第8話 原風景におかえり

昨晩の夜間電話当番は、朝方まで緊急訪問要請が多く、さすがに疲れ気味だ。

厚生病院の訪問看護ステーションから車に向かいながら、看護師の太田靖子はブツブツ言いながらプリウスのドアロックを解除した。

正午前の職員駐車場は朝夕の通勤時に比べ、靴音も聞こえる静けさの中、運転席ドアを閉める音が響き渡った。

「ん?何か音がする!鳥の声か?」

靖子はセルモータースイッチを押す前に、再度耳を澄ましてみた。

膝先のボンネットの方から、ミーミーと声が確かに聞こえる。

重い足取りながら車を降り、前方のボンネットを開けてエンジンルームの中を見た。

「みゃあ、みゃあ、みゃあ、・・・みゃあー、みゃあー」

「子猫の声だ!どこに居る?」

根っからのネコ派の靖子は、ラジエーターの裏からサスペンション周りを隈なく見たが居ない。

駐車場内にある防災センターの職員を呼びに行き、事情を伝え職員二人に来てもらった。男の職員が懐中電灯を照らし、エンジンルーム奥を調べたが、泣き声が止まり見当たらない。

更に車体の下にもぐり込んで隅々まで捜した。

「あっ!いた、子猫だ、こんなサスペンションとディファレンシャル・ケースに挟まっている!」

何とか子猫の手足を挟まないようにして、胴体を掴みゆっくりとエンジンルームから出した。

黒い潤滑オイルをオデコから口元に付けた、生後一ヶ月過ぎた頃の茶トラネコだ。

セルモータースイッチを入れエンジン動かしていたら、死んでしまう間一髪のところであった。職員の手を噛みつき、手と足の爪で引っ掻きまくりジタバタ暴れている。抱かえられた両手の軍手から必死に逃げようとしているのだ。

子猫だから、大人の軍手では爪も歯もたたず、まったく痛くもない。

 取り敢えず、防災センターに有った深さのある段ボール箱の底に毛布を敷き、入れておいた。

靖子は防災センター職員と話し合い、夜間は当直職員が常駐する防災センター内の部屋で預かってもらい、昼間は厚生病院エントランス脇の舗道に段ボールごと置いてもらった。

【里親募集! 誰か、もらって下さい】

里親に成ってくれる人が見つかるように、立札を立ててもらった。


 十日間経ったが、里親に成ってくれる人は見つからない。

「こんなに可愛いのに、ウチの子になるか?でも、高層マンションだからなあ・・・」

ファッツ・マイケル風の人気の茶トラ柄の子猫だから、貰ってくれる人はすぐ見つかるだろうと、靖子は考えていたのだが。

夜間預かって世話している、防災センターの若い女性職員は情が移って来てしまっている。

「私が欲しいのだけど、父母が猫アレルギーで無理だしなぁ・・・。この子、噛むのだよ。子供が喜んで撫でようとするのだけど、すぐ噛みつこうとするし、年配の方たちが抱きあげると、両手足で引っ掻き、噛みつこうとして暴れるからダメなのだよ。この子、ウチへ帰ろうとしているのかなぁ、しきりに、何処かへ行こうとしているみたい」

翌日の夕方、訪問看護ステーションの面々が防災センターに集い、相談した。

「もうこれ以上、防災センターの皆さんに厄介掛けるわけにはいかないし、明日にでも豊田市動物愛護センターに引き取ってもらって、里親探しをお願いしようか」

普段は凛として、どちらかと言えば気が強い靖子が、泣きべそをかきそうな声でつぶやいた。

「千幸さんの家で預かってもらおうか?ヘルパーさんからのクチコミで飼ってくれる人を・・・」

「衛生的に良くないことを、私たち医療従事者がやるべきじゃないけれど・・・」

千幸宅に訪問看護に長年訪れている、年長のベテラン看護師が靖子の言葉を追うように言った。

「そう!千幸さん、最近なんか覇気がないというか、元気がなくて、口数も少ないヨ。健太くんの就職が決まり静岡に配属と成り、育て上げたという達成感と、子離れで、燃え尽き症候群みたいだわ。それに、ついに独居に成ってしまう淋しさだと思うよ。長い間必死に頑張って来て、これで肩の荷が下りて生きる気力が、失せているのだよ!」

