涙の海を金魚は泳ぐ

藤咲 沙久

滴る雫


「女の涙って強いわよね」

 源氏名を“弘子ひろこ”と名乗ったその人は、面接を始める前にポツリとそう言った。唇に引かれた紅が美しい。私はそれを金魚色だと思った。子供の頃、ほんのわずかな時間ウチにいた金魚と同じ色。私にしかわからない表現たから、口には出さなかった。

「さ、バイト希望だったわね。募集の貼り紙してる最中に声かけられるなんて驚いちゃった。でも助かるわ、茂実しげみちゃんが辞めたばかりで困ってたの。こんな小さな店でもアタシ一人じゃ回せないもの」

 二匹の金魚が優雅に泳ぐのを眺めてから、私は視線を巡らせた。営業時間より早い店内はまだ「仕事前よ」と言うようにすっかり歓楽街の顔を潜めている。ナポリタンとコーヒーを出されたとしても大きな違和感はないだろう。どこか昭和を思わせる居心地の良さ。なんだか気持ちが落ち着いた。

 その中で煌びやかに着飾る弘子さんだけが夜を湛えていた。綺麗なのに、不思議と浮いているようにさえ感じた。

「シゲミさんはどうして辞められたんですか」

「あら、聞いてくれる? 常連の女の子がいたんだけど、茂実ちゃんその子がお気に入りでね。それがこないだ男に捨てられたってひどく泣いちゃって」

 ちょうど今座ってるとこでよ、と弘子さんが私の方を指差す。いつかの夜、悲しむ女の子を二人で慰めてたのだなと想像してみた。ここが優しい場所に思えた。今は輝きを失っているミラーボールも、彼女たちを優しく照らしたことだろう。

 腰を沈めたソファをそっと撫でる。滑らかで古びた手触り。涙の跡が残っているような気がした。

「女性のお客さんも来られるんですね」

「こういう店には多いものよ。でもその子があんまり泣くものだから茂実ちゃん、自分が彼女を支えようと本気になったみたいなの。そのためにもっときちんと働くって、昨日出ていったわ。アタシたちの友情は涙に負けちゃった」

 笑っているのに、弘子さんの方こそ泣きそうだった。きっと私にはわからないだけで、この空間にはシゲミさんの名残がたくさんあるのだ。声が、匂いが、気配が染み込んでいる。すぐに募集を始めたのも恐らく、業務のためだけではないだろう。

 私はシゲミさんのことを知らない。でも、それだけ愛に誠実な人は、弘子さんとの友情を忘れたりしないんじゃないか。だから弘子さんにも泣かないでほしくて、私は丁寧に言葉を選んだ。

「シゲミさん、本当にその方のこと好きだったんですね。それはとても素敵なことです。あとは、想いが通じるといいなと思います」

「ええ、そうね。あーあ、アタシも別れ際にあれくらい泣かれたいものだわ。……やだアタシったら長々と。ごめんなさい、まだ名前も聞いてないじゃない」

 程よい長さに飾られた睫毛をパタパタとさせて、弘子さんは私の向かいに腰を下ろした。栗色の毛先がそれに併せて揺れる。背筋の延びた、頼もしい座り姿だった。

「いえ。私、田中たなかといいます。履歴書あるんですけど、お渡ししてもいいですか」

「ま、飛び込みなのに用意がいいこと。頂くわ」

「この辺りでずっとバイト探してて、何枚か持ち歩いてるんです。ここを見つけたのも本当に偶然で」

 カバンを開け、中のクリアファイルから用紙を一枚引き抜く。プリントした文字を「今時の子ね」と笑われた。何か変だっただろうか。印刷したのがネットカフェだとわかるとか? そんなまさか。

 きょとんとしてしまった私のことを、弘子さんはまた笑った。そのまま、それ以上は突っ込まずに書類へと目を落とす。アイシャドウのグラデーションがキラリと光った。

「あらぁ、この写真お化粧前? 素顔も可愛らしいわ。名前は田中……田中優希ゆうきちゃん。人と被りやすい名前って苦労するわよね」

「ユキともユウキとも読めるし、どちらにしても男女共に多いですからね。今の苗字になってからは特に紛らわしいです」

「今の苗字? あ、これ聞いても問題ないやつかしら」

 思わず反芻してからハッとしたようだ。どうやら弘子さんは素直で優しい人らしい。私としても慣れた話題なので、何ひとつ気まずいことはなかった。だからニコリとして見せた。

