第4話 アゴタ・クリストフ「悪童日記」

 気が進まないまま、家で「悪童日記」を眺めていた。他人が読んでいたボロボロの本。今時図書館でも見かけたことがないレベルだ。多分堀はずっとこれを鞄に入れていたのだろう。表紙が白く擦れている。うーん、とつぶやいてベッドに転がる。グレー系のモノトーンの部屋にはかつて本棚として使っていた私の肩くらいの高さの小物置き場があり、今はこまごまとしたアクセサリーやメイク道具の置き場になっている。写真立ても置いているが、飾られているのはオードリー・ヘップバーンのモノクロ写真だ。「ティファニーで朝食を」のときの。棚の端には金属のラックに入ったお気に入りの本が並んでおり、これらは処分しようとしてどうしても捨てられなかったものだ。父からもらった本たち。時代小説数冊に著名なチェリストの名言集、私が好きだった谷崎潤一郎も。

 あのときのことは、本当のことだったのだろうか? とても生々しかったし、父の実在感を感じた。幽界の父の林書店にもう一度行けるのなら、私は魂を売ってもいい気分だ。

 そういえば父は、何か本を読んできなさいと言っていた。私はがば、とチャコールグレーの掛け布団の上で起き上がる。堀から借りた本を見つめる。読んでみても、いいのかもしれない。本を読むことはやめたけれど、それは父が亡くなって読みたくなくなったからだ。でも、父に会えるのなら……。おまじないとして、本を読んでみるのもいいかもしれない。

 私は「悪童日記」を読み始めた。大した理由ではない。ただ今手元にあったから。でも、読み始めた瞬間から、私は本の世界に吸い込まれた。一瞬だった。

 主人公は双子だ。それも、母の言った通り子供だ。乳歯があるくらい幼い。彼らは愛情いっぱいに育ててくれた母に、ハンガリーにある都会からロシアとの国境の町に住む祖母の家へと預けられる。時は第二次世界大戦中。疎開、ということだ。

 疎開については知っている。日本でも同じ時期に都会から田舎に一人で預けられる子供たちがいた。心細いだろうな、と思ったことがある。父から借りた藤子・F・不二雄の漫画「エスパー魔美」に疎開のエピソードがあったのだ。

 けれど双子は心細さを文章に表さない。彼らは事実しか記録しない。彼らの感情を不確かなものとして、排除するのだ。でも、彼らは人を殺すための強い動機を持つし、恐ろしいものを見るとぶるぶる震えるし、働いている祖母そっちのけでストライキをしていたことで自分を恥ずかしく思うし、自分を哀れに思ってくれた夫人から優しく撫でられた髪の感触を忘れられない。

 ショッキングなシーンが続く。その代わり、わくわくと胸を高鳴らす何かがある。双子が強くなろうと訓練を重ねるユーモラスなシーンがあり、それはのちに必ず役に立つが、恐ろしいほど痛快な何かがある。この淡々とした語りぶりの下に、何が隠れているのか想像してしまう。

 作中では時が流れ、ドイツ軍が撤退し、ロシア軍がハンガリーになだれ込み、国境の町は柵で隣国と隔てられる。最後に双子は……。

 あっ、と思わず声が出た。それから辺りを見回した。自分の声とは思えなかったのだ。これはすごい本だ。すごい本を読んでしまったのだ。興奮を抑えられず、読み終えた本を両手で持って掲げた。電灯の光を背景に、「悪童日記」は輝いている。これは、早く堀に感想を伝えなければならない。だって、学校では多分堀しか読んでないのだ。

 母にも……、と思ったけれど、忙しいだろうから、とか私がこの本を読んだりしたら反応が面倒くさいな、とか、何も反応しないかもしれないし……と考えて、やめた。みっちゃんには話しやすいけど母に伝わったら面倒だ。なんせ、本を読むのをやめて半年以上経つ私が、よりによって彼女たちの領分である海外文学を読んだのだから。

 そっと本を学校鞄にしまおうとして、思いついて部屋を出て、居間に置いてあるクラフト紙を手に取った。これでカバーを作り、堀の「悪童日記」に装着して調整した。慣れたものだ。今家には誰一人おらず、それは私が骨折したので当然なのだけど、店の手伝いに行かないので二人とも忙しくて帰れないのだった。

「よし」

 私は台所のものを使って料理を始めた。松葉杖を置いて、片足で飛び跳ねて。料理をするのは久しぶりだ。今まで、母かみっちゃんがいつも時間を作ってでもやってくれていたから。

 品数が揃うころには、二人が帰ってきた。みっちゃんの声がした。

「あらあ、料理してくれたの? ありがとう!」

 私は笑みを浮かべて振り向いた。笑っているみっちゃんの横で、母の顔が青ざめている。何かしてしまったのだろうか? 二人が忙しいと思って料理をしたのに。

「余計なことするんじゃないの!」

 母は低い声で怒鳴った。


 最悪の朝だ。母は黙っている。私も黙っている。みっちゃんは気を遣ってやはり黙っている。そして母とみっちゃんが作ってくれた朝食を食べている。今日は中華粥だ。ミルク粥と言うやつ。ザーサイが浮かび、鶏ガラがよく効いている。中華皿いっぱいのお粥は、お腹に溜まる。

 昨日、母はその一言のあと何も話さなくなった。みっちゃんが帰っても、私がお風呂から上がっても、寝る前に声をかけようとしても。

 心配してくれていたのはわかっている。料理をしたら、骨折した足を悪化させるかもしれないと思ったのだろう。私は私の体について鈍感だ。これくらい大丈夫だろうと思ってしまう。それで怒らせてしまったのだろうけれど。