気持は勝手に千幸家の家族にするつもりだ。

ヘルパーさんのクチコミで、里親探しするのではなく。

「そうか・・・、千幸さんは、常に何かをしていないとダメなのだよね。いつも何かと取っ組み合っていないと、千幸さんらしくないからなぁ。何ていうか、適度なストレスが要るのだよ!」

元気がなくなっている所見対処に、ネコでストレス療法というわけだ。

千幸とは日頃よく言い争っている、靖子が説得するように皆の顔を見回し、さらに言い続けた。

「明日の訪問看護、私、この子を連れてってみる!看護の間、ちょっとプチのゲージに置かせて、とか言って、千幸さんと対面させてみるわ」


               ◆


プチが居なくなって約一か月、庭のイロハモミジの所どころ赤みを帯び始めている。

十六年ぶりだ。千幸家からネコの気配が感じられないのは。

「家の灯りが消える」とは、このことか、と目が覚める度に千幸は家の静けさを、砂を噛む想いで受け止めていた。

「プチ! コトラちゃん!」

と呼んでも、千幸の声が家の中を泳いでいるだけだ。歩く音も鳴き声も温かさも気配もない。

当たり前だが、つい呼んでしまう。

 貯えてあったキャットフードも、爪とぎ、おもちゃ等など、プチとコトラの物はネコと暮らしているヘルパーさんたちに、全部もらってもらった。

プチとコトラのものが有ると、様々な場面が思い出されるので、忘れ去れるように全部処分したかったのだ。

今、残っているのは、大きなゲージとボロボロに成ったキャットタワーくらいだ。


「おはようございます。訪問看護の太田です」

「ミー、ミー、ミャァ、ミャァ、ミャァ」「ミー、ミー、ミャァ、ミャァ、ミャァ」

翌朝、太田靖子はいつも通りの元気な声と、何故か子猫の泣き声と一緒に何かを持って入って来た。

「千幸さん、処置の間だけで良いからプチのゲージに子猫を置かせてネ。あの通りやかましいけど、気にしなくていいから。見なくていいから」

摘便と膀胱瘻カテーテルの洗浄処理中に、靖子は子猫の経緯を話してくれたが、

「千幸さんの家で飼ってもらうつもりはないから、気にしないでね」

「ミャア、ミャア、ガッチャン!ギャア、ギャア、フンギャア、フンギャア!ガッチャン!」

千幸はどんなネコか見たかったけど身体は動けないが、

「出してくれえ!今すぐオレをここから出せぇ!」と叫んでいるのは分かった。

「まァ、この子はヤンチャで天井まで登っちゃっている、これっ!降りなさい!」

靖子は逐次実況中継しながら、看護処置を坦々と進め終わった。

千幸は興味本位以上の何かに取り付かれたように、思わず叫んでしまった。

「気にしなくていい、という訳には出来ないだろう!ちょっと見せてくれ!」

靖子は隣の和室に有るゲージに行き、両手の平を合わせて戻って来た。

「見る?見るだけだヨ、すぐ連れて帰るから」

と、言いながら、千幸の顔の横で両掌を玉手箱の様に、ソーっと開いた。

「あっ!茶トラネコだ!」

生後一カ月位、人間でいえば一~二歳だろう、目はしっかり明き、靖子の指に噛みついている。

千幸は茶トラ子猫と目が合ってしまった。見ている、千幸の眼をジィーと見ている。

ゲージ内であれほど叫んでいた奴なのに、なぜか何かを言いたげに、おとなしく千幸を見ていた。

「ウチでは俺が世話できず、健太も半年後は静岡に行ってしまうし、ヘルパーさんに世話してもらう事は出来ない。介護勤務規定が在り、ペットの世話は違反に成るから、ウチでは無理だ」

千幸は既にこの茶トラ子猫に情が移りかけていたが、連れて帰ってもらう様に言った。

「分かっているヨ、ありがとう。ヘルパーさんで里親に成ってくれそうな人を訊いてみて」

靖子は茶トラ子猫をキャリーバッグに戻して、落胆した模様もなく看護を終え帰って行った。


 靖子は千幸の性格を知り尽くしていた。子猫はカワイイに決まっている。

ペットロスで沈んでいた一ヵ月ぶりに、ネコの声を聴き、プチと同じ茶トラネコと目が合ってしまった。

このまま見過ごして諦めきれない加藤千幸。

しかも動物愛護センターに預けられて、一週間ほど里親が見つからなければ、殺処分にされる恐れがある。

「あの茶トラネコは俺に訴えていた。『オマエの家族にしてくれ!』と」

ここまで思ってしまったら、千幸は仕事には手が付かず、策を練って動き始めてしまった。

先ずは、ヘルパーさんを派遣している数か所の訪問介護事業所の責任者に電話しまくった。

「事業所としては、『はい了承しました。』とは返答できません。各々のヘルパーさんから千幸さんがペットロスで元気がないとは伺っております。ので、ネコを飼うことは事業所としては聞かなかったことにします。各ヘルパーさんにケア時間外で、ボランティアをお願いしてみて下さい」

