第7話

 部屋にフックとロープがある以外は、異常なところなんてない。デートにも行くし、食事を振る舞ってくれたりするし、一緒にテレビを見るし、セックスもする。二回目の後、僕達は平和に恋人をやっていた。あの日僕の中をしっちゃかにした感情達は日々に希釈されて思い出すこともなくなった。

 季節は巻いたゼンマイで進む人形のように巡る。無機質な人形な筈なのに、動く、ただそれだけで命あるものと同じように見えて、目を細める。でも決して目を離してはいけない、その命が絶えるまで。

 春の日、僕達は大きな公園まで出掛けて行き、野原のようになった丘陵に寝転んで空を見ていた。視界の端には葉桜が揺れている。

「僕は毎年春を待っている。でもいざ春が来るとその春は無為に通過してしまう。どうしてだろう。サバ子は待っている季節とかある?」

「私は夏を待っているよ。夏って本当に短いんだ。温度と蝉の声がピークを迎えるその数日間、強い日差し、流れる汗」

 僕にとって夏は、サバ子が最初に自殺しようとした季節で、反射的にそのことが思い出されて、打ち消す。秋以来、彼女はそう言うことを、宣言通りにしていない。今蒸し返してこの太平楽な時間を穢す意味があるだろうか。それとも、平事だからこそ有事のことに落ち着いて取り組めるのだろうか。僕達はそのことについて話し合っていない。いつかは話さなくてはならないことなのかも知れないけど、もしこのまま彼女が自殺企図をずっとしないなら、無駄に気分を害するだけだし、気持ちいいし、避けよう。

「次の夏が来たら、『今日がそれ』って教えてね」

「モモセの春は、今日なの?」

「ううん、もう過ぎたよ。桜が散るより前だから」

「じゃあ今は、二人の季節の間だね」

 夏の日、サバ子の「まさに今日が夏」の日に、クーラーの効いた部屋から出て練り歩いた。スポーツドリンクやアイスを買って、溶けそうな光を全身に浴びて、黒い影を作った。僕達は余計なことは一切喋らずに、淡々と歩き、体中が汗でドロドロになりながら、徐々に体の芯も緩まって、限界になったところで部屋に入った。クーラーを付ける前の部屋は外とは質の違う窒息しそうな熱を籠めていて、僕達はその中で汗を混ぜるようにセックスをした。終わってからシャワーを浴びながら部屋を急冷し、せーので上がって、牛乳を飲んで、「生き返る」と言い合った。それから三日後が去年彼女が自殺をしようとした仮命日だったけど、何も起こらずに通過した。

 秋の日、僕達は春と同じ公園に出掛けていた。落ち葉を踏み砕くカシャカシャとした音を背景に、高い空に誘われるように遊歩道を歩いた。

「もしロボットがいつか、人間とほぼ同じになったら、それは生きてると言えるのかな」

 僕の問いかけに彼女は、いやいや、とすぐに反応する。

「それは動くモノであって、生命じゃないよ」

「生きて、死ぬ『モノ』なら生命と言っていいんじゃないかな」

 僕達は歩くペースを落とさずに喋る。

「モノは生きてないよ。もし死体を操り人形みたいに動かして、それを生きているとは言えないでしょ?」

「確かに」

「生き物は最初から生き物で、モノはモノだよ」

「どれだけ人間にそっくりでも?」

 彼女は一瞬詰まる。

「そっくりな、モノだよ。遺伝情報を持っていようが、それを元に別の個体を作れようが、自己を複製しようが、モノ」

「それだと、ロボットじゃなくて人工生物もモノってことにならない?」

「まだ人工生物はないよ。でも、もし人工生物が誕生したら、それはモノではないと思う。でも、生物でもないんじゃないかな」

「どうして?」

「全ての生物は遡るとどこかの時点で同じ祖先を共有しているのね。私はそのたった一つの系譜の内側だけを生物と考えているのかも知れない」

「人工生物だと別の系譜になるってこと?」

「うん。デザイン次第では生物と交配も可能だと思う。それでも亜生物と私は思う」

「例えば別の星で生物が発生していたとしたら、それはどう考えるの?」

「やっぱり別の系譜だよ。この星の系譜は、一つの生から次の生を生み出し続けて地上に蔓延るまでになった。そしてその夥しい生と最終的には同じ数の死が生じる。もちろん現状は僅かに生が上回るよ。……生と死の数が釣り合うって、ちょっと面白いね」

