檸餅

 えたいの知れない不吉なかたまりが私の心を始終おさえつけていた。焦躁しょうそうと言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔ふつかよいがあるように、もちを毎日食べていると胃もたれに相当した時期がやって来る。それが来たのだ。これはちょっといけなかった。


 私は無意識のうちに餅屋の前に立っていた。

 いつの頃からか、何故だか私は餅屋の前を通りかかると必ず餅を売りつけられたのを覚えている。私はそのうち餅屋を忌避するようになった。ここはもう私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。

 だが、平常あんなに避けていた餅屋がその時の私にはやすやすと入れるように思えた。


「今日は一つ入ってみてやろう」

 そして私はずかずか入って行った。


「あ、そうだそうだ」

 その時私はたもとの中の財布を憶い出した。察しはつくだろうが私にはまるで金がなかった。財布の中身は空っぽだったのだ。

「そうだ」


 私はいつも通り餅屋で餅を注文した。というのはその店にはもちという珍しい餅が出ていたのだ。檸餅などごくありふれている。がその店というのも見すぼらしくはないまでもただあたりまえの餅屋に過ぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸餅が好きだ。レモチエロウの絵具をモチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあのたけの詰まった紡錘形の恰好かっこうも。――結局私はそれを一つだけ注文することにした。


 不意に第二のアイディアが起こった。その奇妙なたくらみはむしろ私をぎょっとさせた。

 

――檸餅を食べておいて私は、なにわぬ顔をして外へ出る。――


 私は変にくすぐったいもちがした。

「出て行こうかなあ。そうだ出て行こう」

 そして私は檸餅を食べたのに何も食べていないふうな顔をしてすたすた店を出て行った。


 変にくすぐったい気持が街の上の私を微笑ませた。無銭飲食をした奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの餅屋の主人が癇癪を起こして怒りを大爆発させるのだったらどんなにおもしろいだろう。


「そうしたらあの気詰まりな餅屋の主人も粉葉こっぱみじんだろう」


 そして私は餅の看板が奇体な趣きで街を彩っている京極を下って行った。

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餅文学大全 もちかたりお @motikatario

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