千幸は最大の難関所を通過できた気分であった。

「事業所の反応は概ねOKだな。あとは二十人程のウチに来ている、各々ヘルパーさんに了解をもらえば、あの茶トラネコを我が家に迎え入れるぞ!」

朝、昼、夕、夜と一日に四人、週に二十人弱、ケアに来てくれるヘルパーさんに説得、お願いして了解を得る旨を一斉メール送信した。

千幸の目論見どおり、快諾の返事を容易に得られた。

コトラとプチ兄妹の実績が功を奏したのだろう。

特に、糖尿病のプチがボロボロに痩せこけて終末ケアと看取りまでしてくれた、我が家のヘルパーさんにとっては子ネコ一匹くらい「おやすい御用」と受け取ってくれた様だ。

「千幸さん、やっとネコ飼う気持ちができたのだね。コトラちゃんとプチが居なくなって随分と気を落としていたから、心配していたのだわ」


この御用がコトラとプチとは全く違う、おやすくない洗礼を受けるとは、まだ誰も予想できなかった。


翌日、千幸は訪問看護の太田靖子に意気揚々と電話をかけた。

「この間の茶トラ子ネコ、ウチで預からせてくれ!ウチなら里親が見つかるかも知れない」

靖子が電話する後ろから、他の看護師連中が歓喜のどよめきをあげたのがマル聞こえだった。

次の訪問看護日に、千幸家家族新参者はキャリーバッグの中で相変らずミャアミャアと騒ぎながら来訪、いや降臨したと言うべきだろう。

お供の看護師二名と、防災センターで過ごした二週間余りの所帯道具と共にやって来た。

あたかも御輿入れのようで来るべきして、やっと来たという雰囲気を千幸はベッド上で感じた。新たに購入した室内用トイレセットと、お食事道具が据えられたゲージ内の毛布に寝かされた。

 訪問看護が終わった昼下がり、二階から健太が下りて来てゲージ内の手合を凝視している。

茶トラ子ネコも引っ越しに疲れたのか、黙ってゲージ外から覗いている手合を見つめている。

「これは『プチ』じゃない!プチとは違う!全然プチじゃない!このネコはお父さんのネコだからな!俺は関係ないから、お父さんの好きにすればいいよ!」

失望したのか憮然とした表情で、自分の部屋に上がって行ってしまった。

十五年間、共に遊び、一緒の布団で寝て、共に成長し、糖尿病と闘って来たプチは、一人っ子の彼には思春期を共にすごした唯一の兄妹のような、重すぎる存在であったのだ。

この子を家族にするのは、プチとコトラ兄妹ロスを埋めるためではない、何か宿因が千幸を動かしたのだ。


 茶トラ子ネコ新参者は、千幸が寝ているベッドの隣の和室のゲージ内でしばらくの間は暮す予定でいた。

子犬4匹用のゲージの間仕切りを外した二階建て2LDKで、一階はトイレとダイニング仕様にしてある。二階に上がる途中にもロフト風の中階が在り、二階は日向ぼっこできるフロアと毛布が敷いてある寝室フロアの二部屋と、ゴージャスにリフォームしてある。

