花より他に知る人もなく
@pandaya55
第1話
「あの、申し訳ございません。こちら、S寺でございますか?」
彼女が来た日のことは憶えている。
その日の朝は靄がかかっていて、不思議な色が寺を覆っていた。
寺の前の道を掃き清めているときだった。
気が付くと、目の前にストレートの黒髪を肩に垂らした20代半ばと見える女が立っていた。白い着物に銀糸の刺繍が施されたそれは目の前の女にひどく似合っていてそれはまるで一枚の絵のようだった。
「はい。あの、法要か何かですか?」
私が尋ねると彼女は少し言いよどむように唇を開いた。
「いえ、……S寺とは縁がございまして、ご挨拶をと思って」
そういうと彼女は私の肩越しに中を伺うように本堂をじっと見つめていた。
こんな若い女性が寺に興味をもつことがあるのだろうか。
私はそう思ったが、よくよく考えれば自分が大学生の頃、よく寺社仏閣を訪れ研究と称して仏像を見せてもらっていた。
なるほど、彼女は歴女だ、と私は納得した。
「ここは、江戸の中期まで尼寺だったんですよ。明治の前もそうだったみたいで、ほとんど何も史料がないのでわからないところが多いんですけれど」
「では、あなたはここの御住職の?」
「私は住職の姉です。今、母も弟もいないのでよろしければどうぞ」
「よろしいのですか?」
彼女は嬉しそうな顔をした。大きな黒い目が輝いて見える。
では、と彼女は小さくつぶやくと山門に足を踏み出した。
霞の中、小さな本堂はいつものさびれた風貌により親し気な優しい顔でその不思議な客人を向かい入れた。
本堂に入ると彼女は阿弥陀如来に手を合わせた。
女の私から見ても美しい人であったが、どこか普通の人と違った雰囲気がある。
お茶を差し出すと彼女は深々と礼をした。
「恐れ入ります。お寺に入れてくださるなんて、それも本堂にあげていただけるなんて」
最近、この辺りも仏像盗難などという物騒な話が聞こえてきていた。見知らぬ人間を本堂にあげることなどもってのほかだとこの辺りを回る警察官に厳重注意を受けている。
そのことを彼女は知っているのかと私はお茶を出しながら自分の行動に注意が足りなかったことを少し反省した。
しかし、目の前の女性はこの寺と縁があると言っていた。
そんな女性をはいそうですかで帰すわけにはいかないだろう?私は自問自答を繰り返す。
「あの、あなた様はこのお寺と縁があるとおっしゃっていましたが、どのようなご縁が?」
私が尋ねると彼女は微笑みながら阿弥陀仏の方に顔を向けた。
「このお寺はかなり古いのですね」
「たしか、再興は450年ほど前ですが、その前も尼寺として。元々は奈良の大仏様が建立されたときに建立されたお寺があってその前は渡来人の方の古墳が……」
「よくご存じなんですね」
「まあ、私の趣味です。でもあなたも相当詳しくご存じなのでは?」
「……私の縁というのは、尼寺の時代でございます」
「宮家姫君の尼寺であったというとき、ですか?」
私が尋ねると彼女はうなづいた。
ああ、なるほど。
外は靄がかかっているが、外からの光で今は昼であることがわかる。
靄や霧が孕んでいるときは、現実と夢、異世界の混在する時間なのだ。
私は目の前の女性のそのおおよそ現世の人とはいいがたい美しさを突然理解したように思った。
「もしよければ、お話をお聞きしてもよいですか?あなたのご縁のお話を」
私が尋ねると彼女はうなづき、そして微笑んだ。
「あの人は、私のすべてでした」
花より他に知る人もなく @pandaya55
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