第12話

 だけど自分の部屋に帰ると同じ虚しさに襲われた。シノはいない、自分で何とかするしかない。でもアイデアはない。ベッドに入ってじっとする。呼吸を数える。このまま死ぬのかも知れない、だけど、シノとのときはちゃんと抜けた。待つしかない――空虚には波があって、強まったときには息をするのも苦しいけど、弱まるとただの形のない不安で、それが行ったり来たりを繰り返す――三十分程度で波は平らになって、鼓動が早いまま、元の僕に治る。加えて汗がびっしょりであることを除けば僕はいつもの僕で、さっきまでと切り離すことが出来そう。でも別の僕ではない。シノの言う通りだとしたら、僕はあの状態を潜り抜けて、本当の平時の僕に戻る。あと何回来るのだろうか、嫌だな、しばらくは様子を見て、あれがほとんど来なくなってからサバ子との別れ話をした方がいいのかも知れない。

 僕は水を飲んで、シャワーを浴びる。さっぱりとしてもう一度水を飲む。水の澄んだところが僕の頭をしんと鎮める。その頭でもう一度考えた。……あれがなくなるのを待つのは間違いだ。サバ子が僕の恋人であると言う状態そのものが、僕を支配の下に連れ戻そうとする力を持っているし、僕の消耗は続く。だから、何よりも優先して、サバ子と別れなくてはならない。シノを待たせたくもない。サバ子に電話を掛ける。

「もしもし、サバ子?」

『どうしたの?』

「今日は会わないって言ってたけど、やっぱり部屋に行っていい?」

『もちろん。いつだってウェルカムだよ』

 これから別れ話をしに行くことを予告しないのは、騙し討ちになるのだろうか。彼女は僕を普通か少し嬉しい気持ちで待っている。僕は罪を犯しに行くような悲壮感の中にいる。二人の胸の内側にあるものの距離が、乖離が、別れ話の悲惨さに繋がるようで、だからと言って楽しい気持ちにはなれない。同じ電車に乗っている人々の中に、僕と同じくらいの緊張を携えている人はいるのだろうか。街の中にこれから誰かを悲しませに行く人はいるのだろうか。きっといない。僕だけが独り、戦場に赴く。僕は生還することが出来るだろうか。彼女の部屋に着く、最後のドアは自分で開けよう。

 鍵を出そうとして、手が上手く効かない、手汗ばかりが出ている。心臓がバクバクしていて、僕は急に怖くなって踵を返す。サバ子の巣から逃げる。はあはあと息を切らしながら、ときに後ろを振り返る、僕は逃げる。誰も追っては来ない。それは分かっているけど、逃げる、逃げる、……もうここまで来れば大丈夫だろう、遊具が三つしかない小ぶりな公園、子供が遊んでいる、その脇のベンチに座る。鼓動と呼吸を整えようと深呼吸を繰り返す。手が震えている、汗が流れる。水飲み場がある。僕はそこで水を飲み、顔中に水を掛けた。びしょびしょのままベンチに戻り、終の住処に安住するように座る。子供達が遊具で遊んでいる。何人かはお喋りをしている。見るともなしにぼーっと見ながら、僕は何をやっているのだろう。別れ話をするために来たのに、ここまで逃げて来て、再びあそこに行くことよりも、もうこのまま逃亡してしまおうか、首を振る、きっちり終わらせないといけない。曖昧にしたら、支配と怒りが永遠に続くことになってしまう。終止符をドカンと打たなければいけない。でも、……怖い。面倒とかじゃない。彼女が何をするかが怖いんじゃないし、結果何が起きるかを恐れている訳でもない。サバ子に別れ話をすることそのものが怖い。空を見上げれば太陽が輝いている。太陽に突っ込むときの怖さに似ている。彼女が僕を殺すとかはないけど、破壊されるのは二人の関係だけで済まないと思う。

