第9話

 疲労が抜けるまで数日を要したけど、炎は二度と燃えたりしなかった。一週間が経ち、僕は新しい気持ちで二人が再開することを期待しながら彼女の部屋を訪ねた。ドアはもう僕を拒絶していない、むしろ歓迎しているようで、合鍵を持っているけど呼び鈴を鳴らしてサバ子にドアを開けて貰う。

「おかえり」

 開けた彼女は微笑んで、ノブに手を伸ばしたために前傾して、髪がふわりと垂れる。

「ただいま」

 僕は部屋に入り、ソファに腰掛ける。ああ、違う。尻がそう言っている。皮膚が、鼻が、そう言っている。先週と何も変わっていない。真っ黒なセロファンに覆われる。その隙間から覗く、サバ子は彼女のいつもの場所、ダイニングの席に腰掛けて、頬杖を突き、僕のことをじっと見ている。彼女も同じように感じているのだろうか。それとも僕だけが変質してしまったことに気付いているのだろうか。彼女の眼差しは冷たくもなく、暖かくもない、そこに破局の予感を映してはいない。僕達の日々が変わらず続くと、それが当然だと、信じ切っているように見える。……そっちが真実なのかも知れない。僕だけがどこかズレてしまっていて、それを修正すれば二人は助かるのかも知れない。セロファンが剥落する。まだ今日は始まったばかり、二人がもうダメだと結論を出すのは早過ぎる。僕さえ治れば、なんとかなる。きっと、なんとかなる。

 サバ子の声が放物線を描いて飛んで来る。

「お腹空いた? 落ち着かないみたいだけど。ちょっと早いけど何か作ろうか?」

 僕はその声を胸の前でキャッチする。落ち着かないのも事実だけど、空腹も確かにある。一つずつ潰してゆくのはいい方略だ。

「お腹空いた」

「パスタでいい? 早い方がいいよね」

 僕が頷くと彼女はキッチンに立ち、ラジオを流しながら調理を始める。僕は同じ場所に座ったまま、その後ろ姿をじっと見る。サバ子はサバ子で、自殺をしても何も変わらない。彼女にとっては死にたいことは日常に組み込まれた事象だからなのだろうか。あれこれ考えてしまう僕の方がおかしいのだろうか。彼女と生きていくのなら、治さない限り、ずっと彼女の死の欲動と付き合っていくことになる。そう考えた途端に胸の底が抜けたような感覚、それは嫌だ、かと言って彼女が治すとは思えない。サバ子は変わらない。時間を細分化した一番小さな目盛りの中にずっと収まっているような変わらなさが彼女にはあって、それを僕は安定だと受け取っていた。でも違う。彼女は常に不安定で、その不安定さが一定のレンジの中を揺れているのだ。その不安定さ以外のところは、恐らく彼女にとって興味がない部分で、変わらない。それで安定しているように一見、見える。でも、不安定が、生と死にまつわるところにぶら下がっているために、かりそめの安定を悠々破壊する。サバ子は変わらない。その破壊と生き残りの繰り返しは僕が知るより前からきっと続いて来たものだし、今後も反復されるだろう。生と死が不安定であることが安定的に存在する、と言える。彼女の背中は平和に、ラジオから流れる洋楽にノっているけど、反対側の腹にはそう言う不安定が巣食っている。僕の尻の座らなさは、いつ爆発するか分からない爆弾と一緒にいる危機感によるものなのかも知れない。サバ子のことは大切だし、恋人だ、だけど、いつ死のうとするか分からないなんて、僕は摩耗し続けることしか出来ない。……そうか、じゃあ治せばいい。

 僕は彼女の背中に近付いて、サバ子、と声を掛けてから、そっと後ろから腰を抱く。

「なぁに?」

「あのさ、言ってなかったんだけど、救急に運ばれる度に、精神科を受診するように、って言われるんだ」

「ふーん」

 僕は勇気を振り絞る。彼女が傷付いたとしても、僕達の未来のためには必要な道だ。

「繰り返さないためにさ、受診、してみたら?」

「私、精神科医だよ」

 彼女の声は赤い。

「そうだけど」

「私の問題が、病院で治らないものだってことは、私が一番よく分かってる」

 僕は黙って、腕を離す。彼女が僕の方に向き直る。

「だから、病院には行かない。これはずっと付き合って行くしかないの」

「それは、サバ子とはもう切り離せないってこと?」

「そうよ。私はいつだって死にたいし、ときに自殺するし、今のところは生き残ってるけど、そうやって最後は死ぬんだよ」

 そうだと分かっていても、言葉にして目の前に貼り付けられると眩暈がする。彼女は自分が何を言っていて、それが僕にとって何を意味するのか、理解しているのだろうか。

「僕はどうなるんだよ」

「一緒に生きて」

「だって自殺するんだろ?」

「それはそうだけど、その日まで」

 彼女は言いながらパスタをザルに出して、ソースの用意をする。

「やっぱり、僕が止める。サバ子には生きていて欲しいから」

「止まらなくても、モモセのせいじゃないよ」

「違う。サバ子は間違っている。僕がサバ子を生かす」

 パスタを手早くソースに絡めて、盛り付ける。

「さ、食べよう。空腹で議論するようなことじゃないよ」

 僕達はダイニングに向かい合って座り、黙ってパスタを食べる。人生のキワのようなところに立っていても、味は分かるし、美味しい、僕はお腹が空いていた。食べ終えて、空っぽになった皿二枚を挟んで彼女と見合う。もし僕が止めることが不可能なら、僕達は終わった方がいいのだと、食べながら結論していた。だけど、そう自分で導くと途端に、彼女のことが愛しくなる。何とか続ける方法はないだろうか。彼女が先に口を開く。

「これまで通りで、いいと思う。本当のところは、モモセがいることで私、死にたい分量は減ったと思う」

「僕の意味があるってことだよね」

「うん。自殺のときも来てくれるし、ありがとうって思ってる。でもね、死にたい気持ちをゼロにすることは出来ないの。減っても」

「もっと減らせば、極限までゼロにすればいい」

「それは無理だよ」

「やってみなくちゃ分からないよ。僕はサバ子といる。だから、もう自殺はしないと約束してくれ」

 次にされたら、僕の限界を超えてしまう。

「約束は出来ない」

「もしやったら……」

「やったら?」

「いや、そんな仮定に意味はない」

「……そうね」

 彼女は見透かしたような目をする。話し合ってみても、違和感は拭えない。むしろ、確固としたものとしてそこに存在しているのを感じる。サバ子が「しようよ」と誘うのでセックスをした。僕は体が重なれば違和感も払拭されるのではないかと淡く期待していたけど、全く変化しなかった。言葉でもセックスでもないところに震源地があって、それが彼女の自殺に由来していることは間違いない。あとは時間を積み重ねることくらいしか試すべきことがない。僕は彼女といて笑えない。体に一本緊張の糸が走ったままだし、ずっと落ち着かない。だけど、時間をかければ、何かが変わる、そう思い込もうとしながら彼女との日々を過ごした。

 一ヶ月後、四回目の自殺をサバ子はした。


 ※

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