【書籍化御礼】気付けばそこに宿るもの

 完結、そして書籍化&コミカライズに感謝の気持ちを込め、番外SSをご用意いたしました。

 本編から七年ほど前、まだ幼かったアリアとベルタのお話。


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「ねーねー、院長、あたしのことが一番好き?」


 あれは十歳か、それとも、もう十一歳になっていただろうか。


 とにかく、ベルタが孤児院長に就任して、一年近くが経った頃、アリアは何気なく、厳格な院長に尋ねたことがあった。


 いいや、正確には、何気なさを装って、だ。


 アリアはその半年くらい前から、ベルタにそう尋ねてみたいと思っていたのだ。

 それで、ずっと機を窺っていた。

 だってアリアは、認めるのは悔しいけれど、この院長のことが好きになりかけていたのだから。


 喧嘩をふっかけられ、ずたぼろになって帰ってきた弟分のフランツを、口では「暴力はいけません」と叱りながらも、その日のうちに荒くれ者どもの根城に突入して謝罪を引き出した手腕は見事なものだった。度胸もだ。

 ベルタは、アリアとほとんど身長が変わらぬほど小柄なのに、その迫力は、大男をも上回るほど。

 貴族的なアクセントをまとった言葉は、容赦なく悪漢どもをこき下ろし、定規が入ったかのような背筋は、どんな権力者の前でも曲がらない。


 ベルタはアリアの英雄だった。


 そしてベルタはほかの誰より敏感に、アリアの体調や、感情の動きに気付いた。

 厳しく叱るけれど、それ以上に、そのとき最もほしかった言葉や、想像もしなかったけれどずっと求めていた言葉を、惜しみなくくれた。


 ベルタはアリアの――母親だった。


「あたし、孤児院ここの誰より賢いでしょ? 書き取りももう全部できるようになったの。顔もいいでしょ? たぶん、貴族野郎の落としだねだと思うのよ。きっとあたし、将来、誰より高値で売れるわ」