 こんなに怒ることはないじゃないか。すぐに赦してくれてもいいじゃないか。どうしていつも母は言葉を多くかけて慰めたり、どうってことないと言ったりしてくれないのだろう。

 私は段々腹が立ってきて、こちらも無視を決め込んで今に至る。

「ご飯済んだら車に乗る準備しなよ、ピアノ」

 母が初めてしゃべった。口調は冷たかった。私は一瞬黙って、

「みっちゃんがいい」

 と言った。みっちゃんがこっちをちらりと見て、母を見る。母はこちらを見ない。

「いいよ。そうしなさい」

 母はそのままそう言って、レンゲでお粥をすくって口に放り込んだ。


 母は業務用のいつものバンで店に向かって行った。私はみっちゃんの軽自動車に乗って、黙って揺られていた。

「ねーえ、ピアノ。お母さんのこと嫌い?」

 みっちゃんは前を向いて、ちらりとこちらを見る。

「だってお母さん冷たいじゃん」

 嫌い、という直截的な言葉は使わず、私はそう言った。みっちゃんはにこっと笑って、

「お母さんは不器用なんだよねえ。誠実すぎるって言うかさあ」

 と言った。誠実? 私は眉を上げてみっちゃんを見る。

「子育てに対しても真面目すぎんのよ。もっと友達みたいなところもあっていいのにね、親子であってもさ」

 私は黙ったまま前を見る。そんなの、知らない。母は冷たい。それで終わりだ。それ以上のことは、知りたくない!

 私はみっちゃんの車を降りた。みっちゃんは微笑みながらこちらに手を振っている。あーあ、みっちゃんがお母さんだったらいいのに、なんて思う。みっちゃんは明るくて朗らかで優しい。母と姉妹だなんて信じられない。

 ふん、と鼻を鳴らし、校舎に向かった。


 昨日より明らかに周りの友達が減っていた。みんな別の友達のところに行ってしまう。私は一人、窓辺の席でぼんやりしている。

「林、もう読んだ?」

 声がして見上げると、堀が私を見ていた。私は思わずうなずき、

「読了! すごい本だった」

 と言っていた。堀は目を輝かせ、私のところでひとしきり話していった。双子の魅力、双子の祖母の魅力、戦争のある世界の過酷さ、ラストの解釈……。とても楽しかった。誰かと本のことで話を共有するのは、何て楽しいのだろう。父ともやっていたけれど、そんなに仲がよくないクラスメイトでもかなり楽しい。

 ふと気がつくと、友達の集団がこっちを見て薄ら笑いを浮かべていた。顔がかっと熱くなった。きっと、堀と仲良く話していると思われたのだろう。堀は目立たない男子だし、下に見られがちだ。それは彼女たちの悪口に加わっていた私にはよくわかっている。堀は私の表情を見、そのあと彼女たちを見て、

「もうホームルームだな。じゃ」

 と離れて行った。何だか罪悪感がある。せっかく「悪童日記」は面白かったのに、濁った気持ちにされてしまった。いや、してしまったのか。


 放課後には、堀は懲りることもなく話しかけてきた。私が読む本が気になって仕方ないらしい。

「林、本読む? 本屋の娘だから当然だよな」

「読まない」

 私は力なく答えた。この話題は苦手だ。堀は気にすることなく、

「え、何で?」

 と訊く。私は小さくため息をついて、一気に定型文を読み上げるように言った。

「お父さんが去年亡くなって、いつもお父さんのおすすめを読んでたし、本を読むとお父さんのことを思い出すんだ。だから読まない」

 堀は何も言わずに黙っていた。私は微笑み、

「昨日読んだのが半年ぶりくらい」

 と言った。

「あのさ」

 堀は私を見た。真面目な目だった。

「それ、みんなに訊かれてみんなに答えてきたんだよな。だからそんな言い慣れてる風なんだよな。ごめん。何度も言わされて、言いたくないのに」

 私は一瞬ぽかんとした。それから、ちょっと、いや、すごく泣きそうな気持ちになった。ぐっと我慢し、

「いやいや。大丈夫」

 と笑う。堀は心配そうに私を見ていたが、私がクラフト紙に包まれた「悪童日記」を差し出すと、笑顔になった。

「うわー、こんなにきれいに包んでくれたんだ。ありがとう。裸のまま持ち歩いてるから擦れてたんだよな」

「いいよ。それより堀の次のおすすめ教えて。この足じゃしばらく部活も店の手伝いもできなくて暇だし」

 私が言うと、堀はパッと嬉しそうな顔をした。少し考え、

「俺が教えるばっかりじゃ不平等だよ。次は林の趣味の本を教えて」

 私は驚いた。私が本を読んでいたのは結構前で、覚えてなどいない。教えるような本なんて……。そう思って、父の幽界での店で読んだ本を思い出した。内容は全く覚えていない、谷崎潤一郎の死後の新作。私は谷崎潤一郎が好きだったのだ。

「じゃあ、『春琴抄』はどう?」

「『春琴抄』?」

「谷崎」

「やっぱ読んでるじゃん! すげー、谷崎読んでるんだ」

「私も再読してくるから、感想を言い合おうよ」

 堀はうなずいた。私は笑った。気分がよくなるほど素直に。

 中田さんがそれをちらりと見、教室を出て行った。

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父と私の幽界書店 酒田青 @camel826

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