第10話


 シノと手を繋いだ。ベッドの上には僕達二人しかいない。流れ込んで来る彼女の温度の真実さにため息が漏れる。僕は進むことを決めた、だけど、殺伐をそのままにして、たとえ関係を終わらせたとしても、僕の胸の中にそれを残したまま進めない。違う、僕は彼女に聞いて欲しい、彼女はそれを望まないかも知れない、だけど、聞いて欲しい。

 シノ、僕は呼ぶ。うん、と彼女が応じる。僕達は手だけでなく、声でも繋がっている。二つの繋がりが輪になって循環している。

「僕の日々は、酷い。それを聞いて欲しいんだ。付き合っている人の話だから、嫌だったらいい」

 彼女は少しだけ視線を泳がせて、パチン、と僕と合わせる。

「きっと、必要なことなんだと思う。だって、今、モモセが話さなきゃって思うくらいだから」

「ありがとう」僕は小さく息を吐く、彼女が手をぎゅっと握る。

「だけど、名前は言わないで」

「分かった」

 僕は繋がっていた目を外して天井を見ながら話の緒を探す。彼女は黙って待つ。沈黙の中に浮かんで来たフレーズがサバ子をよく表しているから、そこから始める。

「彼女は死にたがりで、部屋に首吊り用のフックとロープが常備されている。最初にそれを見たときに彼女は腕にあるほくろを僕に見せた。彼女は精神科医で、患者さんが自殺する度に腕のほくろが増えると言うんだ。そのときにあったのは五つ、これが多いのか少ないのか僕には分からないけど、五人が自殺したと言うことだった。それを見て、聞いて、僕は彼女が自殺をいつでも出来るようにしているのが冗談ではないと感じた。でも、自殺をしたことがあるなんて言っていなかったし、本当はそんなことをしたことはないのだと思っていた。

 でも、それから暫くして、彼女は薬を大量に服んだ。服んだと僕に連絡が入ったんだ。それで僕は駆け付けて、病院に搬送した。彼女は助かって、また当たり前のように元の日々を送るんだ。でも、彼女の言う『死にたい』はずっとリアルなものになった。反面、一回したのだからもうそれで終わりだと、どこかで僕は信じていた。対策を講じたりせずに、僕も元のように彼女と接していたのはそう言うことからかも知れない。気持ちがぐらついたけど、まだこのときは時間が過ぎることで持ち直すことが出来た。

 二回目をされた。全く同じように病院に搬送して、生きて帰った。そのときには反省したのか、もう病院には来ないと彼女は宣言したし、実際に一年以上自殺企図をすることはなく過ぎた。また時間が僕の気持ちの揺らぎを整えた。一回目よりもどうしてかあらゆるものに怒りっぽくなったけど、それも治った。

 一年後、彼女は三回目をする。これは今からひと月半前のことだよ。それまでの平和な日々を裏切られて、僕はおかしくなった。遥かに怒っていて、何に怒っているのか自分では分からなくて、あらゆるものに当たり散らそうとした。でも理性が勝って、社会的な問題は起こさずに済んだ。でも、その怒りは生きていた彼女の声を聞いた途端に消えたんだ。止められなかった自分に怒っていたのが、助けられたことで補わられたんだと思う。でも、僕の心にはヒビが入って、ひしゃげたままになってしまった。彼女といても、時間をかけても、それは治らない。治らないまま彼女といても、全然落ち着けない。何をしてももう変わらない。それでも、いつかは何とかなるんじゃないかって、自分に言い聞かせながら、彼女と過ごしていた。

 結果、ひと月で、彼女は四回目の自殺をした。やり方はいつもと同じ。僕は呼び出され、彼女を病院に搬送した。止められなかったことと、僕の中にあり続けた、彼女といてもダメな感じが自殺に繋がったんじゃないかってことが、原因だと思う、激しい怒りが僕を覆い尽くした。理性ってすごくて、触れるもの何でも壊したいくらいだったのに、救急隊員にも、医者にも、タクシーの運転手にもまともな対応が出来て、ものにも当たらなかった。ただ自分の中にある業火に焼かれて、それを抑え込もうと踏ん張ってを延々続けた。前回の比ではない強さだった。だけど、彼女が生きている姿を確認したら、また消えた。火は消えたけど、僕の中は焼け野原のようになってしまって、心はヒビとへこみで苦しいし、それでももし僕がいなくなったら、彼女は死ぬんじゃないかって明確に感じて、普通の日々を再開した。彼女がいつ次の自殺をするのか分からない、次は助けられないかも知れないって、常に、まるで怯えるように過ごした。しかも、僕はもう干からびてしまって涙も出なくて、乾燥した不安を潤すことが全く出来ない。鉛筆削りに突っ込まれたみたいに高速で消耗していった。そうなったのが二週間前のこと。

 彼女はまた普通の顔をする。彼女にとっては自殺をすることは日常の一部なんだ。付き合わされる僕はまるで息が出来ない。いつも疲れているし、心の半分くらいを彼女の自殺のために費やし続けなくてはならない。僕はスルメのように乾き切って、ぺちゃんこになって、生存を保つだけで精一杯だった。

 ……これが僕の抱える殺伐。そんな僕が今日、ヒトシの結婚式の二次会に行ったのは、日々から逃れたかった訳じゃない。何かを期待していた訳でもない。ただ、呼ばれたから祝いに行っただけ。でも、そこには信じられない出会いがあった。シノ、君と出会った」

 シノはじっと黙って聞いていた。僕が話し終えると、彼女は重たいため息をついた。

「何なのその女」

 静かな怒声に反射的に身構える。彼女はベッドから起き上がり、座る。「ちょっと、モモセも座って」とベッドを指差す。僕はもぞもぞと起きて、彼女の前にあぐらをかく。彼女は目を吊り上げて、顔を真っ赤にしている。