 僕はため息をついて、もう一度太陽を見る。眩しい。その眩しさこそが近付くことを忌避させる。でも、サバ子は眩しくはない、その真逆だ。でも効果は同じ。僕は正しく関係を破壊することが出来るのだろうか。いや、破壊する必要はない。終わりさえすればそれでいい。僕の勢いは、勇気は、どこに消えてしまったのだろう。髪をくしゃくしゃと掻き混ぜて、またため息をつく。時間ばかりが経ってゆく。思考はぐるぐると巡って出口がないままで、僕はもう一度水を飲んだら同じベンチに腰掛けて、一度思考から外れようと、子供達が滑り台で滑ったり、ブランコを漕いだりするのを目で追う。子供の頃は公園の中ではブランコが一番好きだった。目を瞑って漕いだときの浮遊感に一抹の不安が混じるのが好きだった。いや、その後に生き残った感じがするのがよかったのかも知れない。彼女のところに行って、生き残って、目的を達成して、帰って来れるだろうか。僕は再びため息をついて、項垂れる。

「お兄ちゃん、どうしたの?」

 顔を上げると、小学校低学年くらいの女の子が不思議そうな顔をして僕を覗いている。面影がシノに似ていて、僕はまじまじとその子の顔を見る。

「何でもないよ」

「ふぅん。地獄から帰って来たみたいな顔してるよ?」

 僕は、はは、と笑う。

「確かに地獄かも知れない。でも、地獄を抜けるにはまたそこに行かなくちゃならない」

 ふぅん、とその子は納得したような、しないような顔。

「辛いときのおまじないを教えてあげる。両方の手をグッと握って、心の中で一番大事な人の名前を唱えるの、何回も」

「君もよくそのおまじないをするの?」

「ママが怖いからね。毎日やってる」

 誰の名前かは訊いてはいけない気がした。

「ありがとう、試してみるよ」

「困ったときはお互い様だよ。じゃあ私行くね」

 その子は手を、キュッキュ、と振ると遊具の方へは向かわずに公園を出て行った。僕は拳を握って、シノ、と唱えてみる。シノ、シノ。確かに救われるような感覚がある。試しにサバ子と唱える、心の動きは真逆に、沈み込もうとしてゆく。おまじないじゃなくて、その人にとって唱えた相手がどういう者であるかを判定するツールのような気がする。でも、シノと唱えればおまじないにもなる。シノ、シノ、僕は戦う。きっと別れる。僕は立ち上がり、水を飲んでから公園を後にする。

 流れに逆らって歩くようにサバ子の部屋への道のりは重く、僕はずっと拳を握ったまま一歩一歩進む。息が切れる、抵抗が強い、しんどいけれども僕はサバ子と別れなくちゃならない。シノ、シノ、僕は負けない。唱えながら進めば、いずれ彼女の部屋の前に到着する。心臓がバクバク言うし、手汗は相変わらず酷いけど、深呼吸をしたら僕は鍵を構える。挿す、それだけのことに抗い難い圧力と、金輪際の集中力、これからすることの全てが乗って、なかなか踏ん切りが付かない。僕は一旦目を閉じて、自分の目的、別れること、を確認してから、目を開けて、「えい」と気合いを込めて鍵を挿す。鍵はぬるんと入って、それを捻れば、開く。僕は鍵を引き抜いて、ドアノブに手を掛ける。これを引いたら、もう後戻りは出来ない。それでいいのか? ……いい。そのために来たんだ。ノブに力を込めて、捻り、引く。ドアはスムーズに開いた。

 ととと、足音がして、サバ子が現れる。

「おかえり」

 彼女は微笑む。「何か濡れてない?」「うん」彼女は理由は訊かずに奥に一旦消えて、タオルを持って戻って来る。「ありがとう」僕は受け取って頭を拭く。自分が今拭いているのが水なのか汗なのか、それとも自らの余命なのか分からなくなる。「シャワー浴びたら?」これから別れ話をするのに、先にシャワー頂きましたと言うのは余りにも彼女を舐めている気がする。

