変わり果てた世界で、それでも変わらない僕らは

プラナリア

変わり果てた世界で、それでも変わらない僕らは

 僕の眼前には、しんとした砂の海が広がっていた。月明かりの下でさえ、砂は鮮やかに赤い。月光と影の対比コントラストが、果てしない真紅の縞模様を描く。風が吹くと光と影が移ろい、新たな模様が現れては消えていった。遥かな地平線からは、もう一つの月が昇ろうとしていた。中天の月と双子のような満月で、ゆっくりとその後を追いかけていく。二つの月を眺め、ふと影はどうなるのだろうと足元を見たが、赤い砂が光るばかりだった。無意識にスーツのポケットを探り、止める。無駄だ。スマートフォンも時計も、以前の世界と僕らを繋ぐものは何も無い。

 もう何日経ったのか分からない。飲食を忘れ、疲労も感じないまま、僕らはただ歩き続けている。

 前を歩く彼女を見る。風にショートカットの黒髪が巻き上げられ、制服のスカートが揺れる。けれど僕と同じように、その足元に影は無かった。

 不意に彼女が振り向いた。射抜くような強い眼差し。僕は思わず目を逸らし、おどけてみせる。

 「今日は砂漠。ここ、一体何処なんだろうな。そろそろ誰か現れて解説してくれないかな、それがセオリーだろ?」

 彼女は表情を変えず、きっぱりと言った。

 「誰も来ない」

 僕は黙り込む。僕らの間を、赤い風が吹き抜ける。風の音に紛れるような、小さな呟き。

 「……私はもう、何も要らないから」

 彼女が足を踏み出す。その足取りは、いつだって迷いが無い。僕は無言で後に続く。

 どれだけ歩いても二つの月は沈む気配を見せなかった。前を歩く彼女が立ち止まったのを合図に、僕は砂の上に仰向けになる。背中に伝わる、ひんやりした砂の感触。傍らに彼女が横たわると、辺りは静寂に包まれた。月達に見守られ、そっと瞼を閉じる。僕らは生命の営みを放棄していたが、眠りだけは訪れた。砂底に引きずり込まれるような眠りの中で、どちらからともなく手を繋いだ。何の法則も無いこの世界で、唯一つの約束みたいに。

 まどろみの中で、湿り気を帯びた土が指に触れた。濃い緑の気配と、清々しい花の香り。目を開けると世界は一変しており、一面に緑の絨毯が広がっていた。何度か瞬きをして、それが分厚く積もった苔なのだと気付いた。辺りは鬱蒼とした木々に覆われ、樹冠から光の帯が射しこんでいる。頭上には白木蓮の巨木が枝を広げていた。無数のかがり火のような白い花。風も無い中で一枚の花弁がひらりと枝を離れ、ゆっくりと舞い落ちていった。

 僕は身を起こし、繋いだ手の先を見た。横たわる彼女の寝顔に木漏れ日が射し、ちらちらと揺れている。僕はその陽射しを遮るように体の向きを変え、小さな手を握り直した。安らかな寝息に耳を傾けながら、もう一度瞼を閉じる。




 初めて彼女に会った場所は、高校の教室だった。僕は新任教師として、彼女は新入生の一人として、教卓を挟んで対峙した。お互い特に感慨は無かったと思う。僕はクラスの生徒の名前と顔がまだ把握できずにいたし、彼女は学校にも学友にも担任にも、何の期待もしていないように見えた。

 流されるまま私立高校で教鞭をとることになった僕は、程なく荒廃した学校の現状を知ることになった。前の授業の板書が残ったままの黒板。授業中でも構わず廊下にたむろしている生徒達。教卓から見渡せば、大半は寝ているかスマートフォンに見入っているか。一部の生徒が、傀儡のような無表情で板書をノートに書きつけている。誰とも視線が交わらない僕は、透明人間になったような気がした。