「私の母、結婚と離婚を繰り返してるんですよ。籍を入れられない間に付き合って別れた人もいるから、父親のような存在は苗字の数以上にいましたけど」

 学生時代、ころころと苗字が変わる私はいつも名前で呼ばれていた。周りには“結城”とか“優木”とか、そういう苗字だと勘違いしていた人もいるかもしれなかった。

 私にとって苗字はアイデンティティでもなんでもない。親しい人たちが口にしてくれる、優希という名前だけで十分だ。母も父たちも、私を可愛がって呼んでくれた。それでいい。

「モテるのね、優希ちゃんのお母様。あなたが美人なのもお母様譲りかしら」

 気を遣ってくれたのか、弘子さんはどこか考えるような表情をしてからそう言った。一般的な家庭ではない自覚があるので、異端と扱われても仕方ないと思っているのだが。

「実父のことはよく知りませんけれど、たぶん母似です。面白がってか、よく化粧を教えられました」

「だから上手なんだわ。アイラインなんて最高の仕上がりじゃない。ふふ、アタシの古い恋人にもそんな人がいたのよ。綺麗なお顔を放っておけない質だったの。彼女も同じことをしそう」

「女性だったんですか」

 反射的に聞いてしまったのは私も同じだった。失礼な問い掛けをどう謝ればいいか迷っていると、弘子さんの金魚がまた、水面を撫でるようにゆったりと泳いだ。

「アタシ、こう見えてバイなの」

 その言葉は、決して重みを感じさせない柔らかさで響いた。でもそれは違う。私が初めて自身の家庭環境を異質だと知り、戸惑いを飲み込むのに掛かった、その何倍もの時間がじわりと伝わってくる気がした。

 弘子さんは素直で優しくて、きっとたくさん傷ついてきた人。私にはそう思えた。そして、自分のことは開き直れても、他人の開き直りは受け止めたことがなかったのだと気付いてしまった。私の過去に対して、周りはいつもこうやって動揺していたのか。

 何も返せない私に、弘子さんはもう少し話を続けた。

「彼女の家に転がり込む形で同棲までしたわ。でもアタシの中で女性性が強すぎたのね。相手を女でいさせてあげる自信がなくなっちゃった。それで別れたの」

「……その、好きじゃなくなったわけじゃ、ないんですね」

「ふふ。可笑しな話に聞こえるかしら?」

 弘子さんの目を見つめたまま首を左右に振る。感じる重さは違うだろうが、私も私なりにマイノリティを生きてきた。自分が間違っていないと思えればいい。弘子さんが決断を悔いていないのなら、それでいいのだ。何も可笑しくなんてない。どうにかそう伝えたくて、必死で言葉をかき集めた。

「弘子さんは優しいです。シゲミさんのことも、常連さんのことも、恋人のことも、みんなを思いやってると思います」

「あらあら、優希ちゃんは良い子ね。ねぇ、面接なんて言っても、根掘り葉掘り聞くつもりはないのよ。この街で働く人はみんな訳ありだもの。……でもあなたさえ良ければ、もっとお話しして欲しいわ。いいかしら」

 渡した履歴書でなく、私のことを見ながら問うてくる。そこに書いてある以外の「私」を求められているのだろうか。そうなると先程のように明るくない話しか出来そうにない。

 だけど、弘子さんならそれも許してくれるのではと、私はこの短い時間で感じられるようになっていた。

「……私には、学も金も体力もありません」

 声に出してから、自分がやや緊張しているとわかった。恋多き母の邪魔になるまいと自立を切り出した日と、少し似ていた。

「昔から戸籍上の父だったり、そうじゃない父だったり、色んな人と生活してきました」

 いつも家に居る人、いつも家に居ない人、本当に色々だ。そして皆、最後には母のもとを去った。でも、私たち母子に冷たくあたるような男はいなかったことを幸せに思う。今の父もそうだ。母と二人、睦まじく暮らしている。

 弘子さんは黙って聞いてくれていた。私は少しだけ深く息を吸って、吐いた。

「年上の男性とお話しするのもお酌をするのも、私にとって自然なことです。むしろそれくらいしか出来ない人間です。でも私、こんなだから、そうやって働けるお店も中々なくて。そしたら、ここの看板を見つけました」

