後編
自身が建てた砂の宮殿とルシャールの伝説が残る街アルク=エプを背に、妖術師はその歩を北へ向けた。当ては無い。しかしそれが望ましい。妖術師アル=ラン、その名を知らぬ土地へ。賢老な妖術師が望むのは、普通の人間らしい生活。皆と対等に扱われ、対等に愛され叱られる。
誰がアル=ランを愛そう?誰がアル=ランを叱ろう?口にした瞬間、その者は呪文一つで肉より骨を抜き出され、意識を保ったまま頭部を切断され、口を縫い合わせた後に深い沼に放り投げられるだろう・・・そう、黙って従うのが賢明である。
砂の宮殿を離れてからは姿、性格共に多種多様な魔物たちと出会った。アル=ランに力を与えた魔物同様、人の姿をとっているものは殆どおらず、代わりに爬虫類や昆虫のキメラの様な魔物が跋扈していた。
その中でも女性の上半身と蛇の下半身を持つ魔物もおり、アル=ランを言葉巧みに色欲へと駆り立てた。しかし妖術を行使し、その魔物を見てみればその姿は女性の上半身などではなく、百足の上半身に死者の生首を持つ魔物に違いなかった。
慾望の限りを尽くし満たされ続けてきた妖術師にとって、斯様な砂漠における甘美な死への誘惑は、全くと言っていい程に意味をなさなかった。数多の魔物が優れた妖術師アル=ランを我が物にしようとするが、数多の魔物が誘惑に失敗し、時に妖術師の心無い言葉に折られた。
当ての無い旅が二週間目に入った時、アル=ランは金髪のと蒼眼、程よく膨らんだ胸に雕刻のように美しいくびれを持つ少女を視界に捉えた。
その少女はどこか物鬱げで、これまでの魔物とは違いアル=ランに微塵も興味がない様子だった。妖術師はまさか人間では?と思うも、こんな砂漠のど真ん中に荷物も持たずに在るわけがない。よくよく目を凝らしてみれば耳の先が尖っており、アル=ランは少女が亜人、即ちトーク族の一種であると推測できた。
アル=ランはわざと目の前で、大きな足音を立てて通過した。しかしその少女はアル=ランをちらりと一目見るだけで、それ以上の行動は起こさなかった。
アル=ランの妖術師であればその血肉や精は、魔物たちにとってご馳走であり、それは亜人にとっても例外ではない。故に亜人の少女も物憂げなフリをして、アル=ランの警戒心を削ぐ作戦かと思われた。しかしそんな素振りもなく、少女はただ物憂げに砂の上に座り込んでいた。
「亜人よ、汝は何故心を憂鬱で曇らせているのか?」
気づけばアル=ランは亜人の少女に声を掛けていた。安楽椅子で長い間、熟考していた自分の影を亜人の少女に見出したのかも知れない。
「妖術師様。私はトークアルタと夢魔のハーフ、名をメリアネと言いますわ」
トークアルタ!即ちイノシシ人間。しかも夢魔とのハーフとは!その事実にアル=ランはかなり驚かされた。妖術師の反応が面白いのか、メリアネはクスリと笑い提案をした。
「妖術師様。もし良ければ私の憂いの原因を聞いていただけませんか?」
少し悩んだ後、良かろうとアル=ランは頷いた。そしてメリアネと自分の間の砂に、イヘーの護符の印を描いてから座った。もしメリアネの気が変わって襲われたら、流石の妖術師もひとたまりもないからである。トークアルタは優れた戦士であり、敵を滅する為なら喜んで命を差し出す。白兵戦において彼らほど恐ろしい戦士はいないだろう。
メリアネはアル=ランの行動を気にした様子はなく、夕暮れ時のオレンジ色の空を見上げながら淡々と語り始めた。
*
トークアルタと夢魔のハーフであったメリアネは、肉体にトークアルタ、性格に夢魔のそれが反映されていた。優れた肉体美に、男どもを換気させるだけのテクニック、そのどれを取っても欠点が一つもない一級品。それがメリアネという女怪であり、高級娼館の娼婦であった。
男たちは求め、女たちが羨むその様は、しかしたった一人の人物を除いて、ため息が出る程に美しいものだった。たった一人の人物、名をヨス=クアンという。彼はメリアネの優れた肉体美にも、娼婦として男を喜ばすテクニックにも満足せず、頑として頭を立てに振ることはなかった。
最初メリアネはただのやせ我慢だと思っていた。娼館の客の中には、簡単に果てまいと我慢する者も多かった。しかしそれは娼館の女たちをより湧き立たせ、客は恍惚とした性の快楽に溺れることになる。即ち娼館の虜になり、金づると化すのだ。ヨス=クアンもそういった客の一人だろう。それがメリアネの見解だった。
それが間違えであったことを知るのは、ヨス=クアンが娼館を8回目に訪れた時のことであった。その時メリアネは別の客の相手をしていたため、ヨス=クアンの相手は出来ず他の娼婦が彼の相手をしていた。
