時の流れに沈んで

紫鳥コウ

時の流れに沈んで

 志帆は軒下の影で金魚が二匹尾ひれを追いかけあっているうちわを片手で扇ぎながら、筆ペンで帳簿に記録をつけていた。群れた葉で斑に影が落ちた石畳に箒をかけている中野さんに、帳簿に記名をするように言われた。蝉しぐれのなかでもよく通る彼の声は、志帆が顔をあげる合図になった。


 彼女の見た目に、なにも変わっているところがないということはなかった。髪といい眼といい後ろに落としている陰といい、膜を一枚剥がしたかのようにまっさらな黒色だった。この夏にさからおうとしない落ちついた雰囲気が、滔々と涼やかに彼女の輪郭を撫でるように流れていた。


 右手首のクリーム色の数珠は夏の陰を纏い、それでもわずかな光を集めながら静かに蝉の声を聞いていた。蝉の音は耳の奥で妙に玲瓏に鳴っていた。それは清冽な川のせせらぎに似ていた。


 賽銭箱の傍にひびわれた風鈴が休息していた。腹のへこんだ木工用ボンドにはマジックでこの寺の名前が書かれていた。志帆にうながされて向こうの樹を見ると、浮き出た根をあごにのせて猫が安らいでいた。


 ふと、寒天のなかで金魚が泳いでいる和菓子が頭に浮かんだ。そして、干からびた川底を踏んで、上流の方へとふたりで歩いていったあの夏の日の記憶がよみがえった。


 パイプ椅子に座るご老体の後方では、若い衆が、ところどころを虫穴にして、うちわを扇いだり、あくびをしてはうとうとしたり、静かに世間話をしたりしていた。ぼくはさらに若いオトナであるがゆえに、板木の廊下に並べられたうすい紫の座布団にあぐらをかくことになった。


 向こう側には初盆の席があり、空いた椅子越しから福田の姿がはっきりと見えた。彼は紺色の扇子で首筋の汗を冷やしながら、時を経るごとに色彩が安らいでいく仏壇を眺めていた。いったい、彼の家族のうちの誰が亡くなったのであろうか。いまあの精悍な顔のほほを打ったとしたら、どれくらいの涙がこぼれるのであろうか。


 友人たちから、あの餓鬼大将は、高校に入ってしばらくしてから一歩兵へとなり下がったと聞いたことがある。往年の外へ向けられていた攻撃性は、しだいに内の方へと感傷をともないながら向きを転じていったのだろう。家というものにくくられることが、他人を縛ることよりも安寧を与えてくれるようになったのだろう。


 そういう風に思うと、彼に抱いてきたパレットの上にできた醜い混色のような憎しみは、だんだんと洗い落とされていった。しかしこびりついた紺を煮詰めたような色は、かんたんにぬぐいさられるわけがなかった。


 しばらく福田を観察していると、志帆が背中の方から彼の肩をたたいているのを見つけた。彼はそれに振りむきはしたが、すぐに目線をもとのほうへと戻した。しかしそれは、拒絶というよりもむしろ気恥ずかしさの韜晦、すなわち常温感情による発作のようにぼくには感じられた。


 ふたりは目線をあわすことはなかったが、皮をむいたばかりの新鮮な果実のような無防備さをもって話しているように見えてしかたがなかった。一方で、いまだ熟しきれていないようにも感じられた。焦げつくほどの外の暑さを連れてきたのかと思われるほど発熱していく嫉妬と、鮮烈な陽光によりできた陰のような憂鬱が、卵を撹拌しているかのように混ざりあいはじめた。


 読経がはじまると、猛烈な眠気に襲われた。隣に座る酒屋の大将の肩にぶつかるたびに舌打ちをされた。お経と蝉しぐれと開け放たれた障子からくぐりぬけていく涼風は一体となって、おたがいに足りない音韻をあえて埋めないようにしながら、偽善とはかけはなれた、それでも善良とは言い切れない優しさを奏で、ぼくのこころにあるものすべてを過去へと誘おうとしてきた。…………


 志帆と話さないままこの寺を後にすることは、手放すべきものを手放してしまうようなうしろめたさを感じさせた。石段の中途で足をとめ、向こうへいくほど色濃くなっていく緑へ目線をなげて、稜線を照らしだす夏の陽に肌をやいていると、だれかがぼくの陰を踏んだことに気がついた。まるで、時の流れの底に沈んだかのような感覚になった。しかし振り返ることは決してできなかった。

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