第8話
呼び鈴の音で我に返る。力をやっと込めて起き上がり、救急隊を迎える。訊かれたことに答えて、救急車に一緒に乗る。隊員が、「だいぶ憔悴されていますけど、我々が来たからもう大丈夫です」とヒーローのようなことを言ったのに、僕はほっと出来なかった。彼等にとっては今日だけが問題なのだろうけど、僕達にとっては今日は連なる問題の一部に過ぎず、その問題が未来に向かって加速し始めたところだからなのだろう。それでも僕は「ありがとうございます」と掠れた声を出して、彼は使命感に満ちた顔で頷いた。急にイライラして、それを顔に出さないように深呼吸をする。そのイライラが腹に降りて行き、はらわたを掻き混ぜる。不快な、血を煮詰めたような塊になって、なおもそれは成長する。ときに胸に上がって来て、顔が強張り、また腹に下がって、増殖する。彼が意図したこととは恐らく違うけど、意識がはっきりした。塊の往復を感じている内に病院に到着し、救急隊員がストレッチャーを降ろすから先に出てくれと僕に言ったとき、サバ子がそこに横たわっていることに、気付いた。
降ろされる彼女は眠っていて、静かで、今日もまた仮命日。
ERに搬入されて、僕は待ち合いの、前回と同じ場所が空いていたからそこに自らを据える。こんこんと苛立ちが湧き続けていて、触れるもの全てに噛み付きそうで、そんな僕は嫌だ、手を組んでそこに額を乗せる。目を瞑って、溢れて来るものを掌で抑える。指の間から、ぼう、と焔のように赤いそれが漏れ出て来て、熱い、熱いけどそれを自由にさせる訳にはいかない。僕は僕のままでいたい。これからサバ子と再会するのに、そんな訳の分からないものに左右された僕で、彼女に余計な辛い思いをさせたくない。彼女じゃない、悪いのは僕なんだ。そうか、この怒りは自分への怒りなんだ。矛先に気付かなかったから、宛のない形になっていたんだ。だとして、自分に怒って何が生まれるんだ。僕は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。いつかサバ子が教えてくれたリラックスのための深呼吸で、吐き切ることと、時間をじっくりかけてやることがコツだ。二回目、体の中にある穢れを黒い息にして体から出すイメージ。三回目も同じイメージ、四回目は大分体の中が空っぽになって、それで終わりにした。すぐに腹の底の業火がススを飛ばして、あっと言う間に胸の内側が真っ黒になる。ダメか、僕は同じ姿勢のまま呟いて、またため息をつく。
僕は僕に焼かれなくてはならないらしい。だとしても限界まで抵抗してやる。抑える掌を両手にして、圧力をかける。そうしている間は均衡した。僕は炎を抑えることだけをやり続ける。汗が出て、消耗する。僕は抑え続ける。
「倉橋さんのお連れの方」
呼ばれたときもまだ押し合いの最中で、はい、と立ち上がったときの声が刺々しくて、自分が嫌だ。それでもサバ子のところに向かう。歩きながら深い息を吐いて、少しでも落ち着け、医者がまず説明をする。この前聞いたのと同じ、同じことしか言えないのか、喉元まで出掛かって引っ込める。「分かりました」と可能な限り穏やかに言って、サバ子の横に立つ。彼女はまだ起きないし、明日迎えに来るし、僕はすぐにその場を去った。
殻に閉じこもるように部屋に戻る。一人になって、誰も傷付けないで済むから、ちょっと力が抜ける。腹の炎は全然減らなくて、どうしてこんなに自責的になっているのだろう。確かに、サバ子を止められなかった。がっかりしたし、後悔もした。そこまでは分かる。どうしてそれが自分への怒りになるのだ。
「考えたって分からない気がする」僕は鏡に向かって話す。ひどい顔をしている。「前と同じなら、時間が経てば薄れて消えるよ」僕が言っているのか鏡の中の男が言っているのか分からない、だけど、炎を抑える以外には出来ることはなさそうだ。それに、疲れていると怒りが抑えられなくなる、とサバ子が言っていた。休もう。さっさと風呂に入って、寝よう。でも、疲れているのかな。いや、疲れている筈だ。でもその感覚が遠い。僕の中には腹の炎しかない。横になっても眠れない。
うとうとはした。寝る前よりも疲労をしっかりと感じる。腹の中は……同じ、燃えている。吐いたため息にも炎が含まれている。迎えに行かなくちゃ。朽ち果てる直前のブリキのロボットはこんな感じなのかな。ゼンマイの巻き加減とはもう関係なく、ロボット自体が終わる。怒りっぽくなるのは余裕がないからじゃなくて、自分に後悔があるからでもなくて、無意識に死を恐れているからなのかも知れない。でもそれって、生きようとするから生じる恐れなんじゃないのか。僕は生きようとしている、これまで生きることに疑問を持ったことはなかった。意識したこともなかった。今、生の崖に立っているのかも知れない。その向こうに広がる奈落を初めて見て、恐怖して、生きることを強烈に望んでいる。それがこの炎に転化されている。この状況を生んだのはサバ子だけど、僕の中が燃え滾っているのはそういう理由だったのだ。……理解したところで火は消えない。理解が間違っているのかも知れない。状況が変わらなければ変化しないだけかも知れない。そのためにも、早く彼女のところに行こう。
