父と私の幽界書店
酒田青
第1話 読書会なんて大嫌い
おはよ、とみっちゃんがきびきびと言った。私は寝起きでぼーっとしたままパジャマの下のお腹を掻いた。みっちゃんは私と母の家で当たり前のように味噌汁を注ぎ分ける。ぷわーんと卵の焼けるにおい。母は卵焼きを必ず焦がす。大きなお皿に焦がした巨大卵焼きを載せ、母はさっさっと包丁で切り分ける。たくあん。たくあんは生ぐさい。くさいたくあんをみっちゃんが小さな皿に二、三枚ずつ置いていく。たくあんをつまんでるあの箸汚くない? もう何年も前から塗装が剥げちゃってるじゃんか。そう思うけど言わない。私はふわー、とあくびをし、洗面所に向かう。
洗面所の鏡には男の子みたいなショートヘアをした部活焼けの顔の自分が映っている。自分の顔って嫌い。でも手入れしないと学校で馬鹿にされる。それも陰で。あの子もあの子もあの子も、芋くさいという理由で陰口を叩かれている。丁寧に顔に泡を広げると、剃刀で産毛を剃る。眉の下も剃る。それから剃ったせいですーすーする顔を洗う。にきび体質じゃなくてよかった。あの子もあの子もあの子も、にきびで悩んでいる。極度ににきびが多い子は陰で「キモい」って言われてる。顔を拭いて化粧水を塗る。乳液を塗る。乾くのを待てないから顔を拭いたタオルでもう一度軽く拭く。乏しい睫毛にマスカラを塗る。少し睫毛が豊かになる。髪をさっさっととく。ヘアオイルをつけて整えていると、「そろそろ食べなさーい」とみっちゃんが声をかける。私は無言で食卓に向かう。
食卓のメンバーはいつも私、母、みっちゃんだ。母とみっちゃんはいつも仕事の話をしている。今月のスケジュール。あの本届く前にポップ作んなきゃ。腰が痛い。面倒な客。やーねえあの人いつもセクハラ。そーよお、ヒロシ雌だったのかなって思ったんだから。
ヒロシは横で寝ている。ご飯を食べて満腹した猫のヒロシ。去勢手術が済み、血気盛んだった雄猫のヒロシは子猫のように穏やかになった。かりこりという誰かのたくあんを咀嚼する音が響く。
私は立ち上がる。部活に行かなくては。朝練がある。たった一時間でもやらなきゃ。
あらもういいの。みっちゃんが言う。母は私を見ずに「歯磨きしっかりすんのよ」と言った。
でね、明後日の読書会……。母とみっちゃんが熱心に話し始めた。私はそれを皮切りに、歯磨きをしに洗面所に向かった。読書会。読書会は大嫌いだ。
部活の朝練が済み、私は友達と校庭を歩いていた。もうすぐ授業が始まる。校庭の門の周りにはシャクナゲシャクナゲとしつこいくらいシャクナゲが咲いている。たまにツツジ。ピンクの花って嫌い。女の子くさい。私は身長が高く、顔も男っぽいから似合わない。だから嫌い。
「あれ堀じゃない?」
友達の一人が言った。見ると確かに目の前を堀達樹が歩いていた。校章の入った重そうなバッグを背負い、黒縁眼鏡が向こうを向いた顔からちらちらこぼれ見える。身長は私と同じくらい。成績はいいらしいが地味な存在なので女子には興味を持たれない。ただ背筋がぴんとしていて育ちのよさを感じさせる。
「あいつ本ばっか読んでる」
「あー、ぽいぽい」
「友達も、文芸部の江田とか坪井とか、そんなんとばかりつるんでるよ」
「へえ地味ー」
始まった。陰口大会。私はとりあえず「地味ー」とリフレインした。これで陰口にコーラスで加わったふうになる。
「ピアノもさ、本読むでしょ。気が合うんじゃない? 堀と」
ピアノ、と名前を呼ばれた瞬間、びくっとした。私はピアノという名前だ。急にこの子たちの会話の焦点が私に合った。私は笑って、
「文学少女だったのは中一までだよ。もう全然読んでない」
と返した。彼女たちはふうん、とうなずいて、
「お父さん亡くなってから全然読んでないもんね」
と一人が訳知り顔に言った。私は顔を凍りつかせた。それに興味津々な彼女たち。