「知らない処に来て不安だろうから、快適に過ごし快眠出来るように」

と、ヘルパーさんたちが千幸のケア時間以外にも、わざわざ買い物して我が家に来てくれて準備してくれたのだ。

しかし奴は、そんな好意は知ったことじゃないと、気に入らなさそうに常に脱走を図っている。

特に夜中に成ると活発に成り、

「ミャアミャア、ミャア」「ガッチャン!ギャア、ギャア、フンギャア、フンギャア!」

隣部屋の千幸は眠れたモノじゃない。三日目で寝不足ストレスを満タンにされた。

ゲージのドアはオープンにして、そこの和室間仕切り襖は締めて、部屋では自由にできる様に和室を奴に明け渡した。これで千幸の安眠は妨げられないようにと。

「ミャアミャア、ミャア」「バリッ、バリッ!ガリッ、ガリッ!バッタン!ドッタン!」

翌朝ヘルパーさんが来て、和室の襖を開けた途端、叫んだ。

「ナニッー、コレ!コラァー!イタイッ!ヤメテッ!」

襖は破れ、仏壇の花や仏具類が床に落ち散らかり、畳はあちらこちらが爪立ててボロボロ等々。

部屋から脱走しようとしてヘルパーさんの脛に噛みつき、ゲージに戻そうと捕まえたら、掌に噛みつき、両手足でマッハパンチとマッハキックの連続攻撃。


「こりゃあ折角の仏壇部屋がボロボロにされるから、俺が寝ている広い居間とキッチンまでを開放して、洗面所や浴室に通じる扉と、玄関や階段に通じる廊下への扉は閉めておこう」

「ミャア、ミャア」「バリッ!ガリッ!バタン!」

「ガチャーン!パリン!ドッタン!フンギャッ!」

千幸の寝不足は五日目と、体の限界に来ていた。ヘルパーさんの片付け仕事量も限界に来ていた。

「ダメだ、こりゃあ。俺も家も破壊されるゾ。屋外に出さえしなければいいから、外からの出入りだけ気を付けてもらって、上下階とも家の中の行動はすべてアイツの自由にさせてやろう」

一週間にして新参の無法者に我が家は完全に征服された。家の中すべてが破壊される前に。

健太の部屋にも夜間忍び込んで、布団の中にもぐり込んだ。健太が脚を動かそうものなら容赦なく噛みついていた。

「痛えー!この野郎!」ドタン!バタン。

「また健太部屋から放り締め出されたナ」

「ミャア、ミャア、ミャア」

下階ベッドの中で千幸は、チェシャ猫の様にニヤニヤして聴きながら、良き睡眠ができていた。

数日後、健太にもヘルパーさんにも慣れて、アイツの名前を決めた。

健太の案で「チャタ」に決まったのだが、ひと月ほど経ったら「加藤茶太郎」と加藤の姓を授けられて、茶太郎と名乗っていた。


翌年2010年の冬は、強い寒気団が日本上空に幾度も居座りひときわ寒さが染みる日が多い。

茶太郎はどこで生まれ、親とはぐれ、どうやって厚生病院の駐車場まで辿り着いたのかは、本人しか知らないだろう。

厚生病院では噛みつきまくって、里親が見つからなかった。しかし太田靖子が我が家で千幸と対面させた時、自分の家に帰って来たような安堵の目をしていた。

半年が過ぎた今では本人も素性は頭から消え、昔から住んでいる「ここがオレの家」そして「オレの家族たち」と思っている。「当然・自然・当たり前」としか感じていないのが不思議だ。

 朝から夜まで入れ代わり立ち代わり多くのヘルパーさんが来た時も、必ず寄って来て匂いを嗅いでいる。そして「ヨロシク!」と言いたげに、頬っぺたを手脚にこすり、全く怖れない。