 彼女はいつだって窓の外を眺めていた。ノートは空白のままで、僕の声は耳にも入らない様子だった。教室の彼女の瞳は虚ろで、抜殻を思わせた。

 古藤ことう、というのが彼女の名前だった。その鋭角の響きは、ポツンと佇む灯台を連想させた。彼女はいつも、独りだった。

 生徒達は櫛の歯が欠けるように学校から消えていった。最初は戸惑った僕も、次第に退学届を受理するのに慣れていった。職員室はいつも淡々としていて、厄介事を持ち込む生徒がいなくなることに安堵する様子さえあった。潮が満ちては引くように抗いようのない流れがあり、やがて彼女の姿も教室から消え始めた。けれど、彼女の場合は他の生徒と事情が違っていた。

 出席名簿に空白が目立ち始めた彼女を、僕は生徒指導室に呼んだ。積み上げられた段ボールや詰め込まれた本棚で窮屈な小部屋は、入るだけで気が滅入った。色褪せた木製の机を挟んで、二脚パイプ椅子を並べる。けれどこれまで呼び出した生徒が来た例は無かったので、僕は机に資料を並べ授業の下準備にとりかかった。校舎の外れに位置する小部屋は、放課後の喧騒からも切り離されている。僕が資料を繰る音に交じって、壁時計の針が動く音がひときわ響いた。時計を見上げ約束の時刻だと気付いた時、唐突に扉が開いた。そこには無表情の彼女が立っていた。

 「あぁ、古藤」

 ぽかんとした僕は、慌てて資料を脇にどけた。彼女は無言のまま僕の向かいの椅子に座った。真正面から向き合うと、彼女の印象は一変した。日頃の無気力さとは裏腹に、その黒目がちな瞳には別人のような強い光が宿っていた。それは奔流のように彼女の中で渦巻き、うねり、出口を求めているように見えた。今にも声を発しそうな様子に僕はしばらくその言葉を待ったけれど、赤い唇は固く引き結ばれたままだった。僕は吊り橋を渡るような気持で、そっと口を開いた。

 「来てくれてよかった。……古藤、最近欠席が増えたよな。どうしたんだ?」

 彼女は沈黙で答えた。僕は視線を落とす。授業にも身が入らず、会話する友人もいない。登校するより欠席する方が自然に思える。もしかしたら彼女の心は既に決まっていて、それを僕に伝える決心をしたのかもしれない。けれど彼女の場合、まだ退学してもらう訳にはいかなかった。仕方なく、僕は次の台詞を口にする。

 「保護者とも話がしたいんだ。何度か連絡してみたんだけど、時間が合わないようでね。仕事が終わった後でもいいから、学校に連絡するよう伝えてもらえないか? なるべく早い方がいいんだが」

 途端、彼女の瞳がぎらりと僕を見据えた。

 「話って、学費のことですか」

 怒りが滲む声に気圧され、僕はたじろいだ。欠席も退学も珍しくはないが、彼女の場合は違う。彼女の親は入学後一度も校納金を払わず、度重なる督促にも応答せずにいた。狼狽える僕を見つめ、彼女はふっと嘆息を落とした。

 「またか。あの人のことだから、そんなことだろうと思った」

 「……お母さん、仕事忙しいのか?」

 彼女の父親は単身赴任中、母親も稼働中の筈だった。不穏な彼女の事情に手探りで近寄ろうとする僕を、硬い声が突き放す。

 「あの人に言っても無駄です。私は、どうでもいい存在だから」

 「え?」

 話が飲み込めない僕の耳に、彼女が椅子から立ち上がる音が響いた。そのまま僕に背を向けようとする。立ち上がった僕は知らず手を伸ばし、その華奢な腕を掴んでいた。

 「古藤、お前大丈夫なのか」

 振り返った彼女の炯炯けいけいとした瞳が僕を射抜いた。怒りに満ちたその瞳は、泣き出す寸前のようにも見えた。次の瞬間、彼女は激しく僕の手を振り払った。バランスを崩し机に手をついた僕の目前で、荒々しく扉が閉まる。慌てて扉を開けた時には彼女の姿は無く、走り去る足音が遠ざかっていった。僕は深く息を吐いた。抜殻のようだった彼女が見せた、強烈な眼差しが突き刺さっていた。