「……だね!」
と私は笑って返した。本当は笑いたくなんてなかった。
中田さんの流暢な英語が響き渡る。英語の授業なんだから英語が流れて当然なのだが、ここでも私の友達は陰口を言う。「中田さんってひけらかしてんの? 帰国子女ってそんな自慢なんだ」隣の席の友達は、顔をしかめて私に言う。私はにへらと笑って首を傾げる。授業中なのでそれで通用した。
中田さんは簡単すぎるであろう教科書の朗読を終えると、ちらりとこっちを見た。ヤバい。聞こえていたに違いない。
「今日も素晴らしい朗読をありがとう。意味は解いてきた?」
中年の女の先生が微笑みながら促すと、中田みいなさんは顔を曇らせ、途端にぼそぼそと自分で訳してきた部分を読み上げ始めた。「もう少し大きな声で」と言われ、中田さんは少し声を上げるがまた下がっていく。聞こえた内容は、つたない日本語だった。くすくすと誰かが笑った。中田さんはその子を睨みつけた。「ありがとうございます。意味は合っていますよ」先生がわかっていますともと言わんばかりの顔で優しく微笑んで、次の生徒を当てた。
「やばー」
隣の友達は嬉しそうに笑っていた。
部活を終えてスマホをチェックすると、母からラインが届いていた。というか、今日の私のスケジュールだ。店番。それのみ。六時から八時まで、私は母とみっちゃんの店を手伝わなければならない。部活で疲れているのに。さぼるか仮病を使うか迷ったが、結局向かうことにした。月二万円のお小遣いはこうやって稼いでいる。
テニスのラケットが入ったケースを抱えたまま、私は歓楽街の入口にある店に向かって自転車を置いて歩いていた。林書店。シンプルに林書店だ。母は林姓だがみっちゃんは違う。姉妹なのに。というのはつまり、林書店は元々父の店なのだ。
「ただいまー」
ここは家ではないが、一応来たことを知らせるためにそう言いながら入る。みっちゃんがいた。入り口で注文した分の本を整理している。
「お母さん帰ったから! しばらく店番お願いね」
みっちゃんはそう言うと段ボール箱を持ち上げて台車に載せて移動させ、中身を本棚に並べ始めた。私はレジカウンター内に入り、周りを見渡す。お客さんはそこそこいる。若い人が多い。詩歌のコーナーには眼鏡の女性が、海外文学のコーナーには独特の雰囲気の白シャツの男の人がいる。ここ林書店は独自のラインナップで本を売っている。詩歌の本が何十冊も並んでいる書店はあまりない。真ん中の三つある木の本棚には海外文学がぎっしり詰まっている。右手のほうには洋書が。奥には日本の作家の他では置いていない本やエッセイ、体験記が。右手の空間には大きなテーブルと椅子があり、そこの壁も本が置物と共に並んでいる。今はヒロシがいるだけだ。ぐーんと伸びて、お尻を毛づくろいしている。私はこのコーナーが大嫌いだった。読書会のためのコーナー。
だって、あのコーナーは父の趣味本コーナーだったのだ。音楽の歴史の本、ミュージシャンのエッセイ、各種の漫画。「ジョジョの奇妙な冒険」全巻。藤子・F・不二雄の異色短編集。そしてビートルズのレコード。店ではビートルズのレコードがいつも流れ、ビートルズ酔いするほどだった。私が十二歳のときに父が亡くなってしばらく経つと、母は店を大幅に改装した。そして海外文学とエッセイ、詩歌に特化した何だかこじゃれた本屋にしてしまったのだ。私と父の思い出の本屋は、母によって壊されてしまった。
そして読書会である。月に二回行われる読書会は、今の林書店の名物だ。父の時代のレコードや漫画や音楽の本が撤去されたあとは、あの空間に大きなテーブルが置かれ、読書好きの人々が集まって文学談義をする空間になった。いかにも本を読みそうな、こじゃれた人ばかりが集まる。あの父の時代の混沌は、この人たちにも壊された。私は父の趣味に走った無茶苦茶な出来栄えの林書店が好きだったのに。
