第6話

 ――サバ子にネジ巻きが生えた。彼女がせがむから僕はそのネジを巻く。そうすると彼女はしばらく動くのだけど、あるところで、シャーっと自分でネジを緩めてしまう。そして待っているからまた巻く。巻けば動く、なのに彼女はまたシャーっと緩める。僕は彼女に動いていて欲しいからそれを巻く。動く、緩める、巻くの繰り返し。その度に二人のそれぞれの何かが摩耗するのが分かる。いつかネジを巻いてもその摩耗の方が勝ってしまい、抵抗のないネジを僕は懸命に巻こうとする、そう言う日が来る予感がする。それでも今日も僕は彼女のネジを巻く――


 寝たのか寝てないのか分からない。さっきのも夢なのか自分の曖昧な思考なのか判別が付かない。だけど、それが教えてくれた、僕は二回目にしてもう、うんざりしている。天井が硬い顔をしている、非難されているみたい。……違うんだ。僕はそんな気持ちを彼女に対して持ちたくない。悪いのは僕だ、僕が失敗した、僕が不十分だった。

「サバ子、ごめん。うんざりなんかしてないよ」

 呟いた声が行き場を失っている。まるで僕のようだ。だけど、僕は彼女を迎えに行く。そこが行き場所に思えない。準備をする。とても機械的に、時間で作業を区切って並べたみたいに。部屋を出て見上げた晩秋の空は澄んでいたけど、その空っぽな広がりは僕と対極にあるのに、胸に訴えかけるものは僕の中にあるものとよく似ていた。その空を見ていたら、昨日以来つっかえたままだったため息が、ほう、と、卵が生まれるように出て、だけどその中からは何も生まれない。


 彼女は目を瞑って、まるで昨日と同じに眠っているかのような顔をしていた。

「サバ子」

 呼び掛けても目を開けない、だけど表情が薄墨の程度曇って、開けないのは気まずいからだな、僕は彼女の肩を揺する。

「起きてるだろ。迎えに来たよ」

 彼女は観念したように、だけどそこには告知に耳を塞ぐような抵抗が滲む、ゆっくりと目を開ける。おはよう、モモセ。彼女は僕から目を逸らしてため息を吐くように言う。「おはよう」僕は彼女の視線が向いているところに自分の顔を持って行く。彼女はさっと視線を避けて、明後日の方向を見ながら、来てくれて嬉しい、と言った。おかしいことを言っている、そう直観するのだけど、どうしておかしいのかが分からない。僕はその違和感をうっちゃって、彼女の手を取る。まだ彼女はこっちを見ないから、その耳に向かって語り掛ける。

「僕が抑止力になれなかった。僕の想いだけじゃサバ子を止められなかった。ごめん。僕が足りなかった」

 その声を聞いて彼女は初めて僕の顔を見る。不思議なものを、だけど危険ではないものを見るような顔で、僕の輪郭を視線でなぞり、口と鼻を観察してから、眼を覗く。私が死のうとしたのは、モモセのせいじゃないよ。止められなかったって考える必要もないし。私は私が死にたいから死ぬのであって、それはそれだけのことなの。だから、今回も来てくれなかったらそれはそれで終わりで、それでもよかった。でも、来てくれるのが嬉しいのは、昨日も今日も、本当なんだ。私はもしかしたら過分に幸せなのかも知れない。もちろん、モモセのことだよ。それなのに、私はモモセを困らせてばっかり。……ごめん。彼女は目に涙を浮かべる。本当にごめん。でもどうしても、死にたかったんだ。助かってみたら、死ななくてよかったって思える、だけど、昨日の私は死にたかった。ねぇ、モモセ、死にたい気持ちって、絶望よりも渇望に近いんだよ。差し伸べられる手を取らないのはそう言うことなんだ。だから、想いじゃ、モモセの想いじゃ止められない。申し訳ないけど、それが現実なんだ。想ってくれることは嬉しいよ、恋人だからってそれが当然ではないから。きっとモモセは私のために泣いてくれる、そう確信してるよ、でもね、だからこそこうやって迷惑を掛けていることが、ごめん、なんだ。彼女は僕の眼から全く視線をブラさずに淡々と、でも僕に叩き込むように言葉を放った。僕の中に落ちた言葉達が波紋を作って、胸の中をわんわんと響いて、いずれ一つの焦点に集まる。それが本当に無駄かはサバ子が決めることじゃない。

「僕は、君に死んで欲しくない。何度でも助ける」

 回線を切断するように視線を落とした彼女の、その寸前の顔は、約束した場所にずっと来ない恋人を諦めて席を立つときのような、そこにもっと心臓を抜き取られるような青い哀しみが混ざったような、僕は僕達は終わりに向かって転がり始めたのではないかと咄嗟に思って、息を止めてそれがそれ以上育たないように堪える。

 僕達はそのまま動かない。遠くからモニターの心拍の音が聞こえる。それは秒針のように規則的で、その数だけ僕達を奈落に沈めてゆくようで、僕は耐え切れなくなって息を吐く、それと同時に彼女の唇が動く。でも、やっぱり、ありがとう。僕はどうして今、自分がここに立っているのか分からなくなって、病室の中を見回す。カーテン、布団、床頭台、床、天井、サバ子。ここは救急病棟で、サバ子は自殺を失敗して、生き残ってここにいる。彼女が自殺企図することは嫌だけど、彼女が生きていることは嬉しい。だから、これから生きていくために、一緒に生きていくために、僕はここにいる。迷い出た魂が正しい器に戻るように、僕は自らを理解したと感じ、サバ子、と呼び掛ける。

「一緒に」

 彼女は僕の方を見ない。

「一緒に、帰ろう」

 その言葉が届くまで少しの間があって、彼女は小さく頷いた。

 手続きをして、準備をして、二度目の病院の玄関。今日は晴れているから傘はない。僕は空の下の街を眺める。

「今日もご飯を食べて帰ろうよ」

 モモセは怒ってないの? 私がまたやったこと。彼女は小さな声で、でも僕は全部捉えた。

「どうして怒るんだよ? 残念とは思ったけど。心配もしたし。無事でよかったよ」

 彼女がキッと僕の顔を睨み付ける。

「私のこと、本当はどうでもいいと思っているんでしょ」

「何でそうなるんだよ。どうでもよかったらここに今いないよ」

 彼女は視線を緩めて、ごめん、とまた下を向く。僕はその姿を見ていた。またむくむくと前を向いた彼女が大きな声を出す。

「私、もうここには来ません!」

 僕は笑ってしまって、でも彼女を見ても笑っているから、「その宣言、確かに聞いた」と応じる。彼女は急にいつもの彼女に戻った、ああ、もう大丈夫だ。

「ご飯行こう」

「私、ジャンクフードがいいな」

「自殺すると食べたくなるのかな、ジャンクフード」

「かもね」

 僕達は街に繰り出す。

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