 彼女を再び捕えることはできなかった。間もなくテスト期間に入ると、彼女の姿は完全に教室から消えた。母親とは連絡がつかないままだった。放課後、僕は彼女の自宅へと向かった。未納金回収のために各方面から話がきていたのもある。けれどあの日の彼女の姿が焼き付いて、そのままにしておくことができなかったのだ。

 かつては真っ白だったのだろう灰色にくすんだマンション。片隅の階段を昇った先に、目的の部屋はあった。土埃にまみれた室外機、真っ黒に塗装されたドア。窓は固く閉じられ、もう夕暮れだというのに灯もついていない。インターホンを押すと室内でチャイムが鳴ったが、返事は無かった。躊躇いながらノックをし、学校名と名前を告げる。何事も無かったように、世界は静まり返っている。為す術もなく、踵を返した時。

 ドア越しにガチャンという重い音がした。僕は息を詰めてドアを見つめたが、それが開く気配はなかった。思い切ってノブに手を掛けると、抵抗も無くすぅっと内側に開いた。中に入ると、薄暗い玄関には古藤のものらしいスニーカーだけが脱ぎ捨てられていた。玄関も廊下も家族の生活を思わせるような小物は一切無く、借り物のようによそよそしい。視線を移すと玄関のすぐ横に小部屋があり、外から見えた窓はその部屋のものらしい。扉が僅かに開いていて、中から微かな音がする。

 「古藤?」

 呼びかけに返事は無く、沈黙が続く。いつかの彼女の言葉を思い出した。

 どうでもいい存在。

 僕は靴を脱ぎ、彼女のスニーカーの横に揃えた。廊下を進んだが、拒絶の声は無い。扉をそっとノックし、静かに開ける。そして、広がる光景に息を呑んだ。


 


 目の前には、果てしない海が広がっていた。それが本当に海なのかどうかは分からない。水面は凪いでいたし、水深は僕の足首あたりまでしかない。けれど見渡す限り島影は無く、それを海と呼ぶ他思いつかなかったのだ。コバルトブルーの空には、雲一つ無い。海が鏡のように空を映して輝く。一面の青の世界。これがもし絵画なら、僕らは空の中を歩いているように見えただろう。

 彼女は靴も靴下も脱ぎ捨てていた。僕もそれに倣った。陽に照らされた水はあたたかく、白い砂は素足に柔らかかった。彼女が足を上げる度に小さく水飛沫が跳ね、濡れた素足に光が踊った。



 薄暗い室内の床には、デッサンが敷き詰められていた。スケッチブックを破り取ったらしいそれらは、全て風景が描かれていた。僕は足元の一枚を拾い上げた。岩をスケッチしたらしいそれは鉛筆で丁寧に濃淡が描きこまれていたが、途中で黒く塗りつぶされていた。僕は床に広がるそれらを踏まないよう、一枚ずつ拾いながら進んだ。

 彼女は机に向かい、一心に鉛筆を動かしていた。カーテンの隙間から射しこむ西日が、その横顔を照らしていた。部屋には小さな机とチェストがあるだけで、少女らしい装飾は一切無かった。けれど彼女の横顔は、教室に居た時より和らいで見えた。彼女の右手は砂漠を描き出そうとしていた。砂は複雑な縞模様を描き、果てしなく広がっている。二つの月が浮かぶその世界を、彼女の瞳は瞬きもせず見つめていた。

 机の正面には、幾つかのデッサンが無造作にピンで留められていた。僕はそのうちの一枚に目を留めた。空を映した海。白黒の鉛筆画に、鮮やかな青が重なった。

 「ウユニ塩湖」

 僕の呟きに、彼女が手を止めた。大きな瞳が僕を見上げる。

 「ボリビアにある塩湖だ。正式には塩原、広大な塩の結晶。アンデス山脈が隆起した際に、山頂に取り残された海水から形成された。雨季になると塩原に薄く水が張り、鏡のように空を映す『天空の鏡』が現れる。それがモデル?」

