第3話
三日後、夜、ベランダで星を見ていたら電話が鳴った。サバ子。「もしもし」と部屋に戻る。彼女は何も言わない。だけど、沈黙の中に微かなため息を連ねたような息遣いがある。
「もしもし?」
やはり声の返事はない、だけど僕は火に炙られるように明瞭に彼女の必死さを、その声に成らない息に捉える。三日前のやり取りが、僕が彼女に死んで欲しくないと伝えたあの瞬間が脳裏に蘇る。不吉な予感が心のやや左側に墨汁を垂らしたように染み、胸郭の裏側に向かって侵食を始める、息が苦しい、声が出せない。何も言わない彼女こそが、予感を証明している。僕は彼女の吐息とユニゾンするように息を吐いて、辛うじて息を吐いて、鼓動が濁音になってゆく。彼女はもしかしたらもう手遅れなのかも知れない。絶望の幕が厳かにスムーズに、しかしゆっくりと下りようとしている。……違う、幕を払い除ける。
「僕が先に終わっちゃいけない」
僕の声に彼女の息がピタ、と止まる。僕は彼女の言葉を待つ、僕は彼女の声を聞かなくてはならない、それがどんなに悲痛なものだとしても。僕も息を止めて、うるさいほどの脈の拍動を押し退けるように耳を澄ます。……あのね、彼女の声。弱々しくて、消える直前の蝋燭の炎のようで、それでいて既に灰になった後の花のような声。「どうしたの?」僕の問いに彼女は時間の感覚がなくなるまで、沈黙する。だけど僕は待つ、彼女の最初の言葉を聞いたから、朽ちかけていた勇気に水を注がれたように、待つことが出来る。あのね、私、飲んじゃった。「何を?」言いながらそれが何であれ目的は分かった。吐かせなくてはならない。お薬、たくさん。彼女が「たくさん」と言った語尾に微笑みが引っ掛かっている。これまで僕と付き合って来て彼女がこんなことをしたことはなかった。何か引き金があったのだろうか。それは僕なのだろうか。
「すぐ行く」
ううん、彼女の吐息混じりの声、もうそろそろ死ぬね、じゃあね、ありがとう。彼女は電話を切る。かけ直すか。いや、駆け付ける方が先だ。僕はタクシーを呼び、二十分程で彼女の家の玄関の前に立った。そこに着くまでの間中、サバ子が死ぬこととそれを打ち消すことを繰り返した、促迫した呼吸が苦しくて、開けたタクシーの窓から空を睨んで、この空間は確実にサバ子の場所に繋がっていると自分に言い聞かせた。指先がじんじんしてタクシーの代金を払うのに手間取った。合鍵を貰ったのが三日前、この使い方を彼女は最初から想定していたのだろうか。
部屋に入ると電気は付けっ放しで、サバ子は整えられた姿でベッドに横になっていた。ダイニングテーブルの上には薬の包装が並べられていたけど、それを確認するより先に彼女を揺さぶる。
「サバ子! 起きろ!」
呼吸はしている。頬を叩く、全く反応がない。思考するよりも早く結論が出た。これは、僕の手には負えない、救急車を呼ぶ。待っている間にビニール袋に薬の包装をガシャガシャと入れた。サバ子は死んではいなかったと撫で下ろす間も無く胸の中にサバ子が死ぬかも知れないという不安がザクロの実を投げ付けられたみたいに広がる。だけど何も出来ることがない。僕は部屋の中をうろうろ歩いては彼女のおでこに手で触れたり、呼吸を確認したりする。いずれサイレンが聞こえて、でも聞こえてから救急隊員が部屋に到着するまで酷く長かった。
チャイムにドアを開けたとき、そこに水色の服を来た男性達が立っていて、僕はありがたい気持ちと同時に、がっかりもした。その内の一人にあれこれ質問をされて、分からないところを分からないと言うと、その男は睨むように動きを止めてから次の質問に移った。ストレッチャーに乗せられるときもサバ子は無反応だった。テキパキと救急車に彼女は乗せられ、僕も同乗することになった。救急車のサイレンは嫌にうるさくて、まるで暴走族のようで、僕は誰にでもなく申し訳なくなった。横で寝ている彼女の名前を呼ぶことが、狭い車内に隊員が三人も乗っていることで憚られて、せめて彼女の手を握っていた。冷たくも熱くもないその手は力なく垂れていた。サバ子は助かるのだろうか。それとも死ぬのだろうか。そもそも彼女はこう言う形で救命されようとすることを望んでいなかったんじゃないのか。ベッドで眠ったように死んでゆく自分を、横で見て欲しいだけで、僕を呼んだのは助けて欲しかったからじゃないのではないか。サイレンがうるさい。隊員は何も言わない。乗り心地は最悪だけど、僕の指の痺れは取れていて、因果関係はなさそうだけど酔わない気がした。サバ子には死なないで欲しい。乗り心地なんかよりずっとそれが大事だ。サイレンが止み、病院に下ろされる、ERの入口からサバ子を乗せたストレッチャーは入って行き、僕は救急外来の受付に行くように説明された。行くと、システムの説明をされて、待ち合いの椅子で待つように言われた。座ったって腰が落ち着かない。あのドアの中で何をされているのか、ちゃんとしたことをされているのか、いや、瀕死のサバ子を助けてくれる、かも知れない。大丈夫なのか。そうじゃないのか、いい先生なのか、きっと助けてくれる、違うかも知れない。死体になった彼女と対面するのだろうか、それとも、またモモセと呼んでくれるのだろうか。分からない。全然分からない。だけど現実は進行している。どちらかの結末に向かって進んでいる。お願いします。サバ子を助けて下さい。僕は生まれて初めて真剣に、何に対してか分からないけど、祈った。待ち合いの椅子はそこに座る者を渦に入れて、最終的には僕と同じように祈るところに連れて行く、誰もがそうなるのかも知れない。
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