 好きな相手には、好かれたい。

 ただしアリアには、ベルタの好意を引き出すには、どんな振る舞いが有効なのかわからなかった。


 ベルタはよいことをすれば褒めてくれるのだから、ひとまず自分の思う「よいこと」を並べ立てる。


 よく学ぶこと。

 愛らしさがあること。

 よく稼ぐこと。


 特に稼ぐのは重要だ。孤児院の子どもたちはいつも貧乏暮らしを強いられているから、金の匂いをなによりの芳香と感じる。

 その価値観に照らせば、稼げる、というのは、それだけで素晴らしいことに違いなかった。


「あ、ねえ。院長。そこの雑巾がけ、あたしがしてあげる。掃除も得意なのよ。偉い? 好き?」


 ベルタが先ほどからずっとなにも言わず、ただ雑巾を絞っているのを見て、アリアはすかさず手を差し出した。


「見てて。この礼拝堂、半日で、ううん、一時間でピカピカにしてみせるから」


 本当は、掃除なんて大嫌いだ。

 でも、床を輝くほどに磨き上げるのにはそれなりの満足感があるし、その後に褒められるのはもっと嬉しい。


 ほかの子どもたちは飽きっぽくて、すぐに雑巾を投げ出してしまうけれど、アリアには最後まで掃除を成し遂げる根性があった。

 この前はそれで、ベルタに礼の言葉だけでなく、微笑みまで向けられたのだ。

 孤児院で唯一、自分だけが。


 手先が器用で頭がいいのは、フランツも同じだ。顔のよさならフレデリカも。

 でも、その両方を持ち合わせ、しかも物事を最後まで成し遂げられるのは自分だけ。


 アリアは腕をまくり、いつも仕事をする前にそうしているように、自分に賭けを課した。


 三時間で礼拝堂を磨き終えたら、ベルタのお気に入りの三位以内に入る。

 二時間で終えたなら二位以内。

 そして一時間で終えたなら、一番。


「ねえ。院長、あたし、いい子でしょ――」

「アリア」


 だが、みなぎったやる気は、ベルタの静かな溜め息によってしぼんでしまった。


「そのようなことを言うものではありません」


 彼女はなぜだか、痛みを堪えるような顔で、こちらを見ていた。


「院長?」

「わたくしはべつに、あなたが早く礼拝堂を拭き終えたからと言って、あなたを好きになるわけではありません」


 その言葉に、アリアはさっと心臓に冷水を浴びせられたかのような衝撃を覚えた。


 好きには、なってもらえないのか。


「……じゃあ、院中の掃除をしたら、好きになる?」

「いいえ」

「聖書を全部覚えたら? それとも、夕飯作りを代わったら? ああ、もしかして、院長と同じく修道女を目指したら? わたくし、、、、も――」

「アリア」


 雑巾を握り締めたままだったアリアの手を、ベルタは上から包み込んだ。


「人を好きと思う気持ち――愛とは、採点によって与えられる評価ではありません」


 濡れた手に感じるベルタの皺だらけの肌は、驚くほど熱かった。


「あなたがいい子だから、対価として愛を与えられるのではなく、あなたがあなただから、すでにそこに愛は宿っているのです」


 あなたはそのことを、時間をかけて理解せねばなりません。

 ベルタがそう続けたとき、アリアは途方に暮れてしまった。


「院長。よくわかんない」

「わかりませんか」

「だって、院長は勤勉な人が好きでしょ? 謙虚な人が好きでしょ? もっと勤勉でもっと謙虚なら、もっと好きになるでしょ? 悪いやつなら、嫌いになるでしょ?」

「わたくしに修行が足りぬせいで、好悪の念はあるでしょう。けれど、愛とはそうしたものではありません」


 静かに告げられた内容を、アリアは矛盾していると思った。

 だって、ベルタは善行を推奨するではないか。悪行を非難するはずだ。


 もし、善行を積もうが悪行を重ねようが、変わらずその人が愛を得るというなら、何をしても許されるということではないか。

 極端な例で言うなら、罪深い者、たとえば自分を死に追いやる人間のことすら、ベルタは愛せるというのか?


