第2話 幽界書店

「なーに笑ってんだ。もっと喜ぶと思ってたのに」

 父は空になった段ボール箱を雑に載せ、台車を押しながらバックヤードに向かって歩き出した。店の構造は全く同じ。入り口があって、右手にレジ、本棚が並んだそんなに広くない店内に、奥にあるトイレと倉庫。入り口から見て右手奥にあるあのスペースはどうなっているかなと思ったら、やっぱりそこには母の読書会のスペースではなく、父の趣味の本のコーナーがあった。私は一気に嬉しくなる。近づくと、ビートルズのレコードと、たくさんの漫画の本、音楽のエッセイ、音楽雑誌などが並んでいる。ギターまであった。父はギターが大好きで、私が男の子だったら「ピアノ」ではなく「ギター」とつけるつもりだったらしい。女の子でよかった。趣味のコーナー以外の部分では、父の好きな登山家のエッセイや、ミステリやSF、重厚な時代小説が並んでいる。父は池波正太郎の「鬼平犯科帳」や司馬遼太郎の「竜馬がゆく」、山田風太郎の「伊賀忍法帖」が好きだった。亡くなる前は浅田次郎の「壬生義士伝」も病院のベッドで読んでいたなとぼんやりと思い出す。エンタメ小説、特に時代小説がとにかく大好きなのだ。

 父は私とすれ違ってバックヤードの倉庫に入ると、段ボール箱を置いてきてレジに入った。違和感があった。

「お父さん、においないね。ほら、マルボロの煙草のにおい」

 私が振り返って言うと、父は何でもないことのようにうなずいた

「ここは幽界なんでね。煙草を吸っててもにおいはないんだ」

「幽界?」

 私はようやくこの場所のおかしさに気づいた。幽界。つまり幽霊の世界? あの世ってこと? じゃあ、私も幽霊?

「お前は心配がすぐ顔に出る」

 父はにっこりと懐かしそうに笑った。それは生前父が何度も私に言った言葉だった。

「幽界は、あの世とこの世の間にある。俺はまだこの世の近くにいたいから、しばらくこの林書店をやってこうと思ってやってるんだ。面白いぞ。色んなお客さんが来るんだ」

 入り口にお客さんが立っていることに、父は私よりも早く気づき、「いらっしゃいませ」と声をかけた。お客さんは、何だか……見覚えがあった。

「夏目先生だよ、ピアノ」

 えっ、と声が出る。その人は、着物を着ていた。黒い髪を軽く後ろになでつけ、口髭を整え、背は低いけれどハンサムだった。どう見ても、夏目漱石だった。カラーで見るの、初めて。そんな馬鹿な感想が出る。

「娘さんですか」

 夏目漱石が私をじろじろと見た。歴史上の人物にじろじろ見られている! そう思うとカッと緊張し、黙ってしまった。父が「はい」と言うと、その人はふいに私から目を逸らした。

「この間注文していた漢籍の本を受け取りに来たんですが」

「あ、届いております。ええと」

 父はレジ内の壁をがさごそいじり、何だか難しそうな漢字でタイトルの書かれた本を三冊取り出した。夏目漱石の前にそれを渡し、夏目漱石は懐から布を折って巻いたような財布を取り出すと、真っ白な紙を何枚か置いた。父のほうはそれを受け取ると何も書いていない寛永通宝のような四角い穴の開いたコインを取り出し、「お釣りです」と渡した。夏目漱石はそれを財布に入れると、無言で店を出て行った。

「何か夏目漱石って感じ悪くない?」

「ああ、俺も店をここで始めたときはそういうこと思った。幽霊って昔の人が多いし、昔の価値観で今も行動してる人多いから、女や商売人を下に見てる人多いよ。でも夏目先生は英国留学もしたことあるし、まだマシなほうだと思うよ」

「マシー? 私『吾輩は猫である』とか『こころ』とか読んで感動したこと言おうかなと思ってたのに、やる気なくなっちゃった!」

「まあまあ。違う感じの人もたくさんいるから。夏目先生の弟子の中では内田先生は明るくて感じもよくて、俺は好きだな」

 内田百閒か。私は随筆をいくつか読んだことがある。飛行機や電車が好きで、無邪気で明るそうだけれど、父の好む人物となるときっと滅茶苦茶な人物だ。借金ばかりしていたとか聞くし。別に会いたくないなあ、なんて思う。

