野を駆ける

紅蛇

月を背に、大地を駆ける

 あるうつくしい草原の国で、それはそれはうつくしい毛深族の娘がうまれました。

 娘がうまれた日の空は、うっすらとした白い麻で覆われていました。糸と糸の隙間からはまばゆい青色が輝き、光の雫が滴りました。人々は太陽と雨の恵みによろこび、娘を大地の姫と呼びました。

 毛深族の娘は何不自由なく、育ちました。おおきくうねる黒髪は、夜空がうらやむほど、月明かりのようにきらめいていました。子羊の好奇心をもった瞳を縁取るまつげは、まばたきをするたび、蜜蜂を嫉妬させました。ながく、ちからづよい手足を凍えさせないように、ふとく、ちからづよい毛が覆われていました。

 娘は族の誰よりも毛深く、うつくしく、誉れ高いいきものとして、みなに愛されました。


 ある雨上がりのすがすがしい日のこと。

 娘は女性たちと共に、梳かしたばかりの羊毛を紡いでいました。しろく、よごれのない柔らかな毛を引っ張り、古くから伝わるうたをうたいました。娘のあたたかな季節に咲き誇る野原のような両手に、おおきいしろいまるい花が、音色の風に吹かれて羽を広げていきました。てん、と、てん、だった綿毛は手をつなぎ、糸となっていく様子にほほえみ、見守っていました。

 すると、大きな体と長い黒髭の族長がやってきました。娘の父親でした。父は娘を呼び、手をひきました。


「次の長として、かの者に挨拶をしなさい」

「でも誰にですか?」

「毛無族の者だ。狩りで近寄ったらしい」


 娘は鷹のようにたくましい父を見上げました。空には父のようにたくましい鷹の姿がありました。そして草原に顔を戻すと、見知らぬがいました。

 黄金にかがやくまっすぐな髪が風になびいていました。気高い野馬のような瞳を縁取るまつげは、まばたきをするたび、娘の心をときめかせました。ながく、しろい手足は陽の光を浴び、木漏れ日にかがやく小川のようでした。

 かの者はとても奇妙な姿をしていました。毛深族の人びとと同じ背格好をしているものの、腕に、脚に、目に見えるところ、どこにも毛が生えていませんでした。生えているのは頭、まつげ、そして眉毛だけでした。けれども娘の毛とは違い、遠くを駆ける馬を目で追いかけるほど、薄いものでした。

 とてもうつくしい、いきものでした。


「——こんにちは」

「こんにちは——」


 娘は父の真似をして、挨拶をしました。

 父とかの者はひとこと、ふたこと、言葉を交わしました。娘はしずかに、髭で隠されていない唇のなめらかな動きを眺めていました。鳥がさえずり、毛無族の者は立ち去りました。

 娘は自分の毛深い両足を見下ろしました。胸に雨雲の翳りができました。自慢だったふとく、たくましい足が途端に憎くらしくなりました。怒りを大地と天に捧げ、力一杯に丘を駆けのぼりました。銀色の風が走る耳元で叫ぶのがきこえました。しかし娘は忠告をきかず、草原を駆け続けました。

 青々としていた草が、次第に眠たげになっていきました。娘の呼吸も乱れていき、歩みも止まりました。


「——こんな毛なんて」


 毛深族の娘はあわく、おぼろげな月に向かって言いました。色を変えていく空に溺れぬよう、月は明かりをともしていました。


「——私の言うことをきかないのね」


 大地の姫は月を軽蔑して言いました。

 すると忙しげにしていた月はつんと、動きを止めました。


「夜を照らすこの私を見下ろすのはだれだ」


 娘は野兎がするように、穴に隠れたくなりました。けれども、おおきくうねる黒髪が風で手をふり、月は娘に気付きました。


「だれも月を越えることができないのは命に溢れんばかりの大地とて同じ。——その姫と呼ばれようとも」

「わかっています」

「ではなぜそう嘆く、ちいさな娘よ」

「私は毛深いのです」

「兎にも、狼にも、熊にも、猪にも、同じものが生えているものをなぜ憂う」

「私は美しくないのです」

「毛がないいきものが優れているのなら、なぜ馬は気高く、鹿はやさしく、羊は尊い」

「同じいきものではないからです」

「たべ、のみ、ねむり、うたう——」

「あの者は太陽を身に纏い、手足には小川が流れ、私の心を花咲かせました」

「そなたの髪は明けることのない夜空の川が流れ、手足は光輝き星となる」


 月はそう言い残し、帰り道を照らしました。娘のそばに黒い、うつくしい馬がやってきました。跪くようにまぶたをゆっくりと閉じ、うたいました。娘はそのたてがみをなで、おおきな額に自分の額を合わせました。

 鼓動が踊っているのが聞こえました。

 呼吸が歌っているのが感じられました。

 手足の中を流れる赤い川が祝っているのがわかりました。

 娘はやわらかな鼻に口付けをし、馬の背に乗りました。おだやかな蹄が大地を蹴り、虫がおどろき飛び散りました。銀色の風が娘の頬に口付けをしていっては、肩から降りていきました。馬が嘶き、娘は月を背に、家路を急ぎました。


「——毛のあるものもないものも、」

「——みなうつくしい」


 娘はそうつぶやき、大粒の雫を怒りのかわりに捧げました。大地と天は娘ををゆるし、あたたかな恵みの雨粒で返事をしました。

 娘は狼の子どものようにわらい、馬上から、また大地へ。そして、おおきな腕を広げる父のもとへ戻っていきました。

 娘の心にはまだ、うつくしいかの者の姿が刻まれていました。しかしながら、太陽を身に纏い、手足にきらめく小川が流れてほしい、という願いは無くなっていました。

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野を駆ける 紅蛇 @sleep_kurenaii

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