「いや、いいよ」

「そう。じゃあよく拭いてね」

 彼女はスタスタと居間に入る。僕は入念に何かを拭き取ってから靴を脱ぐ。一つ一つの動作が重くて、その動作を重ねる度に胸の上のタライに石が積まれてゆく。押し出されるようにため息が出ようとするのを堪える。彼女に聞かれてはまずい、小さな小さな吐息に擬態させて吐く。僕は今どんな顔をしているのだろう。戦う男の顔ではなく、影に生きる憂鬱な生物の横顔になっていまいか。でも彼女は僕の表情について何も言わず、穏やかに微笑んでいた。見た目は普通なのかも知れない。それとも、彼女にとってみれば僕の様子が陰鬱であればあるほど支配の実感があっていいのか。むしろ、ずっと支配されていた僕はいつも、普通が、沈痛な顔で、だから彼女は何も反応しないのかも知れない。愛の終わりの告白を弾丸のように隠していることが、平時に近付いた僕を被支配の顔そっくりにさせていると言うことだろう。ますます騙し討ちのようだけど、話し合いのテーブルまでは僕を隠している方が届き易いだろうから、このまま廊下を進む。いつもの自分がどう言う足音を立てていたのか思い出せない。どう言う角度で居間に入っていたのかも分からない。中途半端に何かを参照するよりは裸で動いた方が違和感を生まない筈だ、僕は所作のことを置く。胸を張って居間に入る。

 サバ子はいつもの自分の場所、ダイニングの椅子に腰掛けていた。僕はこれまではソファが定位置だったけど、今日はそこで寛ぎに来た訳じゃない。彼女の前の席に座る。

「え、どうしたの? ソファじゃないの?」

「まあ」

「別にいいけど、何か圧迫感があるね。近いからかな」

 今日は、と言い掛けて目の前の彼女を見ていたら、これから別れることと彼女の微笑が重なって、雫になって僕の胸の底に落ち、丸く大きな波紋を作った。波紋が体に共鳴して、増幅されながら僕を昇って、鼻の奥で弾けた。僕は、そんなつもりは全くなかったのに、そう心の中で抵抗してみても意味を成さず、大粒の涙をボロボロと零す。涙は次から次に流れて、それが彼女との歴史と積み重ねて来た想いに由来していることは明らかで、僕は予め終わることに対して泣いている。サバ子は不思議そうに僕が涙を流すのを見ていた。どうしたの、とか、大丈夫、とか言うこともなく、ただ見ていた。でも、次第に彼女の表情がくすんで行き、それはとても不愉快なものを前にして、だけど退屈であることを表明しているようだ。それでも彼女は僕が泣き止むのを待った。

 僕の涙の貯留はあまり多くなかった。液体が終わった後にしばらく空涙を流しながら彼女を見ていた。いずれそれも止まる。彼女は何かが始まることに気付いていて、何も言葉を発さずに僕をじっと見ている。僕はその目を見返す。見返すことが出来た。僕の涙は空っぽになって、だからもう心配せずに進んでいい。今よりもタイミングの適した瞬間はもう来ない――

「サバ子」

「うん」

 僕は短く息を吸う。彼女の目から、心まで届くように、声を発する。

「今日は、さよならを言いに来た」

「え?」

 僕は黙って、言葉が彼女に浸透するのを待つ。一瞬凍りついた彼女は瞬きを何度も繰り返し、ぐっと目に力を入れて僕をよく見る。え? もう一回言うけど僕は応じない。彼女は少し引いて、視線をくるくる動かしながら考えて、僕を舐めるように眺め、目を瞑ってすぐに開ける。小さく何度も頷いてから、唇を動かす。

「本気?」

「本気だよ」

「何で?」

「サバ子との生活に耐えられない。僕は日々消耗してゆくばかりだ」

「私が自殺をしたから?」

「そうだよ」

「もうしないよ」

「それが信じられなくなっちゃったから、終わりなんだ。僕はサバ子といたら一生サバ子の自殺に怯える日々を送ることになる。僕の人生は僕のものだ。返してもらう」

「もう、しないから」

 彼女は僅かに僕の方に身を乗り出す。

「これはもう君の問題じゃないんだ。僕がそう教育されてしまった。それに、僕の日々は君に支配されていた。そこからも抜け出さないといけない」

「もう、しないって!」

「関係ない。手遅れだ」

「私のこと、捨てるの?」

「違う。別れるんだ。公平に平等に、半々ずつに戻る」

 彼女は黙る。僕はその姿をじっと見ながら、自分の心臓がバクバク言う音を聞く。両方の拳を握り締めて、シノ、シノ、と胸の中で叫ぶ。汗がダラダラ流れている。彼女がもう少し身を乗り出す。