「谷崎先生はまだ新作をコンスタントに出してるしな」

「ホント?」

 私は前のめりに訊いた。谷崎潤一郎。私が文学少女だった中学一年生のときに、散々読んだ作家だ。短編も芸術的でエロティシズムが溢れててえぐいくらい好きだが、長編の「猫と庄造と二人のおんな」や「細雪」は夢中で読んだ。それがまだ作品を出しているなんて。

「幽界には出版社もあるしな。死後も作品を発表してる作家は結構いるよ。お前も読む? 谷崎先生の新作。好きだったもんなあ」

 父は売り場の本棚に近づくと、艶やかな赤いハードカバーの本を取り出した。それを受け取ると、私は夢中で読み始めた。面白い。美しい。心が燃え上がるような読書体験。谷崎潤一郎、好きだったな。生前の本もまだ読んでいないものがたくさんあったはず。多作な作家だから。

 それから、しばらく経った。

「おっと、時間だな」

 レジ内の隣で一緒に本を読んでいた父が、ふと声を出した。私はハッとした。父は腕時計を見ていた。生前も身に着けていた、セイコーのシルバーの時計。私のほうを向き、父は「帰りなさい」と言った。

「え、だって……」

「上に行ってお母さんの手伝いをしてきなさい」

 私は本ばかり読んで父とじっくり話せなかったことを後悔し始めていた。それどころじゃなかったのに、父が隣にいるだけで昔に戻ったような安心感だったのだ。

「やだよ、お父さんとまた話したい。私寂しかったんだから、ずっと。友達も、部活も、全部うまく行かなくて、お母さんとも……」

「大丈夫だよ」

 父は微笑んだ。

「次の読書会の日、またおいで」

 私は泣き出した。父は松葉杖を突きながら歩く私を、ゆっくりエスコートしてくれた。倉庫にたどり着くと、

「次までに何か好きな本を読んできな」

 と笑ってドアを閉めた。私は倉庫のドアを開けようとした。けれど何故か開かない。ゆっくりと奥の階段に向き直る。普通のコンクリートの階段だ。何も変なところはない。上から特別な光が届いているというふうでもなく、しんと静かだ。ゆっくりと、階段を上がる。踊り場を越えて、たどり着くと――。

「あ、ピアノ、大丈夫? 転んで動けなくなってるんじゃないかってお母さんが心配してたよ」

 ドアからみっちゃんが覗いていた。いつもみっちゃんの顔だ。いつもの林書店だ。一瞬、今あったことを話しそうになったけれど、急に訪れた日常の気配がそれをとどめた。

「十五分もこもって何してたの?」

「十五分?」

 体感としては三時間だった。信じられない。では、あれは幻とか、妄想とか、夢の類だったのだろうか?

「そう。だから心配してたんだよ。さ、お客さんが揃って盛り上がって来たから、ピアノも参加したら? 楽しいよ」

 みっちゃんは笑って私の手を引いて歩き始めた。私は松葉杖を突き、ゆっくりとついていった。

 確かに、読書会は宴もたけなわだった。さっきは緊張してそろそろと話していたお客さんたちは、緊張の解けた笑みを浮かべ、お茶やコーヒーをすすりながら手に持った本や自分で作って来たらしいレポートの紙を手に、賑やかに話している。その中に、驚くような人物を見つけた。

「堀?」

 私が思わず声を上げると、大人の中では小柄なその人物が弾かれたように振り向いた。黒縁眼鏡に神経質そうな色白の顔。確かに同じクラスの堀だ。

「あら、知ってるの?」

 母が堀に声をかけた。堀は気まずそうにうなずき、母は私に説明した。

「遅れてきたメンバーなの。堀君はよく本を読む文学少年よ」

 堀はぺこりと私に頭を下げた。私もそうした。何しろそんなに話したことがないのだ。

「クラスメイトなんだ」

 私が言うと、堀もうなずいた。

「そうなの。まあピアノもこのテーブルに座って話を聞きなさい。楽しいから。どうせ今の時間は店を貸し切りにしてるしね」

 母は普段とは全く違う明るい顔で仕切る。でも、それに反発を覚えたりはしない。読書会に参加することをすごく嫌に思ったりしない。私は角を挟んで掘の隣に座った。堀の前には一冊の読み込んだ文庫本。アゴタ・クリストフ『悪童日記』だ。読んでみようかと思った。父が何か読んできなさいと言ったから。

 平穏な気分だった。だって、父にまた会えたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る