 そっと胸に手を当てるが、化繊の生地がシャリと鳴っただけだった。肉の薄いそこはまったくの平らだ。いくら見目が良くとも、この身体とのギャップは常に付いて回る。

 私は私のことが嫌いじゃない。間違っていると思わない。ただ、居場所が少ない事実は確かに存在しているのだ。

「看板に吊るされた金魚のオブジェがあまりにも綺麗で。気付いたら弘子さんに声を掛けていました。とても惹かれたんだと思います。金魚は……父との思い出だから」

「……ええ、ええ。とても綺麗よね。アタシも好きよ、あの金魚。この口紅と同じオレンジだわ」

「実は私も同じだなと思っていました。金魚色ですね」

 ついクシャリと笑って言う。すると、弘子さんの唇がわずかに震えた気がした。一本いいかしらと聞かれたので頷けば、弘子さんは上着のポケットから煙草を取り出した。ライターを着火させてもらおうと構えたが、弘子さんが横に並べたのはマッチ箱だった。マッチは点けたことがない。私は大人しく、吐き出される煙を眺めるしかなかった。

「その思い出のお父様は、どんな方だったの?」

 今日で一番小さな声だった。また弘子さんの唇が震えたように見える。私も何か、胸に不思議なものを感じながら小さく答えた。いつも繋いでくれたあの大きな掌を思い出しながら、答えた。

「彼らの中でも、母から“ムー”と呼ばれていた父です。私も幼かったので本名は覚えていません。とても穏やかな人で、私は金魚という生き物をムーさんから教わりました。私は彼が大好きでした」

 あの頃は知らないことがたくさんあって、泳ぐ魚を見たのも初めてだった。水中で舞い踊るオレンジがとにかく綺麗で、それを軽やかに掬い上げるムーさんはヒーローみたいだった。もっと、ねぇもっと、とねだった夏が懐かしい。ムーさんも得意気に腕を振るってくれた。

 でも、あの金魚は私のせいで長く生きられなかった。

「……金魚と言えばね。アタシ、息子がいたの。息子といってもさっき話した恋人の子供で、アタシは短い間一緒に暮らしてただけ。まだ本当に小さい子だった」

 このくらいだと示されたのは、親指と人差し指で作った数センチだ。一寸法師になってしまう。だからそれはサイズではなく、弘子さんにとっていかに脆くか弱い存在だったかを表しているのだろう。

「お祭りでたくさん金魚を掬ったけど、家に水槽なんてなくてね。何か見繕ってくるからって出掛けてる間にあの子、どうしたと思う?」

 私は数度、瞬きをした。ピンと来なかったからではない。逆だ。その子が何をしたのかわかった。きっと私は同じ行動をしたことがある。それを知っている。どうして?

 困惑を持て余して縋るように弘子さんを見る。弘子さんは、なぜかその輪郭をぼんやりと滲ませていた。いつからこうなっていたんだろう。まるで、水越しに向かい合っているみたいだった。

「オモチャの、バケツで……ひしめき合うのが、可哀想って」

 私の唇まで震えを帯びる。うまく喋れない。ああ、ああ。弘子さんがどんどん滲んでいく。

「そう。傍にあった段ボール箱の中にひっくり返したみたいなの。お馬鹿さんでしょう? でも、あの子が愛しかった。金魚には申し訳なかったけど、本当は連れていきたいくらい愛おしかったわ」

 グイと目元を拭う。強引に水気を奪った視界では、弘子さんが静かに涙を流していた。私はその姿を見たことがあった。最後に見たムーさんも、そんな風に泣いていた。

「弘子さんは、ムーさんに、よく似ています」

「あらやだ。女装には自信があるつもりだけど、そんなにおじさん感あるかしら。髭、伸びてきちゃってる?」

 茶化すように顎を撫でるから笑ってしまって、また涙腺が緩み始める。そうなるともう止まらなかった。弘子さんが再び水の中に溶けていく。

 ぼやけきった世界に揺れる口紅のオレンジは、まるで涙の海を泳ぐ金魚だった。とても、美しかった。

「もう、あなたみたいな美人が泣いたら困っちゃうじゃない。涙は女の武器なんて嘘ね、男が流したってこんなに強いんだから」

「泣いてなんて、いません。これは……これは、段ボールから染み出した、あの日の水滴ですよ」

 はみ出しものが集まる夜の街。その片隅のゲイバーで、金魚に惹かれ合った私たちは、互いの化粧がぐずぐずに崩れるまで水滴を溢し続けた。滴る雫は膝を伝い、流れ落ちてソファを濡らした。想像したいつかの夜みたいに。

 こんなことがあるだろうか。この巡り合いを、偶然なんて言葉で片付けていいのだろうか。それでも胸には熱く強い確信がある。

 血の繋がりも、戸籍を共にした過去もない。今となっては、互いに男の格好すらしていない。それでも彼は私の父だった。私は、彼の息子だった。


 私たちは、昔も今も、確かに父子おやこだったのだと。

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涙の海を金魚は泳ぐ 藤咲 沙久 @saku_fujisaki

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