 瞬きした彼女の瞳が、悪戯っぽい光を浮かべる。

 「いや、なんとなく見えたものを描いただけ。せっかく説明してくれたのに、悪いけど」

 決まり悪く黙った僕に、彼女は笑いかけた。白い歯がこぼれて、急にあどけなく見えた。

 「さすが、詳しいね。地理教師なだけはある」

 「まぁ、一応」

 「みんな授業聞いてないけどね。案外面白いのに」

 僕が聞き返すより先に、彼女の手が動き始めた。彼女の瞳は再び別の世界に吸い込まれていく。射しこむ夕陽が彼女の砂漠を赤く染めた。見つめる僕の耳に吹き抜ける風の音が聞こえ、二重に重なる月の光が白く輝いて見えた。




 海を歩む彼女が立ち止まった。僕も横に並んだ。

 海と、空と、光だけがあった。山頂に取り残された海水は、海に還ったのかもしれないと僕は思った。海も空も、全てが一つに溶けていくようだ。僕は見たこともない天国を思った。時が止まったような世界で、水底の光だけが揺らめいていた。

 「綺麗だね」

 思わず自分が呟いたのかと思ったけれど、それは彼女の声だった。僕は頷き、不意に涙が零れそうになった。

 海も空も、静かにそこに在るだけだ。それなのに、その美しさは圧倒的だった。全てが許されるような気さえした。

 例えば、僕が永遠に一人彷徨うものだったら。目を閉じ耳を塞ぎ、全てに心を閉ざしていたならば、この風景に何を感じることも無かったのだろうか。

 水面に映る二人は同じ瞳をしていた。僕は君とこの風景を分かち合える奇跡を想った。

 このまま、どこまでも。君と一緒に。




 あの部屋で、それからも僕らは時を重ねた。

 彼女はいつも絵の中にいて、僕はその傍らにいた。静謐な空間に、さらさらと鉛筆の音だけが響いた。

 「描いてる間は、呼吸が楽になる」

 彼女はそんなことを言った。きっとそういう生きものなのだと僕は思った。学校は深い海のようなもので、彼女は泳ぐのに慣れず、その世界の生きものに馴染めずにいる。

 いつ訪れても母親には会わなかった。「仕事」としか彼女は言わなかったが、家の中はいつだって無機質で殺風景だった。

 僕は、母親に会う努力をすべきだったのだろう。或いは彼女と現実的な話をすべきだった。彼女を海に連れ出し、その世界のルールを伝え、泳ぎ方を教えるべきだったのだろう。

 けれど、僕はそうすることができなかった。デッサンの散らばった部屋は奇妙な安らぎに満ち、セピア色の彼女の世界が僕には鮮やかに映った。僕は時折、彼女の虚ろな瞳や激しい怒りを思い出した。彼女なりの戦いがあり、その果てに今があるのなら、この優しい繭の中のような空間で憩わせてやりたかった。いつまでもとは言わない。でも、もう少しだけ。

 生徒を案じる教師を装いながら、僕は何をするでもなく彼女の元を訪れ続けた。時折、僕の視線はデッサンを離れそっと彷徨った。窓辺の淡い光に彩られた、無防備な横顔。僕が惹き込まれたのは、彼女の世界だけではなかった。母親が無断での訪問を許すはずがなかったし、男性教師なら尚更だろう。このままでいいはずは無いと、本当は分かっていた。やがて、その時は訪れた。




 眠りから覚めた時、世界は闇に沈んでいた。体の下の地面はごつごつとして、触れると岩の滑らかさが伝わってきた。目が慣れてくると、鍾乳石のような逆さつららが周囲に浮かび上がってきた。それは、闇に溶けるような紫水晶だった。晶洞に淡い光が浮かんでは消え、まるで蛍が舞っているように見えた。周囲は岩壁に囲まれ、上を見上げると彼方まで薄紫の光が散りばめられている。どうやら巨大な洞窟らしい。暗闇の中で、僕はその仄かな光を頼りに傍らを見た。彼女は眠りから目覚めようとしているところだった。閉じた睫毛が微かに震え、唇から吐息が零れる。僕がその手を握り直した時、彼女の体が一瞬ぶれたように見えた。まるで彼女を形作っている粒子が解け、拡散しようとしているかのようだった。

