第5話
元通りの毎日。首吊り用のフックもそのまま。だから彼女が根本的に変わった訳じゃないことは分かっていた。それでも、平穏に日々を過ごせることは嬉しかったし、積極的にサバ子のオーバードーズのことは忘れようと、話題に出すことも避けて、日々を送った。電話が掛かって来る度に、身構えていたけど、なんのことない、恋人同士の「声が聞きたい」「なんとなく」の電話がずっと続いて、それに慣らされて僕はやっと電話に驚かずに済むようになった。恋人が自殺しかけたことを誰かに話す訳にもいかず、彼女とも話さない以上は僕は僕自身が得た擦過傷のようなヒリヒリするものを独りで癒さなくてはならなかった。それは次第に表面的には薄らいで来たけど、内実はずっと保存されていて、まるでラベルだけ日に焼けた火薬の瓶のよう。でも、瓶の蓋さえ開けなければ火がつくことはない。決して開けてはいけない。そのためには触れないことが一番だ。ラベルが擦り切れて消えるまで待とう。ひたすらに待ちながら、普通をたくさん摂取して、そしたらきっと僕の気持ちが普通に薄まって行くから、誤差になるまで待って、……僕はそれまで倒れないでいられる筈だ。だって、今日も生きている。
三ヶ月が経つ頃には僕に走った激震も見えなくなって、昨日もサバ子と笑って別れた。
携帯が鳴る。
「もしもし」
『ごめん。本当にごめん』
「どうしたの?」
訊きながらもう大体のことは予測が付いて、普通で希釈して来た火薬瓶にヒビが入る。
『今度こそ、死ぬね。色々ありがとう。ごめんね』
一方的に電話は切られて、瞬時に二度あったら今後も続く、と想起して、大きく首を振ってそれを打ち消す。胸の内側にドス黒い靄、それを一気に吐き出す。
「サバ子はピンチだ。すぐに行け」
タクシーを呼ぶ。これが生活の中に組み込まれるのは嫌だ。でも、今回限りのことかも知れない。だって、サバ子は僕のルールに従うって言っていた。言っていた。言っていた、のに。落ち着かなくて部屋の中をぐるぐると歩き回る。それが彼女の命の危機だからじゃないことに自分が嫌いになりそうになる。
「明日になれば、今日のことだって過去だ。粛々と処理するんだ」
自分がきっと醜い顔をしている。どうしてこんなことになるんだ。僕の力が足りなかったからか。そうなのか。僕がもっとちゃんとしていたら、彼女は死のうとしなかった、そう言うことなのか。僕のせい。なら、僕はもう笑ってはいけない。大事な人を死なせてしまいそうになっている。僕は歩くのをやめて、その場にへたり込む。それでも。彼女を助けることが出来たら、やり直せるかも知れない。行こう、彼女のところへ。
タクシーの運転手は僕の顔を見て、余計なことは訊かない方がいいと判断した様子で、淡白に僕を彼女の部屋まで運んだ。僕は車に乗っている間も、彼女の自殺が反復する可能性と、自分が無力であることと、彼女を助けたら来る可能性のある未来とをぐるぐるぐるぐる回る、三角の独楽は回っているからなんとか立っていて、合鍵を彼女の部屋のドアに差し込んだ瞬間にその三つが弾け、目の前の現実だけが流れ込む。
前回と全く同じように薬の包装がダイニングテーブルに並び、彼女は整った寝姿でベッドに横たわっていた。息をしていた、揺すっても起きない、救急車を呼ぶ。彼女の枕元に座り、寝顔を見ながらサイレンを待った。
待ち合いで座りながら、この前みたいに祈れない自分に戸惑う。僕の彼女に対する想いはこんなものなのかも知れない。恐らく彼女は助かって、一泊入院して、明日迎えに来て帰る。僕の時間は奪われて、それ以上に僕の心のどこか瑞々しいところがガサっと奪われて、僕は昨日より少しより多くつまらない人間になる。サバ子のせいでつまらない人間になってゆく。自分で選んだ相手だから仕方がない? だったら選ぶのをやめればいい。でも、そんな単純じゃない。パズルのようにはいかない。もっと柔らかで粘り気のあるものが二人を繋いでいる。僕はそれこそが彼女を踏み留まらせるザイルになると思っていた。だけど、裏切られた。……僕は裏切られたと感じているのか。自分の胸に手を当てる、そこにあるものが何であるかを確かめるように。やっぱり胸はへこんでいるよ。もし他人の胸が同じようにへこんでいたなら、「痛いだろうね」と声を掛ける、だけど、僕は全然痛くない。僕は痛くない、一体僕は何を感じていないのだろう。僕から祈りを奪ったものが、その無痛の正体かも知れない。
「倉橋さんのお連れの方」