「院長。あたし……わかんない」

「では、わからないままで構いません。宿題として、覚えておきなさい」


 アリアが俯くと、ベルタはそう言って雑巾を取り上げてしまった。


 それから、「掃除は終了です。荒れていますね」と呟き、ポケットにしまっていた小さな容器を取り出し、中身をアリアの指に塗りつけた。

 狭い庭で採れたハーブから、ベルタが作った軟膏だ。


「覚えておきなさい、アリア。なにがあっても、どんなことをしても。あなたがあなたである限り、わたくしはあなたが好きですよ」


 去り際、ベルタが告げたその言葉に、アリアははっと顔を上げた。

 理由のわからぬ涙が込み上げ、それは意味を解しおおせぬ言葉とともに、胸の奥底へと染みこんでいく。


 ――わたくしはあなたが好きですよ。


 結局「一番」も「最も」も付かなかった言葉を、アリアは何度も舌の上で転がした。

 飴を惜しむ子どものように。


 ――あなたがあなただから、すでにそこに愛は宿っているのです。


 何度反芻しても飲み込めない内容を、立ち上がりざま強引に飲み下し、アリアはベルタを追いかけた。











 さて、それから七年近くの年月が流れた。


 昔より確実に育ちがよくなった孤児院のハーブを、アリアは満足な思いで見下ろした。


 さすがにヨーナスから引き出した支援金では、孤児院を改築するには及ばない。

 けれど、十分な肥料と手入れを施されたハーブは、背丈を自慢する子どもたちのように元気だった。

 このぶんなら、今年もたっぷりと軟膏を作れるだろう。


「さて、屋敷に戻りますかねーっと」


 孤児院への訪問は、月に一度だけ、それも半日以内と決めている。

 すでに巣立った自分が舞い戻ってきたところで、子どもたちに変な里心を付かせてしまうだけだからだ。


 支援するなら、金銭で。

 後ろ髪を引かれる思いで自分に言い聞かせ、玄関へと回る。


 今回については、なぜかラウル・フォン・ヴェッセルスまでもが付いてきて、そこで待機しているのだ。

 彼は中まで入りたがったが、アリアが玄関での待機を命じた。


 彼曰く、「君は呼吸するように厄介事に巻き込まれるから」だそうだが、アリアとしては、実家を見られるような妙な気恥ずかしさがあって、空を仰ぎたい心境だ。


 まったく、あの冷ややかな美貌をした男が、こうも過保護でお節介など、誰が予想しただろうか。


(あのでかい図体、きらきらしい顔で下町に来られちゃ、子どもたちがビビるっつーの。何人か小遣いほしさに近寄っていったみたいだけど、今頃会話が持たなくてギャン泣きしてんじゃないの?)


 慣れ親しんだ廊下を歩きながら、アリアは、内心でラウルをこき下ろす。

 それが、照れ臭さをごまかすためのものであることに、本人は気付いていなかった。


(まったくね、なんなのあいつ。常識ないし、目立つし、金銭感覚狂ってるし。話が通じないし、頑固だし、強引だし……下町的観点からすれば、とんだダメ男だわ。0点どころかぶっちぎりのマイナス評価よ。加点要素は身分だけ)


 そうとも。

 あの男は、アリアを苛立たせる要素ばかり持っていて、嫌いになって当然の相手――。


「アリア」


 と、玄関の石畳に腰を下ろしていたラウルが、こちらに気付いて立ち上がった。

 珍しく座っていたのかと思えば、近くに寄ってきた子どもたちの相手をしていたらしい。


「ねーねー、ラウル兄ちゃん! もっと問題出してー!」

「では、35+79は」

「……なにしてんの?」


 わらわらと周囲に子どもをまとわりつかせながら、なぜか足し算を出題しているラウルに、アリアは半眼になった。

 すると美貌の伯爵令息は、どこまでも真顔で応じる。


「子どもたちに、もっと話せ、なにか楽しい会話をしろとせがまれた。特に話題もなかったから、ずっと算数の問題を出していた」

「……ずっと?」

「ずっと」


 こくりと頷く相手に、アリアは天を見上げてしまう。


 なんというコミュニケーション能力の乏しさ!


「よく子どもたちも付き合ったわね……」


 呆れを前面に出しつつ、嘆息する。いや、そのつもりだったが、つい口の端が震えてしまった。


(こいつ……)


 天下の伯爵令息が。

 完全無欠の元聖騎士が。

 孤児院の子どもと律儀に視線を合わせて、延々、延々、算数問題。


(馬鹿ね)


 馬鹿らしいと、きっと思うべきなのだろう。

 貴族らしくない愚直さは、きっと辛辣に評価されてしかるべき。


 なのになぜか、胸の内に春風が吹き込んだような心地を覚え、アリアはわけもなく視線を逸らしてしまった。


 ――愛とは、採点によって与えられる評価ではありません。


 ふと、脳裏にベルタの声が蘇る。


 ――あなたがあなただから、すでにそこに愛は宿っているのです。





 ずっと意味がわからなかったベルタの宿題が、今ならほんの少し、理解できる気がした。





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他にもあと2種類の番外SSをご用意しております!


 ◆カクヨムサポーター限定公開(@近況ノート)

「ルビーを巡る攻防、その後で」

 ※押し倒してしまったときのラウル視点、そしてその後。


 ◆なろうさん

「ボタンを巡る攻防」

 ※本編の後。ボタン付けを巡りイチャイチャ(?)攻防する二人の話

https://ncode.syosetu.com/n0701hp/33/


 よければお楽しみください^^

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猫かぶり令嬢アリアの攻防 中村 颯希 @satsukinkmr

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