第11話

――まだ子供のサバ子が僕にナイフを渡して「モモセのためには死ねる」と言った。世界は金色に光っていて、僕達の影が薄く長く伸びている。僕は「僕のためになら、生きてよ」と返す。サバ子は困った顔をして、「私それ以外にやり方を知らない」と言う。「死んじゃだめだよ」僕はナイフを地面に置く。サバ子はそれを拾って「じゃあ、私が死なないようにしてよ」「助けるよ」「いつも助けて」、僕が返事をしようとしたとき、シノが現れて僕達の間に割って入る「ダメだよ、モモセ、そっちじゃない」僕は僕が選んだのはサバ子じゃもうないと気付いて、サバ子に「自分のために生きて、死んでくれ」と言う。サバ子はその手に持ったナイフをどうしようか迷って、刺した。三人の誰に刺したのかは分からない。地面に刺したのかも知れない――


 部屋は暗くて、でも横にシノがいる気配がある。どれだけの時間眠っていたのだろう。体からざわざわは抜けていたけれど、疲れはまだふんだんにある、だけど、いずれ取れる種類の疲れだった。僕は彼女を起こさないようにそっとベッドを出て、カーテンを開ける、太陽の昇る直前の真っ白な空と、その下に影の街。道路に数台のトラックが走っている。湯船に浸かりたくて、お湯を溜める。その音でシノが目を覚ます。

「起きたんだ。体調はどう?」彼女の声が静かにはっきりと届く。

「倒れる前に比べたらずっといい。これから回復していくって感じがする」

「そう。よかった」

 彼女はまた目を瞑って、やがて寝息に戻る。

 僕はお湯に体を沈めて、顔を濡らす。湯気を吸い込むと肺の中が浄化される。

 シノはああ言ったけど、サバ子は本当に死にたいのだろうか。死にたがりだと言ったのは僕だ。けど、死にたがりであることの上にずっといたいのが彼女であって、本当の死に行きたい訳じゃないんじゃないだろうか。確かに僕は支配されていた。それが彼女の目的だったのかな。そのために自殺企図をするってのではなくて、死にたがりを満たすために自殺したら僕がコントロールされたから味をしめたと言う順番なんじゃなかろうか。だから僕がいなくなったとしても彼女は自殺を繰り返すだろう。でもここで一つ重要なポイントがある。本当に死ぬつもりならフックとロープを使う。彼女は過量服薬ばかりする。フックが常備されているにも関わらずだ。これこそが、彼女が死にたがりであることの上にい続けたい、と言う願望の持ち主である証左だ。だから、彼女が自殺をすることは危惧以前の、予定で、でも本当に死ぬ可能性は低いと言えそう。つまり、僕は彼女と別れることで彼女が自殺既遂することを不安に思って、躊躇する必要はないと言うことだ。それに、別れてしまえば死んだって分からない。息を大きく吸って、吐く。整頓された思考が清浄な息を生む。上がって、体を拭きながら鏡に映った自分を見て、その顔は疲れてはいるけど、これまでのような切羽詰まった、悪霊に後ろから引っ張られたような顔ではない、穏やかな顔をしている。

「殺伐の終わり」

 僕は体の火照りが抜けるまでソファに座って、何も考えない。考えなくても、これまでのこととか、これからのこととかが、ふわりと浮かんでは消える。もう一度ベッドに入る、寝るべきだと思った。横になればすぐに眠気がやって来た。


「モモセ、そろそろ起きよう」

 シノの声で目を覚ます。部屋は外の光が燦々と降り注いで眩しい。胸の中が空っぽ、と言うよりも陰圧を感じる。その吸い込む力で僕は心許なく、急に全てが虚しい。シノが横にいるのに、根拠のない不安が僕の中を漂っている。溺れて、もがいてもがいて、指に何もかからずにその動きをやめるときのような、自分と関わりある人が全てもういなくなってしまったと認めるときのような、僕は胸を抑えて喘ぐ。シノが、大丈夫だよ、と背中をさすってくれる。その掌から空虚を中和するものが流し込まれるように、少しだけ息が出来る。僕はどうなってしまうんだ。どうしてこんなことになっているんだ。サバ子を捨てると決めたせいなのか。そうなのか。捨ててはいけなかったのか。

「シノ、僕が空っぽだ。……どうして」

「詰まっていたものが抜けた反動だよ。大丈夫。必ず治るから」

 僕は弱々しく頷いて、呼吸に集中する。他に縋れるものがなかったから。胸の陰圧が脳に及んだ、涙が出る。冷たい涙だ。誰のための涙だろう。サバ子か、シノか、それとも僕か。分からない。ただ涙が出る。まるで虚しさを目から放出しているみたいだ。でも、悲しい。何に悲しいのか分からないけど悲しい。ふいに、不安が勝る。

「シノ、怒ってる?」

 どうしてそう思うのか自分でも理解出来ない。だけど、彼女が怒っていないか、それだけが頭の中を占拠した。

「怒る訳ないよ」

 その言葉に優勢だった不安が溶ける。よかった、そう思った途端に、オセロを返すように、連鎖反応的に、胸の中の空っぽ達が閉じてゆく。僕は水から上がったみたいに体に重力を感じながら、もう溺れる心配はない、息が次第に整ってゆく。シノの掌が僕の背中を往復するごとに僕の穏やかさは促進される。最後に大きく息を吐く。全身から力が抜ける。汗びっしょりになっていた。

「抜けた」

 シノが微笑む。

「よかった」

「もうダメかと思った」

「無事生還したね」

「詰まっていたものが抜けた反動ってさっき言ってたよね。どれだけ酷いものを僕は抱えていたんだ」

「とっても酷いものだよ」

 彼女が僕を抱き締める。とってもとっても、でも、もう終わったこと、だから、きっと大丈夫、と彼女が耳許で命を込めるように言う。でも違う。僕はこの後サバ子とを終わらせに行かなくてはならない。さっきまでの状態だったら決して別れ話なんて出来なかった。でも、同じ僕と思えないくらいに今は出来そうな気がしている。今ならサバ子と距離がある。もし彼女とまた暮らしたら同じ支配の中に組み込まれるだろうけど、この瞬間はそこからいっとき抜けている。励起した電子みたいに。そのエネルギーで僕はシノと手を繋ぐ。戦う。

「ちゃんと別れて来るよ」

 彼女は僕に半ば顔をうずめたまま、力強く頷いた。

 決着したらすぐに会おうと約束して、僕達は別れた。

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