医者は別の人だったけど、概ね同じことを説明された。サバ子は寝たままだし、僕は帰るしかない。それでも無事でよかった。そう思えたことに安堵した、それがどこか寂しい。彼女の寝顔を見ながら、二回目と言うのは思った以上にたくさんのものを壊すと理解した。彼女の何かではなく、彼女を大切に思っている誰かのものをだ。僕の中に数多く起きたことは全て、彼女の二回目の行為による破壊の結果なのだ。今、それがないまぜになり、輪郭のよく分からない塊になっている。いつかこの感情が結晶して名前が付いたら、僕の破壊されたものは回復するのだろうか。それとも、どう決着しても壊れたものは壊れたままなのだろうか。
「じゃあ、また明日」
寝ている彼女に、僕の声色はモザイクに揺れて、自分で聞いていて僕の内側を反映する、不愉快な音波だった。それでも彼女は王子様のキスを待つかのように寝ているから、キスよりも時間、それは僕にも、僕と彼女にも、言えることかも知れない。
タクシーの運転手が不潔な匂いを漂わせていて窓を開けたけど、全部は取れない。客商売なのに何でそんな最低限のことをしないのか、舐めてるのか? ひと嗅ぎする毎に腹の中から不愉快に熱い飛沫が脳まで飛んで、後ろから蹴ってやろうか、首を絞めてやろうか。でもそんなことをして罰を受けるのは嫌だから黙って外に鼻を向ける。真夜中なのに路上で酒盛りをしている若者の一団が大声を出している。馬鹿なのか? 火炎放射器で焼き払いたい。だけどやはり罰を受けるのはつまらないからやり過ごす。運転手の態度も気に食わない。鷹揚で敬意がない。お前は何様だ。短時間の付き合いだから、安全運転の方を優先するから、罰は回避したいから、……理由を自分に押し付けて、はらわたの熱量が上がるのを抑え付ける。
部屋の近くで降りて、道に付けた足の感覚。
「何で、僕はこんなに怒っているんだ?」
普段なら意に介さないようなことばかり、しかも破滅的なことをしようと企てた、いや、今もまだ何かに怒っている。相手は何でもよくて、怒る矛先の理由を探していたみたいだ。……クソ野郎だ。僕はクソ野郎になってしまっていた。これまで何人も見てきた、そうやってイライラをぶつける先をいつも探している人間と、同列のことをしてしまっていた。あんな奴らはすぐにでも死んだ方がマシだと思っていたのに、僕がそれをした。踏み留まっていたから完全に同じではないけど、やっていることの重心は同じだ。自分の姿が見えて来る程に自らにがっかりして、自分に自分が軽蔑されてゆく、その渦が足元をふらつかせる。まるで首輪を付けられたみたいな気持ちで、部屋に入る。
僕はダメな人間だ。
寝る準備をしないと。明日迎えに行かなくてはならない。でも、僕は。ため息の種が膨れているのに外に出ずに胸の中に溜まる。生きていていい人間ではないのかも知れない。……でもだからって死にたいとは思わない。ますますサバ子の行動が不可解になる。一体何があったらそんな気持ちになるのだろう。……理解出来ない僕の方が悪い。止められない僕が悪い。クソ野郎な僕が悪い。僕はダメ人間だ。
たらいの中に石をいっぱいに詰めたものを胸に乗せられている感覚が、どの方向を向いても付いて来る。その石には「ダメ人間」と一個一個書いてある。もしかしたら石は宿痾になるかも知れない。ずっとこの状態で生きろと言うのか。何の罰なのだろう。そんなに悪いことをしたのか。僕はただ、二回目の自殺を止められなかっただけなのに。
それでも寝なくてはならない。ベッドに入る。疲れが一枚皮を隔てたように遠い。だけど僕を蝕んでいることは分かる。心があっちこっちに乱れるのもその影響なのかも知れない。……いや、やっぱりサバ子のこと、そのせいか。どっちにしろ疲労を取らないと、僕は好転しない気がする。そのためには寝ないといけない。けど、たらいが重い。重さに耐えることをどこかでずっとしていて、そのせいなのか、全然眠くない。布団の中で頑張ってみても、全く眠気が来ない。経過した時間の分だけ、雪のように焦りが積み重なってゆく。眠らない自分に苛立つ。僕は布団をばさりと剥いで起き上がる。僕はこんなに攻撃的な人間ではなかったし、自分をダメ人間だと断罪するような思考を持ち合わせてもいなかった。僕はこんなに度量の狭い人間だったのか。何も答えが出ない。僕は首を振ってベッドに転がる。それがただの我慢比べだと分かっていた、だけど、他にやり方が分からないし、少なくとも座っているよりは回復するだろう、僕は目を瞑ってじっとした。
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