「私の中にはモモセがいて、モモセの中には私がいる。そうでしょ? 別れられる訳ない」

「それも返す。二人の時間がなかったことには出来ない。それは分かっている。だから、二人の未来をきれいに分ける。それは出来る筈だ」

「絶対に嫌」

「絶対に別れる」

「私、死んじゃうかも知れないよ」

 僕は大きく息を吸い込んで、音量をちょっと上げる。怒鳴っては負けだから、あくまでちょっとだ。

「死にたかったら死んでくれ。もう僕には関係ない。そうやって僕を縛るから、別れるんだよ」

「死んでくれ?」

「ああ」

「私が死なないようにしたいって言ってたのは、何だったのよ」

「それも本心だった。でも、もう限界を超えた。死なないでくれることの方がいいけど、そのために僕を使うのはもうやめた」

「私……」

 彼女はポロポロと涙を零す。僕のに比べて小さな粒だった。僕がそうしたのと同じなら、涙が出切るまでは何も進まないだろう。彼女は迫り出していた分を戻って、泣き続ける。僕の心臓がいくぶん拍動を弱めた。彼女は半ば俯いて、彼女の視線は下がっているから僕は一方的に彼女を観察する。出会い、恋をして、二人になってからの日々には、懐かしむに足る輝きを保っていることもたくさんある。彼女の泣き顔を見ていたらそう言うものの全てを過去にすることが悲しいことだと胸がじんとする。僕は拳を握る。思い出に引っ張られてはいけない。現実を見ろ。長いシーソーの左端に思い出を乗せ、その反対側に彼女によって生み出されている苦しみを乗せる。時間を過去に戻せば戻す程左側に傾き、今に近付ける程に右に傾く。そして未来はずっと右だ。情にほだされてはいけない。これは彼女の演出だ。彼女は僕の弱点を知っている。いつだって彼女が弱っているときには声をかけた。それは意図的なものではなく、僕にとって当然のことだから。その当然こそがつけ込む隙になる。握った拳がそれを気付かせたんじゃない、別れるために来た決意が僕を慎重にさせている。次の言葉を発するのは彼女でなくてはならない。

 彼女の涙も枯れ、すんすんと鼻を鳴らす。彼女は俯いたまま黙っている。僕も何も言わない。二人とも何も言わない。彼女はじっと動かずに、僕は視線だけをあちらこちらに動かしながら、我慢比べだ、黙り合う。時間が徐々に進むのを遅めて、僕達はいずれ永遠に同じ場所に閉じ込められる。それを打破するのは言葉だけだ。だけどどちらも口を開かない。彼女が鼻をかむ。小さくため息をつく。僕は何も言わない、しない。まるで彼女が自殺をして目覚める前にベッドサイドで彼女を見るときのようだ。それは早く言葉を発して欲しい気持ちも、そうしないと僕達が次に進むことは出来ないと言う確信も、同じで、でも僕はただ待つことしか出来ないのと、僕の意志で待機していると言うところが、違う。居合いのときに相手が間合いに入るのを探知しているのと似ている。……僕は彼女を切り伏せたいんじゃない、関係を断ちたい。彼女が息を大きく吸って、吐く。僕は柄を握って息を殺す。彼女がもう一度、深く息を吐く。僕は何も言わない。

「ねえ」

 静寂の中にトン、と置くように彼女から始まる。

「何?」

「何か言わないの?」

「言うべきことはもう、言ったよ」

「何か言ってくれないの?」

 彼女は顔を上げて僕の目を見る。その瞳が細かく揺れている。

「僕にはもう、そう言う言葉はない」

 彼女は目を見開いて凍り付く。彼女が求めていたこれまでの二人の再演に、もし僕が乗ったならこの別れ話は立ち消えただろう。僕も、彼女も、それが分かっている。分かっている。彼女がどんぐりを吐き出すような息を吐く。ぱん、と弾けて消えたどんぐりに含まれていたのは僕が心変わりする期待、縋るべき最後の希望だ。サバ子は最後の抵抗をするように首を振る、だけど僕にはそれが現実を巻き取っているように見えた。そして彼女は頭を抱える。