 「古藤?」

 呼びかけると手がぎゅっと強張り、再び彼女に輪郭が戻った。異変を感じた僕は、彼女を膝の上に抱え込んだ。彼女は悪夢から逃れるように懸命に瞼を開け、僕にうっすらと笑いかけた。その体がもう一度、震えるように瞬いた。

 「……いよいよ、終わりみたいだね」

 僕は答えることができなかった。彼女を繋ぎとめるように両腕を回し、細い体を強く抱きしめた。僕らを悼むように、周囲に紫の光が灯った。

 



 僕らの日々は唐突に終わりを迎えた。

 あの日、研修から戻った僕を迎えたのは、いつになく上機嫌な教頭だった。彼は晴れやかな笑顔で言った。

 「今日、古藤さんがお母さんと来校されました。未納金も払って、退学届を提出されましたよ」

 僕は言葉を失った。教頭は嬉しそうに話し続けた。

 「中学生の頃から不登校気味で、お母さんは進学は無理だと思っていたそうです。三年生の時の担任が熱心な人で、押し切られて受験したんだとか。最初から無理だったんだと言われてましたよ。まぁこちらも、登校を無理強いはできませんからね」

 独りで、それでも登校していた彼女が浮かんだ。何度架けても繋がらなかった電話。無機質な家、怒りに満ちた彼女の眼差し。僕に向かって開けられた扉。口を開きかけた僕を遮るように、教頭は僕の肩を叩いた。

 「先生にも、『お手数をおかけしました』と言われてましたよ。お疲れ様でしたね」

 知っていたのだ、と僕は思った。母親の言葉は、もう関わるなという最後通牒のように響いた。

 僕はあの部屋に急いだ。そこに居たのは制服姿の彼女だけだった。彼女は椅子にもたれたまま僕を見上げた。いつも鮮やかに世界を描き出していた右手は、力なく垂れ下がっていた。

 「なんで来たの」

 乾いた声で彼女は言った。部屋一面のデッサンは消え、隅の籐かごに破れた紙片が突っ込まれているのが見えた。それが彼女の手によるものか、母親の手によるものかは分からなかった。けれど部屋の冷ややかさが、光を失った彼女の瞳が、もう彼女の世界は失われていくのだと僕に告げていた。千切れていく糸をり戻すように、僕は必死で彼女に向き直った。

 「お母さんは?」

 「仕事に戻った」

 「古藤から連絡して、帰ってきてもらってくれ」

 「……なんで」

 「これからのことを話し合わなきゃいけないだろう?」

 僕の熱を冷ますように、ゆっくりと彼女は言った。

 「もう関係ないよ。……働くって決めた。バイトしてお金貯めて、ここを出る」

 『関係ない』という言葉は、僕への拒絶のように聞こえた。静謐なあの空間は失われ、彼女はここから去ってしまう。抜殻のような虚ろな瞳が思い出され、僕の焦燥は募った。一人で、彼女はこれから何を寄す処に生きていくのだろう。

 「中卒じゃ就職も厳しいだろう、当てはあるのか。進路指導の担当に相談してみるよ。だから――」

 言い募る僕に対し、彼女は俯いたままだった。沈黙の中で、ぷつんと糸が切れる音がした。

 僕は立ち尽くした。学校というくびきを失い、教師という仮面を剥がれた僕は、もう何者でもなかった。それでも、僕は彼女と繋がる理由を求めた。彼女の、傷つき破れた蝶の羽のような瞳。全身が引きちぎられるような痛みが走った。同情なのか親情なのか、友情なのか慕情なのか。目の前の彼女は僕の何なのだ。そして彼女にとって、僕は。