病室に着くまでずっと、僕は燃えるままの人間で、少しずつ関わる人に牙を剥かないように細心の注意を払いながら、まるでジャングルを潜るように進んだ。でも、その過程で炎は徐々に大きくなる。だから彼女のベッドに近付く前に目を瞑って何度も深呼吸を繰り返し、仮にでも落ち着いた僕にして、今なら大丈夫だと言うタイミングを見計らってベッドの側に行く。
「サバ子」
彼女は閉じていた目をぱち、と開けて僕の顔を見る。彼女の目に何が映ったのだろう、これまでと違って、彼女はすぐに、ごめん、と言った。
途端に僕の炎が消えた。顔の筋肉が緩むのが分かった。でも何がどうしてそうなったのか、分からない、僕は首を振る。彼女はもう一度、ごめん、と言う。
「いや、違うんだ。サバ子に首を振ったんじゃない」
彼女は首を傾げる。僕の中ががらんどうになって、体の中から避難していたもの達があるべき位置に戻って、膨れていた僕が元のサイズに、心だけがその急激な変化に追い付かずにその表面に細かなヒビを作りながら緩慢に丸くなろうとしている。不思議がる彼女の前で、まるで僕は変身する。火がない。一切ない。あれは何だったのだ? でもそれは後で考えればいい。僕は正常な僕にアジャストすることに集中する。数分後、他が全て終わっても心だけが変形したまま中途半端な形で止まった。もしかしたら一生そうなのかも知れない。いや、そのうち治るか。少なくとも今はここまでだ。
「僕がちょっと変だったんだ。でもサバ子の声を聞いたら、治ったよ」
彼女は、そう、と僕をじっと見たまま呟く。よかった、生きてる。僕は胸の中で言って、小さく息を吐く。
「帰ろう」
黙々と準備をして、スタッフに挨拶をして、三度目の病院の玄関、太陽を覆い隠すように雲が広がっていた。彼女が二度と来ないと宣言してから一年と少し、僕達はまたこの場所に立っている。僕はまた、死なせたくない、と言いたいのに、ひしゃげたままの心がそれを許さない。彼女が息をして声を発することよりも、またか、の気持ちの方が勝ってしまっている。体が重さを取り戻して、ひどい疲労がそれを染めている。彼女が、本当にごめん。でも、どうしても死にたかったんだ。だけど、助けてくれたのは嬉しかった。と正面の空を見たまま言って、黙る。そっか、と言えない。何人かの患者が僕達の脇を抜けて出入りする。殆どの患者は生きるためにここに来ている。だけど一握りのサバ子のような患者だけは死に損なってここを出る。ここでは生きることが正しいことで、もしかしたら真逆の施設も世界にはあるのかも知れない。でも、僕も生きることが選ばれる方がいいと思う。だけど彼女は違う。たまたま死ななかっただけで、いつかは既遂するだろう。僕はずっとそれに付き合わないといけないのだろうか。彼女を見送らなくてはならないのだろうか。
「どうすればいいのか分からない」
僕の声に彼女は僕の顔を見ながら、笑う。
「ジャンクフード、食べに行こうよ」
その彼女は、いつもの彼女だった。笑顔に、僕の頬も緩む。また時間が解決してくれるだろう。
「分かった。行こう」
僕達は街へと降りてゆく。
お腹いっぱいで彼女の部屋に戻ると、僕は強烈な眠気に襲われて、ベッドに横になったらそのまま昏々と眠り続けた。尿意で目を覚ましたら隣にサバ子が寝ていて、窓の感じは早朝で、トイレに行ってまた寝たら次に起きたら昼過ぎだった。サバ子がカレーを作っていてくれてそれを食べる。
「モモセ二十四時間近く寝てたよ」
「そうみたいだね。大分疲れが取れた気がする」
「栄養付けて、回復しないと」
「そうだね」
話していて、彼女の言葉と僕の言葉の間にサンドペーパーを挟んだみたいな薄くジョリジョリとした違和感がある。それは積み重なれば痛みになる類のもので、早急に取り除かなければならない。
「サバ子、何か僕に言いたいことある?」
「ありがとう、くらいかな」
「そうじゃなくて、何かネガティブなこと」
「そんなのないよ。逆にモモセはあるの? そう言うもの」
僕は確かに原因は僕にあるのかも知れない、と首を捻る。
「もう繰り返さないで欲しい、かな」
「うん。そうだよね。努力する」
いつもだったらやり取りの中に滑らかさと、二人の気持ちを育てるような彩りがあるのに、それがない。ジョリジョリだけが挟まっている。でも僕達が僕達であることは間違いないことだから、いずれ取れるもののような気もする。神経質になり過ぎているきらいがある、もうちょっとデンと構えてもいいんじゃないか。僕はカレーを食べる、彼女の正面で。彼女も食べる。カレーだって美味しさの秘密が何か分からなくても美味しいし、食べれば栄養になる、それと同じと考えてみる。
食べ終えてソファでダラダラする。だけど、以前なら王様の気分でそこにいられたのに、どこか座りが悪い。部屋の中をうろうろして、ビーンバッグとか、端っことか、落ち着けそうな場所に身を預けてみても、居心地が悪い。前はそんなことはなかった。ダイニングテーブルでコーヒーを飲んでいるサバ子の存在感が強くて、圧迫される。僕はこの部屋でもう寛げないのかも知れない。いや、今日だけ、あんなことがあった直後だから、そうなのだ。時間を空けてからもう一度トライすべきと考え、僕はその後すぐに自分の部屋に帰った。
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