レジで本を売る。カバーをかけるのは上手い。昔からやってきたから。七時になるとみっちゃんが車に乗せて家まで連れて行ってくれる。というか夕飯も一緒に食べる。先に帰った母が里芋の煮っころがしと焼き鮭を用意していて、母とみっちゃんは賑やかに、私だけ静かに食べる。ヒロシは香箱を作って寝ている。
「ピアノー! 走って走って!」
私は走る。必死で球を取る。
「もっと走ってー!」
必死に走っている。それに球はちゃんと返せている。先輩がしつこいくらいに私を指名し、何度も練習させる。友達は笑っている。私が必死にやっているのを、笑っている。
「なんでちゃんとできないの?」
二回ほど失敗したら、先輩が真顔になって私に訊いた。私はちゃんとできていましたが、とは言えずに黙って先輩を見る。
「何で黙ってんだよ」
私はびくっと肩を震わせる。それが更に先輩を苛立たせる。先輩はじっと私を見つめたあと、
「じゃ次ー」
と軽やかな声を上げてお気に入りの後輩を呼んだ。その子は失敗してもえへへ、すみませんで許される。私は息を荒くしながらただそれを見ている。
「おつかれっ」
友達が私の肩を叩く。さっきのことは何も言わない。先輩がずっと私にだけ当たりが強いことを、何も言わない。笑顔で何事もなかったかのように自分の話をし始める。
「でー、こないだ実花といった店でナンパされてー。あ、ピアノを誘わなかったのはたまたま! まじ」
私は友達の輪から外されがちなのにも気づいている。私と友達は話しながら校庭をゆっくりと歩いて行く。
「で、こないだの実花ケバすぎて引いた。ほんと。で、……あっ、そこ気をつけて」
友達が言った瞬間、視界が変わった。私は何かに落ちていた。左足に激痛を感じている。見ると校庭の隅を走る排水用の溝の蓋が開いており、私はそこに左足を突っ込んでいた。おかしな方向に足首が曲がっている。
「いった!」
友達は大慌てで先生を呼びに行った。意外だ、こういうときは本当にまともな扱いをしてくれるんだな、と思った。足首はじんじんと痛む。校庭に座り込む。友達が大勢集まってきた。どの友達も友達じゃない。うわべだけの、友達という名前の何かだ。私は、大丈夫? とか痛そう、とかの声を浴びながら、視界を歪ませていた。気づけば何かが限界に達して号泣していた。周りの彼らは顔を見合わせ、私を奇妙な目で見ていた。
母が病院の待合室に来たとき、とっさにこう言った。
「ごめん。忙しいのに」
母は、「何で足元を見てなかったの」と言った。こういう性格だった。完璧主義で、失敗した人間を責め立てる、冷たい人間。私は黙り、病院のつるつるの床をひたすら見つめていた。
「泣いてたって本当?」
びっくりして見上げると、母は顔をしかめていた。こんな顔をされるのだから、先生が言わないようにずっと祈っていたのに。私は黙った。
母は私に付き添っていた担任の先生と少し話したあと、私を抱えて歩き出した。さっき、病院の先生からは骨折していると言われた。ということは、部活ができないということだ。松葉杖があるからと拒否しても、母は黙って私の左側を歩きながら私を抱えていた。私たち母子の、滅多にない接触の機会だ。昔から店が忙しくて、私は母と接触することがない。何だかひどく緊張した。
「明日、部活行けないでしょ」
それはそうだ。私はうなずく。
「なら、読書会の手伝いをしなさい」
私は愕然とする。読書会。あの大嫌いな読書会の手伝いをしなければならないなんて。
「レジで課題やってるだけでもいいから」
母はまっすぐに前を向いたまま、そう言った。
第二、第四日曜日の午後四時から、その会は開かれる。私はコーヒーの香りが漂う林書店の中で、ポップをラミネートマシンにかけていた。よく考えたらこの足では何もできない。重い本の入った段ボールを持つのも、本の入れ替えも、掃除もできない。できるとしたらレジ作業か、こういうラミネートの作業だ。ポップは母やみっちゃんが手書きやPCで作る。どれもわからない。私は日本の作家の本しか読んだことがないから、こういう海外文学などを読んだことがなく、ポップを一から作ることはできない。
