第4話
純粋な祈りは次第に僕の飽きに蝕まれて行き、半分くらい「早くしてくれ」と祈りと言うよりも要求をそこのドアの中に向かって放った。僕の後に来た女性が僕よりも先に呼ばれて、中から男性と一緒に出て来て帰って行った。スタッフらしき人が何人かドアの向こうに入って行ったり、出て来たりした。僕は半祈りのまま。
「
ついに呼ばれ、ガチャガチャした、落ち着くこととは無縁であることを主張するような雰囲気を潜って、サバ子の横に通された。彼女は相変わらず寝ている。恐らく医者であろう女性が説明を始めた。僕よりもずっと疲れた顔をしているし、次に寝たらサバ子よりも深く眠りそうだ。曰く、命に別状はなく、目が覚めれば帰っていいが、精神科を受診するように、とのこと。
「どのくらいで起きますか?」
「明日の午前中までには恐らく起きます」
大丈夫だった。体から力が抜ける、念の為一泊入院しましょう、と言う女医の言葉にあまり考えずに頷く、手続きの書類を看護師が持って来ると言われ、その隙にサバ子に駆け寄る。
「よかった。本当によかった。ねえ、もう今起きてもいいんだよ?」
肩を揺すってみるけど反応はない。鼻に耳を寄せて呼吸をしていることを確認する、ちゃんとしてる。へたり込みたかったけど椅子がないから、最後の力を出すように立ったままでいる。看護師さんが来て、小部屋に通され、そこで説明を聞いてサインをした。入院になったことで僕は肩の荷が下りたような気持ちになった、「よろしくお願いします」と言った後にもう一度サバ子の顔を見て、もう一度安心したら、自分の部屋に帰ることにした。
病院の前にはタクシーの列があって、運転手が外に出て談笑している。それは不愉快な光景だったけど、タクシーを呼ばなくて済んだのは助かった。彼女の部屋に行ったときは緊迫していて何も話せなかったけど、今は弛緩していて何かを話す気になれない。だから行き先だけを告げたら窓の外を見ていた。僕とサバ子にとって重大な今日があっても、外の世界は同じように流れていて、逆に誰かにとっての重大があっても、僕等は同じ顔をして生活をする。そして、誰かの重大だけを集めているER、そこで働きたいと言うのはどこか倒錯しているような気がする。傭兵と救急医は適性が同じなのかも知れない。さっきの女医の顔を思い出す、彼女は適性がないように思う。きっと、人が死にかけて、もしくはほぼ死んでいる状態でテンションが上がらない。彼女は別の科に行った方がいいだろう。女医のことを考えている内に目的地に到着して、どことなく不機嫌な運転手に金を払う。こいつも客商売に向いてないだろうから、転職を考えた方がいい。
コンビニに寄って、おむすびとコーラを買う。深夜なのにハキハキとして感じのよい男性店員で、これは逆にオーバースペックだから別の職で飛躍したらいいのに。部屋に着いたらもう二時半で、それでもシャワーを浴びる。食べて、横になる。身体中を噛み砕かれたような疲労と、脳の芯に重い電流を流されたような疲れ、さらに、心が鉛に埋め込まれるような疲弊が同時に顕在化して、心臓がバクバクと鳴って、このまま寝て死なないだろうか、考えている内に意識の辺縁が溶け始めて、疲れた、小さく呟いてから、僕は眠りに落ちるのを待った。今日はよく待つ日だ。どの待つよりも今が一番楽な待つだ――
じっとりとした汗で目が覚めた。僕は横になったときと寸分違わぬ格好で寝ていた。起きあがろうとして疲労がまだ十分に残っていて、それでもサバ子を迎えに行かなくてはならないから、重たいな、体を起こす。カーテンを開けるとはらはらとした雨が降っていた。雲を貫いた陽光を微細な雨粒が砕いて、街を覆うドームになっている。僕達の重大は終わってはいない、天気はそれを左右しない。今日は電車で行こう、傘に触れる雨は静かで、本当は晴れているのかも知れない。
サバ子のベッドは昨日とは別の階にあって、訪ねると彼女は右を下にして横になっていた。
「サバ子」
呼び掛けに彼女が応じて、おはよう、と困りながら言う。声は生きていないと決して聞けない、僕はその「おはよう」で昨日から何度もほっとしているけど、今回こそ底まで安堵した。
「無事でよかった」
彼女はころりと仰向けになるけど、俯いて視線を合わせない、死ぬはずだったんだけどね、と呟くように言う。
「それでも無事でよかった。僕はそう思う」
彼女はたっぷり沈黙した後に、ありがとう、と俯いたまま言って、恥ずかしいことを打ち消すみたいに布団を顔まで上げて僕と反対向きに転がる。彼女の後ろ頭、髪がペタンとしていて、彼女が生きている途中であることを示していて、胸がほのかに甘く、切なくなる。