こんなに人懐こい子猫に里親が見つからなかったのが理解できない。

と、思いきや、ヘルパーさんが歓んで抱き上げようとすると「カプッ」と掌に噛みつく。

両手両脚をバタバタと引っ掻き「降ろせー!放せー!」と暴れまくる。

 茶太郎の洗礼はヘルパーさんに漏れなく授けてくれた。

ウチの救急箱は消毒液とキズパワーパッド、バンドエイドなど、常時いっぱい入っていた。


「茶太郎くん!なんで噛むの!」

「プチはお利口さんだったのに、この子はバカだね!」

ロックオンして尻を振っていると、

「ヤメテ!また飛びつこうと狙っている!」

キッチンで調理していると、お尻辺りに飛びつく。

「キャー、ズボンが脱げちゃったがね!」

「キャア!ダメッ!」

看護師が千幸の膀胱瘻(ぼうこうろう)を処置している際も、肩や頭まで登って来る。

「イタイッ、ヤメテッ、あっち行って!」

「もうー、ホントにダメネコだね!茶太郎は」

ヘルパーさん、看護師さんの悪評は枚挙にいとまない。

それは千幸も健太も百倍承知であった。

しかし、誰もかもウチに来ると第一声は

「茶太郎くん、おいで。オリコウさんにしとった?」

「ニャア」「カプッ」「イタイがね!」

バカほど、ダメネコ過ぎて可愛いようだ。特に訪問看護師たちは、親の目でみている。

プチとコトラちゃんとのギャップが大き過ぎて。家の物も、たくさん、たくさん壊してくれた。

障子・網戸・襖・花瓶・食器・置物・革張り応接セット・壁紙・畳・などなど。

茶太郎は御年十ヵ月で人間なら中学校に入学する、成長盛りで疲れ知らずの元気いっぱいのわんぱく者である。

訪問看護師が想定していた「適度なストレス」は、千幸には桁違いの大きさのストレスであった。

晩年のプチが出来なくなった、階段の全速三段飛び上り下りや、カーテンレール上の伝い歩き、そこからダイビングしベッドで寝ている千幸の腹に着地。

トラブルもストレス源のバーゲンセールだ。

ヘルパーさんが玄関扉を開けて入って来る際に、足もと隙間から飛び出す。ゴミの始末をしに勝手口を開けると、ヘルパーさんの肩越しに外へ飛び出す。

脱走の前科は数えきれない。

特に夜ケアにヘルパーさんが来たときに脱走した折には、即戦力の耐ストレスが必要だ。

茶太郎が遊び疲れて帰って来て家に入れる様に、千幸ベッド横側のベランダサッシを開け放し状態で朝のヘルパーさんが来るまで待つしかない。

夏場は蚊や虫が大喜びで、入りたい放題だ。心配で眠れぬ千幸の顔面を容赦なく刺しまくる。

脱走外出時は、向こう三軒両隣の庭にウンコしまくり涼しい顔でご帰宅なさる。

「ペットを放しがいにしないで下さい。糞害で困っています」

町内回覧板に掲載もあった。

菓子折り持参で、ヘルパーさんに車椅子を押してもらい、町内を陳謝回りもさせてくれた。

我が家の庭でも、ヘルパーさんが季節の花でガーデニングしてくれるが、プランター中には必ず、茶太郎が糞尿で天然堆肥してくれる。


 想えば、プチも幼少の頃は桜が丘宅の広い庭で、走り回りや近隣の庭に不法侵入するは、木登りなど、日没過ぎるまで遊び回っていた。

千幸が障害を負い小屋に軟禁生活を数年間強いられ、糖尿病を持ちここに来た時には、そんな元気も失せてしまっていた。

プチがこの家でやりたかったことを、茶太郎が代わりに、やりたい放題しているようだ。

千幸の夕食後にはコトラと同じように、千幸の股間で安心かつ気持ち良さそうに眠っているのを見ると、ワンパクかつストレス大量生産してくれた事は忘れてしまい、癒される。

ヘルパーさんにご飯をもらう時は、ゴロゴロと喉を鳴らしコトラちゃんが擦った柱の跡を同じように茶太郎も頬で擦っている。

そして、千幸の体調が悪い時は、茶太郎が傍らでおとなしく寝ている。また茶太郎の食欲がない時や尿量が少ない時、一晩中帰って来ない時など、千幸は心配で仕事に集中できない。

