子たちは大人が思っている以上にずっと賢くて、聡くて、理解していて、そして、もどかしいほどなにも知らなかった。

 怪我をしてほしくないがための叱責、自分よりも大きなものからの抱擁、誰かに優しくする方法、不安の取り除きかた、励まし、ご褒美。あたしなんかでもあげられるものを、彼らは一つだって知らなかった。

 それが心配でたまらなくて、この子たちになにを教えられるだろうって。こんな世界でチルドレンなんてたいそうな称号をつけられたばっかりに、自分たちはただの子供なんだってことを知らないから。

 だから、あたしは、


「自分たちにもできないことがあるって知ってほしいのと同じくらい、自分たちはなんでもできるって思ってほしい」


 こんなことしかできないなんて、なんにもできないなんて、そんなのは嘘だ。

 だって、あの子たちはまだなにも知らないけど、これからなんだって知ってゆける。なんだってできる。

 この世界の未来を、これからも生きていくのだ。


『……お前は、そのガキどもの親にでもなったつもりか?』トカゲはいよいよ声を低くして言った。『あいつらはただのクソガキやない。神の落とし子チルドレンにして禁忌培養児タブー。驚異的な力を振るう、第百一期トウキョウの影の支配者。人類の希望にも絶望にもなりえる。俺らの手には余るんや。触らぬ神に祟りなし。そっとしとけ。それともお前は、あいつらを懐柔して、自分の言うことを聞かせれるって思っとんか』


 そういう話じゃないのだ。あたしはあの子たちに特別なにかをしたわけじゃないし、本当はあたしの言うことなんて何一つだって聞かなくていい。わがままだって言っていいし、大人を困らせたっていいのだ。

 たとえ、人類の希望として、その命は彼ら自身が生まれる前から、精密に演算され、仕組まれていたとしても。自分たちはなんのために生まれたのかだとか、なにをすべきかだとか、そういうことはどうでもよくて。

 神の落とし子チルドレンでも禁忌培養児タブーでもなく、あの子たち自身にあたしが望むこと。


「あの目がきらきら輝いていて、その視線の先にあるものがあの子たちを幸せにしてくれていたら、それでいい」


 今、言葉にして、はじめて形を得た気がする——あの子たちを見ては胸に抱く思い。侘しくて切なくて、なにかを祈らずにはいられない、そのなにかがこれだ。


「豊かな人間になってほしいの」


 トカゲはなにも言わなかった。

 だから、あたしは言葉を止めなかった。


「たとえば誰かを愛してみたり、愛されてみたり、壁にぶち当たったときに自分の力で乗り越えたり、あるいは誰かを頼ったり、逆に誰かを助けたり、些細なことにも楽しみを見出みいだせたり、途方もないことにも関心を持てたり、ひとの優しさや強さを尊いと感じることができたり、自分のしたいことを見つけられたり、あたしがそばにいなくても強くたくましく生きていけたりする……そういうことをあの子たちに望むのに名前が必要なら、あたしはあの子たちの親でいいわ」


 溢れてやまない言葉を言いきってから、実感した。これから先の未来で、あの子たちには笑っていてほしい。幸せになってほしい。そんなありきたりなはずの祈りさえ、叶えるのが難しい世界だから。

 ずっと押し黙っていたトカゲだったが、ややあってから『はあ』とため息をついた。呆れたような、けれどおかしくて笑ってしまったような、どこか柔らかい余韻。


『ほんっまにあほやなあ、ジュリ』


 どこか聞き覚えのある言い草に、あたしも苦笑した。トカゲが何度も『あほあほ』と野次るので、いよいよ「やかましいのよ」と切った。


『俺もどうしようもない部下を持ったもんだ。親の顔が見てみたい』

「誰に似たんだかね。親じゃなくて上司かもしれない」

『ま、ええやろ』トカゲは頷いた。『どうせ、いきなりこっちに戻ってこいっていうのも難しい話だったし。そっちだって引き継ぎとかあるんだよな?』

「うん。だから、次の世話係シッターに安心して任せられるようになるまでは、こっちに残ることにするわ」

『ガキどもがかわいいからって長引かせんなよ』

「誰に言うとんねん」

『あほに言うとんねん』


 再びトカゲは『あほ』と私を罵る。

 何度も言われては耳障りだし、嫌がる理由もわかるのだが。

 その言葉はあたしたちにとって、限りなく〝愛しい〟に近いものであることを、あの子たちは知っているだろうか。

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