「帰ろう」
雨上がりの朝に二人で始まりを見るような気持ちで彼女の背中に言ったら、本当にそう言う今であるような気がして僕は息を大きく吸い込む。病院の匂いが不安をくすぐろうとする、けれど自然に弾いた。うん、と彼女の小さな声、僕は彼女の肩を軽く叩いてから、退院の手続きをするために彼女から離れる。
退院の準備をする間、ん、とか、はい、とかだけで、殆ど喋らなかった。
「お世話になりました」
スタッフに一礼する、「もうしちゃだめよ」と念を押され、サバ子は黙ってもう一度頭を下げた。廊下もエレベーターも何も言わずに進み、病院の出口から見た空は雲を限りなく薄くしたような、霧のような雨に覆われていた。彼女は傘を持っていなかったから、僕と相合にした。一歩目を立ち止まる。
「どこに行こうか」
彼女は僕の方を見ずに、お腹が空いたなぁ、と左手で胃の辺りをさする。「確かに、僕も腹ペコだよ」と僕は笑うけど、彼女は一瞥もしない、そのまま黙ってお腹をさすり続けている。待つことにして、もう一度空を見る。霧は均一じゃなくて、ところどころに光の切れ目のようなものが走っている。一つ、二つ、……七つ。僕達が霧の中にこれから進んだとして、微かな光を目指す方がいいのか、足元からの繋がりを信じて進む方がいいのか、答えが分からない。それでもどちらかを選ばなくてはならないし、そのどちらの中にも多くの選択肢がある。そして、選ばなかった方の未来がどんなものであるのかは永遠に不明だ。だとしたら、せめて自分の信じるものをよすがに選びたい。
「あのさ」
彼女が相変わらず正面を、多分空を、見たまま、最近ずっと聞いてなかった明瞭さで声を出すから、僕の耳の奥にまでシャープにそれは届いて、脳の芯を僅かに揺らした。
「今回のこと、ごめん。本当にごめん。反省してる」
「そっか」
「でも、もう二度としないとか、約束出来ない」
「死にたがりなのは知ってる。でも、もう自殺はしないで欲しい」
「でも」
僕は傘を投げ捨てて彼女を抱き締める。ゆっくりと霧雨が僕達を濡らして行く。
「死にたさに理由はあるのか、ないのか、分からないけど、死んで欲しくなさに理由は、ある」
彼女は勢いを失い、しぼんで、僅かな声で、理由って、と問う。
「僕が君を大事だと思っているから。それだけ」
この前に言ったことと大して変わらないな、でも、これよりも強い言葉を使いたくなかった。死は確かに究極的なイベントだけど、一番大事な言葉は生きるために使いたい。いつか今よりも完全に、二人で生きるときにそう言う言葉を彼女に伝えたい。だから今じゃない。僕は彼女を包む腕に力を込める。彼女は、理不尽だね、と呟く。
「そうだよ。理不尽に生きて欲しいんだ」
僕達はもう少し濡れる。ふぅ、と彼女が息を吐く。私が死ぬのは、モモセを嫌いだとか、蔑ろにするとか、そう言うことじゃないよ。それとこれとは独立したものなの。それなのに、モモセはあなたのために死ぬなって言うから、まるで私とあなたで別のルールで動いているのにそれをお互いに適応しようとして、このままだと私があなたのルールに従いそう。彼女は一気に喋って、弱々しく笑って、それが徐々に花が綻びるように力のある笑みに塗り替えられてゆく。強い眼で僕を見る。反抗の意志かと思ったけど、その視線の中には穏やかさが通っている、僕は彼女の次の言葉を待った。
「今は従っとく」
言って彼女は、あはは、と笑う。さっきが底だと思ったけど、今の方がずっと僕は安心した。
「よろしく」
僕も笑う。抱き締めていた手を離して、彼女と向かい合って笑い合う。僕達のことを何十もの視線が好奇の心そのままに見ていたことに初めて気付き、僕は傘を拾う。今更雨には意味のない傘だけど、僕達のことを少しでも視線から隠すために構えると、「じゃあ、行こっか」とサバ子が歩き出す。
「どこに?」
「ご飯食べようよ、取り敢えず駅前に行けば何かあるでしょ。私ジャンクフードみたいなものが食べたい」
「いいね」
彼女は晴れやかで、昨日死のうとした人間にはとても見えない。僕達はコンビニでタオルを買って頭を拭き、駅前のマックに入る。その食べっぷりと顔付きから、少なくとも今彼女は死を意識していない、少なくとも、死んで欲しくない僕のルールに従っている、僕もずいぶんお腹が空いていたことに気付いて、食べ終えた後にハンバーガーとナゲットを買い足した。もう永遠に止まないような霧の雨の中を傘を差して帰った。
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