「――――あの娼婦、メリアネといったか」
メリアネが男の相手を終え、控室に戻る途中、あのヨス=クアンの声が聞こえた。ちょうど通り過ぎた部屋で濡れ事に至っているようで、彼は娼婦と会話をしながら恍惚とした悦に浸っていた。
「えぇメリアネが如何なさいましたか?」
「あの者はダメだ。物の怪の類、女怪に他ならん。あんなものに精を抜かれては、いずれ命まで取られかねんぞ。そうだろう女妖怪メリアネ!」
声を荒げメリアネの名を叫ぶとヨス=クアンは娼婦を払い除け、木製の扉を勢いよく開けた。そこには聞き耳を立てていたメリアネが立っていた。ヨス=クアンはただ一言短く、去れと言うとメリアネを睨み付けた。
メリアネはその視線に耐えきれず娼館から逃げ出した。
*
「私は生きるのに必要な量の精しか搾取しませんし、命を奪うこともありません」
しかし誰がその言葉を信じようか。高級娼館故にビロードの帯で身体を隠し、清らかに見せ艶めかしく動くメリアネの姿を、どこか人離れしたその姿を。恐ろしいほどに美しいその者を。大司祭が神が造り給うた女性であると、メリアネを指して言えば誰もが信じただろう。
メリアネの美しさと立ち振舞い、精力はそれほどまでに人間離れしていた。恐らく娼館側もメリアネの正体に大方気づいていたのだろう。しかし最も金子を稼ぐ者を、審議のはっきりしない噂程度で追い出すほど、娼館側も商売に暗いわけではない。つまり黙認されていたのだ。
しかしそれが客側にバレてしまえば話は別。ネガティブ・キャンペーン。悪い噂がおいそれと広まっていき、やがて商売はたち行かなくなり潰れるだろう。
その責任は誰に来るのか?無論、誰もが指を指しメリアネだと言うだろう。そうなる前に逃げてしまおう。少なくともメリアネのその選択、行動だけは最善と言えるものだと、妖術師アル=ランは告げた。
妖術師のその言葉にメリアネは微笑み、腰を上げるとアル=ランに感謝と別れの言葉を告げた。溜め込んでいた憂いを吐き出せたこと、それは今のメリアネにとって最も幸いなことであった。しかしメリアネが去ることを良しとせず、彼女の細腕をそっと掴む者がいた。他でもない妖術師アル=ランである。メリアネは驚き、掴まれた右腕と妖術師の顔を交互に見た。いったい何用かと。妖術師のほうを見れば、彼自身も言葉に詰まっているようで、しばしの沈黙が訪れた。
「以前、余には魔物の友がおった。然れど妖術師としての運命を恐れ、非常なやり方で殺してしまった。余は人との繋がりが欲しかったのだ。恐れられる関係に信頼関係などない。ましてや妖術師という人外のものに成り果てた余を、誰が一人間として接してくれようか!」
妖術師は己の心の内を発すると、それに共感するように涙する自分に気づいた。かつて魔物は言った。
「偉大さと愚かさを備えた妖術師アル=ランよ、心して聴け!お前は今までに様々な慾望を叶えてきた。辛い現実から逃れるために葡萄酒を求める労働者さながらにな。然れどいつか酔いから醒め、彼らは現実と対峙する。では御身はどうだアル=ラン。御身は永遠に妖術という葡萄酒に溺れているつもりか?現実を見よ。本当は何も変わっていない。何にも変わらず、何も得られず御身は朽ちていく。私はそんな御身が心配で、同時にそんな御身が愉快でしょうがないぞ」
笑え、魔物よ。お前の心配は最もだったぞ。
哀れな妖術師アル=ラン。彼の心はメリアネに何かを求めている。しかし何を求めているのか分からない。長年直視してこなかった孤独という感情が理解できない。哀れな妖術師、彼の心はまだ人間らしさを失っていなかった。妖術師はメリアネの腕を離し、一言詫びを入れると明後日の方向に歩みを進めた。確かに彼女に何かを求めていたが、それが何かわからないのにどうやって求めようか。それは不可能である。
メリアネは寂し気な妖術師の背を見送り、そして後に続いた。娼館で働いていた時、アル=ランと同じ表情をした客を見たことがある。そういった客は女を求めて来たというよりは、誰かと一緒にいたい。寄り添って欲しい。という孤独からくる恐怖が和らげられることを望んでいる人たちであった。
それ故に女怪メリアネは妖術師アル=ランの後を追う。そして追いついたら次の街でこんなことを提案してみようと思う。それは妖術師を満たすだろうし、私も安定して糧を得ることができる。そう、こう提案するのだ。
「妖術師アル=ラン様、どうか私メリアネの
―完―
メリアネの番(つがい) 城島まひる @ubb1756
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