 答えられないまま、僕は日に焼けた壁を見つめた。小さなピンの穴と、四角い紙の痕。僕らの記憶だけに残る、真っ青な空と海。込み上げた思いを、深い溜息に封じる。

 「……古藤、顔色悪いぞ。また飯食ってないんだろう」

 返事は無い。僕は部屋を出て、玄関に向かった。破壊の爪痕が残るこの部屋ではなくて、本物の空の下に彼女を連れ出したかった。何も変わらないと分かっていても。

 「一緒に飯でも食おう。奢るよ、餞別だ」

 靴を履いて振り向くと、彼女は顔を上げて僕を見ていた。その唇が開きかけ、閉じる。沈黙の中で、永遠のような時間が通り過ぎた。見つめる僕の前で、彼女はゆっくりと椅子から立ち上がった。一歩ずつ、僕の方へ近づいてくる。僕は誘うように重い扉を開けた。薄暗い室内に、別世界のように眩い光が射しこんできた。

 

 僕らはあてもなく住宅街を歩いた。彼女は僕の後ろを黙ってついてきた。昼下がりの街に人はまばらだったが、すれ違う人は制服姿の彼女とスーツ姿の僕に訝し気な視線を投げた。僕は歩きながら、やがてこの道を戻ってくるのであろう僕らを思った。あの無惨な部屋に彼女を置き去りにすることを思うと、堪らなかった。このままずっと二人で歩き続けていたかった。

 空は穏やかに晴れ渡っていた。澄んだ静かな青だった。

 気付くと大通りに出ていた。交差点の歩行者信号はちょうど赤になったところで、立ち止まった僕らは横に並んだ。信号を待つ間も、僕らに会話は無かった。車の列が行き過ぎ、やがて止まり、沈黙の内に信号が変わった。静止していた世界が一斉に動き出す。

 隣で歩き出した彼女の向こうに、右折してくる車が見えた。違和感が過る。止まるはずの車はスピードを緩めず、みるみるうちに眼前に迫ってきた。目を見開いた運転手の、ハンドルを握りしめた手。振り向き、全身を強張らせた彼女。

 なぜ、と問いかけたのを覚えている。

 なぜ。問いかけながら、傍らに手を伸ばした。時間の流れがひどくゆっくりになり、一つ一つの瞬間が僕に焼き付けられていくような気がした。抱き抱えた細い肩、揺れる髪、腕の中の君が小さく息をのむ音。悲鳴のような急ブレーキ、轟音、反転した世界。空。どこまでも澄んだ、静かな青。


 なぜ。

 なぜ、空は僕の願いを知っていたのだろう。

 



 再び彼女の全身が明滅した。周囲の水晶が呼応するように光り、僕らは薄紫の野にいるようだった。

 「ごめんね、巻き込んで。……私が死ねば、あなたは戻れるかも」

 掠れた声に、僕は首を振った。握りしめたはずの彼女の手が、ふっと闇に消える。僕の口から、悲鳴のような嗚咽が漏れた。

 もう離れない。そう決めたはずなのに、君の細い体が透き通っていく。足元の地面が崩れ去っていくような気がした。僕をまっすぐ見据えた瞳。あどけない微笑み。柔らかな横顔。全て消えてしまう。

 『私はもう、何も要らないから』

 呟きが甦る。

 君は僕の何、僕は君の何。その答は知らない。けれど君がいなければ、僕は僕でいられない。

 残された君の片手に震える僕の手を重ね、そっと頬に引き寄せた。涙は溢れるままに、瞳を閉じる。

 何処であってもいい。この先どうなっても構わない。

 このまま、どうか。君と一緒に。



 呼ばれたような気がして瞳を開けると、世界が変わっていた。風景に形は無くて、一面虹色に輝いている。眩い光の中で、僕は自分が体を失っていることに気付いた。きっと僕自身も光の一部になったのだろう。傍らには、誰の姿も無かった。それでも、君の気配だけは変わらず感じられた。僕らはあるはずのない瞳を見合わせ、一緒に微笑んだ。君が歩き出す。僕は後に続く。周りで虹色の光がゆらゆらと揺れる。僕らは永遠に辿り着いたのだろうか。浮かんだ思いすら光の中に溶けていき、僕らはただ歩き続ける。

 変わり果てた世界で、それでも変わらない僕らは。

 傍らに君がいる。それだけ。ただ、それだけだ。


         〈了〉


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