 彼女は自分の言葉に納得するように何度も頷いてから続ける。

「命がとっても貴重なもののようにも感じるし、どうでもいいもののようにも感じる。まあ、そう言う理由で人間型ロボットは生物ではないと私は思う」

「なんか、その系譜ってのに、遺伝とは別に魂が生から生に渡されてゆくイメージを持った」

「面白いね。魂」

「うん。僕はあると思う、魂。で、それの有無が生物かどうかを分ける、ってのはどう?」

「亜生物は魂がないの?」

「分からない。けど、もし生物と亜生物を魂の有無で分けることが妥当だったら面白いなとは思う。実際は亜生物にも別種の魂が籠められるのかも知れないけど」

「測定不能、現状では、かな。でもいずれは魂が観測されるかも知れないよ。観測技術の発展が科学の進歩に寄与するから。だから、未科学分野ってことになるね、魂は」

「系譜の説明になりそうだと思ったんだけどな」

「系譜そのものへのこだわりか、系譜故に共有するものに理由を求めるか。なら、魂以外で系譜で共有しているものがあったらそれでもいいのかも知れない。セントラルドグマはそれになり得るけど、ただのシステムだし、魂の方がロマンがあるね」

 僕達の空想科学はそこから生物のシステムに進み、進化、絶滅と広がったところで陽が傾き、帰った。

 冬の日。僕達は暖かい部屋の中で、ときどき相手がそこに存在していることを感じながら、本を読んだり、編み物をしたり、パズルを解いたり、うたた寝をしたりした。時間をじっくり過ごすことに滋養のような温かみがあって、僕はときどき立ち上がっては彼女の頬にキスをしに行った。「カップスープを飲もうか」彼女が提案し、二人で向かい合って座って、スープをふーふーと飲む。飲み終えたらまたそれぞれの場所に戻って、それぞれのことした。


 次の春の日。夜、サバ子からの電話に何気なく出ると、ごめんね、またやっちゃった、と言って切った。僕の胸の中が全て逆毛になる、四肢から血の気がスーッと引く、引いた分の血が頭に一気に上って来る、テーブルを思い切り叩く。「何でだよ」呟いて、がっかりして、余りにがっかりして息が出来ない。早く彼女のところに行かなくちゃいけない。それは分かっているのだけど体が動かない。心臓がうるさい。床に座って、呼吸を取り戻そうとゆっくりと息を吸う。止められていた。ずっと止められていたと思っていたのに、僕は至らなかった。僕の想いが足りなかった。やはり、話をしておくべきだったのだ。なってからじゃ遅い。力が入らない。そんなこと言っている場合じゃない。僕はなんとか立ち上がって、タクシーを呼ぶ。僕一人の命じゃない、僕が行かなかったらサバ子が死ぬんだ。……それとも放っておいても大丈夫なのかな。分からない。救急でどういう処置をされているのか聞いたことがない。とにかく行こう。体中にザラザラしたものが流れている、胸の辺りに鈍く重い、鉛の風船のようなものが乗っている。タクシーに乗る僕は、死出の旅に向かうような顔をしていただろう。違うんだ、真逆なんだ。

 通い慣れた部屋のドアが僕を幽閉するように威圧して、鍵を握る手が汗に濡れる。死後の世界に踏み込むように奥歯を噛み締めてノブを捻る。電気はいつものようについている、油のように粘る空間を泳いで、やはりダイニングには薬の殻が並んでいる、サバ子はベッドで横になっている。呼吸、と呟いて鼻の辺りに耳を当てると息をしていた。死んでない。ごめんな、サバ子、止められなくて。救急車を呼んで、息をするのも苦しくて、床にへたり込んで目を瞑る。耳鳴りがしていた。徐々に虚脱してゆく自らの体をなるがままにして、段々思考も途切れて――

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