第2話

 ※


 二年前の夏の暑い日、蝉ですら鳴くことを躊躇していたその日の夕暮れ、僕は初めてサバ子の部屋に上がった。2LDKの部屋の中は生活感を消しゴムで消したみたいにさっぱりとしていて、僕が天井に据えられたフック、太くて頑丈なそれを見付けるのはすぐだった。ピンと来たけど、確認のために彼女に訊く。「ねえ、天井のアレ、何?」サバ子は好きなスイーツを尋ねたときよりもずっとスムーズに、平熱に、首吊り用のフックだよ、と答えた。ふぅん、と僕は言って、彼女の顔を見た。何事も起きていない顔をしていた。彼女は買って来た食材をカウンターに並べながら続きを喋る、まるで鼻歌を歌うように。

「ロープももちろん用意してあるよ。いつでも出来るように」

「死んだら終わりだよ?」

「それは分かってるよ。精神科とは言え医者だから、死と普通の人よりも身近に生きてる。そうだ、見せたことなかったよね、私の左腕のほくろ。ちょっと来て、見てよ」

 僕は飼い慣らされた犬のように彼女の側に寄って、たくし上げられた左の二の腕を見るとそこにはほくろが五つ並んでいた。

「これがどうかしたの?」

「患者さんに自殺されるのを、失う、って言うんだけどね、私の場合失うとここにほくろが増えるの。見ての通り五人失った。十年近くやってると、そんなショッキングな出来事であっても、段々薄れていって、失った患者さんの顔も思い出せなくなるの。でもほくろは覚えている。私の体に刻まれて、ずっと忘れない痕になる。……こう言うのって、私だけじゃないんだよ。似たようなことが起きるって話はザラにあって、ちょっとホラーな感じだけど、大事な意味があると思う。記録としての意味よりも、記憶に留めるって意味かな。ね、私もそれなりに死と知り合いでしょ? 他にも看取ったりもしてるから」

 僕はほくろの一つ一つに触れて、それは皮膚と変わらない、誰かの死が刻まれているようには感じない。

「だからって、自殺してもいいってことにはならない」

「そうだね。それは逆に、だからと言って自殺しちゃいけないことにはならない、と言うことじゃないかな」

 屁理屈だと思ったけど堪えた。堪えるために僕はその場を離れた。サバ子が蛇口を捻って、水がシンクに砕ける音が部屋中に響いた、それはまるで彼女自身が自分の論理が既に砕けていることを知っているかのようだったから、僕は彼女の元に戻る。

「死にたいの?」

 彼女は泣くような、笑っているような、彼女よりも見ている僕が混乱するような顔をする。差し込む影がまるで地獄の一部のように見える。それは彼女が取り憑かれているものなのかも知れない。分からない、と彼女は呟いた。分からないけど、多分、死にたい。そう言う気持ちがずっと、私の裏側を流れているの。消えてしまいたい、とは違う。じゃあ今すぐ死ぬのか、と言えばそれも違う。彼女の言葉は水の音に邪魔されながら、けれど質感のある塊として僕に届く。僕はそれを自分の胸の中に置いて、確かめる。待っていれば望まなくても必ず来るものを、どうして希求するのだろうか。いや、そんなことは問題じゃない。気付いた途端に腹の底から熱い濁流が迫り上がって来る。水を止める、瞬間的に部屋の音が消える。彼女の眼を覗き込む。

「僕がいるのに、死にたいって、どう言うこと?」

 彼女は俯いて、それとこれとは別なんだ、と僕に言っているのか彼女自身に言い聞かせているのか、呟く。

「どう別なんだよ。死ぬってことは今ある関係を断ち切るってことだよ。サバ子にとって僕はそれくらいの相手だってことだよね? バカにしてないか」

「違う」

「どう違うんだよ」

 彼女はもっと俯いて、臍か、その下の地面に向かって話しかけているみたいに声を出す。違うの。自分でもどうしようも出来ないの。死にたくなんてない。モモセと一緒にいたい。だけど死にたい。だから、多分死にたい。彼女は顔を上げて僕の眼を見る。不確かな揺れをその瞳は帯びていて、息を吹き掛ければすぐに消えそう。彼女はそれでも僕の眼を見詰める。僕は言葉を発しようと息を吸ったけど、弱々しいその瞳に圧迫されてやめた。僕の方がもっと弱いのかも知れない。彼女はその眼のままもう一度言う。

「だから、多分死にたい」

「僕は」

 彼女の死へ向かう力と、それに抗っているものが両方あることは、つまり、バランスを崩してしまえばどちらかに傾くと言うことだ。僕は彼女の瞳を見返す、僕も揺れているかも知れない。それでも僕の意志を叩き付ける。

「死んで欲しくない」

 彼女は、でも、と口の中で呟く。彼女の死のことは理屈じゃない。だったら僕だって理屈はいらない。

「でも、もクソもない。サバ子には生きていて欲しい」

 彼女の瞳がもっと揺れる。揺れが大きくなってその振動に従うように首を振り、また俯く。私、どうしたらいいのか分からない。彼女の小さな声に、僕は彼女の横に行き、もっと理不尽に塗り潰してしまえばいい、彼女を抱き締める。彼女は熱を帯びていて、とてもこれから死のうとしている生命には思えない。ぎゅっと力を込める、彼女はされるがままになっている。彼女の呼吸を感じながら、死は生からしか生まれないのだな、と気付いて、だったら、生も生からしか生まれない。生も死も、生からしか生まれないのなら、やはり生きていることが一番強い。僕は死のうと思ったことなんて一度もない。生きることがしんどいと思うことは何度もあったけど、それだって生きることが前提になっている。サバ子が死にたいことが分からない。全然分からない。これから手に入れたいものとかあるだろうに。彼女がほくろで言っていた通り、死んでしまえば忘れられる。もしかしたら僕ですら忘れてしまうのかも知れない。そんな未来で本当にいいのだろうか。彼女の想像力はそこまで届いているのだろうか。目の前の死にたい気持ちの繰り返す波と何度もやり合っているせいで、遠い未来が見えなくなっているのではないか。辛うじて自分の中に生きたさを発見して、今を繋いでいる、そんな状態なんじゃなかろうか。

 もう一度彼女が首を振る。分からないの、と呟く。やっぱりそうだ。彼女は自分自身の命に対して蒙昧になっている。

「僕がいる。見えないなら、分からないなら、僕が照らすから」

 何を? と彼女は問う、僕は彼女を抱く手に力を込める。

「サバ子の命。僕がいる間は絶対に死なせない」

 彼女は顔を上げて、僕の瞳に何が映っているのかを確かめるようにそこを覗いて、まだ彼女の眼は揺れている、でもその揺れが段々収まって、いずれ僕の眼と彼女の眼はしっかりと一本の糸で結ばれる。全ての音を吸収して、その糸の張力だけが響く、僕達は惹かれ合い、引っ張り合ってここにいる。彼女の瞬きがその糸を切る。分かった、彼女がはっきりと言う。モモセの光に委ねてみる。僕は頷いて、「やってみよう」と笑みを作る。でもその笑顔はきっと下手糞だった、彼女は僕の顔を見て、小さく笑った。

「ありがとう」彼女は言い終わらない内に、僕の体に手を回しギュッとする。「私、お姉さんなのに、モモセの妹みたい」

「妹じゃないよ。……年齢のことなんて考えたこともないし」

 彼女は僕の胸に頬を付けて、そこの匂いを嗅ぐように頭を擦る。

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