学者とミイラ
しらす
迷惑なミイラと学者
「そこなる異国の学者よ、我が眼鏡を返すがよい」
「は?」
突然背後から掛けられた声に振り向くと、そこに立っていたのはボロ布を身に纏った異様な風体の男だった。
私は研究室に籠り、そろそろ休もうかと手を止めたところだった。
まるで見覚えのない、いやどこかで見たような気がするが初対面としか思えない男に、私は首を傾げるしかない。
そんな私を見て、男はやれやれとでも言わんばかりに溜息をついた。
「聞こえなかったか、ずいぶんと耳が悪いようだな」
「いや聞こえてますけど」
「ふむ。『は?』というのは了解を意味する言葉であったか。ではすぐに返すがよい」
そう言って男はにこやかに笑うと、右手を突き出してきた。勝手に納得しないでほしいのだが、まるで話が通じそうにない。
「いやいやいや色々と間違ってるんですが……そもそもあなたは一体どなたです?」
「分からぬのか。お主は学者のようだと思ったが、どうやら記憶力か視力も悪いようだな」
「よく分からんけどムカつくな」
「ふむ、胃も弱いのか。苦労性だな」
「なぜ全部私の身体機能のせいになるんですか!」
いちいち失礼な男の言葉に、さほど高くない私の沸点はあっさり超えそうになる。いや、さっき少しだけ超えた。
私は腕組みして男に正対した。真正面から見ると、男の顎に生えた無精髭がきらりと光った。彫りの深い精悍な顔立ちの男だ。
「もう一度訊きますがあなた誰なんですか?」
「分からぬなら教えよう。お主に寝室を暴かれた元太陽王、ネテ・ラーである」
「あそこ寝室だったの!? 墓じゃなくて!?」
思わず素っ頓狂な声が出てしまった。ネテ・ラーはやや呆れたような顔をして私を見た。
「人の寝室を墓呼ばわりとは、お主はやはり視力が悪いようだな。だが眼鏡は譲らぬぞ」
ふん、と腰に手を当ててネテ・ラーは自慢げにふんぞり返った。王と言う肩書の割にずいぶんフランクな男らしい。
「ネテ・ラー」とは私が先日発見した古代エリプトの墓にあったミイラの名前だ。今は傷まないように保管室に入れてあるはずだが、どういう理屈か這い出て来たらしい。名前に似合わず元気なミイラである。
などと言っている場合ではない。私はいきなり起きたこの超常現象と王とに頭を抱えた。
そんな私を無視して、ネテ・ラーは右腕を突き出し、早く早くと眼鏡をせがんでいる。まずは説得するしかない。
「ちょっと待ってください、状況は理解しました。でもあの眼鏡は墓から出られずに死んだ盗賊の悪戯で付けられたものですよ」
一体いつそこで亡くなったのか、墓を見つけた時にはもう一人のミイラが横たわっていた。名前や身元を証明する物も何一つ持たない男だった。ただ服装や持ち物からして、ネテ・ラーと同時代の人間ではないと知れた。むしろ現代人に近かった。おそらく盗掘目的で入って出られなくなったのだろう。
だがそう言うと、ネテ・ラーはぎろりと私を睨んだ。
「我が家臣を盗賊呼ばわりとは、太陽神の罰が下るぞ」
「むしろ罰が当たって死んだのが盗賊のはずなんですが」
それが神罰だったのかどうかは分からないが、盗掘に入った男にかける情けはないはずだ。
だがそう言うとネテ・ラーはいらいらと足踏みし始めた。盗賊を家臣と呼んで一向に譲らない。
「なんと聞き分けのない幼児め。永遠に足の小指を角にぶつける神罰を受けたくなければ早く眼鏡を返せ!」
「神罰なのに地味に嫌な呪い!」
「分かったら眼鏡を返すがよい」
もういいだろう、とばかりにネテ・ラーは一人で頷いた。
「いやあのですね、そもそもあの眼鏡の所有者はおそらく、棺の隣で死んでいた盗賊なんですよ」
「そんなことは分かっておる。あれは我が家臣が干乾びる寸前に泣きながら我に寄越したものだ」
「ちょっと可哀想になってきた」
この元気なミイラはたぶん、墓から出られなくなった盗賊にも同じようにしつこく眼鏡を要求したのだろう。容易に想像がついた。
「さぁ眼鏡を返せ。あれがないと棺の蓋の十八禁小説が読めないのだ」
「待って!? あの蓋の裏に書いてあるのってそんな話だったの!?」
これから解読を進める予定だったが、蓋に刻まれた文面は神の泉に剣を投げ込むという謎の儀式について書かれていたはずだ。古代人はあれで興奮していたのかと驚くのと同時に、なぜそれをよりによって棺の蓋に刻んだのか新たな疑問が生まれてしまった。
「お主は四角四面なようだが、寝室でその手の書物を嗜むくらいはするだろう?」
「いや今棺って言いましたよね?」
「うむ。我以外はみなそう呼ぶのでな。我が家臣も最後まで墓だと信じていた」
「墓ですからね」
「そう思いたくばそれで良い。それより眼鏡だ」
さぁ眼鏡、眼鏡と繰り返すネテ・ラーはまるでこちらの話を聞いていない。話は通じているのに通訳が欲しくなってきた。
しかしそんな泣き言を言ってもいられない。ネテ・ラーの墓は五千年は昔のものだとされている。その墓から出て来たミイラに、現代の眼鏡を掛けさせるようなシュールな状態に戻すわけにはいかないのだ。
とりあえず時間を稼ごうと、私は質問を重ねた。
「どうしてそう眼鏡にこだわるんですか」
「ふむ。実は我が家臣が寝室に参った時、自動ドアを閉めたのは眼鏡が欲しかったからなのだ」
「自動ドア!?」
「オートロック機能付きだ。閉めると外からしか開かぬ」
「悪夢のようなオートロックだ」
王墓の入り口が自動ドアの上にオートロックだったとは、危うく私も閉じ込められるところだった。
棺の横のミイラを見て、咄嗟につっかい棒をしておいたのは正しい判断だったらしい。
「なぜか我が家臣もそう思ったようだ。永遠に静かに眠れる良い寝室なのだが」
「ならもう寝ててくださいよ、十八禁小説なんか読んでないで」
「寝室から引っ張り出したのはお主であろう。おかげで一向に眠れぬ」
「それは申し訳ないですが、お部屋は暗くしてあるはずですよ」
ずっと暗闇の中にあったものなのだ。光を当てるわけにはいかない。保管庫は必要な時以外は消灯し、完全に真っ暗になるようにしてある。
だがそれを言うと、ネテ・ラーは眉を寄せて、いい加減飽きたというように首を横に振った。
「だから蓋の裏の文字が読めぬのだ」
「寝る気ないですよね」
「ああ言えばこう言う。物分かりの悪い学者だ。家臣にしてやろう」
「私の眼鏡が欲しいだけですよね」
「察しは良いようだな。さぁその銀縁眼鏡を寄越せ」
要するに眼鏡があれば何でもいいのだろう。ネテ・ラーは私の顔に手を伸ばしてきた。
私は慌てて一歩後ずさり、ネテ・ラーの手を遮った。眼鏡は地味に高級品だ。だがそれ以上に困る事がある。
「嫌です」
「なぜだ」
「眼鏡がないと今夜寝室で十八禁小説が読めませんので」
学者とミイラ しらす @toki_t
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