「どうしてもダメ?」

「死んだものは生き返らない。僕のサバ子に対しての気持ちも同じだ」

「ずっと一緒に生きていけると思ったのに」

「僕には無理だよ。サバ子の死にたがりには付いていけない」

「私だってどうして死にたいのか分からないから、一緒にいて欲しいんだよ」

「それは僕じゃない。適した人がいるかは分からないけど、僕ではない」

 彼女は頭を両手で掻きむしる。あ、あ、あ、と声を上げる。でも暴れ出さずにそれは治まり、ぐちゃぐちゃの髪の毛で彼女は僕を見る。それは遠くから観察するような真剣だけど毒のない、眼。風が吹いているような視線。静かに照射されるそれに僕は頷く。彼女が一瞬顔を顰めた。

「分かった。別れる。……部屋の鍵を返して」

 僕は鞄の中から鍵を出してテーブルの上に置く。彼女は鍵を見ないで僕を見ている。でもその眼にはもう力がなく、くすんでいる。僕は立ち上がり、最後の声を掛けようとしたけど彼女の視線がさっきのままで固定されて、僕を追わないから、少し待った。でも、彼女の目は僕を見ない。きっともう永遠に追わない。それは僕も同じだし、僕がそうした。それでも何も言わずに、明確な終止符を打たずに帰れない。僕はそのままの彼女に向かって、「さよなら」と言い、彼女は既に死んでしまったかのように何の反応もしない。そこには強く引き留める力があった。僕はそれを振り切って、部屋を出た。

 雨が降っていた。僕は濡れながら自分の部屋に帰った。シノに早く会いたかったけど、一度体をきれいにしたかった。



 一ヶ月が経ち、その間サバ子からの連絡はなかった。僕からもしていない。僕の部屋でベッドの上に転がっていたシノが、彼女ってさ、と遠い記憶を思い出したように呟く。死にたがりだって言ってたけど、それって逆に生きたがりだったのかも知れないね。でも、生きる感覚を得るのが死ぬことにまつわることばっかになっちゃったんだね、きっと。その感じは理解出来ないけど、生きる感覚のために一生懸命になるのは分かる。だって、生きる感覚、それってつまり、心が動くこと、だけが生きてる意味だもん。僕は急にサバ子のことを言い出したシノを前に、凝固する空間に閉じ込められたみたいに動けない。彼女が僕の顔を覗く。私はゼンマイがゆっくりだから、多分、他の人よりももっとそれを求めるんだよ。彼女はふわりと笑ってベッドに座り、こっちこっちと呼ぶ。魔法が解けたみたいに僕は動けるようになり、彼女の横に行く、彼女は僕をぎゅっと抱き締める。

「モモセ、大好き」

 僕は笑って、腕に力を込める。そこにはシノが確かにいた。僕はその温もりが嬉しくて、「シノ」と呼ぶ。

 彼女を駅まで送って、僕は一人、街灯と暗がりが交互に並んでいる道を歩く。最後の街灯で立ち止まる、眼前に広がる闇を前にどうしてか、見なくてはいけないような気がして、掌を見た。照らされる光の下、目を凝らさずとも、右手の中央より少し下に、これまではなかったほくろが出来ていた。

 僕は空を見る、真っ暗だった。もう一度右手を見る。胸が蟲の群れが蠢くようにざわざわする。僕は深く息を吸って、吐く。ざわめきは胸の中いっぱいになって、口から漏れて出て来そう。ゴクリと飲み込む、唾か、蟲か、僕の中に残っている彼女の残渣か。……そうだね、今日だけは彼女のために祈ろう。そう決めて、空に向かって目を閉じた。


(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ほくろとゼンマイ 真花 @kawapsyc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