そんな茶太郎を、富美子の遺影が微笑んで観ている気がした。


今年の気候は茶太郎の真似か、大暴れである。

強い寒気で降雪を携えた冬の寒さで風邪をこじらせ、千幸は喘息で入院してしまった。

春到来でも、暖かい気温が平年を大幅に上回ったと思えば、寒気が南下し東京では最も遅い降雪を記録した。

血圧の調整と体温コントロールが不調な頸髄損傷の千幸には、加齢のせいか体調が優れず気落ちしている日々が続いた。

気落ちの原因は、本人が重々承知していた。受傷して一五年間。

いや病院の窓から見える満開の桜にも気がそぞろで分娩室からの声に耳をそばだてていた、我が子の産声から、二十五年。

健太が就職で家から、親から巣立つ家族の大きな節目の春を迎えたからである。

茶太郎は相変わらず健太にも噛みついて半年が経ち、健太の部屋に居ることが多くイタズラし放題だが、一つの布団で寝るのが常と成っていた。

健太が出ていく際にくれたSDカードには、五百枚以上の茶太郎の写真が写されていた。

そして健太は、「あ・うんのミッション」を茶太郎に言ってしまった。

「チャタ。お父さんを頼むぞ」と。


加藤家の表札は、千幸と茶太郎の二人だけの住処と成った。

そんな日々を365日過ぎた頃、千幸は納得できそうな未知解が見えて来た。

「茶太郎はプチなのだ」

「茶太郎はコトラなのだ」

そして「茶太郎は富美子でもあるのだ」

「茶太郎は亡き父母の想いも持っている」

皆の個々生命エネルギーは、この世では宿っていた身体が無くなったら、火の鳥に例えられる宇宙全体の大きなエネルギー体に吸収される。

そして大きなエネルギーからほんの一部が分離し、或るものはまたこの世に存在している。分離と融合を繰り返しているのが、存在のありのままのすがたなのだろう。

これこそが真理、仏陀が最後に説いた、宗派を超えた「仏性」「実相」と呼ばれる、生物から物体のすべてに在るエネルギーのことであるのだろう。

他の宗教では、それを「神」と呼んでいるのだろう。

だから茶太郎自身は自覚して無いのだろうが、プチ、コトラ、富美子、母親、父親をはじめ多数の生命エネルギーをヒュージョンされている。

だから、千幸の脚の間で眠ることも、庭の樹に登ることも、時おり暫しのあいだ千幸の顔を凝視するのも、いわゆるデジャブなのだろう。

千幸自体が彼らの「原風景」であったのだ。すべてが繋がっていたのだ。

先祖、友だち、知り合い、ネコたち、時空を超えて千幸を知る皆の「原風景」であったのだ。


 千幸は寝返りをすることが出来ない。スマホを操作する手指も麻痺している。

夜間に目が覚めてしまい、夜明けまで天井の模様を眺めている時があまたある。

そんな長い時間は、自分が障害を負ったこと、不孝を悔やむ両親のこと、何とか育てあげた健太のこと、辛い時にはハグさえしてあげればよかったと悔いる富美子のこと、仕事のこと、ヘルパーさんのことなど。

