第3話 中田みいなと堀達樹
月曜日が憂鬱だった。松葉杖を突いて学校に行ったら、どんなに目立つだろうか。片足で身支度をしていたら時間がかかって、今日はマスカラを塗れなかった。マスカラくらいで急にダサくなったりはしないと思うけれど、気がかりで仕方ない。
母が車で送ってくれた。車内の私たちは無言だ。というか、私は昔から母とそんなに仲がよくなく、思春期に入ってからはずっとこんなものだ。父が亡くなってからは尚更。けれど、父ではなく母が死ねばよかった、なんて残酷なことは思わない。憎んでいるというほどではないのだ。ただ、折り合いが悪いだけ。
「『悪童日記』、面白そうだったでしょ」
急に母が運転しながら話しかけてきた。いつもの突き放すような声だけれど、私と話そうという意思を感じた。
「あの本、ハンガリーから西側に亡命した作家の作品でね、作家は慣れないフランス語で短い単純な言葉を使って書いてるの。だから子供が語り手になってるのかもしれないね」
「……そうなんだ」
母が本について私に語りかけてくることは初めてだった。私はまだ子供で児童文学を読むこともあったし、大人の本を読むようになった小学五年生のときも、父に倣って日本文学ばかり読んでいた。エンタメばかり読んでいたし、それは父との会話のネタになった。その代わり、海外文学を一人静かに読むのが好きだった母との話題は少なかった。
「あの本は読みやすいから、堀君だけじゃなく若い人はみんな好むみたい。ピアノも読むなら貸すけど」
驚いた。母が私に本を薦めようとしている。一人の世界が強くて、他人と一線を引く癖のある母が。娘であっても絶対に甘やかしたり、親しみを込めた冗談も言ったりもしない母が。
ひとしきり悩んだ。興味はあったのだ。でも。
「いいや。今度ね」
私が言うと、母は残念そうに「そう」と返した。何となく、意地を張ってしまう。本を借りるくらい、なんてことないのに。私は母が苦手で、彼女が引く一線を、自分から越える勇気はない。
車が学校に着き、母は私が車から降りるのを手伝った。また体が触れる。母子なのにこんなに緊張するのは、私と母の心の距離が遠いということだ。
「いってらっしゃい」
母は手を軽く振った。私はうなずき、学校に入った。
「ピアノ、大丈夫ー?」
教室に入ると、松葉杖を突いていることで人に囲まれた。みんな笑っている。心配そうな声は作るけれど、好奇心のほうが強いようだ。あのとき先生を呼んでくれた友達も、今は笑っている。
「全治二ヶ月だって。しばらく部活できないな」
「えー、今日から私誰と組めばいいの?」
友達は言った。それは自分で考えたら? とかすかに苛立つが、「ごめんね」と笑顔を作る。
「ピアノ、部活出られないし、その足だと休みの日も出かけられないね」
どきっとする。
「お大事にねー」
友達がすっ、と離れていく気配がした。物理的に、ではなく心の距離。遊ぶときのメンバーにできないということは、二ヶ月間私は友達を失うことなのだとわかった。自分の席に着き、用心深く座るが、心臓の音がどっどっどっと強く苦しいくらいに打っている。私は友達を失ったのか? これから、私はどうやって学校にいればいいのか?
「痛いの?」
不意に、誰かが私の席の前に立った。うねった栗色の長い髪。中田さんだ。中田さんは意志の強そうな濃い眉と、大きな釣り目を囲む濃い睫毛をしている。はっきり言って、美人だ。私はびっくりしてうなずいた。
「痛い、けどギプスをしてるからどこかにぶつけない限りはそんなに」
「私ね、前にスケボーしてて転んだことあるの。あなたと同じように、足をくじいた。でも骨は折らなかったの。骨は、人間の芯。痛いよね」
「う、うん……」
「動けなくなったらすぐに言って。手伝ってあげる」
私は黙った。それからすぐ、「ありがとう」と答えた。中田さんは口元だけ微笑み、自分の席に戻った。涙がじわっと湧いてきた。中田さんは、本当に優しい言葉をくれた。今まで、私は友達につられていつも彼女の英語の訳を笑ったり、アメリカ文化に染まった場違いな態度を笑ったりしていたのに。彼女は本当にいい人間なのだろう。私と違って。
ホームルームが終わったら、英語の授業。次は、中田さんの流暢な英語について何か同意したり、訳を馬鹿にしたりしないと決めた。友達がどう言おうが絶対だ。
終わりのホームルームのあと、帰ろうとしていたら堀に声をかけられた。堀の友達はびっくりした様子で彼に手を振り、先に行くと言っていた。どんな用事だろう? 堀と私の接点は、昨日の読書会だけだ。堀はかすかに笑いながら私に訊く。
「『悪童日記』読んだ?」
え、と驚く。開口一番にそれを訊くとは、どういうことなのだろう。他の人たちは私の松葉杖やギプスをはめた足首について何か言うけれど、昨日もそんなことは訊かず、今日も何も触れずに早速「悪童日記」について訊いてくるとは。でも、不快ではない。私をいつも通りの人間として扱ってくれるというのは、滅多にないありがたいことでもある。今日は一日足首のことばかり訊かれていて、それはもう煩わしい域に達していたのだ。
「まだかな……。昨日の今日だし」
「そっか。面白いんだよ。早く読めばいいのに」
「え、何でそんなに私に読んでほしいの?」
私は素朴な疑問を堀にぶつけた。堀ははっとしたような顔になり、
「ごめん、迷惑だった? 俺としては『悪童日記』を知ってる人間をこの学校で初めて見つけて嬉しかったんだけど……」
と気にする素振りを見せた。何だ、そういうことか、と納得する。私たちはまだ中学二年生で、大人の本を読む人間というのはまだまだ少ない。彼が仲間に飢えて、とうとう読書会にまで出没し始めたのはそういうわけもあるのだろう。文芸部にいても、そういうことはあるんだろうな、と思う。
「読んでもいいけど」
「本当?」
堀は目を輝かせた。何だかとても素直だ。堀って結構面白いなと思う。彼は持っていた鞄から文庫本をがさがさと探り出し、私に見せた。昨日見た、ボロボロの「悪童日記」だ。
「貸すよ。いつまでかかってもいいから読んできて」
「……ありがとう」
本当は母が持っているから家にあるし、自分で買うこともできる、とは言えずに私はそれを受け取った。
「じゃ、明日な。明日進捗を訊くから」
堀は友達を追って廊下を走っていった。私は首をかしげたまま、文庫本を手に持って立ち尽くした。緑色の本。普通の文庫本より少し背が高いトールサイズ。アゴタ・クリストフ「悪童日記」。
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