最終話 旅立ち。
ゆっくり……ゆっくりと目を開けると、無限を思わせる大空が拡がっていた。雲と鳥と風が踊っている。眼下には渓谷が拡がり、岸壁に穿たれた白く美しい石の街で大勢の人々が日々を営んでいる。彼は、断崖絶壁の極みにある遺跡めいた場所に一人立ちすくんでいた。周囲を八つの石柱が取り囲んでおり、中央にある黒い岩の上に立っていた。大きく吹き抜けて行く風が心地よかった。
「……じゃぁ、もう行くよ。」
ゾナは、ウルスハークファントに告げた。
……あぁ、私もそろそろ行こうかと想う。ここには既に何も無いから。
幼龍は、少しだけ大人びた口調で、ゾナに返した。
「そうだな。俺達が必要とするようなものは何も無い。」
ゾナの視線は自然に流れて行った。ナギと最後の瞬間を過ごしたくずれた岸壁にある小さな岩棚を見つめる。よく助かったものだと、我ながら感心する。ゾナ一人分の面積がギリギリ無い岩棚だった。意識を失った状態で、なぜ、あんなところにひっかかっていられたのだろうか。不思議でならなかったが、ゾナはウルスハークファントが意識を取り戻し、助けに現れるまで落ちずに岩棚に止まっていたのだ。二匹のファントはララコの稲光の術により火傷と裂傷を無数に負っていたが、致命傷では無かった。感電したショックで意識を失っていただけだったのだ。ゾナはもっと深手を負っていた。あの時は大したことは無いと考えていたが、失血も多かったし、アバラと腕と足が骨折していた。体中に血の止まらない大きな裂傷もあった。ウルスハークファントは砕け散った風祓いの塔の地下室にゾナを連れ込み水や食料や薬草など必要な物資を運んだ。ゾナはその類い稀なる生命力によって生き延びたのだ。ファントは、主人の頬を嘗めてやることくらいしかできることはなかったが、その間、ずっと彼に付き添っていた。
そして、高熱と衰弱が連れてくる死と戦い、苦痛と戦い、痒みと退屈とを越えて今に至った。
ウルスハークファントは口を少し開けた。
……ナギの残した魔法書と例の臍は私が貰い受ける。ゾナにはこれを貰って欲しい。
開いた口に隙間なく並んだ牙の一つにキラキラと輝く何かを見つけた。ゾナは促されるまま、それを手に取った。
「指輪……。」
……あぁ。ナギが一番大切にしていた魔法の指輪だ。最も得意とする時間に関する呪文が封じられていると、ナギは言っていた。時を止める力があると言っていたな。
ゾナは、そのような力がもし本当にこのリングにあれば、彼女は死なずに済んだだろうな、と苦く想いながらもそれを受け取った。左手の小指にしか嵌まらないと想われた魔法のリングは伸縮し、親指にすっぽりと嵌まり、それきり抜けなくなった。正体の無い運命を感じた。
……さぁ、私は本当にそろそろ行こうと想う。
「だな。俺達も行こうか?ファント。」
ファントはぶるると同意の嘶きを上げた。
そう、涙の止まらない夜はある。
後悔で胸を掻き毟る夜も。
日中でさえ、そんな瞬間が無数に訪れる。
そう、途方にくれている。
何をすればいいのか、何をしたいのか分からない。
急に自分は死んでしまった方がいいと痛感することがある。
どうして、平気な顔をして一人生き延びたのかと想う。
今すぐナギの後を追わなくてはいけないと何かがささやきかけてくる。
この先の人生はハイイロだと繰り返し、囁くのだ。
ゾナには分かっていた。愛する人を自身で殺した……不思議な炎のせいにすることは出来ない……あの瞬間、魂に大きな亀裂が入ったのだと。苦痛と共に赤い血を流し続けたその傷は今や乾き、痛みは疼きへと変じてたが、二度とその亀裂は塞がらないのだ。風が魂を吹き抜けるたびに、傷は疼くのだ。後悔と自責の念よりもただ、単純な気持ちが生まれるのだ。
……ああ、会いたいよ、ナギ。
ゾナとファントは東へ。ウルスハークファントは南へと進路を取った。最後の挨拶や抱擁はなく、ただ振り向いて進み出した。お互いの姿が崖上の湾曲した草原に隠れて二度と見えなくなる瞬間、ウルスハークファントは、ゾナに囁いた。
(……ララコは本当に死んだと想うか?)
ゾナは振り返り、かすかに見えるウルスハークファントに向き直った。ゾナはあの時を思い起こしていた。遥か眼下の白岩にナギとララコが激突し、光を伴う巨大な空震が起こった、その瞬間を。沢山の光の中、一筋の黒い悲鳴が立ち去りはしなかっただろうか?
「死んで無いだろうね。残酷な話だよな。ウィウもナギも死んだっていうのにな。」
ウルスハークファントはゾナのその言葉の響きの中にある強さ……ナギが大好きだった、負けても尚、強く在り続ける本当の強さ……を感じ取り、嬉しくなってほほ笑んだ。ナギが死にゾナは変わってしまったかもしれないが、魂の最奥に潜む最も熱いその固まりだけは変わらなかったようだ。
(……同感だ。さて、しゃべり過ぎた様だな。)
草原に冷たい風が吹き抜けた。秋がやってくる。ウルスハークファントをなでたその風はゾナとファントを包み込みそして去って行った。
(ゾナ。在るがままに。光と共に在れ。孤高の剣士よ。)
ウルスハークファントは告げ鳥が残した言葉を最後に送り、風を受けて高く飛び上がった。振り返りもしない淡泊で潔い幼龍が無事に大きく育てばいいと想った。
ゾナは、拳を力強く天に突き上げた。
ウィウと、ナギとウルスハークファントと、ファント。そして自分自身へのエールだった。
リガの遥か上空、断崖絶壁の上に広がる草原に澄み切った風が吹き抜けた。草原の草木を撫で、ファントの足元から絡み付きゾナの突き上げた拳に口づけ、空へと上る。白く、速く流れる雲に追いつき蹴散らし、陽光を縫って風は吹き抜けていった。高く遠く去って行ったウルスハークファントを追い越し、さらにその先へと……ウィウの無数の魂が帰って行った「九十九世界」の隅々まで、その風は吹き抜ける。ビルの谷間で、ラッシュの中で、教室の中にも会議室にも。水田と畑の上にもその風は吹き抜けた。本をもつ両手の間にも、モニターの周囲にもその風は吹き抜けた。ウィウを構成していた魂の一つ一つにさよならを言うように、優しく彼らの彼女らの頬をなで去って行った。そしてやがて、全てが終わりたどり着くその場所へと風は流れ着いた。全てが始まり旅立つその場所へと。
「いくぞ!ファント!!」
ゾナは快活に叫び、ファントは拍車が入る前に駆け出した。
空は高く抜けていた。
もうすぐ、秋がやってくる。
風は、吹き抜けて行った。
夜を統べる者 ゆうわ @9999ua
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