二十年近くの間、たくさんの時間、想い、考えて来ている。

「瞑想」に近い修行の様だ。

 心穏やかに生きられるために、すがる様に本をネットで読み漁った。

小説の中の人生、エッセイからの著者の考え方、そして宗教や哲学の人文思想関係の本。

そして、知らぬうちにジャンルが淘汰され、仏陀の説くことが、千幸の迷いや葛藤を鎮める、安らぎに効果を感じた。

 千幸の稀有な人生因果、今この時も自在にできぬ己の身体、そして無我夢中でいつの間にか辿り着いてしまった六十五歳という高齢。

孔子のたまう「六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず」

改めて、これが座右の銘に成って来た。

「心のおもむくままに行動しても、道理に違うことがなくなった」と。

二十年間、三六五日、二十四時間、「自力」で出来る事が殆どない千幸の暮らしを造り支えている「他力」には、感謝の念しかない。

「感謝します」は対面では気持ちが通わない。「有り難い」「有り難うございます」「ありがとう」の方が同じ空間、同じ時間で交わすには言霊が伝わることを知った。

「お陰さまで」のひと言の方が、千幸が暮すには「感謝」より遥かに言霊を表せるのも知った。

人付き合いのマナーではなく、自分が心穏やかに日々の暮らしを過ごすのに重要なことは、「勘のツボ」と「感の沸点」を加齢と共に低く成っていくのも心得ることができた。

ヘルパーさん、訪問看護師の「慈」にて積み重ねられた二十年間、様々な生き様や考え方に接し、「障害を受け入れる」己の在り方を六十五歳にして会得できてきたと感じる。


              ◆


二十年間、毎朝八時、

「おはようございます」

来なかったことのないヘルパーさん。

「おはようございます。お願いします」

と、昨夜十時に寝かされたままの状態の布団内で答える。

「今日はいい天気だよ。調子はどう?」

と、千幸のベッド横南側カーテンを開けながら顔色を観ている。

「ありがとう」「足先を布団から出しておいてもらって、お蔭さんで良く寝られた」

と、今日もまた始まる。

夜間に暑かろうと寒かろうと、自力で布団を剥いだり、かぶったりできないので前日の布団の選定と掛け方が、翌日の暮す力を大きく左右する。


夕方、午後四時半頃に毎日、千幸は茶太郎が寝ている二階の部屋に行くのが習慣だ。

西側の窓辺に香箱座りして、夕焼けの陽だまりから電柱の雀や、道行く人を眺めている。

茶太郎にブツブツといろんな思いや出来事を、心で話しかける。

健太がプチとコトラの小屋に居座り、たくさんの話をしていたのと同じことをしている。

「またオヤジが難しいこと考えとるワ」

と、茶太郎が千幸の車椅子膝に乗って来る。

「柔らかな陽を浴び、オヤジがここまで来ることができて、オレの相手をしてくれる。その一瞬、一瞬が嬉しくも安らぎ心地よければ、オレはノー・プロブラムだぜ」

茶太郎に何度となく教えられる。

「空の移り行きを眺め、耳をすまし鳥の声を知り、香りで季を吸い込み、肌で昼夜が移りゆくのを知り、口から旬を味わう。感覚と意識だけで過ごし、それから今を思い、考えれば良いじゃないか」

やっぱり茶太郎は全てが解かっている、火の鳥から出て来て「実相」を知っている。

「オヤジは生半可の知識で、またもや難しく理論付けようとしている。誠に難儀でアホや!」

茶太郎が千幸の想いに、耳さえも傾けようとしない。ただゴロゴロのどを鳴らしている。

「六根清浄」感覚と意識だけで、今この時を過ごせば良いじゃないか、と言っているのだろう。


プチ・コトラ・ケン桜は今年もたくさんの「陽光」に近い濃い桜色で魅せてくれた。

ツボミから開花し散り行く花を二十年間ベッドから五感で感じ、千幸は想った。

満開に咲き乱れている花は確かにきれいだが、すぐに見飽きてしまう気がする。

それよりも五分咲きぐらいの方に、かえって風情を感じる。

満ちたりた状態というのは、だれでも願うところだが、それが果たして幸せなことなのかどうか、よく分からない。

「曲がって立っている樹の方が、根っこはしっかりしている」

しかし、

「立っている樹の根っこは、人には見えない」

「花を見て、根っこを思う人になりたい」

まわりから見て、なんの不自由も心配もなさそうな人がいる。

しかし、そんな人に限って意外に深刻な悩みをかかえていたりする。

それに、満ち足りた状態というのはおおむね長続きしない。

千幸のように一瞬で人生の舞台が回ることもある。

登りつめたら、満開の花がすぐ散っていくように、転落する日も近いと覚悟すべきだろう。

だから、いろいろ悩みも尽きないということになるようだ。

だから、満開、絶頂はあまり誉められた状態ではないかもしれない。

むしろそこまで登りつめないで、ほどほどのあたりが理想ということなのだろう。


茶太郎も今秋で十四歳、人間年齢なら七十歳くらい。往年の毛艶は失せてしまった。

親の温もりも知らずに生きてきた。千幸をオヤジでなく父親と信じている。

車椅子の膝に乗っている時、スティック装具で眉間を撫でてやると手足を踏み踏みしている。

千幸の股間でゴロゴロするための、ベッドに飛び乗る力も、今はもうない。

晩年のプチと同じように、千幸のベッドに上がるのも、ジャンプでピョンでなく、布団を手で掴んでからヨジ登ってくる。

千幸は昨年六十五歳に成り、介護保険で公的支援を受けて訪問介護にて暮している。

障害を受けて在宅介護生活も四半世紀が過ぎている。

豊田の終の棲家に辿り着いて、二十年以上が過ぎ、健太が巣立って十二年。

昨年、千幸は心疾患も持病に加わってしまった。心房細動は3回のカテーテル手術で治まった。

しかし、高度狭心症が見つかり数多くの服薬が、一生ものに成った。

二十五年間、歩けず立てず肩から上半身のみの生態には、受傷前のスポーツ心臓は必要ない。

つまり身体の「退化」が進行していたということだ。

既往症を持ってしまったので、微かな希望であったiPS幹細胞による再生医療治験への参加も夢の泡と失せてしまった。

飛行機は飛び立つ時より着地が難しいという。

墜落せぬよう懸命に護り抜いた千幸一家は、障害老人独居に成っていた。


「なあ茶太郎、俺たち、やるべきことはやったよな。もうここらでよかろう」

茶太郎は千幸に話しかけられると、いつもの様に目をパチパチしてくれる。


そして、今日は最後の瞬きが、いつになく大きく長い間、瞼をとじて応えてくれた。


                                     了

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ネコと車椅子 加藤茶太郎 @chewkey

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