ことん、とカフェオレが手元に置かれた。お盆を持ったみっちゃんがにっこり笑っていた。
「初めてでしょ、読書会。結構面白いよ。今日のテーマはアゴタ・クリストフ『悪童日記』三部作。人気あるんだよ、『悪童日記』。今回の読書会の申し込みはあっという間に埋まっちゃったんだから」
ふうん、と私はうなずく。興味がないのだ。みっちゃんはそんな私のことを気にせずに入り口に立っている大学生らしい男性に声をかけた。
「早いね! 飲み物はコーヒー? お茶?」
どうやら常連らしい。その人は私を珍しげに見つめながら、「あ、いつもの温かいほうじ茶で」と答えた。
予定の五分前になると、次々に人が入ってきた。どの人も物静かそうな、独特の空気を持った人たちだ。眼鏡の率が高い。髪を青に染めた女性がいて、その人は芸術大学に通っていそうな雰囲気だった。
「では、お一方まだ来られてないけど、遅れると連絡はあったので、始めましょうか」
母が微笑んで仕切り出した。慣れた様子だった。
「皆さん三部作全てを読まずとも一作目は読まれたと思うんですけど、どういう感想を抱かれました?」
そろそろと髭の男性が手を上げた。
「僕は初読なんですけど、この作品は戦争のさなかのハンガリーの話ですよね。双子の少年たちの目を通した……。非常に淡々と書いてあるんですが、同時にすごく生々しさを感じさせる部分があって……」
「あ、わかります。髪を」
「そう、撫でられるくだり」
段々人々は口が滑らかになってきて、ああだこうだと私の知らない海外文学の話をしていた。楽しそうで、ちょっと読んでみようかと思ったくらいだ。でも、私は不愉快だった。
林書店は、こんなこじゃれた本屋じゃなかった。父の、城だった。趣味のものがたくさん並んだ、個性豊かな本屋だった。それなのに父のコーナーだった場所で、知らない人たちがコーヒーを飲むのを忘れてしゃれた本の話をしている。
がたん、と立ち上がった。人々は私を見た。私はトイレに行くような自然さで歩き出した。松葉杖を突きながら。バックヤードに向かうつもりだった。そこでたくさんの本に囲まれて泣こうと思った。
倉庫になっている部屋は、暗かった。私は電灯のスイッチを入れた。すると、妙なことが起こった。バックヤードの隅にある、地下への階段。うちには地下なんてなかったはずだ。それなのに、パイプの手すりで囲まれた地下へのコンクリートの階段がある。人々が読書会をする声を背後に、私は思案する。危険だ。何かおかしな存在からのいざないかもしれない。そう思った。でも、――まあいいや。私は用心深く階段を下りた。地下に着くと―――。
同じようなバックヤードがそこにあった。不思議に思いながら、同じようにある店への扉を開く。その瞬間、ビートルズだ! と思った。ビートルズの「ヘルプ!」が流れている。本屋にしては、――そう、ここは本屋だ――大音量で。
「いらっしゃいませえ」
この声は、この低い声は。私は店の入り口に向かって顔を向けているその人の後ろ姿を凝視した。銀縁眼鏡をかけた、ごつい体のその男性は、段ボール箱を乗せた台車を停め、手際よく本を並べ始めた。横顔が見える。淡々としながらも時折「ヘルプ!」で鼻歌を重ねる様子、青いエプロン、刈り上げた黒い髪。
「お父さん……」
父がいた。そこに父が働いていた。父は私の声に気づき、
「ようピアノ。来たか」
と笑って手を上げた。
私は、泣き笑いを始めた。信じられなかった。
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