「何様のつもりなのよ」

「え」

「何なの、いったい、どうしてそんなことが出来るのよ」

 僕は気圧される、生唾を飲み込む。汗が一筋こめかみを流れた。

「人の人生を何だと思ってるのか、って訊いてるの」

「いや、それは」

「答えなさいよ。他人の人生を食い潰そうとするなんて、最低の人間のやることよ。それって人のことを全く考えてないから出来ることじゃない。舐めてんの?」

「そうかも知れない……けど」

「けど? 何? 言い訳があるなら言ってみなさいよ」

「わざとじゃないんじゃないかな」

「そんな訳ないでしょ? もしそうだとしたらどれだけ業深く生まれているのよ? 天然で人を使い捨てにするっての?」

「たまたま、そうなっただけで」

「だからそんな訳ないの! 自然にそうなっても、あ、ここから先はヤバいからやめよう、って止めるでしょ、普通。そこを止めないから人を巻き込む訳でしょ。いい、止められる瞬間が何回だってあったはずよ。それを無視したのは、モモセを搾取するため。気付いてないの? モモセをひたすら搾取したでしょ? どうしようもなく従うように調教したでしょ。ひどい」

 僕は招き猫のように背を伸ばして動けない。シノは両手を大きく動かしながら言葉を重ねてゆく。

「死ぬってことで自分を人質にしてコントロール、そう、コントロールしてたでしょ。支配ね。人が離れないようにするためにそこまでする? 自分の魅力に自信がなさ過ぎるんじゃないの? それともそう言うやり方しか出来ませんって言うつもり? 何とか言いなさいよ」

 彼女が見栄を切る。その眼力にビビっていた僕の中で、パァン、と赤いものが弾けた。僕は圧力に抗って、押し寄せる濁流に耐えて姿勢を保持するように、彼女の目を見返す。

「何で」

「何よ」

「何で僕が責められなきゃいけないんだよ。おかしいのは彼女で、僕じゃない」

 彼女は黙る。

「僕は悪くない。僕は頑張った。僕は……被害者だ」

 ふん、とシノが鼻を鳴らす。

「私だって被害者だよ」

 シノが被害者。僕の? 違う。

「悪いのは彼女だ。……シノまで巻き込んだ」

 そう言った自分の違和感は一瞬で、腹の底に潜っていた燃えるものが、消えずにずっとあったそれが表に出て来て体を焼き始める。炎に炙られた心が、ひしゃげたそれが、汗をかき始める。体中が揺らぐ、凝り固まっていた胸を腹を歪ませる。擬態していたものが本当の顔を見せ始める。

「僕は怒っている」

 シノが僕をじっと見る。

「怒りの矛先は、彼女だ。シノの言う通り、支配されていた。だから、彼女の前では怒りがひれ伏して隠れたんだ」

 炎が火柱となって僕の頂点を貫く。さっき目の前で見たシノと同じ顔をしている、体中が熱い。

「何て女だ」

 シノが頷く。僕の炎に照らされた彼女の瞳は挑戦的だ。

「僕の人生が支配されコントロールされ、あのままじゃ奴隷になっていた。それも僕が気付かないやり方で、何度も自殺して、あり得ない」

 彼女は不敵に笑う。

「別れちゃえ」

「もちろんそうする。でもこの怒りをどこにぶつければいい」

「私にはやだよ。でも、抱き締めてあげる。彼女に直接ぶつけても意味ないと思う。徐々に溶けるのを待つしかないよ、だから、ギュッとするの」

 彼女が身を乗り出して僕を抱く。僕の炎が彼女を焼いてしまわないか、でも彼女は吸い取ってくれそう、柔らかい。

「シノ」

「こういう分け合い方も、あるよ」

 火が弱まって行くのが分かる。でも、全体からしたらほんの少しの減衰だ。僕の底にはまだ大量に備蓄されている。僕はサバ子と別れる。もう決めた。決めたのに、不安が過ぎる。

「彼女は別れたら死ぬかも知れない」

 シノは体を離して、僕の顔を覗く、怖いくらいに美しく笑う。

「死なせてやればいい」

 心臓が跳ねた。僕は奥歯を噛み締める、反応して出て来るあらゆる言葉を殺すように。彼女が続ける。

「生きたいのに死ぬのは不幸だよ。でも、死にたい人が生きたい人を巻き込むのは罪だ。勝手に死にたいのなら、勝手に死ねばいい。死にたいのに生きるのは不幸なことかは分からないけどね」

 胸がざわざわする。それはテレビの砂嵐のようでもあり、密林の生態の蠢きのようでもある。そのざわざわが少しずつ体全体に広がっていく。侵食が脳まで届き、僕は、あ、あ、と呻いて、視界が胡乱になり、体に力が入らなくなった。僕は目を見開いたまま横向きに倒れて、ベッドで一回バウンドしてから、そのまま横たわった。まるで彼女の言葉でこれまで保っていた糸がプツリと切られて、無視していた澱み溜まり切った疲れが、炎のさらに奥に秘め置かれていたそれが、一気に流れ出たようで、胸はまだざわざわし続けている。息をするのがやっとで、僕は死ぬのかも知れない。体を動かそうとも思えない。思考が、鈍く、なる。

「モモセ、少し休もう。あなたはとっくに限界を超えていたんだよ。目が覚めるまで私はここにいるから、大丈夫だから」

 彼女が僕を寝る体勢にして、布団を掛ける。僕は体中に満ちている疲労に沈むように、眠った。

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